渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

広島県の歴史

2014年01月27日 | 文学・歴史・文化・科学



中世、刀工よりも栄えた三原の鋳物師は、古代青銅器鋳造技術集団との
つながりはあるのだろうか。

広島県の三原には弥生時代の遺跡が多くある。



だが、青銅器はどうなのだろう・・・と思っていたら、三原の北部の世羅町
から銅鐸が出土していた。

広島県の歴史について、三次歴史民俗資料館展示のパネルを表示します。

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映画『Wの悲劇』

2014年01月26日 | 映画・ドラマ・コミック



BSで『Wの悲劇』(1984角川)を観た。


いや~、まさに、ちょっきり30年ぶりに観たよ。
すごい映画だ。
劇場公開の時は、大学の後輩と観に行った。
今改めてじっくり観ると、かなりの作品だ。
三田佳子が怖いよお~(笑
凄い演技力です。
でも、なぜか松田聖子さんの歩みと聖子自身に三田さんの役どころが
重なってしまう(笑

気付いたこと。
劇中でストーリーのターニングポイントとなる問題の静香(薬師丸ひろ子)の
記者会見のシーンで来ていた服とあのラストシーンで来ていた服はあえて
似た同系の服なんですね。
記者会見に至る含みの出来事は、劇中劇と重なる伏線となります。
まさに「W」なわけです。
そして、最後の服はターニングポイントの記者会見の時点と似ているけれども
違うという
この微妙な演出の機微。これにはやられましたわ。細かい。

(静香の記者会見)

(昭夫(世良正則)と別れるラストシーン)

薬師丸さんも名演でした。


これDVD買おうっと(^^;
いいわ、これ。

だけど、薬師丸って、こんな可愛かったけ?


演技力をストーリーの中で変えていくという演技が見事でした。
この作品は、役者がすべて役者をしっかりとやっています。
こういうのは良い映画だと思う。
特筆ものはやはり三田佳子さんで、観ていると怖くなるくらい。
すごい・・・。


ハヤトの蛇行剣

2014年01月25日 | 文学・歴史・文化・科学

日本列島の古代先住民の剣に「蛇行剣」というものがある。
ヤマトと対立した南部九州にいたハヤト族(一説にクマソ族と同族とされる)の
「蛇行剣」が有名だ。

しかし、蛇行剣は九州南部だけでなく、時代が下った各地の古墳からも
出土される。



こういう鉄剣を見ていると、韓鍛冶(からかぬち)がもたらした直刀はかなり
「新しい」実用的な側面を重視した武器特化技術のように思える。

この蛇行剣は南方インドネシアのクリス剣の影響との説を示した学者が
いたが、その後、別な者により、「蛇行剣は倭国固有の武器」なる説が
発表され、現在はそちらが有力視されている。クリスとそっくりであるのだが、
国外の鉄剣との関係性は無視されるに至った。

「タタラ+砂鉄」と一緒である。どうしても日本固有の物としたい視点からは、
まるで「なんでも韓国起源説」に通じる「大和民族大亜細亜盟主論」的な
現代の一部の韓国人のような小中華思想を感じざるをえない。偏狭である。

蛇行剣が低炭素鋼であるのは、あえて蛇行させるために低炭素にしたの
ではなく高炭素足り得ない原料と製法だったからで、低炭素というのは後付け
の理由だろうと私は思量する。この原初的な鉄器の一類である蛇行剣が
低炭素であるのは、製法上のことではなく、材料の原質そのものがたたら製鉄
によるものではないからではないか。

蛇行剣については『播磨国風土記』に小野氏の遠祖ワニ族の部の民の逸話が出て
くるので私は個人的に興味はある。
だが、無論、考古学者は歴史学者や民俗学者と連携することは拒否しているので、
そのような逸話や民話や伝承譚はせせら笑うように無視する。しかし、そのくせ、
皇国史観の文献史学者以上に非科学的に「日本固有」に拘泥し、俯瞰的見地
を見せずに視野狭窄を見せるのが古代史に関与する学者連中の特徴だ。
そして、時に「捏造」を繰り返す。石器埋蔵だけでなく、その他にも本気で捏造して
くるのだから「学術界」というのは恐ろしいものがある。バレたら尻尾切りで事なかれ
を貫く。


日本国内で出土する蛇行剣はクリスの影響と全く無縁であるとは思えないが、
日本の鍛冶技術そのものが半島系の韓鍛冶だけでなく、南方系の技術との
関連性は見逃せないと思われる。

(クリス)


しかし、学術界というのは頭が良いのかまるでバカなのかわからない
ことを時々見せてくれる。

例えば、兵庫県の三田市の三輪・宮ノ越遺跡からは次のような物が
出土している。

これと同様のものが播磨地域(兵庫県加東市社町)でも出土しており、
丹波篠山でも3点出土している。

ところが、学術界ではこの物品を「用途不明」としている。
本当はうすうす気づいているし、もしかすると確信も持っているのだろう
が、それとは告げない。そういうことは「天皇陵」を発掘調査して、とん
でもないことが公に判明してしまうことに等しいからだ。とにかく、歪んだ
国粋主義に追従していれば学問の世界など安泰、というわけだ。
この出土物についても「はて、なんでしょう」で済まそうとしているので
ある。


この日本国内での出土物は実はインドの製鉄窯に酷似している。
(インドの製鉄)




低温還元できる原料の場合、「たたら」方式の製鉄炉は必要としない。
日本の「たたら」製鉄以前の古代製鉄の姿がここにあると思える。
さらに以前は皿型に近い椀形の「炉」で製鉄したのではなかろうか。
そのような炉は残りようがない。たたらのような大型炉を脳内想定
して動かそうとしないから、本当の古代炉を見逃がしているのでは
なかろうか。とりあえず鉄滓(カナクソ)が廃棄されている場所付近
には製鉄活動があったはずだ。
それを鉄滓の存在を現認しながらも「炉が発見されていないから」と
して「古代製鉄はここでは行なわれていない」とするのは恣意的だ。
たぶんそれは、「たたら」が発見されないからイコール製鉄はなかった、
としたい御用学者たちの常套なのだろう。
現在主流の日本の学説は、日本国内での製鉄は6世紀(苦笑)の古墳
時代からで、それは砂鉄還元のたたら製鉄によって始められたとしている。
だから古墳時代の製鉄の説明に箱フイゴを登場させたりする。
バカバカしい。二重三重にバカバカしい。
そのうち古墳時代の人々に軒並みチョンマゲも結わせそうだ。
葛飾柴又生まれの奴が「江戸っ子」を名乗り出すことくらいおかしいことが
まかり通る世界が「学術」だとしたら、学問の真実である「真理探究」は
すでに大きく意図的に阻害されている。

学問の世界は素晴らしいが、少し知ると、学問は素晴らしくとも、学問を
専門でやっている連中は極めてつまらん人間ばかりであることを強く
感じさせられるのである。



ちなみに、なぜ御用学者たちがタタラに拘るかというと、それはヤマトの象徴だからだ。
ハヤト、クマソ、エミシ、ツチグモたちの存在は彼らにとって忌まわしく抹殺されるべき
対象だからだ。
ヤマトを賞賛することが己の立場の安寧につながる。
そうしたヤマト以外を抹殺したがる偏狭な国粋主義史観に阿るタタラ絶対主義勢力が、
国粋主義の象徴である先の大戦中の軍刀を積極的にまるでハヤトやエゾのように
抹殺対象としたがる矛盾は、もはやお笑い草でしかない。
推参にして拙劣なり。
制圧してヤマト勢力が鬼と貶めた俘囚の剣なくば、日本刀など存在し得なかった。
せいぜい、青銅器で八岐の大蛇の尻尾を切るのが関の山だ。
尤も、尻尾切りはヤマト建国の時代からお手の物だったようだが。
なんというか、ジャイアンにへつらうスネ夫みたいなのばかりが多数派を占めているのが
日本刀と古代製鉄関連の世界とみて間違いないのが、いやはやなんとも。


林邦史朗『武劇』

2014年01月25日 | 文学・歴史・文化・科学



「武劇」というものがあります。
これは武術家で殺陣師の林邦史朗氏が主宰する武劇館と劇団若駒の
方々が公演している武術と演劇を合体させた舞台劇です。

林先生は殺陣師であるだけでなく、多くの武術を研究研鑽された方で、
私の斬術の師でもありました。
渓流居合剣法は、土佐英信流居合と林流真剣刀法の合体系です。

ご自宅に何度か泊めていただいたこともありますが、素顔は気取らず
洒落と粋で自然に振る舞う、侍というよりも下町の兄貴、遠山の金さん
みたいな感じの方です。奥様は伍代夏子さんによく似た美しい方で、昔、
林先生が演劇を志した若い頃に一緒の劇団にいた大部屋の元女優さんで、
笑顔がとても素敵な方でした。
邦史朗先生とはプライベートでもいろいろおつきあいをさせて頂いて
おりました。熱烈な競馬ファンなんですよね(^^)
邦史朗先生の愛車はスズキのバンディットでした。当時はカウル付バイクが
一般的でまだカウルなしのネイキッドタイプが珍しい時代で、「これが手軽で
一番」と先生は仰ってました。ゲタ代りにスポーツバイクで都内を軽快に
走っていたようです。
ご自宅の屋敷の半地下部分に広い稽古場兼道場があり、また最上階の
武具処には所狭しと真剣日本刀と多くの武具が収納されています。
私などにとっては例えようのない「くつろぎ空間」でした。
邦史朗先生は典型的な純粋生粋のネイティヴ江戸っ子ですので、話して
いると日比谷公園が「しびやこうえん」に、「朝日新聞」が「あさししんぶん」
になってしまいます(^^;
刀工二代目小林康宏も「火加減」が「しかげん」になるけど(^^)
康宏刀工は自分の刀工銘「やすひろ」というのを発音できない。ご本人は
「やすひろ」と発音しているつもりでしょうが、どう聴いても「やっしろ」に
聴こえます(^^)
江戸弁というのは関西弁のようにイントネーションの山谷がなだらかに
繋がるのではなく山と谷が急峻なようにパッパと声勢が立つので、ゆっくり
と口を横に広げて発声しないと発音できない「ひ」を口をとがらせて気忙しく
発声するから「し」になってしまうのではなかろうか。(正確には江戸弁の
それは「し」ではなく「し」と「ひ」の中間音で「しゅぃ」に近い)
東京出身でない落語家が古典落語をやるときに、江戸弁を「し」と発音して
いるのを見かけますが、ネイティヴからすると奇異に感じるのではないで
しょうか。本当は明瞭な「し」ではなく、「し」と「ひ」の合体した微妙な中間音
ですので。
また、江戸弁はたんに単音が変化するだけでなく、前後の子音も場合に
よって変化します。
古典落語で『井戸の茶碗』は名人五代目志ん生の高座では「身貧で」を
「にしんで」と聴こえる発音の正調江戸弁で演っていましたが、息子の志ん朝
は時代の移り変わりと共に通じないと思ったのか「困窮して」と言葉そのもの
を変更していました。

さて、中国の京劇や日本の歌舞伎は台詞まわしにこそ醍醐味がありますが、
この林先生が作った新演劇である「武劇」は日本の侍武闘と演劇を
合体させたもので、「動き」を見せることがメインとなり、たいへん見応え
のあるものです。ときおり、コメディタッチの演出も採り入れ、観る者を
飽きさせません。
ただし、使用している刀は、通常の殺陣は刀の形に薄く成形した木刀
に銀箔を貼った物ですが、「武劇」では演劇世界でいうところの「鉄身」
という刀身を使い、「本身」と呼ばれる研いだ真剣も使用します。
十分に武術と殺陣の訓練を積んだ俳優さんが演じているので安心して
観ていられますが、剣術・抜刀術という武術の稽古をしていない一般の
時代劇俳優さんや若手俳優さんでは危険すぎて演技できない舞台劇です。

