渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

熱変態の偶然が見せる日本刀の妙

2018年01月11日 | open










breechies と jodhpurs と オー・ド・ショース

2018年01月09日 | open



これはただのコットンパンツ
(コッパン)ではなく、乗馬用
にも
使えるような太股のところ
を特大サイズでカットしてある
作り込み
になっている特製パンツ
だ。足元は締まっている。

まさに乗馬用ズボンのような作り。
ユニクロあなどりがたし。

あえてこういう作りの製品に
してあると説明書きにあった。


乗馬用専用パンツでなくとも、
太股のところにゆとりを
もた
せれば乗馬用将校ズボンのよう
になる。

このパンツは塗装作業着を自家
染め迷彩にした迷彩パンツ。

ブーツは本革製独軍用。


こちらは本物の東ドイツ軍将校
パンツに本物のフランス製乗馬
用ブーツ。

このサイドフレアが付いている
のが乗馬パンツの特徴だ。



ブーツの長さの違い。


乗馬用ズボンのこの両サイドの
フレアはよく動きやすいため

言われる事があるが、歴史的に
みるとそうではない。


ブリティッシュ・バトルドレス
と乗馬パンツとロングブーツの

組み合わせはまるで望月三起也
氏の不朽の名作劇画「ワイルド7」

そのものである。
ちなみに英軍のバトルドレスを
気に入った米国アイゼンハワー

大統領が当時制式化されていた
米軍軍服があったにもかかわらず、

ショート丈の英軍服コピー品を
作らせて好んで着用したため、
それ
が米国発進造語でアイク
ジャケットと呼ばれるようにな
った。


乗馬ズボンのこの両サイドの
フレアは動きやすいから「発明」
された
ものではなく、起源は
中世のスペインに始まる貴族
たちの脚装
である。
やがて貴族の騎乗用脚装=ショース
は、16世紀にバ・ド・ショースと

オー・ド・ショース(キュロット
の原型)に分離した。膝下までの

半ズボンゆえにそれまでのタイツ
がやがて靴下=ソックスへと
発達
していくのである。

ヨーロッパ各国でこの貴族のパンツ
=ショースは大流行し、乗馬時
のみ
ならず通常時も貴族であることの
象徴として常用された。

各国でどうやって横を膨らませる
かに工夫がなされ、それが数百年

後にも機能よりも形だけが形骸化
されて伝承存続されているという

のが歴史の実相なのである。







特に現代軍隊において、第一次世界
大戦前などは先進国各国でこの
サイ
ドフレアがある乗馬ズボンが上級軍
人=将校用ズボンとして
ロングブー
ツ=乗馬ブーツと共に軍服に採用さ
れていたが、これは
貴族の象徴だっ
たことの名残を示す「限られた上級
階級のみの被服」
を表す流れの中で
採用されていた意味合いが強かった
だろう。

卒や兵や下士官とは異なる種として
の将校の優越意識を体現する
ものと
して乗馬用サイドフレアがついた
ズボンを各国の軍隊は採用
していた
のだろう。日本でも昭和天皇をはじ
め上級職の軍人用ズボン
としてフレ
ア付のズボンが採用されていた。

単に動き易くて締めつけ感をなく
すためのゆとりとしてのデザイン

ならば、腿部分をだぼっとさせれ
ば事済む。

しかし、あえてバタフライのよう
なイルカの背びれみたいに横を

らせるデザインというのは機能面
からしたら明らかに過剰形状
であ
り、そこに機能性からの発生理由
を認めることはできない。

デザイン業界などでも「動きやす
さから」と説明されることが非常に

多いのだが、これは歴史性を鑑み
るに、16世紀の西欧の貴族の競い

合い、見栄の張り合いの結果、玉
ねぎのように膨らませる腿横の

ザインがショースに導入された事
の延長線上に現代の意匠の
原初的
発生起源があると読むのが公正な
妥当性を有していると判断
できる
のである。
機能ではない。あのサイドフレア
の理由は歴史の
中にある。
機能だけならばただダボッとさせ
るだけで用は足りる。

