渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

バイクの公民権運動

2017年04月30日 | 文学・歴史・文化・科学

PC内からこんなん出てきた。
歴史のひとコマ。
これはフライデーに載った記事だ。1985年か。



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これは編集部から貰った写真。


この編集部への就職を朝日ジャーナルの元編集長が私に斡旋して
くれたが、私はそれを断った。
すると同級生のMPが「その話、私にくれませんか」と申し出て就職。
そのまま記者を今も彼はやっている。
この写真の俺の隣りのラーメン食べてる小池さんがパンキーになった
みたいな小池さんがそれ(笑)。名前も小池。別名マルパーという。
俺はプータを経た後、法律事務所に正職員として就職した。

バイクは社会悪、のように言われていた時代で、行政的にも非常に
差別的措置がなされていたという、今では考えられない時代の頃。
1万人のライダーが起ち上がって。世の中のワンシーンを変えたと
いう歴史が日本にはかつて1980年代にありました。

結論としては、29人乗りのマイクロバスと1人乗りのバイクの高速
料金が同じという状態は改善されたからね。まあ、成果はあった。
本当は、高速料金全線無料が秘密の最終目標だったが、それは
段階的に狙おうとしていたが、中座した。
数十年後にどっかの党がそれを選挙公約で掲げていた。よく言うよ。
1980年代中半はこうした国民運動を全政党が冷やかに扱っていた
くせに(笑)。

政治家や政党や特定新左翼党派のヒモつきではないところで運動を
したが、それがよかった。
当時のバイクに乗る芸能人や著名人の多くがこの運動に賛同し、
主体たるライディングハイに入ってくれたり、原告団に名を連ねて
くれた。
文字通り、ライダー一人一人の力で勝ち取った現況(当時)の改善
改革だった。
おいらはライディングハイの事務局の書記長だった。
お金なんて出ないよ。全部全員メンバーは自腹だよ。
社会活動というのはそういうもの。街宣車右翼団体のようにどっかから
金が出るなどということは一切ない。

まあ、今の高速料金体系があるのは、30数年前にうちらが運動した
から、というのは厳然たる事実としてある。
右翼も左翼も関係なく問題を提起して活動を進めた、というところが
大ヒットで多くの人の賛同を得たという決定打だったと思う。
思想とかではなく、ライダー全員の問題なんですよ、という本質を
アピールしたのが正解だった。

ライディングハイの学生メンバーは同じ視点で学内では反原発なども
提起していたが、こちらはそういう主張は当時としては「ある一部」が
主張しているだけと見られる時代だった。
原発でいつか事故が起きて国民が甚大な被害をこうむったら、とんでも
ない悲惨なことになるのですよ、原発が安全だというのは嘘なんですよ、
と。
30数年前に俺たちが言っていたことは悲惨な現実として国民の災禍
となって降りかかってきた。
右や左やの問題ではない。原発問題も国民の問題なのに。

原発が無くとも国民生活になんら問題はないことがバレてしまった今も
原発を再稼働しようとしている国はあきらかに国民の安全確保など
無視している。
それと国民も国民だ。フクシマ原発の取り返しの柄内事故によって
避難している人たちをいじめたり差別したりするのは、とにかくすぐやめれ、
そういうの。


女優魂

2017年04月29日 | 映画・ドラマ・コミック



映画『子連れ狼 三途の川の乳母車』(1972)での松尾嘉代
さんが最高なのである。当時29歳。
松尾嘉代さんはTVドラマの萬屋版『子連れ狼』にも出たが、
若山版映画では柳生鞘香の役だった。
若山映画版『子連れ狼』は原作の話をいくつかに分けて全6作
にちりばめている。
そのため、整合性が無い事が多く、柳生鞘香が出て来たのに、
それとは別に最終作では柳生香(瞳順子)という御手玉の剣
を使う鞘香にあたるキャラクタが出て来ていた。

『子連れ狼 三途の川の乳母車』での松尾嘉代さんが何が凄い
かというと、ラストシーンだ。
拝一刀を討ち獲るべく派遣された柳生鞘香だったが、最後の
松林のラストシーンで木陰から一刀を狙おうとする鞘香なの
だが、鞘香は襲いかかるのをやめる。
それは実は拝一刀に惹かれて恋慕の情が生まれたからだった。
それを一切のセリフなく、ただ表情の変化だけで松尾嘉代さんは
演技している。
その木陰から見守る柳生鞘香の表情の変化が素晴らしい。そして
色っぽい。

台詞がなくて演技ができる役者さんというのは、最近本当に少なく
なったと思う。
映画『子連れ狼』シリーズは、名優と呼べる女優さんたちが多く
出演している。
浜木綿子さん、佐藤友美さんなど、安定感のある実力俳優の演技に
魅了される。
浜木綿子さんなどは、若山映画版、萬屋ドラマ版のどちらにも同じ
役で出演している。舞台芝居のような台詞まわしだが、それがズバリ
と決まっている。実に見ごたえがある。

表現芸術の世界は面白い。

この人、いいわぁ~。



映画・演劇ファンの皆さん。
是非一度『子連れ狼 三途の川の乳母車』(1972)での
ラストシーンの松尾嘉代さんの名演技を一度ご覧になって
みてください。

こんなのにも出ていたなぁ。このチー坊が後に金八中学生
で妊娠出産するんですね。役の上ですが(笑
そしてぐれてリアルでは大酒呑みのアネゴになった、と。
パパと呼ばないで #30 part


弓月光漫画が原作だったりするシリーズも面白いのだが、
このドラマはかなり人気があった。脚本は向田邦子先生。
「どうしたんだよチー坊」というのを竹中直人さんが
よく真似して大ヒットしていた。最初の登場は銀座ナウ(笑

松尾さん、美人だと思います。


漫画『トップウGP』

2017年04月28日 | 文学・歴史・文化・科学




歴史的金字塔『バリバリ伝説』の逆を行くオープニングである。
18歳の少年がMOTO GPの世界チャンピオンを決めるか否かのスター
ティンググリッドにいるシーンから物語は始まる。
そこで「姉ちゃん 見てるかなあ」と空を見る主人公。
ここで、すでにその「姉ちゃん」は死んでいることが感じ取れる。

そして7年前の主人公11才の時に時間軸が戻って物語が開始される。
姉ちゃんとは、女子高生レーシングライダーの真音(まいん)であり、
主人公の小学生トップウとは隣り通しの幼馴染だった。
トップウは子どもながらも真音に恋心に似た憧れを抱いており、レース
界でアイドル的存在ながら実力No.1の真音は、トップウを可愛い弟の
ように愛おしんでいた。



トップウは、バイクに乗ったこともないのに、一度見たことは忘れない
という天才的な感性で、真音の走りを筑波サーキットで見て覚えた。
生まれて初めて乗ったバイクの運転がいきなりレースという荒唐無稽
な展開はマンガならではだが、このあたりのエッセンスは1985年の
超マイナーなレース漫画『キラーボーイ』からいただきのような感じ
がする。幼いパンパースちゃんとも呼ばれる少年が天才的な走りを
するロードレース漫画だったが、空前絶後のバイクブーム時代の中で
あまりに現実味がない展開で人気が出なかったからか、打ち切りになった。

さて、久しぶりにバリ伝以来の面白そうなロードレース漫画と私は
期待している。
オープニングの手法は、映画『ハスラー』などにみられる「まだ
見ぬ未来を見せて観客を引きつける」という手法が採られている。
作者は『ああっ女神さまっ』『逮捕しちゃうぞ』の藤島康介だ。


藤島氏は、バイクや車をディフォルメを交えながらもリアルに描く
稀有な漫画家の一人であるのだが、今回この期待している作品を
取り上げたのは、全面賛辞をするためではない。
彼でさえやらかしてしまった圧倒的大多数の漫画家がやらかしている
大失敗について指摘したいからである。

主人公トップウにレースで悪辣でアンフェアないじめを仕掛けたライダー
がいた。これはバリ伝のタコ根沢からのいただきのようにも思えるが、
そのライダーに対して、別カテゴリー(改造オープンクラス)で、
真音がトップウの敵討ちをするのだ。
それは本来の健全なライダーの走りではなく、コーナーで真横に
張り付いてプレッシャーを相手に与えて自爆ミスを誘うというもので、
スポーツマンシップに反する危険行為にあたる。
途中で、これはよくないと真音も気づいて本来の健全な全力走行に
戻って優勝するのだが、その般若走りの時に、象徴的なアイテムと
して日本刀を相手の首筋に突きつける描写が出てくる。
その日本刀が例によって、やらかしているのである。