お近くの劇場で「武劇」の公演がある際は、是非とも一度ご覧になって
みてください。
楽しめますよ(^^)

林邦史朗『武劇~侍の戦いから無刀取まで~』

一番最後に見せている切り下ろしは一刀流の「切り落とし」です。


武劇館公式サイト


三原市の古墳 ~広島県三原市~

2014年01月24日 | 文学・歴史・文化・科学



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三原には古墳が多い。めったやたらに多い。

前方後円墳もみられることから、ヤマト王権と芸備(安芸・吉備)の
強い関係もうかがえる。





どれくらい三原に古墳があるかというと、発見されているだけでこんだけ(広島県資料から)。
どんだけあんねん(笑

古墳とは指定されてないけど、位置関係や等高線が引いてある地図上の
地形からみて、これなんかも古墳だと思うよぉ。見発掘の様子。
私の先祖筋のじいさんが小学校の校長やっている頃に、この付近の単なる
小山においてそこが古墳であることを発見した。埴輪列、葺石、形象埴輪片、
須恵器、鉄鎌等が出土し、県史跡に指定された。この小山も古墳なんじゃない
のかなぁ・・・。



さて、縄文→弥生→古墳時代と人々が暮らして来た現三原西部地区
(厳密には古代律令以降は安芸国と備後国)の芸備地区だが、古墳時代
以降は
屯倉(みやけ)が多く近隣地域には設置された。
屯倉とは大王の料地である。屯倉は古墳造営と密接な関係にあった。
部民(べのたみ)にみられる人民統治機構と共に屯倉は重要な位置を
占めたが、屯倉は大化の改新で廃止され、全人民を戸籍制により統括
するように
なった。
屯倉は料地のことであるが、土地支配というよりも地域民衆の直接支配の
形態という側面が強かった。
屯倉は全国各地に設置された訳ではなく、九州・播磨・畿内と限定的な
地域の支配として設置されている。筑紫磐井の乱以降急速に増えた。

芸備の屯倉としては、安閑天皇元年(532年)に過戸廬城部(あまるべの
いほきべ)屯倉が安芸に設置された。
翌年安閑天皇二年(533年)には備州(備中備後)に後城(しつき)・多禰(たね)
・来履(くくつ)・葉稚(はわか)・河音(かわと)の各屯倉が設置された。
婀娜国(あなのくに。『日本書紀』広国押武金日天皇二年5月9日(535年
6月24日)条に「婀娜国」とある。後の備後国のこと
)に膽殖(いにえ)・

膽年(いとし)部屯倉が設置された。
『日本書紀』などに見られるこの地域の屯倉は以下の通り。

【備後国・備中国】
 ・後城屯倉
 ・多禰屯倉
 ・来履屯倉
 ・葉稚屯倉
 ・河音屯倉

【婀娜国】
 ・胆殖屯倉
 ・胆年部屯倉

【安芸】
 ・過戸廬城部屯倉


何度か紹介しているが、現三原市街地区は中世戦国末期までは海だった。
現三原市内にある広島空港の麓の山あいまで奥深い入り江になっていた。
縄文時代は縄文海進があったので、さらに奥地まで海だったことだろう。
しかし、弥生時代以降、なぜか現在の三原市西部に人々の一群が居住
した。
考古学界では正式認容されてはいないが、三原市内で発見された弥生時代
の炉には製鉄もしくは精錬の痕跡が認められる。仮にこれが製鉄炉であると
すれば、国内最古級の製鉄炉は芸備のうち三原地区にあったことになる。

三原市中を流れる沼田川(ぬたがわ)。古くは渟田と記した。
この画像は船木と呼ばれる中流域だが、戦国時代末期まではこのあたりが
河口付近だった。この沼田川流域に古墳群が広がる。流域上流部には
弥生時代の遺跡が集中している。

私はこの流れの中に餅鉄が眠っていると踏んでいる。

いくつかの支流がこの沼田川に注ぐが、この滝もその一つだ。瀑雪の滝。


なぜ石が赤い。それはそこに鉄があるから。

リモナイト=ベンガラこそが古代製鉄と王権支配体制との密接な関係にあった
だろう。赤色の埋葬文化はリモナイト製鉄の古代製鉄に関与した全世界で
見られる傾向だ。赤色埋葬文化は日本だけではない。
リモナイトは
低温還元で製鉄できるから、炉は壁のあるオープン炉や炉に屋根
のある密封炉でなく、野焼き炉のようなお椀の炉
でも還元できたことだろう。当然、
炉は残らないことだろう。遺跡が発見されていないので、
「古代炉は存在しない」
とする学術上の見識が蔓延している。「いきなり砂鉄」、そして「タタラ」という図式を
斯界は取りたがる。当然弥生時代の製鉄は否定し、国内製鉄はヤマト王権ができて
以降としたがる。ねじれた国粋主義の発露をそこに見る。

しかし、その学術界においても、古墳時代の製鉄説明で箱フイゴを示したりして
いるくらいなので、いかに定見を欠くものかは推して知るべし、なり。
だが、私のような民間研究者の発言などは、象牙の塔の学者たちにとっては
「たわごと」でしかないのである。尤も、学会に属して学術論文を発表する
気などさらさらないが。
ただ、古代製鉄と日本刀を研究している同志は、学術界に食い込み、アプローチ
を開始している。複数の現代刀工もこれに関与し、現場の冶金の目からの
フォローも行なえる体制ができつつある。砂鉄ではない褐鉄鉱の還元により
得た鉄から鉄剣を造る試みが始動している。


三原にはもうひとつ、山間部に不思議な風景が残されている。
それは「岩海(がんかい)」と呼ばれる場所だ。


どう見ても河原の石である。水流に洗われなければこのような丸い
石にはならない。しかもかなりの巨大石だ。(国指定天然記念物)
三原市の説明によると、
「岩海の成因は、基盤の岩石に霜の作用ではく離してできた方状
の割れ目から空気や水が入り、その作用により周辺が風化して
岩塊ができました。そして、長期間にわたって豪雨のたびに土砂が
洗い流され、地表部の玉石が重なりあってゆるい傾斜の谷に残った
のです。」
とのことである。

この丸い石、そそられる(笑
ただし、天然記念物に指定されているので、入会権(いりあいけん)は
及ばないだろう。
そこらの河原のように勝手に探査して石や砂鉄を持ち帰ることはできない。

古代製鉄は古墳時代、さらに弥生時代の製鉄に目が行きがちだが、
世界最古の土器である日本の縄文式土器の製法をどうやって古代の
列島人は発明
したのか。
土器文化と鉄器製造は燃料と窯≒炉において技術的共通項がある。
当然、古代製鉄に関しては縄文時代への視点も欠かせないように
個人的には思える。


三原紀行 ~三原城下と現在位置~

2014年01月22日 | 文学・歴史・文化・科学

三原郵便局本局には以下の地図が掲示されています。
この地図は一見江戸期の三原城と現在の鉄道と国道の位置関係を比較するのに
便利そうですが、実は大きな間違いがあります。

修正図。

三原市郵便局にあるこの図は鉄道の位置をかなり南に誤って引いています。
本来は赤線が鉄道のラインです。赤丸は最近発見された城郭遺構。緑丸は
三原城西之築出の酉ノ御門です。三原郵便局の地図では、鉄道ラインが
東部で最大数百メートルもずれています。
これでは作事奉行所があった三原城西部の西之築出の酉ノ御門や作事奉行所
が鉄道直下ということになってしまいます。
城下東部に流れる「わくはら川」の蛇行部分と鉄道との重なり位置を見れば、
三原郵便局作成パネル地図における位置誤認による鉄道ラインのずれが
明白です。

ゼンリン地図より(こちらは正確)
「安井歯科」が西之築出の作事奉行所跡。
赤丸は最近発見された遺構。緑丸は酉ノ御門跡。

過去の地形および区画と現在の位置を重ねる場合には、正確な
位置ぎめの地図に基づかないと大きな過ちを犯す場合がありますので、注意が
必要です。
三原郵便局の地図は製作しなおしてほしいな・・・。
鉄道ラインはかなりずれており、誤認が著しい。
郵便局フロアに掲げられているかなりしっかりした常設展示のパネルだけに、
実に惜しい。


居合の稽古と尾道

2014年01月21日 | 文学・歴史・文化・科学



火曜の夜は尾道東高校で居合の稽古。
本日は、会長先生から切り下した時の「歩幅」と「歩行法」についての先生なりの
解析の口伝あり。

貴重な講義だった。道場では心に刻み、帰宅後は「口伝集」に記載して復習
する。


稽古後に同僚と東高近所のラーメン屋に食事に行く。
車は道場に通う人のご厚意でお店のそばにあるご自宅庭先に
停めさせてもらった。

高校のそばの町中のラーメン屋。かなり美味い。


車が通れない路地に古い井戸を発見!
井戸の枠は「三原正家の井戸」と同じ作り。
こういう石造りが一つの様式だったようだ。
水神さまが祀ってあった。いわれは調べてないのでよく分らない。


道場の人に「食事後にお茶でもどうぞ」とご自宅に招かれて、びっつら。
お茶屋さんというのは知っていたが、「尾道でもかなり古いお茶屋さん
ではないですか?」と尋ねたら、なんと広島県で一番古いお茶専門店
とのことだ。

こんな蔵がド~ン!


よくTVや雑誌の取材があるという。この看板は明治初期のものらしい。


なんでも、この蔵を改築する時に、解体で出てきた江戸期の釘をすべて
取っておいて、それを卸鉄として地元備後国の現代刀工に一口日本刀
を打ってもらったのだという。県北の現代美術刀工に。
クパァ~(違
クハァ~!
老舗の御店(おたな)の旦那さんはやることが違うぜ。

お茶をごちそうになった。
店内奥に囲炉裏のような古い大きな火鉢に木枠があって、なんとも落ち着ける
空間だ。いいなぁ。
茶器もいろいろ置いてあった。販売用の茶碗もたくさんあった。

淹れてくれたお茶が美味しかった。
私は酒も好きだが、世の中で一番美味しい飲み物は緑茶だと思っている。
それを告げたら、「おお。そういうこと言われたらもっとええのを出さんとな」と
別なお茶を用意してくれた。

色からして普段俺が飲んでるようなのと違う。
なんでも、品評会で特選を取ったお茶らしい。玉露ですね。八女だそうです。

マニアックな味~。う、うまいし・・・。
この独特の渋みはなんなのだろう・・・。香りといい味といい、こんなお茶、
今まで飲んだことない。
それに一般的な会社の給湯室などとは違う淹れ方していたよ。
逃さずに見取り稽古。もらったぜ。
それと、急須の茶渋というのは、ことさらに洗い落とさなくてもいいのか。
おいら、知らんから、これでもかっ!というくらいにビッカビカに新品状態
のようにいつも洗い倒していたよ(^^;
お茶は詳しくないけど、大好きだすよ。
日本の喫茶の文化というのはいいよね。
茶道は形式重点主義のようになってしまっていて、あまりなじめないけど、
今夜のこのようなのはとても和む。
御茶菓子もごく自然にスッと出してくださった。我らが食事に行ってる間に
用意してくれていたみたい。これまためっちゃ美味い和菓子だった。
形式ばらずに、こういう自然な触れ方での接待が本当の「おもてなし」の
ような気がする。
しばし、お茶を堪能。いや、それにしても美味い。

お茶屋の御主人は戦前の生まれだが、3名とも居合仲間なので、話は
自然と日本刀の話題になった。
御主人の蔵刀を見せてくれることになった。
お店から蔵の中の別室へ案内された。
途中通った中庭がああた、また風情ありすぎですがな。いわゆる日本庭園と
いうものですね。

