渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

備後国三原城 ~古絵図~

2013年03月22日 | open

三原駅前ビル2階市民ギャラリー
にて三原の古図多数が同時展示
されている。

開催は本日から24日の日曜18時
まで。

「西町・東町絵図展」
(主催:三原市中央図書館・
歴史民俗資料館)

このような展示は最初で最後だ
と思われる。

昼休みにさらりと見てきた。

三原城の古図はいくつかが
存する。

ネット上で検索できるデジタル
アーカイブもある。
だが、今回の展示は、西町や
東町の町屋の古地図が展示さ
れており、それは武家地中心
の古地図が多い中、大いに注目
できる。

正保年間の三原城絵図(正保元年-1641年)



慶應年間の図


三原城内のうち、私とも無縁では
ない城内西築出について見てみる。

西築出(にしのつきだし)とは、
海上防備のために完全埋め立てで

造られた要塞状の石垣護岸による
出島のことである。いってみれば、

幕末の江戸湾の御台場のようなも
の。それを三原城は戦国末期に

海上埋め立てにより城として築城
していた。

西築出は三原城のうち西方部分に
張り出した出島のことである。

城壁内には侍屋敷を建築した。

江戸初期、正保年間の西築出。
正保というと宮本武蔵が死ん
だ頃だ。



幕末慶應年間の三原城西築出。
道割りが正保年間とは異なっ
ている。



明治6年図の三原城西築出。


さて、上の慶應年間の絵図では
ピントがぼけてはっきりとは見
えないが、この慶應年間
の屋敷
居住の武家の氏名が展示
されている図には切絵図のよう
に明瞭な文字で書かれている。
その名は実名(イミナ)ではなく
通称で
書かれており、それが
今回の展示図では明確に読めた。
それを手書きで写した。(苗字
のみ記し、通称は省略する)
西築出は現在の三原市城町・
港町にあたる。


吾往館とは演武場のことである。
東の築出には講武所があり、西
の築出には吾往館があった。
佐分利とは三原浅野家槍術師範
の佐分利源五右衛門のことである。
画像に見える丸いオブジェあたり
が西之築出への出入り口である酉
の御門があった場所である。

江戸時代の西築出酉ノ御門跡地
の現在。北面の掘側から。



やや西から。バス停のあたり
に櫓があったか。



ちなみに私の父はかつて先祖が
住んだ西築出のことを「御作事場
(おさくじば)」と呼んでいた。
西築出にあった
作事奉行所の御門
は現在は西町の順勝寺という寺の
山門として移築され保存されてい
る。







この順勝寺の通りを西に向かう
と城下町の西端に出る。
ここまでが府内。(西の城下外
から東の中を臨む)


ここの城下町側路地を折れて御城
方面に向かうと西町だ。



ここは江戸期には職人街である。
正面ズドンが御城。

一戸敷地奥行きはかなりある。
ここが「かじ新町」。


今回の展示では、他にも城下西部
の西町の古地図などがあり、それ
らは初めて見る物も多く、大変
興味
深く観覧することができた。
推測だが、西町町内を地元の
公式な旧町名で「梶新町」と呼ん
でいたのだが、なぜ「かじしん
まち」
なのかが古地図と古文書
を見ていて、それとなく理解で
きた。

三原城下は東町が商人街、西町
が職人街であったのだが、江戸
中期の
「西町分 家数並竈数 
諸職人之書付」によると、西町
は家数が合わせて
「320軒余内 
240軒本町 79軒新町」とある。
(算用数字に変換)

そして多くの職人の家数を列挙
しているのだが、お頭的なまとめ
役の
家として以下が記載されて
いる。

「内
  鍛冶役家 拾四軒
  大工役家 拾弐軒
  桶屋役家 三軒
  畳屋役家 壱軒
残テ弐百九拾軒余町役家
一 鍛冶 弐拾四軒 
(以下省略)」

畳屋というのは、もしかしたら
今は廃業したが平成まで西町に
一軒のみあった畳屋のことかも
しれない。地元の聞き込みでは
明治期にも畳屋だったというか
ら、たぶん江戸期
も畳屋だった
のではなかろうか。ほんのつい
数年前まで現役で畳屋をやって
いた。
(2010年頃まで前まで
オート三輪を現役で走らせて
いた)