だからね・・・・。
非常に多くの漫画家さんがやらかしてますが、日本刀はこういう
造形ではないのだってば。いつまで経ってもずっと日本の漫画家
さんたちはこれをやらかしやがりますけど。
ひどいのになると、時代劇劇画でさえこのような切先にしてしまう。
犬夜叉の鉄砕牙かっつーの!
きちんと物体の姿をよく見ろ!と言いたい。

それでも、漫画家たちのことは言えない。
自称「俺は何でも知っている」という刀剣研究家と自分で言う仁が
私に言ったことがある。
「なぜ、切先方向にかけて帽子の棟側が反り返っている刀が多い
のだろう」と。

よく話を聞いていると、この光っている部分が日本刀のサイドビュー
のシルエットだと思い込んでいることが判明した。こういう写真などの
陰影を見て「切先だけが反り返ってる刀が多い」と思い込んでいたの
である。


実際の日本刀はこのような形になっている。




目の前の自称刀剣愛好家がそのような勘違いをしていると気づいて
私は愕然となった。
だが、この手の大きな勘違いは、結構、刀に接している人たちの間
にもあるようだ。典型的な例が、研ぎ師が描いた白い部分を刃文だ
などと思いこんでいる人が多い事が挙げられる。
信じがたいようだが、そうした誤認があることは事実で、つまり刀
に接しながらも刀のことを見ていない、ということになる。
そもそも日本刀を所有する人たちでさえ、日本刀について無知蒙昧
な人間大集合なのだから、日本刀の形のことを普段接していながら
も見ていない人などは大勢いる。

日本刀の形状に関しては、簡単なことなのだ。
「よく事実を見る。凝視して見る」、これ以外には存在しない。
圧倒的大多数の漫画家が、リアル作品の漫画家であろうとも、バイクの
ハンドルがフロントフォークの延長がハンドルであるというようなあり
得ない
ことを日本刀の描写においては実行する。
それがこれ。(ごくごくたまにはこの形状はありますが)


アシスタントが描写について前後不明なのかも知れないが、作者名
で作品
を発表していて、最終チェックをしている限り、こうした描写の
出鱈目
な点は漫画家本人の責任だ。

こういうのはですね、日本刀の常識からすると、自動車のタイヤを
四角く描いているのと同じなのですよ。
てんでコミックの絵師たちはプロではないなぁと思う次第。

俺、不思議に思うのだけど、絵の基本の写生とかしないのかね、
漫画家という絵師たちは。刀を描くのに刀を見ることはしないの
だろうか。たとえインターネットの画像ひとつにしても。
人の口が鼻の上にあったらおかしいだろうに。
だが、日本刀に関しては、非常に多くの漫画家たちがそのような
ことをしている。
よく物をきちんと見ていないのでしょうね。それ、プロとしてアウト
なのでは。

何度も書きますが、有名なのが『ドーベルマン刑事』ね。
シングルアクションのリボルバーのシリンダーが横にスイングアウト
しちゃったの。これは伝説的な大事件として歴史に名を刻んだ。
それどころか、バイクよ、バイク。
フロントフォークの延長がハンドルというのを例によってやらかして
やがった。すごいですね~、あの作品。

まあね、新幹線が空を飛ぼうと車が海の中を走ろうと、そういうのは
空想活劇だから設定としてはどうでもいいのですけどね。
だけど、鼻の上に口があるようなのを描いてはだめだと思いますよ。


小野妹子=蘇 因高

2017年04月26日 | 文学・歴史・文化・科学



篁の六代前の小野妹子が、いけばなの池坊の始祖とされて
いることについて、
こちらの記述は個人的に極めて興味深い。
 ⇒ 小野妹子の謎(続

個人的に付言すると、公家との関係を調べるのであれば、
藤原家そのものではなく、久我(こが)家と藤原の関連を
調べたほうが
いいように思えるが・・・。村上源氏と小野氏
の関連性を踏まえた上で。
祖を辿るのならば、小野妹子はワニであり鍛冶神の末葉で、
大元は太陽信仰を列島に他の技術と共に持って来た吉士で
あろう。

実際には小野は蘇我であり村上源氏が新姓を立てた久我は
「久しく古い蘇我」の復活を暗喩した「コガ」であったと
したら歴史の謎解きとしては面白いが、一切確証はない。
小野の小をオと呼ばずにサと別読みするならば、蘇我入鹿と
小野妹子の音は似ていたりして(笑)。
それにしても、小野妹子が髄に行った時に先方から「蘇 因高」
と呼ばれた理由は何なのだろうと思う。「サ(ソ)イムコ=
小野妹子」であるのだが、なぜ蘇我の「蘇」であるのか。
まあ、勝手に関係ない名称を付与するとは考えにくいので、
やはり本人が「小妹子=サ(ソ)イムコ」と自称して、それが
中国人が中国的字句で「蘇 因高」と書き残したというのが実像
ではなかろうか。

小野はオノであり小とは略さないとする説については私は否定的
だ。小野氏が自ら小野を野と略す例は多くあるからだ。ならば
小もあろう。小であるなら「サ(ソ)」という音で読むことも
当然にして、ある。
それが略称の自称により中国人に「蘇因高」と書かしめたので
あろう。
あるいは妹子が謙って一人称の自称を「小」と呼んだか。
いずれにしても、歴史の真実は妹子本人と当時の同行者と中国側
の接した人間たちのみが知るところだ。

ということを言うと学術的な探究や研究は成り立たないのであるが。
徳川家康についても、「あんたホントは影武者の替え玉かい?」と
本人に会って確認しないとならなくなるし、仮に未来において何ら
かの方法で時空を超えて家康と会ったとしても、本当のことなどは
話しはしないだろう。




三都 ~東京・大坂・京都~

2017年04月25日 | 文学・歴史・文化・科学

(本当の東京、谷中)

東京を知らない田舎者は「東京など人の住むところではない」
などとよく言う。
では、東京に住む人は人ではないのかと問いたい。
本当の東京を見てもいない癖に何を言うのか、と。
本当の東京人の息吹きは、山手線の中と下町界隈にこそある。
世田谷あたりをハイソなどと意味不明なトンチキをくれてる
都内の在の人間はおとといおいで、なのであるし、本当の東京
を見ていない地方の田舎者が自己唯一優良主義的に東京語りを
するに至っては、味噌汁で面洗ってこい、なのである。

ただ、私個人としては、本当の東京の人たちの人情深さは、
ちょいとうっとーしい時も結構ある。
とにかくおせっかいだし、よし俺に任せとけ、あたしに任せ
なさい、と世話焼きが多すぎる。そのくせ、軽度の距離感を
たもっていて「てめえのこたぁてめえでやれよ」という感覚も
ある。
そして、一番いいなと思うのが見て見ぬふりをせずに「およし
なさいよ」ということをはっきりと言ってくれたりするのが
東京人(ザ・本物系)だったりする。

大坂については、私は大坂に済んだ事が無い。
ただ、非常に強く感じることがある。
それは、「実は東京下町人と大阪人は非常に似ている」という
点だ。これはむしろ大坂の人は気づいていないことが多いかも
知れない。とてもよく似ているし、本音のところでは東京人と
大坂人は気が合う。かなり合う。
これは権力を嫌う民衆文化の共通精神土壌がもたらしている
もののように気がする。

(大坂。ミナミの有名看板に出ている広島県人発見)


友人の母国語がスペイン語の外国人は、全く日本語が話せ
ないまま、世界演奏旅行で日本に立ち寄った。それが大坂
だった。
大坂に滞在して、日本が大好きになり、日本語を覚えて、
帰国するのをやめ日本に定住してしまった。
日本に住んで23年、母国で21年。「日本は第二のふるさとだ。
ほかのところに住みたくない」と日本語で彼は言う。母国では
裕福な家系で事業家の家なので、帰国すればいつでも職も住居
(かなり広い)もあるのだが、「日本が最高だ」との
ことで
日本に今も住んでいる。

その彼が「東京は成田に車で行く時に通過したことしかないが、
大坂は住んでいたのでよく知っている。とにかく人が
めっちゃ
フレンドリーだ。大好きだ」と言う。そして「おれは大坂人」