別室へ。
きょえ~~!頼山陽の叔父の漢詩人にて儒者の頼杏坪の書ですがな。
ほんまもんの。

詩人渓流としては見逃せないけど、あたしゃ学がないのでまともに読めま
せんがな(苦笑

頼杏坪とはこんな人
同行した国語の教師は読んでたよ(笑
俺も駄目だね。日本人なのに日本語が読めない(苦笑

こういう方面では、昔、福山藩の祐筆の子孫の女の子がいて、埼玉の
女子高校生の頃に居合をやっていた。かなり可愛かった。
可愛いのはさておき、出る居合大会ほとんど優勝みたいな感じの子だった。
でも、名古屋の新陰流の女性に負けた時、なぜ負けたのかといった風情で
その新陰流の女性の試合を横で凝視して見取りしていたよ。あの姿勢には、
大分
年下だったけど学ぶところがあった。おいらはのほほ~んとその新陰流の
女性と対戦していたけど、録画されたビデオと写真でそれを知った。
やはり、不屈の闘志と研究心いうのは居合が武道である限り、不可欠だよ。
おいらはいつも「ま、なるようになるさ」だけど(^^;
先日もある車の助手席に同乗していて、路面凍結でかなりの距離(50m以上)を
まるで秋名のハチロクのドリフト失敗のように5回ほど連続で左右に真横になるくらい
振られて、そのとき「あ、俺死ぬかも」と覚悟を決めた。道はみ出して谷に落ちたら
アウト確実だったし。でも咄嗟に覚悟は決めた。俺はいつもそんなもん。
死ぬ時は
死ぬし、生き残る時は生き残る。瞬間的に死を覚悟することは
結構普通にある。
結局、谷には落ちずに、コンクリートの側壁にドッカ~ンで済んでどうにか命は
つないだ。また拾ったぜ(笑
車はJAF呼ばないとニッチモサッチモいかないどうしようもない状態だったが、
まあ、死ななかったので
オッケ~!
運転していた人も死ななくてよかったね(^^
刀買えるほどの修理費かかるようだけど、命あってのものだね、ってやつさ。

今の時代、命あるに越したことぁないよ。いいもんだよ、今は。侍の時代なんて、
「腹を切れ」の上からの一言でスッパリやらないといけないし、上から言われなく
とも事と次第によってはスッパリと自分で決してやる必要がある。それでなくとも
外に出たら家に戻るまでいつ死んでもいいように心がけていないとならなかった。
日々生きていることに命がけというのが武士の当然だった。武士は不死(ぶし)だった。
死をいとわないという属性と精神性を具備しなければ存在自体が成り立たないもの
だったからこそ普段の命も大切にした。それは卑怯臆病に逃げることで生き残るの
ではなく、生きるために死を乗り越えて生き残ろうとした。「一所懸命」で主君と家族
一族を護るために命をかけた。つまらん面目の為ではない。上から目線でつまらん
人生訓を人に説いて「武士道」なるものを宣伝して金儲けをするためでもない。
「一所」を護るためだ。武士は武士の道が当たり前であるので、ことさらに武士だ
武士道だなどとは言わない。当たり前のことは親から、その親はさらに親から
連綿と躾けられてきた。根幹は「死生観」がどうかの一言に尽きると私は思う。
ただし、家を出て帰るまではいつどこでなにかによって死ぬかもわからない。
死を常に身に置くのは現代も主体の在り様としては同じだと思う。別段過去の武士
に限ってのことではない。夜寝て朝起きて、生きていられたら、それはたまたまの
ラッキーなのだと私自身は思っている。私自身が思うことであって、こういうことは
武士道などと結びつけて人に心構えとして説いたり強要したりするものではないと
私は思う。「自分がどうあるか」だけのことだ。それこそまさに独立自尊の武士たちの
アイデンティティではなかったろうか。

さて、その福山藩祐筆の子孫の女子高生は、その後、やはり書の道に進んだ
ようで、筑波大大学院に進み、現在は書家として映画『トリック』などの書の監修
をしたりしているようだ。
いや、可愛かったよ~。名前も素敵な名前だった。居合もつえーし(笑
おいらとは歳が一回りほど違ったけどね。いい居合を抜く女性だった。
実は東北の
大会で私と遠景のツーショットの写真を持っているのだが、公開など
しない(笑

福山藩といえば、おいらの母親が元福山藩の藩校だった高校の卒業生だった。

蔵の中の別室で、蔵刀を拝見。
無造作に出てくる出てくる(笑
これはほんのごく一部です。


一番魅入ったのは、やはり「三原」の刀だった。かなり時代がある。体配からすると
南北朝かな。これの
太刀拵が凄かったよ。時代はずっと下る作だけど、審査出したら
一発で紙が付くだろう。

ただ、御刀のほうは、南北朝時代に「三原」という土地も地名もないので、やはり
「備後刀」と認識する
のが正しいと個人的には思う。
お茶屋さんは戦前の生まれの方なのだが、尾道東高の卒業生で、剣道部だった頃、
よく試斬もやったようだ。その時の愛刀も見せてもらったが、末備前のいかにも実戦
向きの刀だった。出来も良い。剣道部の頃、その刀でも散々斬ったそうだ。今は
綺麗に研ぎ上げられて、新作だが立派な拵も作っている。

中学の時に初めて自分の刀を買ったそうだが、大学の時も刀は何口か東京に持って
行っていたそうだ。
美術刀剣も実用刀剣も差別なくお好きなようで、私はこういう
愛好家が本物の日本刀
愛好家のように思える。御主人は日本刀が子どもの頃から
大好きだったんだって。
でも、ボンボン扱いではなく、親御さんは「自分で買え」とのことで、中学の時に御家の
手伝いをアルバイトという形できちんと契約支払関係を結んで、それで
コツコツとお金
貯めて初めて自分の刀を買ったらしい。偉いよね。修行中の身なのに
親の仕送りで
暮らしてそれでやる気見せずに全然うだつが上がらない体たらくの人も
いたりするのに。
やはり、やる気!本気!その気!だと思う。ガッツないと何事も
到達点には至らない
と思える。


他にも、ご先祖から伝わる御刀とかもいろいろ見せてもらった。
特徴的なのは、拵に使用している金具類が確かな時代物ばかりだったことだ。
やはり御店の御主人は違うのお~。センスもいいのよ。なんというか、キンキラキン
ではなく、渋めのいい~ところでまとめている。こういうのはお茶の世界からくる
感覚的なものかしらね。趣向が上品です。私も拵を作るならば、こういう方向性で
まとめたいなぁと勉強になった次第。

たっぷりと堪能して、御礼を述べて同僚と外に出た時、雪が降ってきました。
三原なんかよりもずっと古い町尾道を後にして、私は一路三原城のほとりに
ある我が家へ。
う~ん。眼福至極でござった。
日本刀は観ているだけでも幸せになれる。
本物の刀鍛冶って凄いよ。人斬り道具を超えて、観ているだけで人を幸せにできる
物を造り出すのだから。
そして、完成までに携わる日本刀の職方がまた凄い。
感動は時代を超える。

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赤色文化 ~古代の日本人とハヤトの蛇行剣~

2014年01月20日 | 文学・歴史・文化・科学

赤色文化といっても共産主義のことではない。
古代における緋(あけ)の赤色の文化のことだ。
ヤマトに抵抗したハヤトの文化が興味深い。
生物人類学的な意味での「大和民族」というものは存在しないが、
日本人の中でも北方系モンゴリアンと南方系部族は民族が異なる。
九州南部では「ケツの青いガキ」というものが存在しないことが
多くある。民族が北方系モンゴリアンではないのだ。新生児において
蒙古斑のパーマークは臀部に出ない。

ハヤトはクマソと同族ともいわれるが、明らかではない。

海外のいろいろな地区から列島に移住した人々によって日本列島
にはクニが作られていった。原初においては部族同士こそがまさに
クニの単位だっただろう。
やがて一つのクニが周辺を習合させて巨大政権となっていく。
ただし、われら倭国が形式上統一されたのはかなり後世のことで、
「日本」という国名を自称しだした7世紀の律令制導入以降も、
国内の各地で「反乱」(ヤマト側からの呼称)は継続された。
日本が日本として完全に統一されたのは鎌倉時代以降といえる。
ほんの800年前のことなのだ。
国体どころか朝廷が真っ二つに割れて天皇が二人いた時代が数十年
程あったが、「日本」はそれ以前から存在した。
「国」は、我が国においては、太古から統治機構としての朝廷を超える
存在ではなかったか。
日本の「国体」とは一体なんであるのか、私にはよく分らない。
古代の親政時代を除いて、日本はずっと象徴天皇制だったように
思える。
とりあえず、右にろ左にしろ、自論の政治主張のために天皇を利用する
ことは私は極めて好まない。
神輿にしたり打倒対象として天皇を持ち出すのは、左右を問わず、
天皇の「利用」に他ならないと確信している。
天皇制打倒を叫ぶ人は、今の天皇に何か悪いことをされたのか。
また、天皇崇拝を叫ぶ人は、今の天皇に何か良いことをされたのか。
今は天皇親政時代ではない。
直接的に自分たち人民の殺生与奪に天皇が関与しないのに、盲目的
崇拝や打倒対象に天皇を持ち出すのはどうしてなのか。政治主張により
自己安寧を確保しようとする「利用」ではないのか。
本当は、そうした私心、私的思念を超えたところに「天皇」がいるのではなかろうか。
という漠然とした疑問が私にはある。
(「天皇制」は別な次元の問題)
だが、日本人は常に「天皇の名において」と大義を拵えようとしていた。
「利用」ではないのか。
自分が決めて自分の責において言動をなすのではなく、大義を動員
する時には「天皇」を持ち出す。武家も公家もずっとそうだった。国を
実効支配するにも「宣下」を得て「お墨付き」を前面に出した。
治めそこなった責はどこへ行くのか。なんだかとても違和感がある。
天皇が神であるならば神をも利用し、人であるならば他人を自論のために
利用することになる。
どちらに転んでも、違和感がある。
その心根に私は「正義」を見い出せない。


ハヤトについてはハヤトの剣である「蛇行剣」についての解説も興味深い。

<ハヤトの「蛇行剣」について風土記説話との関連>
『播磨国風土記』の説話との関連を指摘する研究者もいる。讃容郡の
条の話には次のようにある。天智天皇の頃、仲川の里に住んでいた
丸部具(ワニベのソナフ)と言う人が、河内の兔寸(トノキ)の人が
持っていた剣を買ったが、一家の者全て死に絶えてしまった。その後、
里長の犬猪(イヌイ)が具の跡地で畠を作っていたら、この剣があった。
柄は朽ちていたが、刃は錆びず、「光、明らけき鏡の如し」であった。
犬猪は怪しみ、家に帰って刀鍛冶を呼び、「その刃を焼かしめ」たところ、
「この剣、申屈(のびかがみ)して蛇の如し。鍛人(かぬち)大きに驚き、
営(つく)らずして止みぬ」。犬猪は神性のある剣と思い、朝廷に献上
した(天智紀即位前記に播磨から宝剣献上の記載がある)が、天武天皇
の時に元に返され、今は里長の宅にある。
この剣を購入した為に一家が全滅した事、再度熱したら蛇の如くなった
事、朝廷に献上したが、戻ってきた事が語られている。7世紀末の出来事
としているが、現在、出土している蛇行剣のほとんどは錆びた状態である
(柄がないものもある)。科学的に説話を考察するのであれば、クロムメッキ
加工の剣であれば、錆びにくいが、古墳時代の日本にクロムメッキ製の
刀剣を造る高度な技術は存在しない。遵って、あくまで神性を高める為の
話と考えられる。いずれにせよ、蛇の如く形状をした鉄剣を神聖視していた
事は分かる内容である。考古学者である石野博信は、日本神話に登場
する十柄剣についても、蛇のような動きをしたと言う文法上の表現から、
古代日本において蛇の形状をした剣が神性のあるものとして認知されて
いた事を語っている。


居合史料と古代製鉄素材

2014年01月19日 | 文学・歴史・文化・科学

刀剣展に同行した剣友から、居合史料をいただきました。
わざわざ私のために写しを作ってきてくださったようです。
ありがたや、ありがたや。



昭和五十三年(1978)の書ですが、貴重です。
(なんだか字がめっちゃ綺麗)
私が高校3年の時ですね。
う~ん。私は受験勉強そっちのけで、米屋のおにぎりを堪能していた頃だ(笑

中身は英信流の要諦について書かれています。直伝英信流の
本物の宗家の伝。



字が上手いなぁ・・・。

さらに、こんなものも頂きました。剣術居合の基本中の基本が
まとめられています。これもイイネ!


