渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

刀を曲げてしまうということ(2015年10月15日記事 再掲)

2018年10月28日 | open

例え高段者であろうとも、あまりにも
日本刀を曲げてしまう人が多いため、
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刀を曲げてしまうということ(2015年10月15日記事 再掲)

日本刀を使用しての試斬で刀を曲げて
しまう人がいる。

空気切り刀術の高段者でも、真剣試斬
でたった畳表一枚が
切断できずに刀を
曲げることがある。

これは刀術が「下手(げて)」だから
である。その一言に尽きる。

では刀術が、「下手(へた)」とは
異なる「下手(げて)」とはどういう
ことか。

それは「解析する」力をもっていない
ということだ。

よく物事を考えずに人からの受け売り
を鵜呑みにしたり、工夫して
自得した
りすることをしない人間のことだ。
それを下手(げて)という。

総じて下手(げて)は下手(へた)が
多い。


畳表、竹などの試斬で刀を曲げる場合
は大抵は右からの左袈裟
での運刀の際
に刀を曲げることが多い。

(敵の左を袈裟掛けに斬るのが左袈裟。
これさえ取り違えている
場合、刀法以
前に論外)

それはなぜか。
理由はいくつかあるが、右から刀を
振る場合と左からの場合で右手の

きが人体の仕組み上異なるのだが、
まずこれがどうしてどうやったら

うなるかについて自己分析できてい
ない者も論外。
試斬はやめたほうが
いい。刀を壊す
か体を壊すか人を刀で傷つけたりす
るのがおちだからだ。


右からの運刀で刀が曲がりやすい理由
は何点かあれど、最大の理由は
「旧来
の教えはいつ発生したか」ということ
と「それが果たして真剣刀法と
して
正しいのか」ということへの検証の
希薄さが挙げられる。

よく云われる。「斬る瞬間に茶巾に
絞れ」と。

これは果たして真剣刀法のことである
のか。竹刀撃剣や剣道が登場して
から
のことではないのか。

こうした歴史性が曖昧模糊としたまま
現代まで「正しい」として伝えられて

何も考えずにただ墨守している刀法の
一つに「柄握り」がある。

右手と左手の柄は指2本分ほど離せ、
というのがそれだ。

では、江戸期の絵図や兵法の秘伝書
や皆伝書等を見ると、そこでは
柄が
両手がくっつくように握られている
のばかりなのは何故なのか。
(古流流派によっては広く離す流派
もあり。これはそれなりの剣理が
ある)

これについて現代剣士で明確に説明
できる人はほぼいない。

正直申しあげると、真剣刀法は「失
伝」したのだといえる。


そして、刀法の教えの一つに「茶きん
絞り」というものがある。

これは果たして正しいのか。とりわ
け内側に絞り込むようによく
教えら
れたり伝えられたりしている。
「雑巾絞りではない。茶きん絞りだ」
とも云われる。だが、指を締めこんで
行くということは空気切りや竹刀打
ちの場合はよいが、縦横無尽に自在
に緩急交えて日本刀を剣戟で振りま
わす場合はどうであるのか。本当に
「徐々に絞り込む」ということが中
心幹に来るのか。
一対一の御座敷試合ではなく、野戦で
ある戦場働きにおいてもそうした刀法
がまともであるのか。
山田流据え物斬りでは「強く握る」と
ある。また新陰流の柄手は「動かす
な」とある。
だが、一般的に現代刀法では「締め
込んで行く」とされる。

実は私の師匠はこの茶巾絞りを一切
否定する。私の師匠の師匠も否定し
ていた。

理由は「刃筋が狂うから」である。
私が習った直伝では、
師匠と師匠の
師匠の教えは、「切り手にしたら
一切動かすな」というものだ。

真っ向からの場合も、師匠の教え方
としては、「真上から丸太が落ちて
くる。
それを両手で受け止めろ。
それが切り手だ。そこから一切動か
すな。内側へ
絞りもするな」という
ものだった。
(これは柄を握り締めて動かさない
ということではない。手の内で柄は
動くが指は動かさない。いわゆる
「ひなたぐそ」と呼ばれるもので、
甲を硬く内を柔らかくして柄との
接点は可変させる。
しかし緩みもせず握り締め込みも
しない。
これの説明はかなりの分量を割か
ないと記述説明できないので、こ
こでは割愛する)