とも(笑)
言葉も覚えた日本語(ペラペラ)が大阪弁系なので、私が
「日本語上手いけど、標準語は話せないよな」と言うと、
「な~に言うてんねん。バリバリの標準語やで」と真顔で言う。
それ標準語と違うから(笑

(京都)


京都の人は底意地が悪いと大坂の人はよく言う。
実際のところ、京都の女性は「好いても惚れん」と言われる。
徹底的な実利主義だとも。
京は千年王国である。
大坂のほうが帝がおわす都としては平安京よりも古いのだが、
同じ都でも京都はかなり文化や人の性質が大坂と異なる。
王城のあるところ、人の苦難と差別の歴史ありともいうが、
京都人が大坂人よりえげつないというか、涼しい顔してどぎ
ついぞというのは私も感じている。
東京人のように自分が損をしてでも人の為に「ひと肌脱ぐ」と
いうようなことは京都人にはないのではなかろうか。近江まで
とは言わないまでも、なんでもそろばん勘定で。
東京人の馬鹿ぶりは古典落語にもよく描かれていて、長屋の
隣りの熊が何日も食ってねぇというから自分の飯を持って行って
やって、かかあ(妻のこと)に俺の飯は?と尋ねると「おまえ
さん、何言ってんだい、今熊さんに持って行ったじゃないか」と
言われて「あ、そうか。しょーがねーな、おいらは。じゃ飯抜き
だ」と言うという。それが東京人=江戸者の気質だ。てめえの
目先の利益よりも、目の前に困っている人がいたら我が身を捨て
て火中だろうと飛び込む。それが江戸っ子=東京人の根っからの
気質であり、気風(きっぷ)である。
これは何も小説やドラマの世界の中のことだけでなく、本当に
本物の東京人は何の躊躇もなくそうしたことをする。

大坂人も似たところがあるように思えるが、大坂人は計算づくで
安全地帯を確保しながらそれをするように思える。東京人には
まったく計算などなく、ホントに馬鹿?という感じがするのだが、
東京人から言わせると、それを馬鹿だと感じるおまいさんたちが
馬鹿にちげーねーぜ、という塩梅なのである。私もそう思う。
例えば、てめえが大事にしていた物があるとしねえ。それを大事な
友がどうしても欲しがって使いたいと言う。だったらドンとそれを
やろうじゃねーか、ほいよ、やるよ。てのが東京人だ。
だが、それを指して「馬鹿?」とか言ったりするのもいる。
大抵は、地方から東京に出て来て地方人であることを引け目に
感じながら東京で暮らしているカッペだ。

京都の人は、こうした東京人的な「ひと肌脱ぐ」ことや、計算の
上だろうが人の為に動く大坂人的なこと(実際に人に対して有益な
行動を現実に行なう)は極めて薄いように私は感じる。
「はよいんでくれ(はやく出て行け)」という含みを持たせて
二杯めのお茶を笑顔で出すのが習慣だったり、最初からうちには
来ないでくれと箒をさかさまに軒先に置いておいたりとか、とにかく
京都の人で「普通」であることは底意地が悪いことが多い。笑顔の
向こうの腹黒さ、みたいな。

それは岡山県人のように腹黒いことを最初から無思慮に表に出す
腹黒さではなく、かなりオブラートに包んだ腹黒さを京都人には
感じる。
これは千年王国における面従腹背の一千年の歴史が作った人の心根
のようにも思える。あまり京都人からは「のびのび」とした明るい
明朗さは感じない。無論、東京人のような底抜けの馬鹿は京都の人
からは感じない。極めて理知的であり、かつ利己的である。

個人的には京都は10代の頃から毎年訪れていたので好きだが、
あくまで私は「ビジター」である。ふらっと行ってそのまま住みつく
としたら、絶対に大坂だ。あの空気は東京下町とそっくりである。

(京の鴨川。堤を人工的に作って都市計画を大昔から人が実行した。
私はゆえにそこに魅力を感じる。人が人の環境を何とかしようと
した努力の形が京都には残っているからだ)



本当の東京は、実は都内在住の人でも多くは知らないのではと思う。
ほんとの東京というのは、気どった鼻もちならない感じではなく、
かなりベタで粗野で乱暴。北部九州人は「なんかきさん、東京もん
やろが!」とは言うが、実はかなり気質は似ている。
そして、大坂人(キタというよりミナミの空気)とも通じるものが
ある。
思うに、それらはすべて民衆的なソウルフルに根付いたもののように
思える。
私はそこに「人間らしさ」を感じる。

(谷中の猫)

日本には存在しない物 ~日本にはまだない欧米文化~

2017年04月25日 | 文学・歴史・文化・科学






ビリヤード観戦用のスペクテイター・チェアは日本には存在しない。
海外サイトを検索していて「これは代用品としても◎」と思った
これら「ハイ・ディレクターズ・チェア」さえも日本には存在しない。
そうした状況を見るに、完全に日本の椅子文化の未成熟さを感じる。
西洋式文化導入から来年で150年
になる日本だが、米国にはごく当たり
前に存在するのに国内には一切
存在しない、輸入さえしていない種類の
椅子がいくつもあるという、俄かには信じ難い現実
がある。

まれに輸入したりしている場合もある。


欧米で1万円ほどのこの椅子を8万円近くする価格で北欧
輸入家具として販売している(笑)。

アメリカで数十ドル、高くとも百ドル台の折り畳み椅子が
8倍近い値段で販売。

輸入家具の世界ってそうなの?
それと、目黒通りや代官山あたりは何故アンティーク輸入
家具屋が多いのだろう。謎。


高さが違う折り畳みディレクターチェアがごく普通に米国
では揃っている。


それは、椅子についての文化がしっかりと日常生活の中で
ごく普通に根付いているからだろう。日本の畳の大きさ

京間・江戸間とあるように、椅子とテーブルについて
不動
の文化的な素地が欧米にはある。



日本の椅子の種類はせいぜいこのくらい。


ここでいう「肘掛け椅子」の背高版などという発想は
日本人には微塵も無く、また使い方を知らないので作り
もしないし、そうした椅子を見ても輸入さえもしてこな
かったのだろう。「普及度が未成熟」というのではなく、
存在その
ものが生じていないという現実あり。
これは欧米から見たら、「料理はするが、塩の存在を
知らない人種」のようなものに映るのではなかろうか。

これが本家本元の「観戦者椅子(直訳)」のスペクテイター・
チェアだ。さらに、老舗ブランズウィック社のこの椅子は、
座の下部は抽斗になっていてボールその他小物を収納可能。



日本国内でもこういうガーデンチェアは1万円ほどで
販売されている。まあ適正価格だろう。


ところが、これの背を少しだけ高くした日本のビリヤード専門業者
が販売しているツイン観戦椅子となると、8万円になる(笑)。

意味するところをご理解いただきたい。
本家ブランズウィックの重厚な観戦椅子は米ドルでも1脚8万円程
するが、それなりのしっかりとした作りだ。
だが、国内販売されているビリヤード用の椅子は・・・(^^;
画像はここでは出しません。
国産観戦椅子の欠陥としては、キューを立て掛けるえぐれ部分が
弱く、すぐに割れます。米国製の物を見るに、角にはキュー立てを
設置していないが、国内販売(中国製)されている物は、コーナー
部分にキュー立てのえぐれを設けています。
実際にこのダブルチェアを置いているビリヤード場に行くと、しば
らく使った物は軒並みこの部分が折れている。
日本はまだまだだなぁ、と感じる次第。本場物をよく見ろ、と。
やはり、何事も本物を見ないと駄目だよね、ということでして。

(日本国内で販売されているダブル観戦椅子。肘掛けのキュー立て
部分が欠損します。構造的欠点があるばかりか、非常に作りが安っ
ぽい。これはアダムからリリースされている中国産の観戦椅子)



一方、外国人が見たらどういうときに使うのか皆目見当が付かず、
意味不明だろうという日本にしかない
椅子もある。
それがこれ。


長時間正座で座っても足がしびれないという正座椅子。


やはり、必要は発明の母とはいうが、必要性が存在よりも
先立つのだろう。文化とはそういうものかもしれない。
取って付けたようなものは、なんの言われも所以もないのに
行政がいきなり命名した道路の通りの名称がまったく市民に
なじんでもらえないように、民衆の生活の中には根付かない
のであろう。