貴重な頂き物です。深謝いたします。
ありがとうございます。

餅鉄についても研究を進めたい。
餅鉄は岩手や新潟で採れますが、古代製鉄においては砂鉄以前に鉄鉱石が
使用されていたのは確実で、特に中国地区は分水嶺から南側は鉄鉱石に
よる遺跡が多い。多分、三原の沼田川流域でも餅鉄が採取できる筈と私は
睨んでおり、今年の夏はウェーダーを着て沼田川の中流域から上を大型
磁石を持って遡上してみようと思っています。
沼田川で餅鉄が発見できたら、ひとつの話題提供になると思う。多分弥生時代・
古墳時代の遺跡が集中する地域に餅鉄が存在するのではなかろうか。
日本刀関係者は「日本刀の原料は砂鉄」という固定観念を捨てませんので、
中国地区といえば「赤目(あこめ)砂鉄」のズクと頭から決め付け、更に餅鉄等の
鉄鉱石使用の日本刀用材料の還元製鉄に至っては、真砂ケラ優位主義者は
「フン」と鼻で笑う感じです。
金属特性としては、真砂砂鉄は酸性岩類の花崗岩系を母岩としてチタン分が
少なく、赤目砂鉄は塩基性岩類の閃緑岩系を母岩としてチタン分を多く含みます。
主として真砂はケラ押し法の直接製鋼で還元され、赤目は銑鉄を作るズク押し
法で還元されます。
銑鉄は炭素量が高く、溶かしやすいので鋳鉄として鋳造鉄器用に使われたり、
脱炭させて(サゲ)、刃物や日本刀の原料鋼に加工されました。
現在、真砂砂鉄から赤目砂鉄、餅鉄まで日本刀原料として研究実践している
現代刀工は備前長船の上田祐定師くらいではなかろうか。
吉備国備後地区の古代遺跡からは砂鉄以前の痕跡が検出されています。餅鉄
やリモナイトは三原沼田川流域にある、と私は読んでいます。(もうほとんど山師)
江戸期にも刀工の材料記録を見ると「三原鉄」というものがあった程で、現在、
近代製鉄炉遺跡の場所は詳らかではないが、三原地域でも砂鉄もしくは餅鉄
から小規模製鉄が行なわれていた可能性はある。

沼田川の中流域。ここが中世までは河口付近だった。三原市内から
ほんの10キロほどの里川領域でこのような渓流のごとき景観を保つ。
沼田川は天然アユが遡上することでも有名で、ちょうどこのあたりは
アユの恰好の漁場・釣り場となっている。川の石は赤い。

日本最古の製鉄遺跡のひとつ、広島県世羅郡世羅町のカナクロ谷
製鉄遺跡(古墳時代後期、6世紀後半期)から出土した含マンガン
磁鉄鉱(左)。このような製鉄遺跡の発掘調査によって、古墳時代の
製鉄原料は鉄鉱石であり、飛鳥時代以降、砂鉄に依存していくように
なることがわかりました。右は現代の磁鉄鉱石。考古 学研究室の
学生達が焙焼して水冷し、細かく割ったもの。(広島大学サイトから引用)


カナクロ遺跡(世羅=三原市北部に位置する郡部にある)


餅鉄も価値を感じない人にとっては、ただの重い石。
「オモイカネ」とは、もしかしたら、餅鉄などの鉄鉱石のことではなかったろうか(笑

まあ、砂鉄というのも鉄鉱石が風化したものなんですけどね。
砂鉄以後のほうが「良い鉄」であることは解っています。製鋼過程や
加工性の上でも便利だというのは。ケラ絶対主義にとっても。
ただし、作った物が良いかはどうかは別問題。砂鉄以前の物を還元させて
作った「悪い鉄」のほうが、加工後の製品が良い物ができたりする(した)
ことがあるかもよ(笑
金属の強靭性確保には、含有元素としても勝利のVが欲しいところ(笑
って、突き詰めると金属としては合金鋼のほうが和鋼よりは優れている
のだけどね。和鋼神話が未だにあるのが不思議。
ただし、日本の伝統技法を再現するならば和鋼で再現するのはまっとう
だろうと思うが、なにがなんでも和鉄最高!てのはちと大外しだと思う。
それでも、和鉄はまとめるのが困難だから面白いし、過去と未来をつなぐ
可能性への挑戦がある。
しかし、販売されている玉鋼だけに甘んじるならば、鉄味は皆金太郎飴に
なってしまう。


徳少なき私ですが、みなさん本当によくしてくださいます。
心から感謝しております。
大切にします。


刀剣展 ~三次風土記の丘 みよし歴史民俗資料館~

2014年01月19日 | 文学・歴史・文化・科学



広島県北の「みよし風土記の丘」にある「県立三次民族資料館」にて開催中の
刀剣展を剣友と二人で見学に行きました。

資料館に入る前に昼食。
市の施設なのだそうですが、なんとカラオケ喫茶(笑)




駐車場の脇には古墳(移設復元)があります。
この「みよし風土記の丘」は、膨大な数の古墳が並ぶ古墳群の中に作られています。








食事も終え、これから資料館に向かいます。

受け付けで尋ねたら、一般展示は撮影OKですが、刀剣展のみは
撮影禁止だそうです。

一般展示でも大変興味深い展示だらけでした。
そのごく一部を紹介します。

まあ、私の興味はこのあたりから古墳時代末期までなのですが・・・


広島県の遺跡分布についてまず大変興味を持ちました。


縄文はともかく、弥生時代の遺跡、古墳時代の遺跡、飛鳥時代の遺跡について
三原・尾道地区がどのような状態かに注目しました。
私の想像通り、三原の沼田川中流域(中世までの臨海地域)に弥生時代と
古墳時代の遺跡が圧倒的に集中しています。


一方こちらは三原の東の尾道地区ですが、飛鳥以降の遺跡が集中しています。

傾向として、尾道は飛鳥以降の遺跡が多く発掘されているのに、三原沼田川
流域(中世まで臨海地域)は縄文から弥生・飛鳥までの遺跡が連綿性を帯びて
発掘され、特に弥生時代の遺跡が集中していることが見て取れます。

この傾向が見られるのは、広島市内太田川流域と三原地区に限られています。
このことは、「倭国に何かが起きた弥生時代にこの地区に集中すべき合理的な
何かが
あった」ことを、歴史事実を類推的に援用して推測するに十分です。
私は古代製鉄、しかも河川と密接にあらずにはおれない形態での古代製鉄
が弥生後期~古墳時代にかけてこの沼田川と太田川の流域において
なされたのだろうと推測しています。
また、県北の庄原三次地区には古墳時代の遺跡が圧倒的多数を占めます。
そして、その後の飛鳥時代は尾道が飛び抜けて遺跡が多くなる。
これは古代うち、弥生時代には何らかの重要なことがらが現三原沼田川
中流域(中世まで臨海地区)と広島市内太田川中流域(中世まで臨海地区)で
起こり、その後の古墳時代までそれらはその痕跡を残すが、古墳時代のある時期
から県北にその中心が移動し、さらに律令制が始まる飛鳥時代には
尾道に中心部
が移る、ということを示しています。

これは「古代製鉄とヤマト中央王権との関係の遷移」がそこに存在する可能性が
極めて高い。
三原地区においては、ヤマト王権の律令制開始にかかる白いピン=飛鳥遺跡は
中世に開始されたという「ちんこんかん」という祭り(様式そのものは赤鬼が赤い
衣装で登場し演舞する古代王権統制史を彷彿させる物。祭り発生以前にこの地に
なんらかの伝承なり風習を残存させる風土があったと思われる)の地区にピタリと
重なります。さらにここは古代の支配-被支配の衝突地であると思われ、現実的に
被差別民が集団居住させられた地区でもあり、全国各地の鉄器をはじめとする
製鉄文化と密接な古代王権の征服の歴史を刻む地との共通項が多く見られます。


各地から出土した各時代の鉄器も豊富に展示されていて、とてもすべてをご紹介
できません。


こちらは銅鐸と銅剣・銅鉾。


これは江戸期のたたら遺跡。


古墳からの出土品の鉄器がとても多いのが勉強になります。


携帯の感度が悪く、色が変ですが、肉眼で見たら赤茶色の錆色です。


完全な内反りの鉄刀です。「直刀や古代刀の内反りは研ぎ減りによる」とする
一部の説を覆すかのような人為的に製作過程で意図的につけた内反りに
見えます。


ここ「みよし風土記の丘」では無数の方墳・円墳・四隅突出墳が発掘されて
いますが、前方後円墳は一基のみです。とりわけ円墳がまるで広大な墓地の
ように連続している。このような並びは見慣れたヤマトの前方後円墳の古墳群
とは異なる配置です。

俯瞰模型(西側)


円墳部分を点灯で表示。古墳群というより、墓地群のような印象です。


俯瞰模型(東側)


円墳を点灯で表示。とんでもなく広大な領域に古墳群が存在します。

この地の古墳からは素環頭大刀(かんとうだち)も出土しています。


さてここからが少し(かなり)問題あり。
この古墳出土の古代鉄刀(環頭大刀)を製鐵から再現製作しようとして
いるのですが・・・学術研究の一環として。


「古代製鉄再現」と「素環頭大刀復元」の両面刷りのチラシを紹介します。
まず、「古代製鉄」なるものから。





問題はここ。古墳時代に箱フイゴが存在したのですか?
遺跡から出土しているのですか?革フイゴではなく?
古墳時代ですよ、古墳時代。
『倭名類聚抄』(930年代)でさえ鞴の訓を『ふきかわ』と
読んでいたのに、革水筒のような送風装置でなく、手押し
の箱フイゴ?
これは鎌倉時代にちょんまげが出てくるくらいに面妖な
ことではないだろうか。この図はさすがに「想定外」だ。
これを展示してるということは、京都府埋蔵文化財調査
研究センターも広島県立三次民俗歴史資料館(=広島県)
も古墳時代に手押し箱フイゴが存在したと認めている
ことになります。
さて、『倭名類聚抄』(10世紀)の「ふきかわ」が後に「ふいご」
の読みに変化したというのがこれまでの説だったが、それより
500年以上昔に手押し箱フイゴが存在したという根拠は何なのか。
こういうことが平気でまかり通るから、たかだか200数十年前の
日本刀の製作方法を「古式伝統」として、あたかも古代からの
製法であるかのように振る舞う「公的機関」の厚顔があるのだと
思わざるを得ない。そして、古墳時代に「烏帽子」は存在したの
でしょうか。「大八車」は古墳から出土したのでしょうか。薪を背負う
「背負子(しょいこ)」は古墳時代に存在したのでしょうか。製鉄場
に掘立の柱のある建造物が古墳時代にあったのでしょうか。
あまりにもこの「想定図」はひどすきはしないか。これはどう見ても
「古代」から800年以上後の時代の図でしょう。荒唐無稽すぎる。
箱フイゴのイラストは、堀江有聲の『金屋子神図』の悪影響というか
無思慮な模倣と思われる。