また、抜きつけの場合は可変の手
の内でないと腕振りとなり、抜刀
と同時斬撃が不能なので、このひ
なたぐそは該当しない。

真っすぐ真下の真っ向でさえこれが
あるので、まして左右の袈裟におい
て両手の指を絞り込む=握り込むな
どと
いうことをしたら刃筋はとんで
もないことになる。
物理的に現実問題としてそうなる。

それはなぜか。

図解で説明しよう。


これは私の目釘抜き用の自作小槌で
ある。

小さい物だとわずかな指の動きで
大きなアクションを示すので
判り
やすいためにこれを使用する。



まず、刃筋が通っている状態。
ふわりと柄を握り込まないように

支えるだけで「握って」いる。


腕は振らずに、その状態から小指
から徐々に締めこんでいく。


ヘッドはこれほど回る。
つまり、平の形状にある刀身の場合
刃筋が
寝てくることになる。
この状態を作りながら切り込むと
いわゆる「平打ち」
という状態に
なる。手の内を締めるだけでこれ程
刃筋は大きく動く。



では、今の状態を腕を振りながら
右からの左袈裟で実験してみる。



すでに凄く寝て来た。


袈裟に打ちこんでいく。刃筋など
もう大きく狂ってしまっている。



このまま切り込めば、完全に「平打ち」
になる。真剣日本刀の場合、
本人はこの
状態になっていることを感知できない
未熟な者が多い。



これではいくら畳表に斬りつけても
叩いているだけなので切断などでき
ず、
せいぜいいくらか切り込んで
刀身が途中で止まるだけだ。
そして、力任せにこの状態で叩き
つけると刀身は曲がる。
故に下手は身幅広く青龍刀のような
日本刀に非ざる刃物を使ってごまか
したがる。

このように刃筋が曲がり込んでいた
ならば、刃先から棟の頂点に抜ける
切り込む時の反力の抜けの逃げ場が
なく、焼き刃という硬い部分ではな
い平地の一点に衝撃が集中し、まず
右からの左袈裟の場合、棟から見て
「くの字」に曲がることだろう。

刃筋が通っていれば、片手でも畳表
1枚(巻き物のような真巻き)でも
軽く
切断できるし、小学生の女の子
でも切断できる。
切開力が刀身断面に対し表裏(=左右)
均等に分散され、衝撃は刃先から刀身
の中心線を抜けて棟の頂点に達し、
さらに反りによる分散と拡散が促され
て、身によるクサビ作用で切り割かれ
る力が補助して、切り込んだ刃先は
どんどん前に進む。
この際に人間の人力は殆ど要らない。
ただ刃筋を通して正しい刀線と刃波
で刀を振るだけである。
意図的に刀を引いたり押したりせず
とも、反りの原理で自然と引き切り
になり、平衡分力の発生と共にスラ
イス効果でさらに刀の切れ味は増す。


なぜ切れないのか。
それは、刀が切れる原理をわきまえ
て、その上での正しい運刀を実現で
きていないからだ。
「刃が付いているのだからどう振っ
てもどうにでも切れる」ということ
に日本刀はなっていない。だからこそ
扱う術がある。

ではなぜ正しい運刀を実現できない
のか。

それは、「自分が正しくない」と認
知できていないからだ。

誤ったことを何百回とやっても、絶
対に正しい答えは出てこない。

結果は雄弁に真実を物語る。
宮本武蔵は『五輪書』において、
「能々吟味すべし」、「能々分別す
べし」、
「能々工夫すべし」、「鍛
錬すべし」という言葉で節を閉める
ことが多かった。

これは「よく吟味し、分別し、考え
工夫して、そして鍛練せよ」という
事だ。

自己啓発こそが肝要なりということ
を剣豪武蔵は何度もしつこく説いて
いる。

剣法はいにしえも現代も、師からヒント
は教えてもらえても、術の要諦を理解

して掴み取る、体得して行くのは自分
自身の力以外にはあり得ない。

そして、武蔵が説くように、「よくよく
吟味」して「よくよく分別」すること、

つまりまず頭で道理を理解することこそ
が大切なのである。

刀を曲げる者や、何度も何度も切りつけ
ても同じ結果である者は、自己解析

能力が欠如しているとしかいいようが
ない。

「なぜだろう、どうして?どうやったら
そうなるのか」ということを、こと刀術、
刀法、
剣法について真剣に真摯に向かい
合って実行しているならば、自ずと自然
結果は出てくるものだ。
つまり、真剣刀法に真剣に接しよう、
真っ向から
対峙しようという気が皆無
だから刀を曲げたり切れなかったりす
るのである。物理的結果は自分の不明
が招いているだけのことだ。