なぜあのエイヒレのようにするの
か。そこには歴史的な流れの中で

捉えないと理解が及ばない現実の
時間の奔流があったことだろう。


こうしたダボッとした乗馬ズボン
はやがてニッカボッカという
米国
のオランダ移民から発生した作業
ズボン(膝までの半ズボン)
とな
り、やがてそれはゴルフ用、乗馬
用、野球のユニフォームに
発展し
て行く。

ナチスの将校がはいているズボン
も、イチローがはいている野球の

ユニフォームも、歴史的には同根
なのである。


英語では乗馬用ズボンはブリー
チーズ(breechies)とかジョッ
パーズ
(jodhpurs)と呼ばれて
広く認識されている。

日本の場合、サイドフレアがある
ズボンは乗馬パンツというよりも、

建設作業員の専用ズボンのような
イメージが強いが、これにも意味
ある。
実際のところ、将校用乗馬ズボン
は過剰デザインの角ばった出過ぎ

のフレアであるとはいえ、腿が緩
いので現実的に動きやすい。

そして戦後、軍服が大量にタダの
ような値段で売りに出された。

戦後復興の建設労働者たちは、
はき潰しの作業着としてかつての
旧軍
の将校軍服を超格安で入手し
て大いに活用した。

そのため、日本においては、ニッ
カポッカ=乗馬用ジョッパーズは

乗馬専門パンツとしてではなく、
建設現場作業員の作業ズボンの

印象が強くなっているのである。
敗戦国で戦後復興を目指した日本
ならではの歴史的な事情がここ
でも作用している。


ズボンひとつでも歴史あり。それ
は人が着用するなればこそ。

人に歴史あり。
人あるところ、必ず歴史がある。


ワイルド7





日本刀を愛でるという事 ~出雲大掾藤原吉武作~

2018年01月02日 | open



昨日正月元旦は日本刀を鞘に納めたままお休みしようと思っていたが、
やはり刀剣観賞をし、手入れをしてしまった。

観賞の際は、刀身を立てて差し表を自分に向けて、まず刀の顔である
表の鋩子(ぼうし)から観て行く。そして下に進み刀を裏返して今度は
見上げる。まず最初は全体の姿を遠目に見て、反りと造りのバランスを
観る。当て鑑定の場合は、まず全体像を把握することで時代を絞り込ん
で行く。最終的には作者まで言い当てることを目指す。




重ねについても棟側をよく見て、どのような特徴があるのかを看取する。
この脇差は重ねことのほか厚い。また肉(しし)置きが厚いのか薄いのか
等についてもきちんと把握する。同時に研ぎの状態も見取る。




刀身はまず鉄を観る。鍛えの肌目が板目か杢目か小杢目か小糠か肌が
ざんぐりとした大肌か肌目が均(つ)んだ物かを把握する。
また、刀剣の地肌というものは、折り返し鍛錬の鍛え鍛接肌だけではなく、
熱変態による質性の変化と構成群の形成状態が必ず刀身に顕れている
ので、それもよく把握する。地錵(じにえ。地沸)があるのか映りがあるのか、
あるならばそれがどのような状態なのかを掴みとる。また、映りなのか白け
心なのか、それは研ぎ減りによる疲れ映りではないのか、映りの種別は何
であるのか、清み肌のあるなし、その他すべて刀身地鉄に現出している状態
をつぶさに肉眼で観て把握する。鉄の色味についても見逃さないようにする。


地の働きは折り返し鍛錬による鍛接の鍛え肌だけでなく、熱変態による
肌の形成も見逃さない。地景(ちけい)や地斑(じふ)が出ているか否か
等々もつぶさに見取るようにする。まず「刀の中にある景色」を肉眼で
見てその風景をすべて脳裏に焼き付けるのである。