今度は「素環頭大刀(そかんとうだち)」の復元について。


復元させる刀工は全日本刀匠会会長の広島の三上刀工です。
まさか・・・新刀特伝工法で皮鉄で芯鉄を巻くなどという工法は
していませんよね・・・。
テコ鉄などというものは、まさか使っていませんよね・・・。


この現代作の現物を8年ほど前に熟視したことがあります。
なんというか・・・現代刀です。典型的な。


さて、「再現」とうたっていますが、三上刀工のこの「素環頭大刀」は
出土した素環頭大刀とは材料や製法以前に大きく異なる点があります。
それは出土した実物の素環頭大刀は、環頭部分が刀身とは別パーツで
作られているのに、「再現大刀(たち)」は共柄のように中心と一体化
しているのです。
(出土品実物)


(「復元」品)


さらに、「復元」品は、なかご部分と刀身部分の境目に虎徹肌のような
肌が明瞭に出てしまっています。このことが何を示すかは、日本刀に
詳しい方なら判断できることでしょう。

かつて、国内でとても有名な現代刀工が「大山祇神社に奉納されて
いた源義経の太刀にとても感銘を受けた。それを再現する」という
TV番組がありまして、その刀工はまったく新刀の製作方法で刀を
作って「義経の太刀の再現」としていました。姿は平安末期の源平期の
義経奉納の太刀ではなく、まったくもって現代刀そのもの。
「ああ、これが日本を代表する、つまり世界を代表する現代日本刀の
現代刀工の感性なんだな」と思い知りました。
平安末期の刀剣でさえ日本のトップがこの認識です。さらに遡る古代を
考察するにもこのような認識の上に立って学術機関と共に不明を恥じる
ことなく暗愚を定式として押し通そうとする。
そもそも、古墳時代は、砂鉄を使って、箱フイゴで強力に送風したタタラ

製鉄で作った鉄を素材としていたのでしょうか。
仮に弥生時代のように赤色の文化を創出したベンガラ(リモナイト)などの
褐鉄鋼、湖沼鐵からの製鐵や、鉄鉱石である餅鉄等を原料とする製鉄
ではなく、原料が砂鉄であるとしても、少なくとも、現代のように磁石で
収集した砂鉄である筈がありません。なぜ河口に土砂が堆積し陸地を作り、
農村に甚大な被害をもたらした大蛇のような「赤い川」となったのか。
磁石で砂鉄を集めていたならこんなことは起きませんでした。

さて、「古代製鉄再現」の実験でできた鉄と出土鉄が展示されていました。
(実験鉄)










(出土鉄滓)






残留滓はノロの溶け込み具合が異なるのではないでしょうか。
ノロそのものが質が異なるように思えます。

ところで広島に「野呂山」という山がありますが、産鉄と関係あるので
しょうか。


日本に製鉄技術をもたらしたのは大陸半島の渡来人であることは
確実視されています。
「狛犬は高麗犬であり、空海を案内したように、鉄の道に導く案内者では
なかったか。そしてある時に犬は狐となった。稲荷、赤い神社、八坂、天神、
反中央勢力・・・。狐は稲荷と密接不可分の化身であり、小鍛冶宗近を
介助した。そして、そこが三条である。三条、粟田口、ここは都ができた後に
被抑圧階級の賤民が集団居住させられた場所である。」
というのが私の考察です。
古代製鉄を考察するには、古代からの人民統制史の変遷も十分に考察して
それら国内統治体制がどのように製鉄文化や階級統制の遷移と関わって
来たかを見ないとだめで、製鉄の鉄だけ、あるいは鉄器だけ、刀だけを
見ていたら絶対に見えてこない「何か」がある筈です。

製鉄については、「古刀再現」が一度「新刀特伝」を離れる必要があるように、
一度、この製鉄方式の概念から離れる必要があるのではなかろうか。

タタラ製鉄。

本日見学した資料館には、こんな表示もありました。


古代産鉄地区である広島県内の古墳から出土したものに「カマド」が
あります。
また、渡来人の文化に「カマドを神聖視する」というものがありました。
(「カマト」複製展示物/三次歴史民俗資料館)


(出土品)




この広島県の古墳から出土したカマドは朝鮮式ですが、インドの製鉄炉
にも非常に形状が似ています。
日本の古代製鉄の大元ルーツを北方系ではなく、南方系に求めることも
できるということです。経路としては、インドから大陸経由で半島を経て
倭国にもたらされたのではないでしょうか。
(インドの製鉄)

日本の製鉄のルーツと関連か(この画像はインド)。


同じくインドの製鉄。

このインドの製鉄窯と同じ独特の形状の土器は実は日本で発掘されています。
今のところ「使用目的不明」とされていますが・・・。

この土器は播磨から東に位置する三田(さんだ)市三輪・宮ノ越遺跡
から出土したものです。

これと同様のものが播磨地域(兵庫県加東市社町)でも出土しており、
丹波篠山でも3点出土しています。
この出土物は鉄を吹くためのインド式製鉄炉と酷似しています。

また、一方で、製鉄と土器製作は切り離せません。土師器に近い備前焼の
緋が自然釉の影響下にあるように、鍛接性向上のためには、炉内で自然釉
である物質が生成されており、製鉄と土器製作は共通の技術体系にあるから
です。
日本の古代製鉄に関しては、このような自然通風と煙突効果を利用した
登り窯利用の製鉄についても、切り捨てずに、再度考察をする必要があるの
ではないでしょうか。




どうにも「固定的」に幕末工法から一歩も抜け出そうとしないまま、学術的にも
製法的にも、「古代製鉄」、「古代鉄剣の再現・復元」をしているように思えて
なりません。
古墳時代に手押しの箱フイゴというのは、参った。あったのですか?本当に?



さて、これ以降、刀剣展の展示場に移動しますが、刀剣展は撮影禁止でした。
三原物があれほど展示されていたのは見たことがありません。
とても勉強になった。
一番個人的に良かったのは二筋樋があった南北朝時代の青江物でした。

私の横に外国人がいて、歓びながらカメラで撮影しようとしていましたので、
英語で「どうぞ撮影はお控えください」とその人だけに聴こえるように言いました。
容貌を見るとエスパニック系でしょうか。(以下会話はすべて英語)
すると「はぁ?」と訊き直してくるので、もう一度申し伝えました。
すると、「東京の中央博物館(東博のことか?)では侍ソードを沢山見た。
すべて撮影が可能だったのになぜだめなのか」と問い返してくる。
「知るか」と思いましたが、とかくアルファベット圏の外国人は「理由」を明確に
することを求めます。規則とかそんなことは関係なく、大切なのは自分が納得
するかしないかです。
私は「理由は知りません。ただ、ここでは写真の撮影は許されていません。
私も撮りたかったのだが」と答えた。
すると、今度はスマホの音声翻訳機能でゆっくりとした英語を吹き込み「東京
中央で私は撮影した」と表示して私に示します。「(おまいさんの言ってることは
解ってるってば。おまいさんがおいらの言うことを理解しようとしないだけだろ)」
とよっぽど言ってやろうと思いましたが、喧嘩しても仕方ないので、再度
「そうですか。でも、ここでは撮影禁止」と言いました。中国人のように大声ではなく、
目を見ながら静かに。そこでやっとこさ渋々了承したようです。
多分、想像ですが、刀剣はすべて資料館蔵ですが、夥しい数を展示している拵や
金具類は個人蔵ばかりなので、その問題から撮影禁止にしているのでしょうが、
パーハップスこれらはビロング・トゥーだれだれでリーズンはよく知らんけどそう
みたいよ、とかの説明はメンドッチので言いませんでした。
よく分らんことを想像で説明するのは無責任ですし。
余計なことですが、パブリックな場所での禁止事項なので、日本人として注意した
のですが(外国人だろうと日本人だろうと注意します)、最低限英語やスペイン語
などで「ノー・ピクチャーズ・アラウド」の表示をしておいたほうがよいと思いました。
日本語での説明表示もなかったから、知らない人は撮影してしまうのではなかろうか。

午後2時から「山中念流」という古流剣術居合(?)の宗家と一門の展示演武を拝見
しました。
なかなか所作は形式化されて整備されている居合剣法のようです。能みたい。

期間中にまた行こうと思う。今度は1口について15分ほどは見るようにしたいと
思ってます。
いろいろな刀剣展がありますが、こうも備後三原刀が並ぶのは私個人としてはとても
勉強になりました。特に末三原物が多かった。これはこれで参考になります。末三原
はいわゆる古「三原」(「三原」という地名も陸地も鎌倉南北朝時代には存在しませんが)
とは鉄が異なることも知ることができました。青江の太刀がありましたので、鉄味を
比較できたことも大変参考になりました。
同じ古刀でも、「古刀」は600年というように年代が長すぎるから、かなり時代によって
鉄も異なりますね。やはり戦国期は戦国期の鉄という物がある。なんだろうね。
私見ですが、
・平安~鎌倉
・南北朝~室町極初期
・戦国時代~慶長あたり+江戸初期延宝頃まで
・江戸初期~幕末前
・幕末~現代(除くWW2期間)
というように鉄に違いがあるように思えます。
私はどうしても「銘当て鑑定」ではなく、鉄のみを見てしまうきらいがあるのですが
(実は刃文もあまり興味はない)、時代の遷移に伴って鉄味が変化していくのが
とても日本刀を鑑賞していて面白い。なぜだろう、なぜだろう、という疑問がいつも
頭の中を駆け回っている。

三次で駐鎚した江戸期の横山祐秀(備前長船横山家一族)の作柄が、同行した剣友が
私の紹介によって三原で購入した後代祐定にそっくりだったので面白く観ることが
できました。幕末の刀工です。地鉄はやはり幕末地鉄ですね。
また、幕末の福山藩の藩工である横山祐義も長船の横山一族だと思われます。
こちらの刀は月末からの福山市新市での展示会で展示される予定です。
今回の「みよし風土記の丘」での刀剣展は、古刀が圧倒的に多かったのが良かった。
堪能しました。
昼食を取った喫茶店のママさんは「刀に詳しい方がいらしたけど『つまらん三原物
ばかりでひとつも面白くない』と言っていた」とのことですが、重文や重刀等の「刀剣
位列」に拘る人は面白くはないのでしょう。でも、そういう方は刀剣の何を見るのだろう。
金銭換算価値ですか?
今回の展示は、真面目な刀工の作ばかりで、私には十二分に楽しめました。
「三原だから下作」というのは、いかにもいかにもですね(笑
見る物も見られない目なのだと思います。目の色が¥や$色(笑
のように私には思えるけど。
たぶん、古墳出土の鉄剣も「ただの錆の塊」にしか見えないのでしょう。

ということで、私の車を置いた合流地点の尾道の「びんご運動公園」に帰りました。
家に帰ったら、大阪の古代製鉄研究者からある物が届いていました。


とんど焼き

2014年01月17日 | 文学・歴史・文化・科学



ある刀鍛冶のブログにとんど作りに駆り出されたことが
書かれていた。
私はとんどは古代製鉄と深く関わっていると思っている。
「とんど」を表す「左義長」「三毬杖」はギッチョの語源でも
あるだろう。
この火祭りは失われた古代産鉄民族とそれを制圧した
古代王権との血の歴史を心に刻む行事だったと私は
推測している。

なぜ日本の神社に赤系と白系があるかご存じだろうか。
最近、日本刀の最古時代、刀剣の原初ともいえる奥州月山
鍛冶に関して考察していたら、思わぬところで古代製鉄との
関連に気づかされた。知己の古代製鉄研究者による注目すべき
新発見だが、これは古代製鉄がどのように民間伝承や信仰と
結合していったかを指し示すものだった。