特に空気斬り刀振りを武道としてやっ
ている者が真剣を振って畳表一枚を
切断できないなどと
いうのはあり得
ないのである。

万が一あったとしたら、それは普段
やっている事が「もどき」でしかな
く、
「真剣を使用する刀法」にはな
っておらず、切りつけなどどうでも
いい健康
体操になっていただけのこ
とである。

そして、真剣刀法による試斬は、「刀
を傷めながら斬り覚えて行く」などと
いう
道を外れたアプローチは寸毫たり
とも存在しない。言ってる者がいると
したら、
それは完全なる嘘っぱちだ。

私はこれまで万余の太刀数で斬って
来たが、ただの一度も刀を曲げた事
がない。これは事実だ。

なぜそうであるのかを考えるに、師匠
の教えが正しかったことと、その師匠
の言が正しいかどうか、自分で
樋の
ある刀の素振りで十二分に物理的現象
と刀法の道理を確認したからである。
また、たった一度だけだが大師匠の
試斬も川崎の道場で見た。私の康宏で
大師匠は一太刀のみ短い置き畳表1枚
真巻きを切った。刀法は目に焼き付け
た。なるほどと掴んだ。一般的な
これまでの概念とは大きく異なった。
切った後、刀身はビタリと止まって
いる。力で振り切らず、「刀術」で
切っていた。あの一太刀だけでも最
大級の学習になった。
大師匠は「この刀はよう切れる」と
眺めながら仰ったが、刀ではなく刀
法で切ったのを私は見逃さなかった。
右からの左袈裟だった。
大師匠の本職はかつては旅館の板長で、
漫画『包丁人味平』の味平の父親の
モデルとなった人だった。さばいた
鯛が頭と骨と尾だけで泳いだ。あれは
実話なのである。大師匠は日浦眞蔵と
いう佐賀の範士で、塩見味平の父親の
松蔵の名も包丁人日浦眞蔵からとった
ものだと思われる。私の大師匠の日浦
範士は、無双直伝英信流皆伝者山本
晴介師の直門だった。

さて、
樋のある刀での試斬は避けた
ほうが無難だが、樋は風切り音が出る
ので、真っ向
左右袈裟がまったく同じ
音になるように、あるいは運刀の種別
によってその種別に
見合った音が適正
位置で適正な音質で鳴るように徹底的
に稽古したからこそ
私は刀を曲げない
のだと思う。たまたまだ。たまたまの
出だしが正しく導いてくれた方がいた
からそれを得た。
つまり、具体的には切り込みにおいて
は常に刃筋がビシッと立っている。

以前川崎の道場で全日本準優勝の選手
の先生に「なぜそんなに音がするの?」
訊かれたことがある。「なぜだか
わかりますか?」と逆に問うと「いや、
俺は解るけど、
他の人たちにあんた
から聞かせてやってほしいから」と
言っていた。向こうが上手(笑)。
もうその先生も大師匠も鬼籍に入って
しまった。

私の切りはなぜ鋭く適正位置で音が
するのか。

それは「音を出そうとして振らない」
からだ。とりわけ「ブーン」という
長い間隔での音は出さない。これは
「切り」をやればそのような音は刀か
らは出ようがない。敵の斬切部位の
直前で短く鋭く音が「勝手に」鳴る
だけだ。
「ぶーん」と長い音が鳴るような刀
の振り方では、実際に真っ向や土壇
や袈裟などでは「ぽこん」と当たる
だけの振りになってしまう。
刀は「切り下ろし」とあるように、
上から下に重力を利用して地面まで
切り下げるつもりで(だが実際には
切先は下まで下げない。対敵行動だ
からだ)、真下に切り下げるのであ
る。遠心力を利用した真円運動で運
刀はさせないのだ(土壇は体は使う)。
特に上から下への切り下げの場合は、
真っ向であろうが袈裟であろうが、
真円運動にはならない。面ならば敵の
面の上に運刀させそこから真下に地面
までギロチンの如く切り下げるような
イメージの軌跡で運刀させる。
真下にギロチンのように切り下げる
心もちで運刀しても、刀身には反りが
あるため自然と引き切り効果が発生
する。ゆえにあえて刀身を引いては
ならない。刀は真下に切り下ろす。
当然、刀線は円軌道ではなく楕円軌道
となる。ただの円運動の遠心力まかせ
だと「ぶーん」という長い音が出て、
そして実際には「ポコン」だけで終わ
る。
それでは真っ向で振っても敵の頭蓋
を叩き割ることはできない。ポコン
かナデ切りで多少傷をつけるだけだ。
大抵は頭がい骨で刀身が跳ね返る
(これは経験者から直に聴取)。