落ち着いた中にも非常に変化に富む働きの激しい地鉄(じがね)に鍛え
上げている。江戸初期と観えるが、古作京物のような風合いもある。
刃文の観賞は、焼き刃と地の堺の焼き刃の頭部分が「刃文」なのであり、
研ぎ師が白くこすり描いた物が刃ではないので注意を要する。日本刀に
暗い人は大抵は研ぎ師が描いた白い部分を日本刀の刃であり刃文で
あるかと誤認して思い込んでいる。本当の刃は光に透かして光を反射
させないと見えない。これは物理的に見えない。光線は約30度の角度
で反射させる位置で本当の刃文が浮かび上がって見えてくる。
マルテンサイトの結晶粒が大きい=錵が多い錵(沸)本意の錵出来か、
あるいはマルテンサイトが霧のようにかすむ粒子が細かい匂い出来で
あるのかも刃の熱変態により現出させられている現実の目の前に見える
状態によって識別および掌握するのである。

刃中の観賞は、まず全体の刃文を観て把握する。
日本刀の刃文は直刃(すぐは)か乱れ刃しか存在しない。
その二種類にも多くの種別があり、直刃と見えても小乱れや
小丁子であったりする作もあるので、特徴をよく捉える。
刃中が冴えて明るいかそれとも暗く沈みごころなのか、刃縁
(はぶち)が締まっているのか眠くうるんでいるのかについて
も状態を把握する。
刃中や刃縁に刃に砂流し(すながし)があるのかどうか、金筋
が走るかどうか、足が入るのかどうか、葉(よう)があるのか
どうか等々もその刀身の特徴が何であるのかを見取って把握
する。

さらに刀身の顔である鋩子については、十二分に状態を見る
ようにする。横手の位置、フクラのカーブ、鋩子の長さと鋒(きっ
さき=横手から先の旨側)の在り方、鋩子の中の刃文の状態
働き、返り方等々をすべて目をつむっても言える程に状態把握
をする。

刀身の作りや変化変態の状態を鑑賞して把握するのと同時に
各部位の寸法についてもどのような作りになっているのかを
見取って行く。
まず元幅と先幅、元重ねと先重ね、重ねの変化の状態、松葉
や鎬(しのぎ)の位置や幅の状態、鎬地の傾斜角度、帽子の
形状や態様等をこれもつぶさに状態を見て掌握して行く。

この刀身個体は、身幅が元幅33.2ミリでかなり幅広な刀身だ。
ノギスでの計測の際は、金属ノギスは絶対に刀身に触れさせては
ならない。金属ノギスしかない場合はティッシュや極薄紙を当てて
紙の厚さを減ずる計算で計測する方法が刀身には良いだろう。
元幅は鎺(はばき)を外した状態で刃区(はまち)と棟区(むねまち)
の間の距離を計測する。


先幅は横手の下を測る。


この元先の身幅の差の具合により段平(だんびら/だびら)であるか
否か等を刀身目視で把握した印象とは別に実測値で確認することは
とても大切になる。
刀剣学習では、できることならば押形(おしがた)を取ることが望ましい
のは、刀身の作り込みという姿を正確に写し取って把握することが
できるからである。得能先生は「錵(にえ)の一粒一粒まで写し取れ」と
後進に教えられていた。

元棟重は8.2ミリと尋常ならざる厚みであるが先棟重も厚い。
総じて脇差は戦闘で使用されることが少なかったために健全な姿を
現代に伝える良作が多い。これは大刀や太刀に比べて圧倒的に多い。
ということは、大刀・太刀はやはり実戦で使用されて損耗していること
を反証するものであり、大刀・太刀一切実戦で使用せず論が論拠を
欠くことを示す類推証拠にもなっている。
そういうところも脇差ひとつ鑑賞しても思索を発展させて日本刀の歴史
の全体像を掌握していくことも刀剣考察で大切な事項である。