現在「古代製鉄復元」と称して各地で製鉄実験がなされているが、
大型送風装置を使ってたたらで砂鉄を還元させる方法で為す
製鉄は、古代といってもかなり新しい時代の再現であり、ヤマト
連合王権が鉄をめぐって全国を制覇していった王権成立と被
征服者たちのせめぎあいの時代の製鉄の再現ではない。
平安時代初期やせいぜい奈良飛鳥時代の製鉄を再現して
どんな意味があるのかと個人的には思う。
それらは日本で製鉄が開始されたのが6世紀というこれまでの
定説に基づき、学者が中心となって、あろうことか現代出雲の
たたら製鉄を模した様式で製鉄を「古代製鉄」と称して行なって
いる。できた鉄は現代鋼であり、介在物や含有物も古代の鐡
ではない。そもそも磁石で砂鉄を集めてくる時点で江戸期の砂鉄
にさえもなっていない。
だが、学者たちは江戸末期に確立された近代製鉄方式に拘泥し
続ける。それを「古代製鉄だ」と言い続ける。
このことは、少し専門的に考古学の世界で「古代製鉄」が今どの
ように研究されているかを知ればすぐにその愚行に気づく。考古学
の世界の愚行にだ。学術界では大誤謬が敢行されている。
だが、気づいても「言ってはならない」とされる。それが権威だ。
指摘したら消される。あらゆる発言の場を奪われる。そういうことが
「普通」に行なわれる。権威の権化たちに「人物」はいない。
学術界の権威などというのはそういうものだ。まず答えありき。
そしてその答えを証明するために実験をし、「証拠」を探す。
時には「証拠」は捏造される。旧石器に限らずこれまでも散々
「証拠」は捏造されてきた。一個人が捏造するのではなく、学者や
研究機関が捏造に深く関与してきた。ドロドロした汚濁のような汚い
世界が学術の世界だ。学術が汚いのではない。そこに住む学者
たちが人として汚いのだ。己の名誉欲しか存在しない。学術の
真理探究などはただの金科玉条でしかない。考古学歴史学に
とどまらず、学術界などはそういうものだが、医学界などがその
最たるものだろう。中には心ある人士もいるが、そういう人は
「中央」からオミットされたり、消されたりする。さも当たり前のように。
研究対象に「国家」が関わってきて触れてはならないタブーに触れると、
自分では望まない「自殺」が自分が知らないうちに突然やって来たり
する。これは小説の話ではない。

弥生時代から古墳時代に移る古代王権成立時代の製鉄の復元
研究をしないと「古代製鉄再現」とは呼べないと私は思う。
しかも固定概念まずありきのウソは無しでね。


私が下山国鉄総裁のように突然消えたら、CIAか八咫烏の陰謀だと
思ってください(嘘


『鬼の日本史』 ~書籍いろいろ~

2014年01月16日 | 文学・歴史・文化・科学


沢史生『鬼の日本史』

刀剣研究者にはおすすめの書です。上下巻揃えると7000円近くするけど、
読む価値あり。特に古代製鉄に興味のある方。

私の父は捕鯨文化の民間研究者だったが、歴史の研究家でもあった。
ある時、私が「良い書がある。ぜひご覧いただきたく」と父にこの『鬼の
日本史』の上下巻を見せた。
すると、書斎にいた父は「持ってるよ、それ」と答えた。
見ると、それはびっしりと書き込みのある出版されたばかりの『鬼の日本史』
だった。

これには二人で顔見合せて笑うと同時に、参った。
父の欠点(良い点でもあるのだが)として、どんな書にも書き込みをして
しまうことだ。
このことは私の居合の師匠(法律家)もそうで、どんなに高級な書籍でも
付箋を貼るのでなく、書き込みをしたり、ページを折ったりする。
私はとてもじゃないができないが、存外研究者というのは意に介さずの
面があるのかもしれない。
私などは、『邪馬台国と狗奴国と鉄』(菊池秀夫)を博多の軍刀研究者の
方から紹介してもらいお借りして、お返しした後、3冊を購入し、1冊は
先年亡くなった古代史愛好研究家の叔父に進呈し、残った2冊のうち
1冊は書内に所見記入用、1冊は読書用にしてページを広く開かない
ようにしている。書籍を大切にすることにはならないのかも知れないが、
日本刀に接する時と同じような過剰な扱いを私は書籍に対してする。


ただし、文庫本はボロボロになるまで詠み込む。ノベルはポケットに
入れてボロボロになってもどこでも読むものだと思っている。
それでも、『新選組血風録』(司馬遼太郎)などは、文庫本でも何冊か
持っており、「読書用」と「保管用」に分けている。『鬼麿斬人剣』(隆慶一郎)
もそうだ。

『新選組血風録』は新選組に関する逸話の短編集だが、文庫本は
出版社によって原本単行本と同じ風間完先生の挿絵が掲載されている
ので、かなり楽しめる。他の出版社は挿絵がなく活字も大きい物だった
りするので、それぞれの目的に応じて読者欲に満足を提供している
ようだ。

これは過日私が描いた風間完先生風のイラスト(万年筆画)



それと、ボロボロになるまで読みこんでいるのは『日本刀鑑定必携』
(福永酔剣)だ。これは編集や出版の体裁もよく考えられてるよお。
上質紙を使用して、カバー表紙も辞書のようなビニールにしてあるの。
私の同書などはまさに英和辞書や国語辞典のように閉じるとページの
先端が手垢で汚れている。
ああ、辞書というより、これは聖書に近い作りになっているんだ。まさに
バイブル。
私は聖書はいつの間にか持ち歩かなくなってしまったが、この『日本刀
鑑定必携』は大抵は持ち歩いている。

これは箱。箱は家の書棚に置きっぱなし(なぜか2冊あるが、
1冊は行方不明。本を貸す馬鹿返す馬鹿というやつ)

書籍本体の表紙の金文字はとっくに擦り切れて消滅(笑


しかし、表紙はビニール製で丈夫。まさに聖書か辞書。


日本刀に関して全網羅している本当に必携の書だ。
ナカゴの押形も膨大な数を収録している。安芸国大山
住仁宗重まで
掲載されてあったのには驚いた。


当然、寝た刃の合わせ方や山田流様(ためし)についても記載されている。

この書はホンマに刀剣愛好家にとっては必携の書なんだけど、
俺がすすめても「廃版で高いから」とか言って買わない人が多いんだよなぁ。
俺だったら刀剣のことを勉強しようと思ったら、名だたる刀剣書は食費削って
でも入手するけど。現実に独身の時に
俺はそうしたし・・・。

読書の楽しみ方は人それぞれだ。
「これ」という定式はない。
ただ、私の場合、専門書だけでなく小説も同じ書を何度も何度も繰り返して
読む場合が結構ある。

そこらあたりは、ストーリー展開だけを楽しんで読み捨てポイ捨ての
アメリカンノベルとは違う世界があるように思える。
特に日本文学に連なる作品は、繰り返して読む。
物語のストーリーも大切だが、細やかな表現描写に触れるのが私
個人は楽しい。
時代物では藤沢周平先生の作品などは、あれ、純文学でしょう、もう。
まるで福永武彦が描く世界のように思える。
藤沢作品は昔から好きだったが、1990年代に入り、一気に注目され
たのが嬉しかった。福永武彦は日本文学マニアしか知らないけどね(笑
でもですね、私が高1の時の学研だったかの全国模試の現代国語の
試験の長文テキストとして福永武彦が出たんですよ~。あれは嬉しかった。
福永作品は『廃市』が最高です。後年大林監督が作った映画『廃市』は
最低の最低だったけど(苦笑

文学なんてのは心が豊かになるだけで、ちっとも現実世界では家庭の
経済的な浮沈には関係がないけど、心が豊かになるというのは、貧すれば
鈍するというのも超えると思うよ。
うちなんて、本家継ぐまでは決して裕福とはいえなかったし。継いだ今も裕福
ではなけど(笑
どうにか一家離散せずに生きてはいる。
なんたって、本家継ぐ以前の核家族時代のうちのオヤジは、現金支給され
ていた月の給料を会社帰りに全額突っ込んで竿政のヘラ釣り竿を買っちまう
ような家だったからねぇ・・・。
四男だった親父は広島の本家を継ぐことになって改心したみたい(笑
ただ、オヤジに感謝しているのは、子どもの頃から読みたい本があったら
すべて買い与えてくれたことだ。一切「あれは読んではいけない」とかの
対応はせず、すべて購入してくれた。ちんぷんかんぷんの書でも「自分で
考えろ」と私が望めば買い与えてくれた。
あと、日本のマンガ文化に理解を示していたことかな。マンガを熱心に
読みあさる昭和ヒトケタというのも珍しいように思えた。
専門書(ほぼ歴史書と釣りと鯨)ばかりが並ぶ図書館のような亡き親父の
部屋も、私の娘が「ここは本が読めるからいいわ」と居心地よさそうにしている
のがなんとなく個人的には和む。

書籍に関しては、まあ、あれはいけないこれは駄目、というのでなく、幼い頃
から現実を見て見聞を広めることは必要だと思う。
時にはドラスティックなことに触れることも必要だと私は思う。
青少年保護は趣旨においては必要なものだろうが、過保護になったり、
「臭いものにフタ」式の教育をすると、あまり良い結果にはならないのでは
ないかなぁ。ユトリなどというのはそれの典型例のように私には思える。
でも、この件に関してかつて家で家族で議論していたら、当時15歳だった
娘が反発していたよ。「ユトリ世代もそうでない世代も、本人たちはそれを
選べないのだから、一括りにして語るのはどうか」と。
これは娘に一本取られた。
その通りだ。


映画『武士の家計簿』

2014年01月15日 | 映画・ドラマ・コミック




■内容・ストーリー
代々加賀藩の御算用者(経理係)である下級武士の猪山直之(堺雅人)は、
家業のそろばんの腕を磨き出世する。しかし、親戚付き合い、養育費、冠婚
葬祭と、武家の慣習で出世の度に出費が増え、いつしか家計は火の車!
一家の窮地に直之は、“家計立て直し計画”を宣言。家財を売り払い、妻の
お駒(仲間由紀恵)に支えられつつ、家族一丸となって倹約生活を実行していく。
見栄や世間体を捨てても直之が守りたかったもの、そしてわが子に伝えようと
した思いとは――。世間体や時流に惑わされることなく、つつましくも堅実に
生きた猪山家三世代にわたる親子の絆と家族愛を描いた物語。
■キャスト・スタッフ出演:堺 雅人、仲間由紀恵、松坂慶子
監督:森田芳光
■2010年松竹 (GyaO!より)


GyaO!にて『武士の家計簿』を観た。

う~ん。映画としては可もなく不可もなくといったところか。
森田芳光監督作品らしいといえばらしいが、パンチがないぞ、日大全共闘!(笑
なぜ死んじまった(><)


この映画で特筆ものは、主人公猪山直之の妻駒を演じる仲間由紀恵さんだ。
台詞まわしがめちゃくちゃ巧い。声のトーン、発声、どれをとっても素晴らしい。
まず最初の台詞は「あなた」だったが、この第一声目でズドン!ときた。
劇中でも仲間さんの台詞まわしが冴えわたっていた。この人、こんなに演技派
だったのか!
潤いのある声質で、抜群の台詞回し。本物の女優だ。これは良い発見をした。
『トリック』とか『ごくせん』だけ観てたら見逃してたよ(笑
普段トーク番組等で話しているトーンとも異なるので、役者魂を見せつけられた。
これにはやられた。頭を金ダライでガ~ンと殴られたような衝撃を受けた。

映画の出来そのものよりも、この『武士の家計簿』は仲間由紀恵さんの演技を
観るような作品といっても過言ではないように私には思えた。凄いよ。
映画自体の作りと詰めは甘い。俳優陣の演技が良いだけに、どうした森田?と
いう感じがとてもするのが惜しい。
もし、近い将来、小説『いっしん虎徹』が映画化されることがあるとしたならば、
虎徹の妻ゆきは絶対に仲間由紀恵さんに演ってほしいと思った。名前が一緒だから
というのではなく(笑