切るために切り下ろす。この一点しか
ない。
見た目がよく見えるとかそういうこと
制定教科書にさえも書いていない。
切るために切り下ろせば、
適正位置で
樋が掻いてある刀は音が適正にする。
これは真っ向左右逆袈裟横切り
でも
すべて同じ定理だ。

刃筋が立っていれば静止物体などは
切れる。ゆっくり振っても早く振って
も畳表あたりは切断できる(ある程度
の刀速は必要)。

本当は敵は人であり、人は地蔵のよう
に止まってはいないので、敵の動きに
合わせる
というさらに高度な技術が
必要なのが剣法なのだが、静止物体
切りは己の刀法の
状態が如実に自己
観察できるという結果が明白に残る。

ただただ先師からの教えを何も深く
考えずに表面だけを墨守するのみ
でも話にならない
のだが、己自身が
「どうしてだ、どうやったら」と常に
踏み込んで考えないというのは
剣術
だけでなくどの世界でも技術系では
物にならない。

まず、人の言うことやることを凝視し、
掴み、咀嚼し、そして理解し、吟味し、
工夫して
自らの力で体得して行く。
これしかない。


刀を曲げる人は、「刀を曲げること」
をやっているから曲げるのだ。

刀を曲げない人は、「刀を曲げない
こと」をやっているから曲げないの
である。

このことに一秒でも早く気付こう。

よくよく吟味されたし。

 


映画『ウィンディー』の主人公

2018年10月15日 | open



原作でもそうだが、『ウィン
ディー』の主人公はレーシン
グライダー杉本ケイではない。
娘のアンナだ。

この映画作品は、アンナを演
じた子役のクリス・アディソ
ンの演技が非常に良い。かな
り良い。
私は個人的にはテイタム・オ
ニールやドリュー・バリモア
を遥かに超えていると思う。
ただし、クリスの場合は鈴木
杏ちゃんのように、子役の時
には光っていたが、オトナの
女となってからは伸び悩むと
いうパターンだった。
日本で歌手デューなどさせて
業界の食い物にされたのが彼
女の女優としての才能が潰さ
れた要因だ。
当時は角川路線ブームだった
ので何匹目かのドジョウを狙
うハゲタカたちは多かった。
クリスは女優ではなくタレン
トとして鳴かず飛ばずのまま、
10代でマイク真木の息子の真木
蔵人の子を身籠もる。
婚姻は成就しなかった。
クリスは出産を決意し、独り
で子どもを育てた。
今、クリスの息子は成人し、
ラップミュージシャンになって
いる。

現在のクリス・アディソン。
目の輝きは、あの11歳の時の
才ある少女の頃と変わらない。
私は熱烈なファンだ。


新学説についての雑談 ~鉄~

2018年10月11日 | open

2011年7月15日記事からの抜粋を再掲
紹介する。
前段には小林康宏刀の製作方法を記載
してあったので、削除した。

(以下抜粋記事)

鉄というのは人間が作り出すものだが、純度99.9999%の超高純度鉄は
最近日本人が作り出した。
これは、東北大学金属材料研究所の安彦兼次客員教授により、電解鉄を
超高真空中で溶解し、電子銃を用いた浮遊帯溶解精製で処理することに
より1999年に製造に成功し、2011年に日本とドイツの標準物質データベース
に登録された。
wikipediaの記載によると、「固体の順鉄はフェライト相(BCC構造)、オーステ
ナイト相(FCC構造)、デルタフェライト相(BCC構造)の3つの層があり、911℃以
下ではフェライト、911–1392℃はオーステナイト、1392–1536℃はデルタ
フェライト、1536℃以上は液体の純鉄となる。常温常圧ではフェライトが安定
である。強磁性体であるフェライトがキュリー点を超えたところからオーステナイト
領域までの770–911℃の純鉄の相は、以前はβ鉄と呼ばれていた。」とある。
ちょっと待て、と思った。
記載はすべて理解できるが、最後段の「以前はβ鉄と呼ばれていた」という記載
に「んん?」となった。