そして、西町のうち「新町」と
呼ばれる西町西部地区が「かじ
新町」と
呼ばれるのか。
それは鍛冶屋が24軒もあったから
ではなかろうか。

現在「かじ新町」の地名は残っ
ていない。ただし、2013年に工事
が終了する予定の
三原城大外堀の
役目を果たす西野川にかかる昭和
3年に架設された橋
(通称土橋=
どばし)が解体撤去されて新設
の橋が懸架された。その橋の

名はドバシ時代の橋の名を引き
継いで「梶新橋」と命名されて
いる。

梶は鍛冶の転化だろうと思われる。

三原城下の西町(昔は現本町も
含んだようだ。現在の西町は
江戸期の新町
のことだろうと
思われる)という東西1kmにも
満たない狭い地域に鍛冶屋が

24軒もあったとは驚く。
江戸期の三原派の刀鍛冶は城内
の北端部の鍛冶屋敷にて作刀し
ていた
ので、城下西町の鍛冶屋
は一般的な日用品の鍛冶職だっ
たと思われる。

また、東町にも鍛冶屋があるので、
一体東西2kmという狭い三原城下
鍛冶職が何軒あったのかと想像
すると、なんだがワクワクする。
気づいたけど、「魚屋」という
のがないなぁ。
たぶん、江戸みたいに地元の近隣
の漁師が棒手振りで城下に売りに
来たのだろうか。
蛸は沸くように獲れていたし、
武家と町家では蛸の食べ方も違っ
ていたというのは伝承に残って
いる。海産物は豊富だったが、店
舗構えの魚屋というのはやはり
江戸と同じで明治以降の形式な
のかもしれない。三原では糸崎か
今でいう古浜(城下東部沿岸)
あたりに魚河岸があったのかも
知れない。

この御方は三原城の要所要所を
きっちりと歩いておられ、レポ
ートも興味深く読める。

戦国ジジイ・りりのブログ

三原城の地図はこちらをどうぞ。
(PCはクリックで拡大)

 

三原市重要文化財指定記念
「西町・東町絵図展」は3月24日
(日)の18:00まで

場所:三原市民ギャラリー(三原
駅前 ペアシティー西館2階)

展示内容:
「三原西町絵図」(平成25年指定)
「三原東町絵図」(平成25年指定)
「備後国三原城下絵図」(平成11年指定)
「備後三原絵図」(平成11年指定)
「備後国之内三原城所絵図」(複写/
国重要文化財/国立公文書館所蔵)

展示解説:
23日(土)・24日(日)11時~ 14時~




三原城と桜山。
そうだ。備後国三原櫻山住康清
と将来の自作品には銘を切ろう。
なんちて。
山ん中住んでるみたいだな、それ。
虎徹の「東叡山忍岡辺」みたい
にはピタリと決まらないなぁ(苦笑