つまり、正座椅子はアメリカでは必要性がないから存在しない
ように、ビリヤード観戦椅子なども日本においては必要性を
人々が感じない土壌だから根付くどころか個体の存在さえも無い
という状況なのであろう。

だが、ここで盲点がある。
日本においても、米国と同種目を行なっている限り、背高の観戦
椅子は同種目の同意性を希求するのであるならば、必要性は厳然
と確実に「ある」のである。
米国人に正座椅子は必要ないだろうが、日本における観戦椅子に
関しては、「必要であるのにその存在に気づかずにまだ導入して
いない物」という位相にあるのである。
ゆえに、国と国民が西洋式諸文化を大幅導入していながら、未着
手の部分として、日本での椅子文化における撞球観戦椅子の不存在
の問題と意味が文化論的視点から浮き彫りになってくるというのが
実相だろう。
これはとりもなおさず、洋式スポーツが深く本質的に日本には定着
していないことを表していることになるのである。

今この話は日本全国的なこととして書いているが、かつて1990年代
初期に私が膝まで丈がある紺と紫ツートンのスタジアムコートを着て
広島県三原の市内を歩いたら、現地在住のイトコの姐から「そんな
変な服を着て歩いている人は三原にはいない。恥ずかしいからやめろ」
と備後弁で言われた。
「え?普通のスポーツ観戦用のコートだけど」と言うと「東京ではそう
かも知れないが、三原ではそういう変な服を着る人はいないからやめな
さいよ」とイトコは言い張るのだ。街中を歩いていても、奇異な目で
いぶかしげに見る人ばかりだった理由がこれで判った。
これは後年、三原に移住して、犬の散歩で出会う人に「おはようござい
ます」と挨拶をしたら怪訝そうな顔をして無視され、自分の犬を抱き
抱えて逃げるように去る人たちだらけの町が三原であるのだなと知った
のと同じ感覚を味わった。東京が先進国とは言わないが、とにかく三原市
などは「未開地」であるのだ。犬に関しては、1990年代末期には鎖に
繋ぎっぱなしか散歩は放し飼い、町中は犬のフンだらけだった。戦後直後
の東京のようなものだ。たまに散歩の人とすれ違うと挨拶を交わすことも
なく犬は吠えまくる。どの犬も大きさに関係なく威嚇したり怯えまくっ
たり、犬同士の交流という社会性も一切ない。東京とはまるで別世界だった。
市内の公園はすべて「犬の散歩禁止」である。曰く「公園はみんなのもの
です。犬の散歩は禁止します(三原市)」というものである。
東京との隔絶された意識感覚と土着的未開文化に驚愕した。
どちらがどうではなく、とにかく三原は「未開地」だったのである。
インターネットの発達により、ようやく、TVの中だけの別世界だった
都会や東京に似たあらゆるものがつい最近ようやく身近になったのが
広島県の三原という土地だった。今で丁度東京の昭和40年(1965年)
くらいの文化度と民度だろうか。ようやく電話が普及し始めたのと
同じようにネットが市民に普及して、市民は世の中の別の土地のことを
ようやく知り始めた、という感じ(マジです、これ)。
三原では中高生の男子はここ最近自分のことを「わし」とは言わなくなった。
それが方言であり、全国区では通用しないことであるというのを無意識
ながら知り始めたのだろう。
島田伸介が「自分のことを『俺』などと言うのは映画の中の世界だけの
ことと思っていた」という程に関西以西では男子は自分のことを「わし」
と呼んでいた。
幼い頃から東京から広島に遊びに行った私は親戚の同世代男子の子どもが
自分のことを「わし」というので、じいさんみたいでおかしくてしかた
なかったのだが、現代の広島県内の子どもたちが「わし」と呼ばなくなった
のは、テレビで話される言葉がテレビの中だけのものではなくなるという
ネット情報社会がもたらしたグローバル化によるものだと思う。
それの良し悪しは別として、本来は方言文化はそれはそれで保ち、方言も
標準語も話せるのが理想的だろうが、方言を大切にすると称して他者に
通じない方言しか使わない傲岸さを田舎者は持つことが多く、これは
正直言って人と人がコミュニケーションするという意識を放棄した傲慢
な感性以外の何物でもない。物を書く時には標準語で書いているだろうに。
自分の言葉、自分の感覚が世界標準であるとして押しとおす地方のイナカ
モンの感覚はほとほと辟易する。人を人と見なさず、己の価値観を唯一
絶対としてゴリ押しして人に強要や強制を強いるからだ。ふざけるな!
と思うのである。言葉は人に通じる物を使用して初めて言葉足り得る。
明治政府は個人的には嫌いだが、標準語という物を幕臣旗本言葉を援用
して創作定着させたことは国内統一にとって欠かせない事を成し遂げた
と思う。標準語により、日本人ははじめて「日本語」を持ったのである。
日本人共通の母国語は明治政府によって初めてこの日本列島に誕生したのだ。
我々が「日本人である」と自覚したのは明治になって初めてのことだった。
ただ、文化や文明の発信地は時代に関係なく常に「中央」からであった。
なので、明治以降の日本の最先端は常に東京がその地であったし、これは
今も継続している。帝都こそが国の文化の中心なのである。

三原市に話を戻すと、これは悲しいかな、社会的常識や規範や人権問題に
おいても、三原市は帝都東京・帝都大坂・帝都京都に比べて非常に
「未開地」であった。90年代初期にあっても。
とりわけ、警察と行政の横柄さは「ここは明治時代か?」と思う程であり、
あきらかに戦後民主主義が一向に定着していない土着性を示していた。
これが岡山県に行くと、筆舌に尽くしがたいほどに「人的未発達」と
いう状況が厳然として存在したし、岡山県(岡山市と倉敷市の人たちは
互いに「一緒にしてくれるな」といがみあっているが、他県からみたら
同じ穴の狢である)に関しては今も継続存在している。岡山県は永遠に
岡山県であろう。日本の県に成れる日が果たして来るのか、というのが
岡山県だ。人は城なり。人が県民性を作る。

東京ではサッカーやラグビー等の屋外スポーツの冬場の観戦では
誰でも着ている常識的なコートだったのだが、完璧に「文化の未発達」
としての未開地の土着性をそのように三原市内在住のネイティブが私に
示したのが前述のように1990年代初期のことだった。
三原にはコンビニエンスストアも一軒も存在せず、当然マクドナルド
などはなかった。そして、高級店舗といえば駅前の「デパート」である。
ブティック?なにそれ?であり、まさに1980年代に吉幾三が「おら
東京さ行ぐだ」を歌ったのと同じような感覚を広島県三原市内の人は
持っていた。
さらに県北山間部に行くと、やはりスタジアムコートは珍しいので
「それどこで買ったの?」と訊かれて「原宿」と答えると、「原宿?
東京の原宿?あんた東京に行った事あるの?!」と寄ってたかって
訊かれるいう具合だった。これが1990年代末期。実話である。
こうした実話を今の若い世代に言うと「嘘だ。そんなのあり得ない」
などと言う。
これは、私が「私が大学の頃の中国は、皆が人民服を着て自転車で
数万人が一斉に通勤していた」という歴史的事実を話しても「嘘だ。
あり得ない」と言う今の人(何度もこの体験あり)が持つ感覚と同じで、
歴史的な実相を素肌感覚でタイムリーに知らないから、現代の目先だけ
の自分の接している時間が人の世のすべてだと思い込む視野狭窄の
スタンスであると私は指摘したい。

アメリカでは標準的なビリヤード用スペクテイター・チェアーがまだ
日本に入って来ていないのは、そのような私が体験した広島版エピソード
の日本版のようなものであろう。


時代

2017年04月24日 | 文学・歴史・文化・科学



花谷勝さん。
全米トッププロを招待した1973年全日本選手権大会において、マシンガン
の異名をとるルー・ビューテラーをストレートプールで破った伝説の男。
この写真はその当時のものである。
プールにおいてアメリカ人トップクラスのプレーヤーを公式戦で下した
日本人は花谷プロが歴史上初めてではなかろうか。
その後、花谷プロは藤間プロと世界最大のビッグタイトルであるU.S
オープンに出場した。