調べてみると、「結晶構造解析が未発達だった時代では、強磁性体の鉄と
常磁性体の鉄の相は異なると想定されていた。その時、前者をα鉄(フェライト)、
後者をβ鉄としていた。しかし、その後、α鉄・β鉄両方とも同じ体心立方格子構造を
とるとわかった。つまり、α鉄とβ鉄の結晶構造は同じであり、相変態が起こって
いないということがわかった
。現在では、α鉄に統一されたため、『β鉄』という
用語は用いられていない。
なお、純度100%の鉄において、770℃を境目にして鉄の磁性が変化する。
この温度は鉄のキュリー温度であり、A2点という。」(出展wikipwdia「β鉄」)
とのこと。

なんとー!
現在出版されている刀剣関係の書籍記載の変態曲線図にβ鉄の記載のある
ものなどは、すべて前時代のものとなったのだ。


相変態が起きていない~?
いつよ?いつわかったの?(笑)
当然、私が2001年に有志の山岳焼き入れを楽しむ会向けに作った
小冊子も古い学説に基づくものとなる。
日本刀関連の著述をする人は、最新学説に準拠してβ鉄記載部分に
ついては今後訂正していく必要があるだろう。
私の従来の知識も、この部分に関して古いものとなったのだ。
従って、鉄の変態について現今の学説で相変態の原子配列を
まとめると以下のようになる。
<純鉄の場合>
・910℃以下の温度ではα鉄となり結晶構造が体心立方格子
・910~1400℃ではγ鉄となり結晶構造が面心立方格子
・1400~1534℃ではδ鉄で体心立方格子
・1534℃以上では液相

<補足説明:炭素鋼の相変態状態図>

鋼はA1変態点である727℃以上に加熱しないと原子配列の変態を
生じないので絶対に焼入れができない。また、上の状態図の水色部分
の温度を外しても焼きは入らない。
かつて私に「鋼は炭素の量によって変体点が上下するから絶対的な
変態の温度の下端が決まっているなどということはありえない。君は
嘘つきだ」と言い張る慶應義塾工学部出身の剣士がいたが、誤謬も
甚だしい。
炭素鋼とは炭素を何%以上含有するものを指すのか、まずその初歩的な
規定概念の理解からやり直してきてほしいと思った。726℃以下では
焼きが入らないのは現代刀工の世界では常識であり、そのはざかいの
色については色見本を示して康宏刀工も私に教えてくれていた。
また、「正確な色(温度)がわからなくなるから、ずっと火を見続けるな」
とも。正確な温度を見切るために、刀身に焦点を合わし続けるのでなく、
目を横にそらして、頃合ごとに刀身に焦点を合わせて色を見るのだ。
私を嘘つき呼ばわりした某は再輝点の存在も知らなかったので論外
なのだが、科学的根拠もなく思い込みと思いつきで他人を揶揄することは
なんという恐ろしいことであるか。
多角的に真摯な姿勢で日本刀を探求されている軍刀サイトの主宰も、
こうした妄想にとりつかれた脳内創造作家によって口汚くブログで罵られて
いて大変気の毒だが、妄想概念を唯一の心の支えとする人間は排外行動
によってのみ自己のアイデンティティを保全しようと常軌を逸して他人を
揶揄攻撃するので、相手にしない方がよい。特に刃物関係だけに、君子
危うきに近寄らずが賢明な措置と思われる。世の中捨てたものではなく、
見るものを見ている人、見るべきものが見える人にはきちんと本質が
見えているので、懸念はない。どこに行っても、脳内戯言をまき散らす
人間はいるので、いちいち相手にしていたら身が持たない。まして、
それが境界例とおぼしき症状の発現の一環として為されている中傷
ブログであるなら、なおさら関わらない方がよい。無視に限る。
人生の大先輩の方の受難を指してこのように申し上げるのは大変僭越
至極なのではあるが、現在軍刀本家サイトの氏は件の妄想者に対して
無視という対応で大人の態度を示してくれているので、心ならず安心して
いる。在野の草莽の士が権威主義的「定説」の欠缺(けんけつ)を突くのは
なんとも痛快ではないか。今後も斯界の健全な研究成果獲得のためにも、
淀んだ水が滞留する業界に一石を投じる瑞々しい勇気ある活躍を影ながら
応援したいと私は思う。