刀身の重ねは厳密には二種類ある。棟重(むねがさね)と鎬重(しのぎ
がさね)である。
元棟重は棟区(むねまち/むなまち)の部分の棟側の幅を計測する。
大和伝のように鎬が高く棟重が薄くなる鎬地の傾斜が強い作風は「重ね
厚い/薄い」がどこの重ねであるのかによって刀身厚みの表現が変る
ので厳重に注意を要する。棟重の厚みの強弱イコール刀身の厚みの
大小ではないのである。
一般的に刀身の重ねの有る無しは、鎬の高さに対する比率的な視点
から棟重を見て表現されることがセオリーであり、物理的な厚みはまた
別な表現を以てそれを伝えるので、この点は刀剣鑑賞及び看取の伝達
において最大限に注意を要する部分である。
大和伝などは鎬の位置が刃寄りの中央付近に位置し、備前伝などは
鎬の位置が棟側に寄って鎬地の幅が狭くなる。また大和伝は鎬が高く
て物理的にも鎬幅が厚くなり、薄い棟頭の厚みにかけて鎬地が削がれた
ように急傾斜しているという独特な形状になる。
逆に備前伝などは鎬自体が相対的に低く刀身がペッタンコのような
印象を与え、棟重が鎬に対して相対的に厚いため鎬の頂点から棟横
までの直線=鎬地がなだらかな傾斜となっている。結果としては平たい
印象を目視として肉眼的に与える特徴が備前にはある。
困難なのは大和と備前と相州の鎬地から棟への特徴をすべて併せ持つ
美濃伝だが、美濃伝の場合は新刀の基礎となる特殊な製法であった
為に、鎬地がほぼ一様に柾目がかる特徴があり、また鎬付近が白ける
(映りが映りに成り切らずに)特徴が美濃伝にはあるので、見逃さない
ようにする。ただし、慶長以前の美濃伝は新刀特伝とは異なり、無垢に
近い鎬から上下の二重構造等の特殊な造り込みも多いが、総じて膨大
な軍需に応じる為に戦国期に登場した新式製造法であり、古来の硬軟
合わせ練り上げの無垢製法とは大きく異なる材料板材作り置きを抱き
合せて鍛着させる「造り込み」という芯鉄構造が採られている。