でもあの名作小説はマニアックすぎるので(刀鍛冶の鍛冶シーンがほとんど)、
実写映画化は無理か(笑
刀のことよく知らない監督あたりが現代刀工の仕事場で撮影したりしたら
作品台無しだし、「原作を超える映画作品は稀有である」というのを証明する
にとどまるだろうし。


ただし、どうしても、『武士の家計簿』では納得のいかない描写シーンがあった。
猪山家の借金がかさみ、家財をすべて売却して借金返済にあてることになった。
その際、猪山家七代目当主の中村雅俊が自分の差し料の脇差も道具屋に
売ろうとする。
その時、道具屋は「ほう。ほう・・・。これは加賀の兼若の物ですなあ」と言う。
加州辻村兼若は、加賀百万石の家中では、「兼若作の刀を持っている武士ならば
どんな軽輩でも娘を嫁に出してもよい」と言われたほどの逸話があった。
プライドが高い百万石の家中ばかりの加賀ならではの逸話だ。

それほどの名刀中の名刀を所持するだけの武士の表道具の目利きができる男ならば
娘をやるにおいて身分格式など構わない、という加賀武士の心意気を表したもの
でもある。


ところが、その兼若を手放そうとする場面で、道具屋は刀の中身を見ずに外装の拵を
鑑定しながら「
これは兼若の物」と言うのである。
これはあり得ない。どう転んでもあり得ない。拵の金具を検分しながら刀を兼若と
断定しているのである。このシーンはいただけなかった。
もしかすると、シナリオでは「兼若・・・ですな?」と確認するニュアンスだったかも
しれない。しかし、役者は断定口調で台詞を口にしている。森田監督のOKが
出ているテイクなので、このシーンはトホホだと私は思う。


とにかく、仲間由紀恵さんの演技に注目の映画だ。飛び抜けて良い。
画面を見ずに、音声だけを聴いていても、中間さんの台詞がすべての
シーンで物凄い。芸術的だ。
これは良い発見をした。
動作としての演技だけではなく、台詞で観客を魅了する俳優。役者の原点
の演技を見るような感銘を受ける。


(このシーンでも仲間さんの台詞まわしが素晴らしい)

映画の出来自体は、賛否両論別れるような作り込みになっていると思う。
ただ、仲間さんの演技に注目するだけでも価値のある作品です。
凄いですよ、ほんとに。


映画『続・黄金の七人』

2014年01月14日 | 映画・ドラマ・コミック



無料動画サイト、GyaO!で『続・黄金の七人』(1966)が配信されていたので観た。

いや~、42年ぶりに観たよ。なつかすぃ~。
これは『黄金の七人』(1966)の続編なのだが、今観ても面白い。
『黄金の七人』は1972年4月の水曜ロードショー開始の第一回目の放送で放映
された。小学校6年の時だったが、映画にはまりまくりだった
ので、もちろんその
放送を観た。その後の『続~』も観た。筋とシーンは克明に覚えているが、今回観て
みて、ほぼ記憶通りだったことが分かった。まぶたに焼きつく、というのは本当に
あるんだね~。数値に表せない人間の脳の妙だね。
そういえば、40年以上前の人の顔や声も克明に記憶しているが、そういうのも
数値では表せないものね。なんというか、ボヤ~ンとしたものではなく、カシャッ
カシャッという細切れの何億枚もの1枚1枚のショットが脳裏に焼き付けられて
それが見えないヒキダシに納まっているというか、数値理念ではなくそういう映像的
に捉えている記憶概念というものがある。
ただ、人間というのは勝手な生き物で、「思い出したくない」という人物についての
声やディティールはどんどん記憶から消去されていってるね、私の場合は。ふと思い
出そうとしてもその人間の名字さえ完全に記憶から消し去られていることに自分で
気づいて少し驚いたりもする。ただ、その他の人については声色や表情や細部まで
よく覚えている。(辿ると、だいたい音や声の記憶は10歳程まで。それ以前の年齢の
時代はあやふやな部分も多い)

この映画をなぜよく覚えているかというと、やはり衝撃的だったからだ。『ルパン三世』
の実写版そのものという感じだからだ。
今では信じがたいだろうが、『ルパン三世』は放送した当時は対して話題になった
アニメではなかった。一部にマニアがいたのみで、多くは「ああ、そういうアニメも
あるね」という程度の評価だった。
しかし、放送終了から数年が経ってじわじわと人気が出て、東京12チャンネル
などでは再放送が何度も繰り返された。
そして、放送終了から5年後に待望の第二シリーズが始まったのだ。あの
新しいテーマソングと共に。『ルパン三世』シリーズは最初の登場から45年以上過ぎた
現在、アニメ作品として不動の位置を占めるようになった。『ルパン三世』を知らない
人は日本にいないのではないかというくらいの作となった。

映画『黄金の七人』(1965)は『ルパン三世』の製作に影響を与えた映画作品
といわれている。事実、『ルパン三世』の空気は『黄金の七人』にそっくりだ。
峰不二子のモデルとなった役どころももちろん出てくる。女優ロッサナ・ポデスタで、
ルパンシリーズではアニメよりも原作漫画の峰不二子が限りなく近い。
もうね、毒婦というかなんというか、お色気作戦で相手を籠絡させて手玉に
取るというテクニックが凄すぎ(笑











(男をたらしこんで手玉に取った後はロケット噴射でサヨウナラ~)


ストーリーは前作『黄金の七人』と同じく、時価何十兆ドル(1966年当時)の
金塊を盗む大泥棒話である。
前作と同じメンバーで、チームリーダーである「教授」とロッサナが演じる
謎の女ジョルジャ、他6名のプロフェッショナルな泥棒たちが一丸となって
アメリカ・フランス・イタリア・スペイン・ソ連・キューバ国家等を向こうに回して
世紀の大泥棒を敢行するという話だ。(8人なのになぜ「七人」なの?笑)
もちろんCGは一切使っていない。
今観ると稚拙に思える映像演出も、1965年~1966年当時は斬新であり
当時の
最新技術であって、この映画シリーズは大ヒットした。
私は特撮だけで
いったら当時の007シリーズよりも優れているし、お色気
演出にしても
ボンドとボンドガールなどよりもイケてると思える。
まあ、『ルパン三世』の原点がここにあると思えば間違いがない。
この映画シリーズは、音楽もかなりオサレだよ。
というか、ルパンですね、これは(笑


『黄金の七人』音楽

7 Uomini D'Oro(1965) - Seven Golden Men



『続・黄金の七人』予告
Il grande colpo dei sette uomini d'oro 1966 (Trailer)



「痛快娯楽作品」という映画ですね。イタリアンテイスト全開です。
おふざけなストーリーがかなり面白いので、
大ヒットししたのも頷ける。
このシリーズは三作あって、1.『黄金の七人』 2.『続・黄金の七人』
3.『新・黄金の七人』とあるが、邦題で『黄金の七人 1+6 エロチカ大作戦』と
いう別作品はお色気ロッサナが出演しているが、まったくこのシリーズとは
関係のないお下劣エロコメディなのでご注意を。
何だか『ルパン三世 念力珍作戦』みたいなネーミングだね(笑


二作目のこの『続・黄金の七人』は何度もどんでん返しがあるのだが、
邦題の副題に「レインボー作戦」という名称が付けられている。七変化という
やつだね。
これは謎の女ジョルジャが男をたらしこむ時に髪の色と目の色が
瞬時に
変わることからつけたベタな邦題のようだ。
非現実的だが、お約束のお笑いとして観るところだろう。

本当は目の色変わるのは男のほうなのだけど、それを皮肉っているのかも
しれない。

かなり楽しめます。おすすめ。
1966年というのは今から48年前だけど、当時の雰囲気もよく分かる。
ところが、約50年後の今も古さをまったく感じさせない。なんだかナウい(笑)ような
感覚を覚える。

それは、エロティックな手練手管というものは永遠不滅だからかもしれない。
『ルパン三世』の峰不二子にしても、現実に置き換えたら、今は70何歳かのお婆
ちゃんですぜ(笑




日本では『ルパン三世』の実写版を製作中とのことだが、公開前から大コケ確実
との下馬評が高い。
この『黄金の七人』のような味を理解していないと、実写版ルパンを製作する
のは難しいかもしれない。シャレが解るかなりの「大人のセンス」が必要だもの。
それを考えると、この『黄金の七人』シリーズに影響を受けたとはいえ、この
独特の世界を描き切ったモンキーパンチ先生はすごいと思う。
アニメ版は放送コードがあるので、お色気が大分カットされてしまったけどね。
(ルパン第一シリーズは結構原作に近かった)
『黄金の七人』シリーズも『ルパン三世』も、国家やそれを支える法律に縛られない
自分たちの論理で行動する真の「無法者」たちが、権力者たちを手玉に取って
作戦を成功させる、というところに醍醐味がある。しかも「殺し」をしないで。
そういう権力をあざわらうかのような反権力思考のようなところが底辺に流れて
いるのを押さえきれていないと、今度の実写版『ルパン三世』は大コケする
だろうね。
ルパン三世の神髄はこれだもの。


日本人はそういうのは嫌いではなかった。江戸時代のオハナシ(現実とは異なる)
としては『鼠小僧次郎吉』などがそうだよね。義賊というのは現実世界では本当は
いないのだけど、そういうのが民衆にウケるのは万国共通なのかもしれない。
第二次大戦中に戦闘をほっぽり出して金塊を盗みに行くクリントイーストウッドの
『戦略大作戦』などもかなり面白い作品だった(DVD購入したら肝心のシーンが
カットされていて残念)。
とにかく、型にはめて人生訓を説くような映画が最近の日本ではウケるようだが、
民衆がそのようなものを求める時代は、私自身は「つまらない」時代だと思える。
ルパンがウケるのは「ルパンだから」としてウケているようで、原作から第一作~
第二作あたりまでに流れていた底辺がなかなか最近の作には感じ取れない。
世紀末は終わったが、人々の心は閉塞し内向し従順に権力に従い、時の権力者を
支持することが美徳のような時代になった。
人々の心こそ世紀末になっているように私には思える。
「つまらない」時代だと思う。




三原の人もあまり知らない三原の歴史 ~広島県三原市~

2014年01月11日 | 文学・歴史・文化・科学

明治三十六年(1903)の三原。広島縣御調郡三原町の一コマ。
(三原の市制制度移行は昭和十一年-1936から)


赤丸地点は三原城西之築出の酉ノ御門を入ってすぐの場所。
このあたりは作事奉行所があった場所で、御作事場と昭和末期まで呼ばれた。

(クリックで拡大)

三原城の北端北側の大きな建物は後の高等女子師範学校が設立された
場所です。高等女子師範学校(現広島大学附属幼小中学校)の敷地は
東側の現在の三原小学校の敷地にまで広がっていたことが判ります。
三原小学校は元三原東小学校と云いましたが、高等師範の敷地が狭く
なって後に別な場所から高等師範敷地東端があった場所に移転してきた
のでしょうか。
私の父や父のきょうだいたちはこの城北端の三原小出身ですが、三原小の
東門に「三原東小学校」という門柱があります。

現在は中央に道路が造られ、東側が広大附属、西側が三原小となっています。
画像中央の茶色のマンションの右横が三原城跡。


上の写真を江戸正保地図に照らすと・・・矢印が撮影方向。赤丸が城の北端。


三原小学校。


これが三原小学校にある「三原東小学校」の門柱です。



この現三原小の東にある門柱は別場所から移設したものか、もしくは高等師範
の敷地内に東小があったのか、調べないとよく判りません。

かつて三原小の敷地内には三原市立幼稚園もありました。
市立ということは市制が実施されてからなので、昭和十一年(1936)以降の開設と
いうことになります。現在幼稚園は廃止されています。
三原小(旧東小)は三原で一番古い小学校とのことですので、女子師範附属小学校
よりも古いことになります。




