渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

3年ぶり皆既月食 2018年1月31日~2月1日

2018年01月31日 | 公開情報



タップ交換

2018年01月31日 | 公開情報











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突撃狙撃手

2018年01月31日 | 公開情報






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陽に映えるマシン

2018年01月31日 | 公開情報


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陽に映えるマシン

2018年01月31日 | バイク・車


高校の頃、ホンダのヨンフォアが好きだった。
走りの時はKHだったが、ツインもなかなか味があった。
クラスメートの友人と二人で鎌倉までツインで走った時に撮った写真が
この画像とそっくりだ。
絵柄だけでなく、マシンのハンドル周りも似ている。
ただ、上着はライダーだった叔父から貰った1950年代のダブルの
革ジャンを着ていた。
友人はスズキのサンパチだった。
型落ちだったが、嘘みたいに速いバイクだった。
仲間内で皆が持ってるどの車よりも速かった。
そいつは、大学に合格したのに進学せずに自衛隊に入った。
そして、上官をぶん殴ってクビになった。
変な奴(笑)。
その後、企業して成功し、今ではそこそこリッチな生活をしているらしい。

スコープに映る空

2018年01月31日 | 公開情報


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狙撃手讃歌

2018年01月30日 | 公開情報













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狩猟旅

2018年01月30日 | 公開情報




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Springfield Armory M1A SOCOM 16 308 Rifle

2018年01月30日 | 公開情報



Springfield Armory M1A SOCOM 16 308 Rifle


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(ヂキチン・テンチン関連記事)


突撃狙撃銃 AR-15サイドワインダー

2018年01月30日 | 公開情報



























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城下の裏路地

2018年01月30日 | 公開情報


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日の出

2018年01月30日 | 公開情報


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映画『道頓堀川』に見る今昔

2018年01月30日 | 映画・ドラマ・コミック


映画『道頓堀川』(1982)のオープニングで出てくる喫茶「リバー」。
戎橋の角から2軒目にある。3軒目は古い煙草屋の設定だ。

こちら36年後の現在。ピンクの看板の右側の建物だ。
窓の間仕切りの形状が往時を偲ばせる。


2018年1月の画像。リバーの建物はコンビニになっている。


この映画が撮影された1981年の日本の大阪の景観がこの映画には
収まっている。
気づくことがある。
先日、都内の杉並・高円寺を見ていて感じた。
1980年代の日本は、日本の風景がまだ残っていた。
今は、まるで繁華街や鉄道駅のある街は、全てが香港か韓国みたいな
景観になってしまっているのだ。
上野アメ横などは昔から香港みたいだったが、今では繁華街全体が原色
看板だらけで、建物は猥雑感のある雑居ビルの乱立のようなまとまりの
ない身勝手な景観に完全に変質した。
この先も日本のチャイナ化は止まらないだろう。
金が全ての歪んだ赤い帝国に日本は支配されることだろう。
この『道頓堀川』は、日本が日本であった時代に日本の人々の苦悩と街を
納めた映画作品である。


オープニング間近、通勤する武内(山崎務)を喫茶「リバー」の店内から見る。
これは主人公の一人、美大生の邦彦(真田広之)の視点からのキャメラ。

現在の「リバー」店内からの同じ方角を見た視点。


「リバー」は撮影のための架空の店で、その場所は昔も今も飲食店だ。
ただし、映画の中での喫茶店「リバー」店内の撮影は、全てスタジオ
セットで撮影されていた。これは私は最初は全く気づかなかった。
DVDのボーナストラックの解説で初めて知ったのだ。

戎橋は数年前に全面改修がなされて全く景観が変わった。
しかし、映画『道頓堀川』に写っているロッテリアやかに道楽や
コーヒーの青山は、今でもそのままある。
1982年当時、私はマックのポテトよりもロッテリアのポテトのほうが
好きだった。どうでもいいことだが(笑)。