日本刀は無垢であるから頑丈であるない、芯鉄構造であるから堅牢で
ある等は一切歴史上は存在しない。
歴史の流れと日本刀の変化質性がどのような変遷を見せたかを正確に
把握するのであるならば、その識別は出来る筈だ。
上古刀のような貼り合せ構造(和式刃物にその製法技法が現在も残って
いる)から変化して日本刀に芯鉄を入れるようになる構造が取られたことは、
とりもなおさず、貴重な高炭素鉄である「鋼」の節約が主目的であった。
さらに、鋼部分と低炭素鉄の部分を予め棒状や板状に鍛え置いておけば、
量産も可能であり、玉潰しから硬軟練り上げ折り返し鍛えのみで完成まで
仕上げて行く無垢造り(板材ではないので「一枚鍛え」ではない)では、途中
で手を休めることができないので非常に生産効率が悪い。
材料を炭素量毎に類別して種分けしておいて、それを任意に生産過程で
用いるという方法は現代工業に繋がるごくごく合理的な工法であり、刃物
製造時の鋼の利用方法としても極めて適している。
日本刀の造り込みの態様は芯鉄構造か無垢かに分かれる。どちらかが
刀身の堅牢性や頑丈さを決定づけるということは存在しないのであるが、
どうにもステレオタイプの判断で正しく事態を認識できない大きな誤謬が
刀剣界にまるであたかも「真実」のようにこれまで喧伝されてきたのが現実
なのである。
自動車のタイヤは車が地面と接地して摩擦により走行可能ならしめる
ために存在するのであるが、「波止場の船舶と岸壁の緩衝のために
自動車のタイヤは存在する」というようなことを自動車の部品の説明の
際にしているが如しの解説が刀剣界では日本刀の根本構造の説明で行なわ
れているのである。
芯鉄か無垢かは、歴史的な軍需の要請による製造量を如何にこなすか
否かという社会背景によって規定されて発生したものであり、丈夫にする
ためかどうであるかとかは関係がない。
芯鉄造り込みが刀剣の堅牢性を確保するという発想は、時として土壁
には棕櫚が中に練り込まれているために強度を確保しているのと同じ
鉄骨鉄筋建築のような発想で語られることが多いが、これは大きく的を
外している。
鉄骨鉄筋という構造ではなくラーメン構造でも十二分に強度は確保できる
し、何よりも、日本刀の場合は、金属の中の組成や化学成分がどのよう
な配合になっているか、配列と結晶粒はどうであるか、炭素量の異なる
部分の金属のミクロ的な手の連結状況(両手を合わせただけなのか
指と指を絡ませて握り合っているような状態なのか等々)がどうであるの
か等によって金属の強靭性の如何は方向づけられてくる。
部位による硬度差を除去して良質に均質性を付与するために初析炭化物
の偏在を除去せんと日本刀の和鉄は玉の状態から玉潰しによって圧(へ)
されて餅つきのように練られて行くのだが、その初期製造工程と刀身と
して形造る段階の鍛造による熱処理によって刀剣の鋼の質性は決定
づけられる。
まず材料ありきだが、同じ材料でも刀剣を作る人間によってまるで質性
が異なってくるのが刀剣という物で、これは料理とまったく同じである。
どれほど最高素材を使っても、料理人にセンスがなく料理がド下手で
あるならば、素材を活かした美味しい料理などは作れる筈がない。
つまり、鋼という鉄をどのように処理して「まとめあげ」ていくかにこそ
日本刀の堅牢さや頑丈さ=耐衝撃性質性の強弱は決定づけられてくる
のであり、材料がどうだとか構造がどうだとかのみに刀剣の丈夫さの
背景が存するのでは決してないのである。

そこの部分を正確に歴史認識しないと、実存古刀に迫る現代刀の製作
などは到底おぼつかないことだろう。
芯鉄構造は頑丈さ堅牢さを確保する必須事項であると言い張るならば、
ではなぜ芯鉄構造にした現代刀が軒並み鉄斬りなどができずに折損
したり刃こぼれの組織崩壊を起こしているのか。剣戟の打ち合いにさえ
使えない=武士の身を護ることさえできない性能しか持ち得ていない
のはなぜなのか。
また逆に、新刀特伝技法で新鋼である玉鋼の皮鉄のみで刀身形状に
したらそれが古来の無垢造りだと勘違いしているとしたら、そのような
「無垢」は高炭素の塊であるだけなので軒並みすぐに折損することだろう。
ここでもステレオ脳が物事の本質と深淵を見抜く事を阻害している。
日本刀研究者はもっと本当の実像、日本刀の真の姿を日本の真実の
歴史を研究することと連動させていく必要があるだろうと私は思料する。