映画 『赫い髪の女』

2013年03月06日 | open


監督:神代辰巳
脚本:荒井晴彦
原作:中上健次
出演:宮下順子、石橋蓮司
1979年2月17日公開・にっかつ

最高の映画であった。
公開時、高校3年だったが公開
直後に劇場に観に行った。

大学受験真っ最中の時期である。
果たして大学をちゃんと受験し
たのかさえ定かではない(笑)。

受験当日に受験をほっぽり投げ
てパチンコに行っちまったクラ
スメートのわが文学同人誌の主幹
の奴よりはましだったろう。

この作品は、かなり出来栄えに
衝撃を受けた。

中上健次も北野武もブントだった
なんてことはこの時は知らなかっ
た。
正確にはブントというより社学同
という方が正しいだろう。

高校から地下鉄の駅までの通学路
には「映画館」という
喫茶店が
あった。
そこは中大ブントだったマスター
が母親と
二人でやっている狭い店
だった。
うちの高校の映画好きが
集まって、
背伸びした文学論や映画論を交わ
しているような
喫茶店だった。
授業終わって駅までの道すがら
そこに寄ると、英語や国語の教師
たちも黙ってコーヒー飲んでいる
ような店だった。
高2の時に特進の担任だった元早大
ブントの教師も高校
文化祭での自主
製作映画のグループが喫茶「映画館」
でたむろ
しているのは黙認だった。
70年代はそういう時代だったのだ。
もっともそこで飲酒喫煙していた
訳ではないので、咎める理由もない。
マスターにある時、「ブントって
いっても分派多すぎてわけわら
ないのだけど、マスターは分裂
する前なの後なの?」と尋ねたら、
「分裂前の再建から分裂後組織が
サッパリなくなるまで完全燃焼
(笑)」と答えていた。いろいろ
聴いていたら、どうやら(その
当時)最近TVの「笑点」に出だ
した三遊亭楽太郎が青山学院時代
にキャップやっていたブントの
一派だというのが理解できた。
うちの高校の生徒にも隠れ新左翼
の連中がいて三里塚闘争などに
参加していたので、「生徒」を
卒業して大学の「学生」になる
以前からそのような知識は多少
なりともあったし、第一、今は
開成の教頭だか何だかのオエライ
さんになっちまった担任が授業中
に10.21国際反戦デーや東大安田砦
や自分の早大時代のこと(つい
その頃から数年前)を語りまくっ
ていたから、70年代後半の首都圏
の高校生は「右翼の時代」だった
が、思想的な思潮としての新左翼
運動に関しては、おいらは思想的
に真右だったけど何らの違和感も
なかった。
(だが、言葉だけ威勢がよい右翼
などよりも、内実として民を憂い
国を憂う志が筋金入りであるのは
新左翼のほうだというのは大学に
入ってからはじめて実感すること
になる)
中1(73年)の時の教師も法政で
白だったし、その後、労線に入り
職制(生産性向上のために工場の
ラインで労働者を強圧的に叱責し
まくる管理職)をぶん殴ってクビ
になったりしてツブシ利かないか
ら教員になった人が担任だった。
(そんな人が教職なんて、などと
つまらないこと言ってはいけねぇ
よ。時代はそういう時代だったの
だよ。首都圏なんて準内戦状態
だったのだから)
そういや、早大出身の高校2年時
の担任も映画館のマスターや楽
太郎と同じブント内の分派だった。
早大でのその派は早大で赤・青・
白Z赤線・黒とが熾烈なことにな
ったから他校に亡命して土手っ
プチの上智と丘の上の青学に亡命
政権を作っていた。担任は殺し
合いになる前に戦線から撤退した
らしい。
白対白Z赤線、青対白Z赤線、
赤対赤、銀対白、銀対青、銀対
PG黒でつまらん殲滅戦が本格的
に始まって、今までに100人以上
が死んじまったからね。
でも担任は高校の生徒から「結局
はヒヨったんでしょ?」などと
突っ込まれていた。
特に後に日大行って兜被ってた
奴が突っ込んで詰問していた。
あまり突っ込んでも気の毒なん
だけどな。「敗北」を知っている
世代の人に無傷の人間が。
いずれにせよ、南こうせつが明治
学院で被っていた自分のゲバヘル
現物をギター雑誌の読者プレゼン
トで出しちゃうような、そんな
時代の空気だった。
あのねのねなどは「今ここでこの
話題をトークしてこそっと逃げ出
した人は公安です」などというMC
をステージでやっていた。そう
いう時代だったのだ。
当時、喫茶「映画館」の
マスター
は映画関係につてがあり、公開
終了したフィルムを
店で上映会
で回したりしていた。

高校を卒業する前にマスターが
「なんか観たいのある?」と俺の
仲間に訊くから、俺は「赫い髪
の女!」と迷わず言った。

マスターは「う~ん」と唸る。
「え?だめっすか?あれ」と
俺が
尋ねるとマスターは「いや、そう
じゃない。あれは最高だ。
でも、
フィルムが入らない」
と言っていた。配給のいろいろな
取り決めがあって、場末の上映
施設の借り受けは難しいのだ
そう
だ。

われわれのグループは一人あたり
年間だいたい200本を観ていた。

もちろんビデオもDVDもない時代
のことだ。

ただ数というものは競うもの
でも誇るものでもない。

まっとうな社会人となって就職
した時に、職場の新年会で
お局
様的なOLが年頭の抱負を述べた
時、「昨年は映画を見まくり

したので、今年も」と言った。
ある上司が本数を尋ねた。
その
OLが見たのは「14本」だった
そうだ。
「はぁ?」と
思ったが、すべて
劇場で見たことを自慢げに語っ
ていた。

