goo blog サービス終了のお知らせ 

渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

埴輪(はにわ)

2025年08月21日 | open



出土する埴輪からは多くの
事が分かる。
私は考古学は専門外だが、
文化史的にも非常に興味が
そそられる。
埴輪は邪馬台国消滅の頃、
吉備国(現在の兵庫県西部~
広島県東部)において発生
した。
ベンガラの使用痕跡は、超
古代製鉄との関連をにおわ
せる。赤土からのリモナイ
ト製鉄だ。
吉備国は当時列島内の一大
産鐵地域だったので、新生
ヤマト王権はどうしても吉
備の技術を欲しかった。
結果として、出雲とは別な
方法での製鐵技術簒奪をヤ
マトは実行した。
出雲はヤマト成立以前から

の巨大勢力であったために
傀儡化し、吉備に対しては
徹底的に武力で「成敗」す
る事で征圧支配するに至っ
た。

畿内より東をイテキとして
「蛮族討伐の正義」の如く
武力討伐して支配したよう
に。
(実際には平安期に至るも
なお、東日本の人々は大和
の権力にはひれ伏さなかっ
た)

埴輪 - Wikipedia

埴輪 - Wikipedia

 

 

なぜそれほどまでに初期の
ヤマト王権は全国の製鐵地
を支配したがったのか。
骨抜きにする在地既存勢力

の傀儡化や徹底した殲滅戦
の武力制圧を伴いながらも。
それは大和畿内の地が産鐵
には不向きの土地だったか
らだ。
仮にヤマトの九州からの
「東征」が現実にあったと
したならば、なぜ古代製鐵
技術があった事が推定され
ている九州北部の製鐵技術
層を
伴って畿内に移住しな
かっ
たのか、という疑問が
残る。

だが、技術者は共に随行さ
せたかもしれない。

しかし、大和畿内ではそれ
での技術での製鐵の原料
確保することが不可能だっ
たという現実があった。
それでも、「東遷」ではなく
「東征」である。

記紀によるとかなりの年月
をかけて九州から畿内に大
移動しているのだが、その
間に出雲と吉備の製鐵実態
をヤマト首長は深く知った
事だろう。

大和地域に入るのには一度
在地勢
力に武力で阻止され
たので
南方から再度進撃し
て大和
の地を武力で制圧し
た事に
なっている。
なぜ、そこまでしてヤマト
王権を後に構成する一族は
九州を脱出してまで未知の
土地を求めたのか。
鐵も獲れない土地を目指し
て。
ただ、歴史事実としては、
畿内に根を張った古代王権
が、初期の連合政権からや
がて強大な中央集権国家と
して日本列島の長であるか
のように君臨した、という
現実がある。
その大和を武力制圧して畿
内に根を張った一族は伝承
として万系一世をうたい、
現在まで存続している。

日本の製鐵の歴史について
は、国内製鐵の開始が7世紀
であるとする歴史教科書の
記載はかなりの大嘘だ。
倭鍛治(やまとかぬち)と韓
鍛冶(からかぬち)の存在は
否定しようがなく、大本営
発表の教科書記載の製鐵の
歴史は、単に新技術である
砂鉄製鐵の開始時期を示唆
しているに過ぎない。
そして、日本における赤い
神社と白い神社の差異と歴
史性を超古代~古代製鐵手
法の違いから
探究のメスを
入れる学者は
皆無だ。
民俗学的な解析の分野から
紐解けば、古代史最大の謎
であるヤマト王権の行動の
背景は、案外身近な所に最
大級の史料が存在している
のかもしれない。

 


 


この記事についてブログを書く
« チェ・ゲバラ | トップ | 喫茶店 »