日本の撞球界の世界的先駆者は戦前に何人もいて、渡米してスリー
クッションや三つ球で名を馳せたが、ポケット・ビリヤードが日本に
おいて知られるようになったのは1970年代からだった。ポケット
自体は戦前から存在はしたが、四つ球の添え物的な時間待ちのお遊び台
と考えられていて、ビリヤードといえば主流はキャロムのことだった。
ポケットは1960年代に国内ではいち早く京都のプレーヤーが競技
種目として広めたが、ポケット・ビリヤードのことは「ローテーション」
「ロ式」と呼ばれており、米語であるポケット・ビリヤードという言葉
さえ多くの日本人には知られていなかった。
そのため、1961年の映画『ハスラー』公開による日本における
1960年代初期の大ビリヤードブームにおいても、日本人は日本が
明治時代に輸入して大正時代に大流行した四つ球に夢中になっていた。
1974年発行の藤間一男氏(日本のポケット・ビリヤードのプロ1号)
の著書の『ポケット・ビリヤード入門』には、ポケット・ビリヤードと
いう聞きなれない言葉が、実は台に穴のあるビリヤードであることを
紹介している。普段ローテーションと呼ばれるそのビリヤードが
「ポケット・ビリヤード」という新しい言葉で呼ぶことを働きかけ
たのは、藤間氏や花谷氏の日本のポケット・ビリヤード第1期生
たちだったのである。
こうした正しい歴史は、競技者としてはきちんと知っておく必要が
ある。パイオニアである先人たちに敬意を払わないという競技者は、
スポーツマンシップにおいても、日本の伝統的な社会人としての慣習
や資質にそぐわないからである。
そして、その藤間氏たちが広めたポケット・ビリヤードという
ビリヤードの一種目が「プール」という米語で呼ばれるのがアメリカ
では標準であることを日本人が初めて知ったのは1986年に公開された
映画『ハスラー2』によってだった。
また建設会社が黒字減らしのために新方式のバーを考案して登録商標で
登録して直営店をオープンし、映画公開とともに空前絶後の大ブーム
となったことも、ポケット・ビリヤード=プールである認識を広めた。
その新様式のバー名称は「プール・バー」といった。
1987年には、一般ビリヤード場もプール・バーも、テーブルの空き
待ちは5時間待ちというのも当たり前だった。また、赤坂などの
都心では、1時間1000円のプレー代でも、数時間待ちという状態
だった。それほど、戦後第二次ビリヤード・ブームは爆発的な
ブームだったのである。
日本人は1986年に「プール」という呼び名を初めて知ったのである。


また、現在においては、14.1ラック・コンティニューという種目の
正式名称もそれを通称「ストレートプール」と呼ぶことを日本国内
のビリヤードをやる人間たちでさえよく知らないとう現状がある。
14.1のことを14-1と日本では多く誤って書かれ、また14.1の呼び方を
「フォーティーワン」などと呼ぶ。ポケット・ビリヤードのプロでさえ
そのように呼ぶ。

プロのプレーヤーはただ玉を入れればそれで良いということではない。
きちんとした文化、正しい呼称や形態をちゃんと伝承させ世に広める
ことを視界の普及と発展の言動を花谷さんの時代のプロはやっていた。
今はどうか。
14.1ラックは略称でも、きちんと「フォーティーンワン」と音声では
呼ぶべきであるし、常識的な語学としても14を41などと呼ぶ頭の
マズさは晒さないでほしい。
そして、ストレートプールという俗称でアメリカでは広く呼ばれる
ことも知ってほしい。
ポケット・ビリヤードという米語の正式名称が、プールという俗称で
多くは呼ばれるのがアメリカを始めとする世界標準であるように、
14.ラック・コンティニューもストレートプールと呼ばれている
ことをきちんと知ってほしい。


現在の花谷プロ。キューエンドのデルリンは長い。日本のプール界の
黎明期の達人であることが即座に読み取れる。


アンティーク物

2017年04月22日 | 文学・歴史・文化・科学



うおおお~!
売りに出されているこの1916年製のプールテーブルがめちゃくちゃ
欲しい!ロシア革命よりも前のテーブルじゃないか!!
あれ?今年ロシア革命100周年?ほげ~~~。プチびっくり。

リターン式だぜ。こりゃすごい。




こういうのがアンティーク物として売買されているアメリカってのは
いいなぁ・・・。
まあ、日本には無いので無い物ねだりなのだろうが、米国人が
日本刀に対して抱く気持ちのようなものか。

プールテーブルときたら、当然にして撞球専門観戦椅子=スペク
テイター・チェアというものが付き物だ。
これはビリヤードの必須アイテムなのだが、日本には椅子文化が
定着しなかった頃にビリヤードテーブルだけが鹿鳴館はじめ東京
の飲食店(精養軒などの洋食店)にビリヤードテーブルが明治時代
に置かれはじめ、椅子は通常の椅子が使われた。

しかし。
ビリヤードといえばこの観戦椅子が必須なのだ。プレーヤーもこれに
座るが、観客もこれに座って観戦する。


当然一脚のみでは駄目で、最低二脚でセットだ。


この観戦椅子についても、米国ではアンティーク物が格安で手に入る。
この文化の違いは決定的で、日本においては21世紀16年過ぎた今
現在においても、このスペクテイター・チェアーを製造販売している
家具屋もビリヤードメーカーも一切存在しない。
この椅子自体が日本には存在しない。
そんな馬鹿な?と思われるかも知れないが、個人的な輸入はいざ知
らず、日本国内のビリヤード場においては、この米国の専門椅子は
まったく存在していない。
まさに、んな馬鹿な?だよね(^^;

たぶん・・・値段が高いから輸入してまで買わない、というだけのことだ
と思う。
それって、本当は「日本刀は拵付を買ったけど、鍔は高いから買わない」
ということに等しいんだよね、ほんとは(^^;

ビリヤードテーブルに観戦椅子。これはセットなんです、ほんとは。




広島弁

2017年04月22日 | 文学・歴史・文化・科学

ムサコ(※)のボスが「これが広島弁」と紹介していた広島弁。
広島県在住の私だが、ヒヤリングはできても一切この方言を
話せない。一時期、地元に馴染もうと話そうとしたことがあった
が、無茶はやらないに限る。おいらは東京言葉しか話せない。

大阪弁のほうが簡単なのではと思ったりするが、これも大阪人
から「その変な大阪弁はなんやねん」と言われたのでタバコと
同じくスパリとやめた。
私は意志が固いので禁煙などは何度でもできる、わっはっは(わ
というのは私の師匠の台詞なので、相伝で頂いている。


これが広島弁。
「達川光男のすべらない話」

 

ムサコとは目黒区東急目黒線武蔵小山駅界隈のこと。東京人
の呼称法。

ボスとはBOSSであり、広島県福山から都内に転住した撞球人。
たまたま偶然、私がポケット・ビリヤードを覚えたナモシの店
私が都内を去った後に根城にしていた。

ナモシ(あだ名)とはスリーの世界の都内の人間はほぼ知って
いる人で、住吉師の弟子のスリークッションの選手で、ベルギー
撞球渡航の経験あるもポケットに転向。西小山のペンギン
カフェという
玉屋のマスターとなったが、後行方知れずとなった。
あたしらは
本名の下の名前で呼んでいた。武蔵小山「ポケット」
の雇われ
マスターだったが、スリー台1台、ポケット台(1.6穴)
1台の
その武蔵小山「ポケット」がかつて1986年~の私の「毎日
行く店」
だった。毎日とは毎日のことであり、365日のうち365日
という
ことである。これビリ玉界の常識。人生初のマスワリを出し
たのもムサコの「ポケット」だった。ポケットを初めて2ヶ月の頃の
ことであった。マスワリ出すと瓶コーラ1本がサービスで出たのが
「ポケット」のシステムだった。隣りにはカラオケスナックがあり、
何度か、ジョーかのと行ったが、歌うと玉屋のほうまで響き渡ると
いうありさまのまるで戦後のバラックのような造りの建物だった。
だが、1980年代後半の思い出は、ムサコ「ポケット」に凝縮されて
いたのである。