映画は試写会などではなく、自分
の金払って劇場で観るのは当たり
のことだろうに、何を言ってる
のかよく解らなかったし、14本っ
てなんだそれ。

そして、今思い起こすと、ここに
もズレたドカンチというのは

たのだなぁと思う。
見えてないよなぁ。

みなさんね、何というかですね・・・
あまり自慢げに物を言わなけれ
いいのに(苦笑)。
俺は映画にはうるさい、とかいって
ワイダさえ観た事ないとかさ。
東京を離れた後の知人に「俺ほど
映画を観ている人間はいない」と
自称する男がいた。訊いてみたら、
フェリーニもキューブリックも
まったく観ていないどころか名前
を知らない(笑)。それどころか、
ワイダのみならずクロサワもまっ
たく観たことがないという。
どんな映画を観てきたのか問うと、
ドカーンチュドーンバリバリ
バキューンというハリウッド映画
だけだという。それとゾンビホラー。
「騎兵隊が出てくるべきシーンで
階段から乳母車が転げ落ちる映画
なんてつまんないよ」とでも言い
だしそうだ。いや、この例えさえ
きっとわけわかめだろう。ポチョ
ムキンはスナフキンの親戚か?
くらい言ってのけそうだ。
オーストラリアンハットを被る
俺のことをスナフキン気取りか
とか馬鹿かます恥ずかしい類。
俺は映画が娯楽であることを否定
しないが、いくらなんでもそれで
自画自賛はあんまりだろうと思う。

最近では、日本刀での試斬で
「私は○○○本斬った」とかいう
ことを
自慢げに語る人がいたけど
「ふ~ん」だった。もっと数を、
しかもその
10倍以上を切ってる
人たちはごろごろいるんだけど
ね、あんたの目の前にも、
とい
う風にも思ったが、まあお山で
はなく小山の大将が好きな人は
適当に自己満足でうたってもら
っていればよい。


そう、『赫い髪の女』である。
これの良さが解る奴らは、「ある
もの」が見える奴らなのだと俺
は思う。
でも、ニコ動などのコメント見る
と、今の子にはまったく理解不能
みたいね。
カット割りで精神情景を映し込む
技法もまるで意味が解らないよう
だ。
これでは、TVドラマの『傷だらけ
の天使』のラストシーン(1975年
3月29日放送。まだベトナム戦争
は終結していなかった)で、風邪
で死んだアキラ(水谷豊)をオサム
ちゃん(萩原健一)がドラム缶に
入れてリヤカーで夢の島に捨てに
行く場面で、「アキラ、出てけっ
てよ」「出てけってよ」という
台詞とフラッシュバックさせて
三里塚の農民たちの抵抗シーンが
入るその意味も理解不能なことだ
ろう。ドカーンチュドーンバキューン
しか理解ができないのだろう。
たぶん、小説などの文学作品も読
まないのだろうし、思考力が著し
く低下しているのだろうな。
この『赫い髪の女』は掘り下げれ
ばいくらでも難しくなるけど、
「定式」と「マニュアル」が無い
と思考できない人たちには理解は
一生不能だろう。そして、たぶん、
そういう人たちは、ブルーズも理解
できないことだろう。
デルタの黒い人々の叫びも意味
不明だろう。
中上は被差別部落を「路地」と呼ん
だ。
バタくさいのバタは道端のバタだ。
強制的に被差別階級に置かれた
路上芸人たちの芸能興業からきて
いる。
この映画は、神代監督の手法も
さることながら荒井の脚本が凄く
良い。次に俺が衝撃を受ける
『泥の河』を観るまで、この
『赫い髪の女』は俺の頭の中で
常に半鐘を鳴らし続けていた。
バタくさい演出がバタくささを
感じさせず、ごく自然な情景と
してリアリティを以て迫ってくる。
通り抜けずに哀しさがいつまでも
残る。

この国の国民が「勝者」と「敗者」、
「成功者」と「落後者」という
ステレオ視点しか持ち得なくなった
時から、俺はこの国の民の知性は
死滅したのだと思っている。
70過ぎの爺さんでさえ偉そうな
言辞を弄しながらステレオってた
りするのだから、世間蔓延の空気
というのは恐ろしいものがある。
愚民政策大成功!といったところか。
だが、勝者の歴史しか見えない、
見ようとしない奴らに未来はない。
忘れてはならない。
我々の国は一度手痛い敗北を経験
してるんだよ。
その敗北から何を学ぶべきなのか。
そこなんだよね。その中身がどう
なのかなんだと思うよ。