さて、上に掲げた明治三十六年の三原城周辺のモノクロ写真には後年の女子師範
学校の建物らしきものが写っています。
しかし、三原女子師範学校が創立されたのは明治四十二年(1909)で、附属小学校
の創立は明治四十四年(1911)年です。
さらに三原小の場所にある三原東小の門柱は明治十五年(1882)。上のモノクロ
写真は明治三十六年(1903)の撮影。
これらの情報を時系列で並べると

 ・明治15年(1882) 三原東小の門柱あり。
 ・明治36年(1903) 上掲モノクロ写真撮影。
 ・明治42年(1909) 三原女子師範創立(後の国立広大附属三原学園)。
 ・明治44年(1911) 三原女子師範附属小創立(後の国立広大附属三原学園)。

となります。
ということは、上の明治三十六年のモノクロ写真は、女子師範が設立される
以前の広島県の官立の何かの建物ということになります。
このあたり、三原市史を詳しく調べないと事実は分かりません。

ということで、女子師範の歴史について少し調べてみると、沿革は以下の通りでした。

広島県三原女子師範学校

  • 1882年(明治15年)10月14日 - 広島県広島師範学校女子部を設置。開業式を挙行。
  • 1886年(明治19年)3月3日 - 幼児保育場を設置。
  • 1893年(明治26年)3月31日 - 女子部および幼児保育場を廃止。
  • 1898年(明治31年)4月1日 - 広島県師範学校女子部を再設置。
  • 1909年(明治42年)1910年(明治43年)11月27日 - 開校式を挙行。
    • 3月31日 - 同上廃止(女子師範学校への昇格による)。
    • 4月1日 - 広島県三原女子師範学校を新設。
  • 1910年(明治43年)11月27日 - 開校式を挙行。
  • 1911年(明治44年)4月1日 - 予備科および附属小学校を設置。
  • 1915年(大正4年)4月1日 - 本科第2部設置(4月16日 - 入学式挙行)。
  • 1924年(大正13年)7月1日 - 創立15周年記念式挙行。
  • 1926年(大正15年)4月 - 専攻科を設置。
  • 1928年(昭和3年)4月5日 - 本校内に広島県主催保母養成長期講習会を開設。
  • 1930年(昭和5年)3月31日 - 同上廃止。
  • 1931年(昭和6年)4月1日 - 専攻科を廃止。
  • 1934年(昭和9年)10月28日 - 創立25周年記念式挙行。
  • 1939年(昭和14年)7月22日 - 本校内に広島県特設教員養成所を設置。

つまり、「広島県三原女子師範学校」の前進として「広島県広島師範学校女子部」と
いう官立の教育機関があり、上掲の建物はその官立学校の建物だと思われます。
年代からいうと、明治三十六年のモノクロ写真にある大きな建物は再設置された
「広島県師範学校女子部」の建物かと思われます。


となると、現在の三原小の東門にある「三原東小学校 明治十五年」という門柱は
どこにあったものなのか?
三原東小の門柱にある「明治十五年十一月」は広島師範学校女子部が開設された
翌月にあたります。同時期の創立です。

やはり図書館か市役所に行って調べないと分らないですね。
足を使わずにインターネットだけで調べものができると思ったら大間違いという
例でした(^^;

現在の広島大学附属三原学園(幼稚園・小学校・中学校一貫教育)は、詰め込み型
の授業ではなく、情操教育に力を入れた教育で、各学年2クラスの少数教育なので
行き届いたきめ細かい授業となっています。
入学は幼稚園からが基本で、入試内容は3歳児を一室に集めて遊ばせてそれを
観察、そして「くじ引き」となります。入園の可否は「くじ引き」なのです。教育の機会
均等において、これほど差別がないことはありません。入試ではなく、くじ引き。
ただし、一緒の部屋で遊ばせているときに、器物を損壊したり、人をどついたり、
先生の話に耳を傾けないで暴れまわったりという3歳児はくじ引きを引ける権利を
与えられなかったりしますが、これは入園前までに社会性を乳幼児からの親の保育
過程によって身につけているかいないかを判断するためなので、最低限のこととして
仕方ないことと思います。一次審査では「家庭的・社会的な躾」を見るようです。
よほどの暴れん坊でない限り一次審査で外されることはなく、ほとんどの子が
くじ引きを引けます。大切なのは親の子に対する「躾」です。3歳児の審査に学力など
関係ありません。
しかし、中学を卒業後は誰もが進学校に進学しています。
都会の「お受験」の雰囲気とは異なり、ことさらにエリート意識を煽るような学校では
なく、情操教育に重点を置きながら学力も高い。私などは理想的な学校のように
思えます。運動会は幼稚園児と中学生が一緒に行ないます。現在公立小中では
禁止している学校も多い徒競走も騎馬戦も棒倒しもやります。私は広大附属三原の
ような学校がまっとうな学校だと思うのです。運動会の駆けっこで誰が一番になっても
誰がビリになってもいい。だけど、皆が懸命に走ったことを皆でたたえ合う。これが
本当のように思えます。順列をつけることはよくないことだとして、「全員で手を繋いで
一緒にゴール」というこういうのは、はっきり言って「嘘」だと思うのです。広大附属三原
のように、一等賞の子もビッケの子も、共に肩を叩き合って健闘をたたえる、それが
本当だと思うのです。
本当に差別をなくすこととは、「どんな状態でもそれを否定せずに受け入れて差別
しない」ことであって、勉強できる児童できない児童の誰にでも100点をあげる
ことではない。たとえ90点であろうと20点であろうと差別せずに同じに接することで
あって、「誰にでも100点をつける」ということではないと思うのです。
そして、本人の努力とは別なところのいわれなき理由(出自や性別や持って生まれた
あるいは外的要因によってやむなくそうなった身体的障害等)によって人が差別される
制度とその制度を支える差別心をなくしていく、そのための方策を模索することが
差別をなくす未来への本当の足取りのように思えるのです。
徒競走廃止や徒競走で「競争」を廃止して「全員で手を繋いでゴール」などというのは
人権のはきちがえも甚だしく、さらならる差別を助長するだけだと私は思うのです。
そして、広大附属三原学園は「エリート教育」という意識とは別次元のところで
教育にアプローチしているという点で「良い学校」だと私は思います。
熱血先生がいまだにいるし(笑)
私も小学校の授業参観に出てみて、「あ、この学校はいいなぁ」と思いました。私も
三原出身だったならば、ぜひここで学んでみたい学校だと思った。
幸い私が小中学生の頃は、公立校でも本当に親身に生徒の事を考えて行動する
ような先生ばかりだったので良かったのですが、現在の公立校は学校評価制度
の導入により、完璧に教員はサラリーマン化して、見て見ぬふりの教師が増えている
とよく耳にします。
でも、「日教組がすべて悪いんだ」という声もネットなどでは目につきますが、それは
歴史的には誤認が大きい。
私が小中学生の頃(1960年代~70年代)は、日教組の教師こそが熱血で、親身に
なって生徒の事を思って恐れずに行動する先生たちでした。『飛び出せ青春!』(村野
武範)や『われら青春!』(中村雅俊)や『ゆうひが丘の総理大臣』(中村雅俊)の
ような先生たちが現実社会に本当にいた。一杯いた。そして、私が通った小中学校は、
そういう先生たちこそが日教組の先生だったのです。むしろ体制側の先生たちのほうが
圧倒的に何事も見てみないふりを決め込んでコソコソ逃げ回る卑怯な教員たちばかり
だった。自分の勤務評定など恐れずに生徒のために身を投げ出して親身に生徒のことを
思って行動していたのは、少なくとも私が通った小学校・中学校では日教組の教師たち
こそが紛れもなくそれでした。
このことは1960年代~70年代のひとつの時代の圧縮された空気とでもいえる「情況」
であったのかもしれません。熱血教師が教職員組合に組織されていただけという。
東大闘争を取り締まった指揮官だった警察官僚の佐々氏が最近全共闘運動についての
ドキュメンタリー番組の中で以下のようなことを語っていました。「あの頃は熱病のよう
だったと言うけれど、若者が熱を出すのはよいことだ。全部が全部冷たくなってひとつも
動かなくなったら怖い世の中だ。だから若者は熱を出してほしい。それも40度の熱では
なく38度くらいのね(笑」と。かつて取り締まった「若者の叛乱」の全共闘の若者たちの
心根を「時代性」として認容し、かつ必要なこととして認める発言をしています。
私が小・中の頃はまさにその時代で、「熱血」を恐れず動くこそがどの場面でも見られた
時代でした。こういう「物事をきちんと言って、そして自分でまず動く」ということは、特定
イデオロギーによるものではない。
歴史というものは、現代の目だけで過去を「全否定」したり、逆に過去を全面的に「良い
もの」とするものではないと思うのです。良いこともあれば如何なものかということもあった。
良いか悪いかのどちらか一方であるとする画一的な視点では歴史は見ることができない
と思います。例えば、戦前の時代がすべて良くて戦後は駄目だとか、あるいはその真逆
だったりとか規定する、そのような短絡的な画一思想はそれこそが極めて人間社会
では危険だと思うのです。
ですので、ネット右翼が蔓延する現在、なんでもかんでも「日教組が悪い」とか「左翼」が
悪いとか言いたがる風潮がありますが、イデオロギーを超えた部分で、いいものもあるし
悪いものもある、それは歴史の中に厳然と存在した、ということを見ないとならないと
思うのです。たとえば、私は個人的にはソ連や中国や北朝鮮の「社会主義」などは
インチキで大嫌いですが、フランスで起こりイギリスとドイツで発達した社会主義その
ものを否定する
ならば、普通選挙も健康保険制度も週休制度もサブロク協定も男女平等
も、社会保障制度のなにもかもが実現できていなかったと思います。特定党派のイデオ
ロギーじゃないんです。幕末に坂本龍馬さんが目指した議会主義的共和制なども実は
現今の日本のような社会制度をめざしていたのかもしれません。「攘夷か佐幕か」という
ステレオ判断ではないですよね。本当の国造り、社会構築というのはそういうことのように
私には思えるのです。右か左かとか、そういう矮小な極の論ではない。

広大附属三原は卒業者は私立の一貫校以上に母校愛が強いのも特徴で、おしっこ
もらしているような3歳児の時から共に学び舎で15歳までずっと一緒に育つので、
まるで兄弟姉妹のような間柄になるようです。男女ともとても仲が良い。
だからか、あまり卒業生同士が結婚することは少ないみたい。兄弟姉妹で結婚は
しませんものね(笑
ただ、ことさらに「母校を愛せ」「国を愛せ」と強要するのでなく、自然と母校愛が
深まるという点でも、国立広島大学附属三原学園は極めてまっとうな教育を行ない、
それに成功していると思います。

しかし、国立大学自営化の流れの煽りで、広大附属三原学園が廃校にされようと
しています。理由は経営困難と、職員の通勤が大変だから。なんじゃそれ。
教職員の声じゃないでしょ?それ。国立大を私立化して儲け第一とするネオコン・
グローバリゼーションの流れの中での動きでしょ?
儲からないから国立の学校を潰すなんて、馬鹿な話です。
ゼニカネ第一主義を錦旗とする発想は、悪魔に魂を売るようなことだと思います。

広島県広島師範学校から広島大学教育学部附属幼小中校となった広大附属
三原学園。その歴史は強制的にデリートさせられてしまうのでしょうか。
OBや父兄によって廃止反対運動は進められていますが、国によって潰されるか
どうか、今のところ未来は見えません。
いつも校舎のポールに国旗たなびく三原学園を国が潰そうとしている。妙な話です。