オンリーワン

2017年04月20日 | 文学・歴史・文化・科学


地球上に存在するすべてのキューの中で私が一番好きな
キューのコンセプトはこれ。

これはバリー・ザンボッティのキューなのだが、ブランズ
ウイックのタイトリストというキューを改造してバラブシュカ
のタイプにしている。


いわゆるハウスキューのようなシバキュー(しばき倒すキュー)
をカスタムしたもので、コンバージョンと呼ばれている。
雷管式(パーカッション)の南北戦争時代のリボルバーを
カートリッヂ式の新方式にコンバージョンすることを米国人
の多くが行なった歴史があるが、アメリカ人はコンビにする
改造がかなり好きだ。
だが、戦後におけるこのタイトリストの改造から現在の
二本ツナギのカスタムキューの歴史が始まった。
バラブシュカも、ガス・ザンボッティもTADコハラも、この
ブランズウィック社の普及版キューのハギのみ使ってキューを
作るところからキュー・ビルダーの仕事をスタートさせている。


ブランズウィック社のタイトリストとは、1900年頃から開発
されて1930年代には一般的に普及していた、ワンピースの
キューで、ビリヤード場に備えつけられたハウスキューなど
にも使用された。
曲がり防止のために本ハギ構造が導入され、化粧のために色付
べニアがハギに組み込まれた。
ワンピース一本物なので、持ち運びが非常に面倒だった。


それを二分割に改造するコンバージョン化が戦時中から
始まり、戦後には完全に「個人的職人カスタム」として
定着した。
それでも、映画『ハスラー』の頃の1960年代にはまだ
一般的に普及はしておらず、ウィリー・ホッペやハーマン・
ランボウなどがビルドする二分割キューは完全なるカスタム・
メイドとして高級キューに属した。
しかし、撞球場を渡り歩く撞球師にとっては、二分割キュー
は必須アイテムだったのである。
そのため、綺麗なハギが標準で入ったブランズウィック社
のタイトリストキューが改造ベースモデルとして多用され
たのである。
これを3乃至4の円柱パーツに分け、それを合体させた物が
コンバージョンキューとして登場した。
バットエンドにはデュポン社が構造軸受材としてリリース
しはじめた新素材デルリン®を使用するのが定番だった。
ただし、デルリン®は接着が利かないので、ボルトでとめる
方式が考案され、そのボルトは重量調整用も兼ねるという
一石二鳥の狙いが定められたのであった。

撞球者でブランズウィックタイトリストを知らない人はいない
とは思うが、一応一般の人向けにもこのような解説のさわり
だけ書いておく。

このジョイント構造のパイロッテッドジョイントを完成させ
たのはロシア移民のジョージ・バラブシュカだった。
金属ネジで締めるだけではなく、シャフトのネジ外周デコポン
凸部がバットジョイントカラー内壁に密着するという二重の
締め付け構造であり、何よりもキューの一体化、ワンピース
時代の撞き味の復元を得ようとして工夫された構造だった。
この結合方法は、現在でもキューの結合法として採用されて
いる。


タイトリストコンバージョンは、そのコンセプト自体に
私は凄く惹かれる。

ベースとなったタイトリストは決して銘木をふんだんに
使った高級キューではない。たまにローズウッドもあったが、
当時はそれほど高級銘木ではなかったし、主としては軍用銃
の銃床などに使われる
普及廉価木材のナトーを使用していた。
しかし、それがカスタム・ビルダーの手にかかってリビルド
されると、仕様はまさに高級カスタムとなる。
偏心が加工により除去されて芯がきちっと出され、更には
完全にハギ部分のみがブランクとして使用されるのだ。
金額ではない。戦闘能力において高級カスタムとなる。
(金額もとんでもなく高くはなるが、高いから高級なの
ではなく、高度な戦闘力を持つから高級であるのだ)

そういうまとめの方向性に私は魅力を感じるのである。
日本刀の作る方向性に少し似ている気がする。
日本刀本体というよりも、いろいろ金具を選んで外装を
作るいわゆる「作り」という拵ね。日本刀の拵を構想して
それを実行するのなどは、まさにコンバージョンモデル
の製作そのものだ。吊るしの背広ではない、合わせ着の
洗練されたセンスが試される楽しくもタフなアクション
である。


ベスト・オブ・ベスト。ブランズウィック・タイトリスト・
コンバージョン。ザンボッティ作なので高すぎてとても
買えないけれど(笑



米国ブランズウイック社は1845年創業の合衆国イリノイ州
シカゴ郊外にある老舗メーカーで、家具調度品やボウリング
やビリヤードの用品を製造する企業である。
バーカウンターなどはブランズウィック社が世界をリード
してきた。

西部ではまだ西部劇のようにドンパチやっていた西部開拓の
時代に大都会シカゴではこれなんだから、都会と西部の田舎
の格差たるや物凄いものがあったと思う。それは当然、当時の
東京と地方の辺境の地の差以上にあったと思う。
1888年の西部開拓時代に、シカゴではこのビル群だ。

(1888年、シカゴのブランズウイック社のファクトリー)

ワイルド・ウエストと呼ばれた西部ではこういう状態。


やっとこさ街ができてきてもこんな感じ。




それがですよ。数十年でこんなになっちゃうのだから、アメリカ
人の開拓魂というか根性ってすごいものがあると思うよ。
(カリフォルニア州サクラメント)


(西部開拓時代のサクラメント)





たぶんこれ↓は、これ↑と同じ位置から100年後ほどに撮影。


ニューヨークの高層ビルのエンパイアステイトビルなんて
完成が1931年だからね。日本の昭和だと昭和6年。日本
なんてのはせいぜい浅草十二階くらいだったが、地震で
簡単に崩壊した。


西部開拓のフロントラインの消滅は1890年とされている。
1890年を以って、野蛮な西部劇の時代は一応幕を閉じるのだ。
だが、西部劇の時代からアメリカ人はポケット・ビリヤードを
愛好していた。当時の球は焼き物でできていた。
非常に割れやすかったため、懸賞金をかけて新素材の開発を
よびかけた。
そこでビリヤードボールのために生まれたのが、史上発の
プラスティックだった。これは人類史に光をもたらした。
さらにブランズウィック社は、木製ボールだったボウリングの
ボールに高圧ゴム製のボールを採用し、これも人類史的に産業
界に大きな影響を与えた。

人類が初めて手にしたプラスティックが誕生したのは、それは
ビリヤードのボールのためであったことはほとんど知られて
いない。

このバーカウンターは、ブランズウィック製かも。


まあ、アメリカの国土もでっかいけど、アメリカ人はやることが
ドカンとでかいよな。こせこせしていないところは良い。
国土もまだまだ美しいしね。


そして、アメリカン・プール・キューの良品は、やっぱり
アメリカ製なのかというと、答えはイエスだ。
ただ、日本の職人さんも負けてはいない。
大昔、日本人プレーヤーが渡米して、アメリカで良いキュー
を見つけて持ち帰り、日本のアダムに「これと同じキューを
作ってくれないか」と持ちかけたら、それは実は日本のアダム
製だったという落語のような実話がある。
1970年代当時のアダムは米国への輸出専門メーカーであり、
二本国内で広く販売されるようになったのは1986年頃からで
ある。社名も86年当時は設立当初のまま「アダムカスタムキュー
ジャパン」だった。社長にはゴルフクラブのトップブランドで
ある「キャラウェイ」の元副社長のリチャード・ヘルムステッ
ターが就任していた。
1986年に「有限会社アダム」と社名変更して国内販売に乗り
出して数々の名品を世に送り出し、1999年に社名を「株式会社
アダムジャパン」と変更して現在に至っている。
アダムのキューはファクトリー・メイドの量産ラインであっても
「カスタム」だったのである。最初「え?」とか思ったけどね(笑
厳密な意味ではカスタムではないけれども、社名でカスタムキュー
と謳っているので、カスタム(^^;

本当のカスタムとは、タイトリスト・コンバージョンのような
改造物のことを指す。
コンバージョン自体はアメリカ人は本当に好きだった。
これは雷管式を薬きょう式に改造したコンバージョンリボルバー。






コルトSAAは「西部を征服した銃」などと呼ばれていたが、
実は圧倒的大多数の開拓民たちは、旧式の雷管式リボルバー
をカートリッジ式に改造して1890年代まで使用していたと
いう合衆国の歴史の実像がある。

この当時最新型のコルト・シングル・アクションはよほど
金周りが良い者でなければ買えなかった。


ゆえに、コンバージョンで中継ぎ的に急場をしのいでいた
のが西部開拓時代の拳銃事情だった。
実際の使用法としては、拳銃を携帯していたのはガラガラ
ヘビを撃ったりの護身用であって、対人用に武装していた
訳ではなかった。実際にはそれほど撃ち合いが頻繁にあった
訳ではない。それは日本の時代劇の嘘と同じである。
桃太郎侍などは、一度計算した事があるが、年間2,000人程
の人間を斬り殺しているからね(笑