この脇差は戦後早い時期の北海道登録だ。
これは推測だが、多分幕臣の持ち物ではなかったろうか。


出雲大掾藤原吉武は本名を川手市太夫といい、京都堀川国武
の子として生まれた三条吉則の末裔である。後に江戸に移住し
元禄7年(1694年)5月に江戸で没した。延宝ころに活躍した刀工
であり、備中水田国重(山城大掾源国重、大月伝七郎)と同世代の
刀工である。
この脇差は、小板目に杢が交じり、ややところどころ肌立ちごころ
で、地錵が強くつく良質な鋼に鍛え上げている。刃文は錵出来の
直刃に二重刃を交え腰元の表裏に二山を描き焼く新刀らしい
遊び心を見せている。
刃中は砂流しかかるが、荒沸えが潰れたように繋がる部分も見ら
れるのは惜しまれる。
鋩子は乱れこんで地蔵風に返り、返りが深く棟に延びる。鋩子の
焼き幅は広く、刃の構成面積が広い作であり、研ぎ減りによる刃部
の損耗の補完まで見越した実用的見地を作者が強く抱いていた事
が看取できる。
初代吉武(出雲大掾)は山田浅右衛門の記した業物位列では「業物」
に属し、切れ味鋭い作と伝えられる。
本作は重ね尋常ならざる元重(もとかさね/もとがさね)が8.2ミリも
あり、状態も健全で非常に好感が持てる。良作である。日刀保特別
保存刀剣。


茎(なかご。中心、中子)は入山型茎尻で、ヤスリ目は鷹ノ羽(たかのは)
である。
錆色が非常に良く、良質な鋼にまとめあげている吉武の技量を感じる事
ができる。

「~守」や「~大掾」というのは、本来工人などには与えられない国司たる
地方官吏の官位官職役職名で、上から「かみ、すけ、(だい)じょう、
さかん」
といった四等官のことを表す。

江戸期以降、日本の刀工を束ねる伊賀守金道家が代行者となり朝廷と
折衝するという形で各刀工に権威づけのために付与した。
守(かみ)を受領(ずろう/ずりょう)するためには現代金額で5千万円程の
金員を伊賀守金道家に上納しなければならなかった。
ローンも存在しない時代、一介の刀鍛冶が現在の首都圏郊外に一戸建て
住宅が購入できる程の現金を用意することなどは不可能であり、町の富裕
層である商人や大身の高禄武家のバックアップがなければ受領は成立し
なかった。

刀身裸身重量は約635グラムである。ごつい。






鎺(はばき)を入れたら665グラムだ。


なぜ刀身重量まで測るかというと、新作日本刀を武用差副えとして
注文する際の拵製作の重量配分を射程に入れているからだ。
刀身は直に机に置いたり秤の上に置いたりしてはならない。
かならず清潔なティッシュもしくは刀枕の上に置く。取り上げる際も
こすらないように真上に取り上げるように細心の注意を払う。
また極上研ぎの場合、打ち粉のタンポや刀枕(袱紗地)の紗彩模様
が刀身に疵として付着することもあるので極めて注意深く刀身を
扱う必要がある。美術刀剣だけでなく、本来武器たる刀身もその
ように扱うのが本旨である。

画像では直に刀身をテーブル上に置いているように見えるがさにあらず。
きちんと両端に刀枕を置いてそこに静かに載せている。
日本刀愛好家だけでなく、刀術等で真剣日本刀を所持する者も、絶対に
刀枕は一つだけでも持っておかなければならない。これは刀の鞘と一緒
で刀剣所持に必須な絶対必要物品である。

正月元旦そうそう、古刀三原をはじめ数点たっぷりと観賞したが、観賞
のために私に預けてくれた刀工群はどれも良作名作であり、元旦早々
眼福至極に御座った。
刀剣を貸し出してくれた篤志家の剣友に謹んで御礼を申し上げたい。
日本刀というものは、見る人にもよるのだろうが、刀を見ても何も心に
響かない人もいれば、人によってはその青き鉄色に惹きこまれ、刀を
見る事で生きる活力を得る人もいる。
私などは典型的な後者である。
日本刀無くば、私の存在はあり得ない。これは私にはどうすることも
抗うことさえもできない己の中に流れる物理的な血の由縁としても、また
私の一個人的な精神性としても。刀があればこそ私が今ここに生まれ
生きているということを刀剣を観る度に感じると同時に、ひとつひとつの
刀身には刀工の魂が浮かび上がり、命の咆哮を静かに湛えるのが感じ
取れるのである。
我は刀と共にあり。刀を愛でる真意こそが私のフォースである。