1981年。
私は大学3年だった。映画の中での邦彦(真田広之)と政夫(佐藤浩市)は
私と同学年だが、19才の役を演じていた。邦彦は美大に通う大学2年生
だったが、実際の真田広之は日大に通う大学3年だった。殺陣研究会に
彼はいた。
映画では、邦彦が通う浪速美術大学の正門前に学生自治会カクメイ的
タテカンが出て来る。
だが、これは撮影した施設に設置した大道具のセットであることが
すぐに判る。文字がゲバ字ではないからだ。
大学のタテカンは、日共だろうが新左翼だろうが、全ての大学の
タテカンはゲバ字と呼ばれるフォントで書かれていた。それはのち
の2000年前後には、絶滅危惧種の左翼をヲチして楽しむ共産趣味の
全国ネットフォーラム「マル共連」では「古典芸能」と広く呼ばれる
ようになったが、その呼称を広めたのは私である(笑)。



こんなド下手な文字を書くタテカンなど存在しない。
これはスタッフの大道具さんに古典芸能の遣い手がいなかったことを
物語る。
ゲバ字フォントは各セクトごとに特徴があった。
古典芸能は短期間で習得できる。

これは東大。まだセクトゲバ字は確立しておらず、気合のみ。




京大。完璧にゲバ字フォントが確立されている。


カクメイ的明治大学正門。1981年頃。


1984年明大前。これももろに私の時代。


1968年明大前~神田カルチェラタン闘争。




投石用の飛龍石作りおよび運搬は女子学生の役目。1968年神田駿河台。


権力機動隊に検挙されると防石縦の前でタテにされて石つぶてに
わざと中るようにして半死状態になるようなことをされる。


1968年の首都圏東京都内。


沖縄反戦デーで新橋駅を占拠する中核派部隊。中核派は女学生も多い。
映画『怒りをうたえ』ではこのシーンのバックにワルシャワ労働歌が
流れる。この時、幼い私は現場にいたが、いやもう大変なことになって
いた。


これは私が大学1年1979年の時の入学間もない頃に学内と駅頭で
配布されていたアジビラだ。入学ひと月しか経たない者でもムスケル
をこなせば、カット&スットの短期習得でも、すぐに業界文字は書ける。
タテカンの文字をこなすにはハケの使い方がとても重要だ。ビラの
鉄筆での原稿カットも独特の技法で独自の文字フォントを使う。






筋金者は18才1年時の5月までにすぐにセクトにスパンと入る。
うだうだ言わない。嵐の中に立つのだ。己の両足で。

こちらは翌年1980年の2月の集会に向け東大の同志諸君が全国
学生集会で配布した学内問題のビラ。ノンセクトの諸君だが、
超党派連合で党派もノンセクトの運動と連帯していた。
このビラは文字に気合が入っている。本気度が見えるね。
これが映画ではない当時の現実の実相である。
(よくいまだにこんなの持ってるな>俺)



単なるゲバ字ではなく、このビラ原稿を書いた東大生、字が上手い。
東大生で字が上手い奴というのは案外珍しい。大抵はミミズがのた
うったようなきったねー字を書くからだ。

こののち、東大文学部学友会諸君は、パタリロをビラに描き込むなど
革命的な行動に出る。抵抗文化としての80年代サブカルの嚆矢は
早稲田でも慶応でもなく、東大から射放たれた。

1980年代。大学では70年安保敗北の後も、矛盾は一切解消されて
おらず、むしろ大学当局と御用学生の学内暴力支配は磨きを増していた。
大抵の場合は統一教会原理研が学内ゲシュタポとなって右翼的支配の
尖兵となっていたが、一方の極として日共代々木が暴力支配の補完物と
なっていたのが1970年以降の70年代後半〜80年代前半の日本の大学
の状況だった。
それでも、叛旗を掲げる空気は学生にあった。ポチを拒否する気概も
あった。