β鉄について科学的にα鉄と同じであると証明されたならば、古い知識は
過去の時代のものとしなければならない。

もっとも、それ以前に、注目すべき評価できる研究発表をしていながら、
以下のように日本刀の基本構造が炭素量を変えた鉄の積層組み合わせ
構造によるとする旧式の発想をする学術研究者は、その立脚点自体を
冷徹に自己検証しないとならないのであるが。↓
日本塑性加工学会鍛造分科会 第0回実務講座 (2003年2月6・7日)
資料番号 2003・30-2
日本刀の鍛錬と焼入れのシミュレーション
京都大学大学院エネルギー科学研究科 井上達雄
(pdfファイル)
まだこの研究発表は「日本刀の素材の多くは、砂鉄」としており、包括的に
日本刀の基本構造は「砂鉄+たたら製鉄+積層組み合わせ」と画一的に
一括する表現を避けているところが救われる。
ただ、横道にそれるが、日本刀の焼き入れ温度について冷却媒体である
水(湯)の温度に関して「高炭素の備前伝では780℃,低炭素の相州伝
では800℃程度と,いずれもAc1変態点(760℃)以上に加熱し,前者では
常温から40℃,後者ではやや高めで80℃以下(温度を測ろうとして腕を
切られた話は有名である)の水に焼入れる.
」とあるのは「マジか?」と
思う。随分湯温が高い。扱う鋼や焼き刃土にもよるが、私が真水のみで
焼き入れするときには17℃を保持して良好な結果を得ていたからだ。
(小林康宏伝はもっと高温水。真水ではない古式鍛冶の手法を導入)
しかし、よく読むと「常温から」とあり、冷却によるマルテンサイト変態を得る
湯温の上限値を示したものだろう。なお、Ac1変態点を760℃としたのは
頭に「約」を書き漏らしたのだと思う。学術発表なのに案外ざっくりしている。
二代目康宏刀工は私に「762℃ちょい超えを保つ」とよく言っていたが、
「762℃なんてどんなのかわからない」という私に「この色だ」と色を
指し示していた。オレンジよりももっと赤身のある色である。肉眼で見る
上り始めの月とよく言われるが、私が教わったのは上る月よりもっと低い
温度を示す赤い色。
こちらよりも・・・


こちらの色。


刀剣製作動画や画像の焼き入れや鍛錬は撮影用に温度を上げた物が多い
ので、あれらの動画や画像をそのままを信用しては危険を伴う。実際に肉眼で
見てみないと体感は難しい。そして火の色が判らないため、焼き入れは夜行なう。
また、舟に突っ込むちょいとしたロスタイムですぐに刀身は20℃くらい温度が
急激に下降するので、敏感な鋼を使って低温で焼き入れをするにしても、舟に
刀身を突っ込む直前温度が762℃以上でなければならず、逆に温度が高すぎる
とバカ鉄になったり、反りが極端になったりすることがあるので難しい。一度、有志
の焼き入れでチューンという刀の唸りと共に刀身が逆鎌のように丸まる程反り
返ったことがある。
また、私が催した山岳焼き入れを楽しむ会での焼き入れにおいても、刀身を
真っ直ぐに刃先から舟に入れるのを指示したのに真横に入れた人がいて、刀が
横に強くコンニチハしてしまったことがあった。やむなく焼きなましてから成形し、
土を置くことからすべてその刀身はやり直しとなった。熱処理の際の温度管理の
難しさを実感する。舟へ入れる刀身の向きの厳密さも左右の温度を平均にとる
温度管理の一つである。
炉についても安易に飛びつくのはどうかと思うが、刀姿によっては、デンガクを
利用するのもひとつの選択肢ではあると思う。
バカ鉄になるのを避けるのには火造りでも手早く作業を進めることが要求され
るが、20年以上前から私が動画を見る限りでは、吉原義人刀工の手さばきは
当代一で、あまり過熱を繰り返させずに手際良く魔法のように仕上げている。
(実際に拝見したことはない)
手際よいだけでなく、彼は刀身を浮かせて金床(かなしき)に槌で打つ手法により
刀身温度低下をできるだけ回避して、再加熱の回数を減らしていることもバカ鉄
回避に大きく貢献しているだろう。吉原刀工は鋼を殺すことは決してしていない。
他の刀工には申し訳ないが、義人刀工の火造りを見た後に他の刀工のさばきを
見たらまるで素人のように見える。他の刀工も抜きん出た手技ではあるのだが、
それ程吉原義人刀工の技が冴えているということである。