アメリカ人はコンバージョンが好き。
そして、日本のなんてったってアイドルは赤いコンバーチブル
から飛び下りてくる。


小泉今日子さんのアイドル時代を知らない今の若い人が、
昔の動画を動画サイトか何かで見て「あまちゃんのお母
さんて可愛かったんだ」とか言うのをどこかで見た。
何を言ってるのか。
なんてったってアイドルだったんだど。
自分のほんの目の前の今しか見えない視野狭窄ではなく、
頼むから広く目を開いて、人の世の歴史を知ってくれ。


映画『たたら侍』

2017年04月16日 | 映画・ドラマ・コミック



地元の友人とどんなもんだか一緒に観に行ってみっか、と
いう話に
なってる。
映画は観てみないと面白いかどうかは判らないけど。

ただなぁ・・・。
これ、時代的に戦国時代でしょ?
我らが
串団子の旗指物と衣装から見て永禄とか天正とかその頃。
でもって、一般的に「たたら」と来たら・・・。
どうせたたら製鉄とたたら吹きの区別もつけず、江戸末期の製鉄
方法を映し出してそれが昔からの伝統製鉄法だとか描い
ていそう
な気がする(笑
なんだか性格俳優にバスク人のベレーみたいなの被らせている
あたりは、時代考証しっかりしてっかな?とは期待したりもするが、
まずいらぬ期待は
しないに限る。そんなもんは大抵は裏切られる
のだけど、頼んでもいないのに勝手に期待してそれと違ったらなん
だよと逆キレみたいなのはみっともないから俺はやらぬが、そういう
のになる奴ぁ多い。
ただ、時代物映画に関しては、時代考証だけはしっかりやってほしい
というのはあるが、なかなかね・・・(^^;

まあ、そういうこと言ったら、「時代劇なのになぜ既婚者の女性が
眉も落とさずオハグロでもないのか」とか「話す言葉がなぜ現代語
なのか」とか「出てくる馬がなぜ体躯の大きい現代西洋馬なのか」
とかいうことにもなってしまうのだけど、コアな話としては例えばこの
映画作品の時代に300年後の江戸幕末の「突兵拵」が出てきたら
おかしい、というような事は絶対に映像の世界にはあってですね・・・。
時代劇の世界は、八代将軍吉宗・奉行大岡忠相の時代に江戸城
天守を映し出したり(大抵は姫路城)しているけど、そういうのは
現代戦争映画でゼロ戦が普通に沢山出てきて戦うくらいに変な
ことであってね。絶対に映画・ドラマ作品ではやらかしてはいけない
ことなんだよね。時代劇の中で侍がロレックスの腕時計していたり
みたい
なことをやるのは。
でも日本映画はかなりテケトーだった。鞍馬天狗がスイングアウト
式のリボルバー使っていたりとか。


なぜか、日本の時代劇というのは、かつての1960年代のマカロニ
ウエスタンのように時代考証についてはいい加減でござりまする、
という面が非常に強い。
マカロニウエスタンでは南北戦争直後に1873年登場の銃が出て
来たり、6連発から20発くらい発射できたりとか、完全にオハナシ
エンターテイメントだけが主で、あとは超どうでもいい的に作られて
きて、それを観客は楽しんでいた。
洋画においてそれが見直されたのは1990年代に入ってからで、
とりわけハリウッドウエスタンでは超正確な時代考証がなされるよう
になった。かねてから時代考証はきちんとするべきだと主張していた
イーストウッドの功績も大きい。
ところが、
日本人が作る「ウケ」狙いのシリアス映画・ドラマというのは、
今でもかなり大雑把で
超テケトー。分別まるで無し。1960年代の
日活無国籍映画でピストル撃つとバキューンみたいなことを今でも
やっている。特に時代劇がひどすぎる。大嘘デタラメ大創作が本当に
歴史上あったかのようにまかり通っている。典型例が江戸城の天守
で、やたらと明暦以降の時代を描いた作品に出てくる。
そして、観る大衆はそれが本当のことであるかのように思い込む。
こうした精神土壌に日本人が浸っているから、リアル世界でも嘘武術
のイカサマ連中にさらっと騙されていたりする。

ま、うちら日本人の実相なんて、そんなもん。かなりいい加減なもんよ。
オモロイのが、伝統がーとか歴史がーとか言いたがる奴に限って、嘘
を捏造したりして宣伝PRしてガマの油売りのようなことを真顔でやって
いたりする。ネタとしてではなく本気で。それを本気で信じる間抜けも
大勢いる。
ホンマは、全くあかんやつね、それ。


レース

2017年04月15日 | 文学・歴史・文化・科学



♪そして私はレースを編むのよ 私の横には貴方・・・

この曲はヒットして1973年レコ大を獲得した。
中学校の昼休み放送では、毎日リクエストでこの曲が教室に
放送されていた。放送部のしょもないDJはいいからさっさと
この曲かけてくれ、という感じだった(笑
私と歳があまり変わらないお姉さんが歌って人々に広まった
曲だった。

あなた/小坂明子


それまでまったくレースの編み物というものに気付かなかった。
考えてみたら、我が家にはレースの敷物の上に玉鋼が燦然と
鎮座していたのにだ。

レースでの編み物というものは、なんだか私などからすると
超絶技法のように思える。


この小坂明子さんの曲が流行った頃の少し後、手編みのマフラーや
セーターをバスケ部の先輩からもらった。うれしかった。そのセーター
はずっと着ていた(笑

遊びで編み物を自分でやってみたことがある。
面白かった。ただ、女の子たちがやるように恐ろしい速度ではできな
かった。


これはビリヤードのキューキャップというものだ。
1980年代に職場にバイトで来ていた女性がレースで編んでくれた。
本職はブライダルでのピアノ奏者だった。オルガンは四肢を駆使して
信じがたい演奏をしていた。よく私に自分の演奏を録音したテープを
くれて、まるでサントラのようなその音色がとても心地よかった。
その人は私が風邪で数日寝こんだ時に、私の部屋に来て手料理を
サッと作って帰った
ことがあった。「いい?これを食べるのよ」と言い
残して。年下なのに母親みたいな口ぶりだった。
その人が私がプールホールに預け置きするキューの
キューキャップを
レースで編んでくれたのだった。



これは1987年からずっと大切にしている。
先ごろ福山の店に預け置きしてあったキューを1本引き上げて来た
ので、このキューキャップも
洗濯した。
このキューキャップは在京時代にはずっと使っていた。
ビリヤード場の煙草の煙と誇りでしばらくするとかなり汚れるので、
東京時代も広島県に引っ越してからも
都度持ち帰っては洗って使って
きた。

頂き物ではこれが一番ありがたかった。預けキューは煙草のヤニと
誇りでかなりすすけ汚れるからだ。それ
からシャフト部分を守るのが
キューキャップで、1980年代当時は、
既製品が売られていないので、
皆ラシャの切れ端や布で袋を作って
壁のキューラックの立て置きキュー
に被せていた。

私のように手編みのキューキャップの人もいたが、ほとんどが毛糸で
あり、私の物のようにレース編みの人はいなかった。

ほんのりとした思い出のあるキューキャップだが、置きキューをしない
限り活躍の場面はない。
でも、かなり(というか物凄く)気に入っている。
物そのものもそうだが、その心遣いに今でも感謝している。割いてくれた
時間にも。

鈴はなんだろうね。俺に鈴着けようとしたのかね。毎日の平日夜と土日
は、私は必ずプールホールにいたので。

『ハスラー』の原作と映画で大きく違うところ。
それはエディの恋人のサラは原作では死なないことだ。
たとえ別れてもいい。恋人が死ぬなんてことだけは避けたい。
たとえ別れて遠くに離れても、同じ空の下できっと元気に暮らしている
のだろうと思えるほうが互いに幸せだ。

キューのグリップは、糸を巻くならばアイリッシュリネンが最適だとされて
いる。
だが、自作キューはレース糸を巻いてみた。巻いてからコーティングする。
これがことのほかしっとりとした手触りで心地よい。
キューの糸巻に、レース糸というのもよいかもしれない。