今は?
大学は就職のための専門学校となっているようだ。
学問の真理探究を求める場所ではなくなっている。
権力による産学協同体制は完遂された。
「反抗者」のレジスタンスは、今や完全に敗北したのである。
残されたキャンパスには、物を言わず草を食う若者ばかりとなった。
でも、それ、食ってるの道草じゃねえの?
せめて洒落でもいいから人を食えよ。

数年前に東大闘争をきめ細かくレポートしたテレビ番組があったのね。
そうしたらその中で、東大闘争取締り当局の責任者だった元警察官僚
の佐々淳行氏が出て来たのね。そして、東大全共闘に対し、好意的な
コメントをしていた。「世の中、すべての人が同じ顔をして同じ方向を
向いて何も物を言わなくなるというのは、ちょっとね。今の若い人は
世の中のことについて、もう少し熱を出してもいいのではなかろうか。
それも38度の熱だと困っちゃうけど、37度くらいの熱は若い人は出し
てもいいのではないか」と。
国家統治としての大儀は取締り当局にあったが、人として、学生と
しての大儀は東大闘争では全共闘にこそあった。彼らが学園を守り、
それを破壊しに突撃してきたのが国家権力だったことが象徴的だ。

道草を食ってる草食動物たちは、他人から殴られたことも殴ったことも
ない。
結果として、人としての痛みも知らない。
だから、今の感性がある。
人には人を傷つける力があったんだね、とかつて吉田たくろうは
「イメージの詩」の中で歌った。戦後生まれの彼らでさえ、暴力
否定=良い事と思い込んで洗脳されてきた。それはそれまでの戦前
戦中の暴力を国家ぐるみで武力にまで昇華させて実行していた歴史
の反動でもあった。
だが、暴力否定は矛盾と更なる別な形での陰湿な暴力を必ず呼ぶ。
取締り警備当局の警察トップだった佐々本人に学生運動を回顧しな
がら「若者よ熱くなれ」と今の子たちが言われている。
これまた「終わったな」感がかなりする。
私の一回り上の居合の先輩は、今世紀手前に首都圏の歩道に敷石
が復活した時、「本当に人民は敗北した」と極度のショックを受けた
という。全国的に歩道の敷石を消滅させてアスファルトにした1960
年代末期の国家政策の目的は、無論投石防止のためだ。人民の武器は
敷石を剥がして落とせばすぐに投擲用の石つぶてが製造できた。そし
て労働者学生は首都圏においてゲリラ戦的にそれを使用した。それを
見物する野次馬のサラリーマンの大群衆たちは「見学連」と呼ばれた。
だが、この富裕層たるサラリーマンの見学連たちはこぞって全学連の
学生たちと一緒に権力機動隊に積極的に石を投げた。
その歩道の敷石は、1970年頃から1990年代末期までの約30年間
全国津々浦々までアスファルトに工事された。これにより雨水透過性
が消滅して、大雨が降ると町は水浸しになった。
その歩道の敷石をアスファルトからまた敷石に復活させたということは、
もう投石は発生しないと国家権力が判断したからである。
暴力的衝突を伴う革命的決起はもう二度と発生しない、と国家権力と
この国の支配者が判断したからである。
まあ、草喰ってるのが大量発生だから、当局も安心だろう。
それに愚民化政策で、ばっちり効果上げて、2ちゃんねらーみたいなの
を大量生産できたから。
ねらー世代たちは、自分たちが「作られた存在」であることも疑おうと
しないものね。
まあ、彼らのために革命などは必要ない。せいぜいポチとして奴隷で
生きて行こうがのたれ死のうが、それは彼らの責任だ。
草食ってるとパワーも出ないだろう。
そしてネットの陰口だけで権力者のいいなりか?
ダサっ。


ブレイク

2018年01月30日 | 公開情報






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タップ検証

2018年01月30日 | 公開情報




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