話を戻す。

学術研究者には、「日本刀の構造は芯鉄を皮鉄でくるむ構造である」という
固定概念から一度離れて日本刀の歴史と古刀の現実的な構造に着目してもらい
たいものだが、国内の日本刀の権威筋が終戦直後のGHQ対策の時の一時的
な対策用の見解から脱してはいないので、現在の段階ではなかなか困難を伴う。
現在youtubeにアップされている慶應義塾大学の講義などは、講師は自信満々
で吉原義人刀工の作での「兜割り」フィルムを交えて日本刀を「科学的に」解説
しようとの講義を行なっているが、新刀以降の構造である積層組み合わせ構造
は鋼の歴史的な質の変化に伴う一時的な工法であるという事実を100%無視
している。
さらに「積層構造こそが日本刀の構造」「それゆえ強い」として日本刀が
強靭さを具備するといった誤った認識に立脚して兜割りを引用することで
誤謬へと学生を誘導しており、甚だ遺憾である。
自信満々の語り口で講義しているところがまた恐ろしい。
この若い学者は、この講義動画を見る限りにおいて、日本刀で鉄が斬れる
ことに驚いて講義教材としたのだろうが、芯鉄構造の日本刀を日本刀の
基準工法と規定している時点で、日本の鋼と日本刀の歴史について
不勉強も甚だしい。
あくまで歴史的な政治経済背景に規定された材料入手問題によるたたら
製鉄とそれによる鋼の変質が日本刀の構造変節に深く関連していることを
考察検証せずに、歴史の中で一時的な工法が伝統的で普遍性を持つ工法
であるとする視点は、あたかも太平洋戦争中の一時的な日本の政治体制
こそが日本そのものであり日本の伝統的姿なのであって日本の基本なのだ
と言っているのと同質である。
それは事実ではない情念的な思い込みであり、思い入れと歴史的事実や
推移は弁別して考えないと学問の科学性は保全されない。
こうした思い込みを定説としたがる学者たちが「権威」という学会のバックボーン
を背景にして公に誤謬を豪語し続ける限り、日本刀の真の科学的解明など
おぼつかないのは当たり前のことだ。
日本の夜明けは遠い。


あとね~、以前からどうも鼻についていたのだけど、上記二名の学者も
まったくそうなのだけど、学者センセが書くことに必ず出てくるフレーズ
として「このことを刀工が経験から知っていたことは驚異に値する」みたいな
表現があるのね。
これって、冶金学を修めた学識経験者がよく口にする言い回しなのだけど、
そこには工夫や経験や口伝によっての長い韓鍛冶から続く連綿とした
鍛冶職の歴史を軽んじる視点が見えて仕方ないのね。つまり、「鍛冶屋が
経験のみによって冶金学的学識もないのに科学的に合理性を具備した
工法を体現していることは驚異だ」みたいな。
これは学識経験や学術的知識こそが第一等ですべてに優位に立つという
視座に立脚している学者特有の上から目線が如実に現れているもので、
鍛冶屋を馬鹿にしているとしか思えない。
厳密に解析すると、西洋人が「未開の」部族やサルの生態を研究しているのと
同じような視点がそこにはある。
近代学問が成立する以前の鍛冶職が冶金学など知るわけないのは
あたりまえのことで、また近代の科学が発生する以前の鍛冶職が非科学的
な呪術的なことを取り入れていたのもあたりまえのこと。
どうも学者たちは古代人やわれわれの近代文明とは異なる「未開」の
文化を持つ人間、つまり自分たちの最先端学術を学び得なかった人間の
ことを「下等」とみているのか、自分たちの学識を裏付けることを
昔の人間がやっていたら「驚きだ」というような表現を使いたがる。
これは上級教育機関の教育を受けた学識経験者に顕著な傾向で、
明らかに蔑視意識が常に動員されている。
近代科学や学術が成立する以前の人間や古代人が現代人よりも
劣ってるなどということはまったくありえない。むしろ、現代人よりも
優れた点が多いことが往々にしてある。
例えば、日本刀を作ってきた鍛冶職などはその典型で、長年の創意工夫で、
科学知識もないからトライ・アンド・エラーで適切な工法を模索して
結実させてきた。
科学知識を有する現代人が古代人よりも優秀であるとするならば、
なぜ現代科学を以って平安鎌倉南北朝時代と同じ刀剣が造れないのか。
それこそ「驚異に値する」というやつだ。
「鍛冶屋の鼻黒」と呼ばれた時代から続く鍛冶職は下等であるかの
ような意識をサルを研究する文明人のごとき潜在意識とリンクさせる
からこそ、先人や古代人の知恵に敬意を示すのではなく、サルが道具を
「適切に」使うのに驚くがごとき傲岸な表現を平気で学者は使うのである。
日本刀業界で日常よく語られる「冶金学の知識もない昔の刀工が
これをしていたのは驚く」という陳腐な表現は、学識経験を持つ者こそ
優秀であるという中華思想的学者連中とそれに連なる権威主義追従者
たちの潜在的な選民意識に基づく侮蔑的表現の現出に他ならない。
「優秀な」自分らが古代人が作った刀を超える刀ひとつ造れないくせに
何を偉そうな、と私は思うのである。