レースの糸は色がいい。
なんだか食べたくならない?(笑
おいらはトロピカルフルーツみたいな感じがするよ。


ただ、レース糸の世界もいろいろあるようで、同じグラデーションのタイプ
でもブランドによって具合が異なるし、何より廃版物というのが結構ある
ようで、なかなか時代を継続しての柄と色あいを保てないようだ。
ビリヤードのグリップ用に特化された細いアイリッシュリネン糸はレース糸
でいくと30番位の細さなのだが、色は伝統色とも呼べる色合い数種が
固定的にラインナップされている。
レースものとなると、産業製品というよりも手芸の領域だが、糸の世界も
奥が深くなかなか面白そうだ。

レースで編んだブローチって・・・、こりゃアジサイかよっ!
まあ、あたしが一番好きな色あいなのだけど・・・。
こうなると本当に職人技だよね。



回転寿司

2017年04月12日 | 文学・歴史・文化・科学


なんか私が注文した物が届かないなあと思っていたら、私の何席か
上手に座るおじさんが全部取っていた。
回転寿司は目の前に廻って来る皿を自由に取るとはいえ、おいさん、
それは違うから(≧∇≦)

アメリカンクラッカー

2017年04月12日 | 文学・歴史・文化・科学



アメリカンクラッカーである。
横浜では「カチカチ」などとも呼ばれていた。
むちゃくちゃ面白かったが、ほんの3カ月ほどで消滅した。
発売は1971年の3月で、私は小学校4年の時だ。
この写真の子どもたちは間違いなく私と同学年あたりだろう。
消滅した理由は、音がうるさいということとボールが割れる
事故が続いて、学校等で禁止になり、一気に消えて行った。

私や友人たちは、学校帰りにいつも寄って遊ぶ横浜ドリーム
ランドの敷地内などでこれをカチカチやっていた。
かなりの大音量で音が響く。


横浜ドリームランドはアメリカのディズニーランドを模した
テーマパーク型の遊園地で、私は本当によく行った。
当時は徒歩もしくはバス通学だったのだが、帰りのバスがこの
ドリームランド経由だったのだ。
まあ、仲間内はそのまま真っ直ぐ帰りはしないよな(笑
大抵はドリームランドで降りて、広場で遊びまくってから帰宅
した。
私は生まれて
初めてボウリングをやったのがここランドのドリー
ムボウルだった
し、ビリヤードのキューを生まれて初めて握った
のもここ
だった。
水が流れるドーナツ型の大プールは夏には入り浸りだし、冬には
ずっとスケートをやっていた。

アイススケートを初めてやったのは、5歳の時の品川スケート
リンクが初めてだったが、子ども時分はかなりスケートが好き
だった。選手スケートではなく遊びの滑りだが、ドリームスケート
には冬の間は土曜の午後と日曜にはまず滑りに行っていた。


夏はこれ。


冬はこれ。




横浜ドリームランドは、今のディズニーランドよりも
インパクトがあった。普通の遊園地ではなく、テーマ
パークとしての趣が強かったし、それまでの遊園地とは
まったく質が違ったからだ。今でいうところのディズニー
ランドやシーが初登場した時のようなインパクトがあった
のである。今こうやって見ると、閉園した倉敷チボリ
公園のちょっと大型版程度に感じるが、当時はかなりの
盛況だったことは確かだ。TVドラマのロケでも多く使わ
れたりしていた。キィハンターなんてのは定番だったし、
沖雅也のデビューはここドリームランドでのロケ回から
だった。

東洋一の大きさを誇る観覧車のゴンドラも魅力的だった。


ただ、開園当初から国鉄大船駅乗り入れの直通モノレールに
欠陥が見つかって廃線になったり、1970年にすでに広大な
敷地のうちの広い範囲をマンション建設会社に売却したりと、
決して順風満帆な娯楽施設経営ではなかった。
日本古式建築のようなホテルエンパイアは1970年当時で1泊
5万円(現在の28万円ほど)の部屋が多くあったりと、庶民
とはかけ離れた層を集客として狙った部分もあったりした。

今、ビリヤードをやるたびに、1971年3月当時のアメリカン・
クラッカーを思い出す。
たぶんビリヤードのボールと同じ材質かとは思うのだが、便乗
商売で乗り出した製品はよく割れて事故が起きていた。
ビリヤードのボールは硬そうに思えて、案外粘りがある材質だ。
友人の職人がボールでキューの先角を作ってみたが、撞いた時
にぼやけるような感触で芳しくなかったとのことだった(笑

登場して、ほんの2~3カ月で消えて行った玩具というのも
珍しいのではないかと思う。

おもろい人めっけ(笑)
ビリヤードの球でアメリカンクラッカーやってみた


『忍者の末裔』

2017年04月10日 | 文学・歴史・文化・科学



今読んでいる本がとんでもなく面白い。
幕臣の家で、探索方等の役務にあった家系について
歴史史料と照らし合わせながら検証している書だ。
こうした書をヒントにして、またぞろ捏造自称古流
武術流派が新手の詐欺を考え出さないことを希望
するが、
これを読んでいて良いなぁと思えるのは、
伝書や
伝聞をそのまま「歴史事実」とするような
稚拙な
愚はもちろん犯さずに、史伝としての後世の
付会や創作も
客観的にきちんと指摘している点だ。
無論、そうした公正妥当な視点がなければ歴史に
関する書物などは書けない。たとえオハナシ物と
してもだ。
さらに、学術研究的な方面となると、私的脳内妄想
創作を史実であるとする視点などは一切介入する
ことは許されない。
「私は卑弥呼の末裔である」などと言い出すと頭が
おかしいと思われるのが実社会ではオチなのだが、
学術界とは無縁の私的世界である古武術界などは、
遠祖を歴史上の人物に勝手に設えたり、剽窃したり
創作したり、やりたい放題というのが実情なのだ。
それはまさに、「私の先祖は卑弥呼なり」と言って
いるようなことが大真面目の本気モードでまかり
通っているのであるから、武術界というものは、
いかに頭がイカレタ連中が大手を振っている尋常
ならざる異常者の世界、ということが断言できる。
そうした明らかな荒唐無稽な虚言に対して、「ははぁ~」
とひれ伏すような傾向も武術界大衆には存在するので、
私からすると、「この人らも頭おかしくない?」とか
思ったりするのである。実に滑稽な風景をそこに見る
ことができるので、お笑いネタとしては暇つぶしには
なるのであるが。

自称古流武術を名乗る捏造贋物大道芸が日本では
跋扈できるユルユルの甘さが社会にあるが、真実の
世界では当然にしてそうした詐欺師たちは、正真
詐欺(犯罪)師も詐欺師まがいも、生存が赦されて
いない。否、人間社会という社会において、詐欺師
は存在が法律的に許されてはいないのである。
人をして欺網(ぎもう)せしむる所業は悪であり、
人を騙して集客して集金するのは犯罪なのだ。
ただの嘘やパクリや捏造では済まされないことなの
である。
ほそぼそやっていた大道芸人やレイヤーが、大風呂敷を
広げ過ぎて、最初は小さな嘘だったのが、今や取り返し
のつかないことになってるやも知れぬが、やっている
本人たちには犯罪を犯しているという意識は寸毫もない。
だが、はっきり言う。嘘は嘘であり、でたらめな思いつき
の創作事を基に、それが確かな歴史であったと人を騙して
金員を得るのは犯罪であり悪なのである。
悪は悪であり、善ではない。
これは法的観点と公序良俗に反するという社会規範の
両面において悪なのであるからして、悪人は取り締まら
れて裁かれるべきなのだ。

おもしろい共通項がある。
嘘偽りの捏造派のほとんどが、「国際的」と称して外国人を
積極的に相手にしたがる。
さすがに、日本人もそうそう馬鹿ではないので、荒唐無稽な
捏造が怪しいと見抜かれてしまうからだろう。無知な外国人
相手に市場を確保しようとしてのことは見え透いている。
それなのに、海外での演踊の刀剣踊りや外国人を入門させる
ことでハクが付いたような気になって、またふんぞり返るのが、
これら捏造流派の典型的な特徴であり、それを軒並み捏造派ら
は金太郎飴のように判で押したようにやっているのである。
海外活動をPRしたり、「国際ナントカかんとか」と団体名に
名がつくところは、まず慎重に接しないと、大贋物であること
が非常に多い。
まして、他流の名を自流の肩書PRに使用したりするところは
まず100%贋物詐欺派と思って間違いがない。