ハリウッド映画『SFソード・キル』では、戦国時代に氷漬けになった武将を
現代科学で蘇生させて、その武将が現代と自分の価値観があまりにも
違うことに気づいて最後は「武士の道は理じゃ」(字幕と翻訳と台詞
に間違いあり。「理」を「死」としてしまっている)と叫んで再び氷湖に
飛び込んで自決する。


この映画の中で主人公の藤岡弘が使う日本刀をはじめ出てくる刀は
すべて初代小林康宏の刀なのだが、それは置いといて・・・
この映画作品の中で、現代に蘇った戦国武将藤岡の知能テストを
するシーンがある。
いわゆるトランプの神経衰弱のようなテストなのだが、正解する武将に
試験者は驚きカードを増やそうとする。だが、サムライ藤岡はニヤリ
と笑ってそれを制して自分から「すべてのカードを並べよ」と指示し、
すべてのカードを記憶により全部合致させて正解する。
ここに至って現代人の科学者はとてつもなく驚く、という映像表現が
なされているのだが、これは西洋人科学者が先時代の東洋人を
「未開人」として下等な生き物だと思っているから驚くのだ。
自分らと同等もしくはそれ以上の知性があると考えているなら
「さもありなん」と納得こそすれ別段驚いたりすることはありえない
のである。下等とみた者が自分らの知りえている「正解」と合致した
答えを出したからこそ驚くのだ。
そこには明らかに先人を未開で遅れた人間と見る近代優越主義
の意識が存在する。
映画『猿の惑星』では、檻に捕えられたチャールトン・ヘストンが
言葉を発することにサルが「人間がしゃべった!」と驚くシーンが
あるが、あれは現実的な人間社会を批判的に警鐘を鳴らす意味を
込めて皮肉たっぷりに描いた映画であった。しかし、今なお、現実社会
では、人間が人間に対してそのような優越主義を以って潜在的に
見下そうとしているのである。

日本の学術界でも、こうした西洋選民思想にとらわれた連中が
大手を振って跋扈しており、それらは日本刀研究の世界にも多く
いる。
それの現象として検出されるのが、上述した先人鍛冶職を侮蔑する
陳腐な表現の言い回しだ。
必ず出てくるこれらの言い回しの根源がどんな意識に基づいているのか
という自己解析をして毒素を除去しない限り、日本刀の科学的解析
による所見の妥当性の確保などは夢のまた夢である、と私は強く思料
する次第なのである。

(以上抜粋再掲終わり)


『ワイルド7』の間違いあるある物語

2018年10月05日 | open



望月三起也先生の不朽の名作『ワイルド7』で
は、作画上のミスがかなりあるのは有名だ。

今回はこれ。
原画ゆえによく判る。
緊急性を要する場面で、主人公飛葉は女の子を
救出しに乗り込む。

ところが、時間がない、と御令嬢を担ぎ上げて
走り出したら、女の子のおパンツがいつの間に
か白から青に変わってしまっている(笑)。
それがその1。
その2は、どうやってアクセル開けるのだろう?
飛葉も両国も(≧∀≦)