渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

映画『尻啖え孫市(しりくらえまごいち)』

2014年12月23日 | 映画・ドラマ・コミック

『尻啖え孫市(しりくらえまごいち)』(監督三隅研次/原作司馬遼太郎/1969年大映)

や。これはなかなか面白うござった。
栗原小巻さんの綺麗なこと。いいわぁ~。
1960年代末期から1970年代初期にかけて、俺は栗原
小巻さんが大好きだったが、今見てもイイ。

でも、この作品では寧々役の梓英子さんに断然俺は萌えだ(笑
『大学番外地』では苦悩するゲバ学生を演じていたのが
印象的だった。あの作品はかなりシュールだったが。
『尻啖え孫市』は、司馬遼の原作も面白いが、三隅映画は
やはりイケる。
というか、錦ちゃんのいいとこよく引き出すよね、監督は。
娯楽の殿堂ここにあり。

難を言えば、出演者は女優さんだから、町中の町人たちも
美人ばっか(笑
現実的には、銀座でもそれはあり得ん(苦笑


斬鉄剣

2014年12月23日 | 映画・ドラマ・コミック



座頭市 勝新太郎 殺陣 「居合 / 抜刀」 Zatoichi.Shintaro Katsu .



すげえよなあ。
徳利だけでなく、刀まで片手打ちで切断しちゃうんだから(笑

あくまで、ファンタジーですから、これは(苦笑
特に陶磁器などは刀では切断できません。これ常識。
また、刀を刀でこのように片手打ちで真っ二つということも
まずあり得ません。
てか、完全に痛快娯楽活劇ですから、こういう映画作品は。
そもそも徳利持っている手を切らずに手の中の徳利を切断
ですから、すごい技(笑

映像創作作品と現実はまったく異なるということをご理解ください。
それにしても、プロットそのものよりも演出の細かい描写がとても
よくできてるよなあ。
昔の映画は、やはり最近の安直な演出描写とは大違いだと
強く感じる。CGなしの時代だから、なおさらきめ細かいアクション
の演出に職人技的な表現手法を駆使していたのかもしれない。
『座頭市』や『眠狂四郎』などは、今でも観ていておもしろいもの。
「眠狂四郎」なんて、昭和時代に生まれた「少林寺拳法」が江戸時代
に出てきちゃうしよ~(≧▽≦)
S
leepy Eyes of Death - The Chinese Jade

眠狂四郎は Sleepy Eyes of Death だって。ベタだね(^^;
設定が超テケトーなのに、作品は面白い。
おらもこういう拵にした~い(^^)
いるんだよなあ、俺みたいに映画観て自分も真似したくなるやつ。

ただ、眠狂四郎シリーズはともかく、この当時の映画作品は、この
少し前の日活無国籍映画と時代劇を比較すると、時代劇のほうが
凝りに凝ってるよ。特に1960年代末期は。
日活活劇も面白いのだけど、あれの面白さは全体的な流れと
勢いで、こと細かい描写はかなり適当だった。それでも面白い。
赤城圭一郎の「拳銃無頼帖」なんてかなり面白かったよ。







映画で使用しているコルト・ウッズマンは実銃。国内撮影なのに実銃。
米軍関係者からの貸し出しだったが、大らかな時代だった。
この作品は俺が生まれた年に製作された。これはですね、面白いす。
この『抜き射ちの竜』に影響されて、コルトウッズマンが大好きになった
と、漫画『秘密探偵JA』、『ワイルド7』の作者の望月三起也先生は
自ら語っていた。望月漫画のウッズマンの原点はこの作品にあった。

いや~、映画って本当にいいですね。


安芸国大山鍛冶 ~広島市安芸区上瀬野下大山~

2014年12月22日 | 文学・歴史・文化・科学



「かなり、探しましたよ」
広島市内の日本刀愛好家の方からメールで連絡をいただいた。
安芸国大山鍛冶の鍛冶場跡(現広島市安芸区上瀬野下大山)
を早速訪ねたのだそうだ。
行動力ある~(^^;

まだお会いしたことがない方だが、日本刀についての意見交換
を時々させていただいている。
年も若い方なのに、何口(ふり)か日本刀をお持ちで、お話を伺うと
なかなか造詣も深い。
そうした若い人が日本刀や郷土の歴史に
興味を持って、さらに
次世代につなげていただければと思う。

気づくと齢(よわい)半百を過ぎた私でも、刀剣界では「若い」
部類に入るのだ。日本刀界の高齢化は加速度的に続いている。
あとの世代が続かないのが現実だ。決して日本刀鑑賞や探求は
老人趣味ではないのに。あたしゃ中学生の時からどっぷりと
日本刀探求にはまってました(笑
しかも、中坊なのにかなりマニアックに。でも、最初は五箇伝を
覚えるところから入って行った。刀剣書だけでなく、多くの刀を
実際にこの目で観て。

高度経済成長期にはつらつとしていた青年たちは、現在は皆
老境にある。(私は老年というより壮年)
若い世代が、お祭り集客イベントではなく、しっかりと正道から
日本刀を捉えて鑑賞し、歴史性なども研究してくれればと切に
願う。


名水湧水地=酒=鍛冶屋

2014年12月20日 | 文学・歴史・文化・科学

「名水が出る地域では酒と鍛冶屋が有名である」。
江戸誂え刃物鍛冶、左久作の言葉だ。
名人二代目左久作(池上喬庸さん/故人)の子息の三代目左久作喜幸
(のぶゆき)さんは刀工二代目康宏と義兄弟のような間柄だ。
この左久作の作る打ち刃物は日本一ではなかろうかと私は思って
いる。昔から腕の良い職人は左久作を求めた。それはまるで、江戸
旗本や大名が好んで選び、現在では真打昇進祝いに落語家が自分
で求めて買う池之端道明の組紐のように。江戸打ち刃物の伝統を
左久作は頑なに守って職人仕事を続けている。日本の心がここにある。

宮内庁御用達渓流ナイフ(左久作)

250年前の三原鉄と英国鋼を使用した渓流釣り用ナイフ。(紹介ブログこちら
1990年代、康宏鋼でガンガン私が作った打ち刃物ナイフは、
この
左久作製の渓流小刀の影響をモロに受けていた。この
シルエットが
私にとって一つのスタンダードとなっていた。私の
ナイフを見た神奈川
県の居合高段者は「サスガのようなシャープ
さが引き締まっていてとても良い。私にも一本頼む」と
言った。
だが、私のそれは、左久作の写し物であったのだ。私はかなりの
影響を受けている。鉄を知悉する鍛冶、本物中の本物が左久作だ。
洋式ナイフに比べて価格も高くはない。


そういえば、三原には名水あり、地酒の酒蔵がいくつもあった。
芸予地震で被害甚大につき、廃業した蔵元もある。
「黒田武士」で母里(ぼり)太兵衛が飲みほして秀吉拝領の
日本号の槍を福島公から呑み取ったのは、三原の酒(献上酒。
後の銘柄は
「旭菊水」)だった。現在は廃業した。地元三原の
人たちは一番この旭菊水を愛していた。私の父も東京在住時代から
これが一番好きだった。江戸期から続く蔵元が21世紀に入って天災
によりやむなく廃業したのはとても悲しかった。

刀鍛冶が三原で栄えたのは戦国末期~江戸期の一時期
のみだった。あとは三原の鍛冶屋は生活全般に亘る刃物を
作っていたが、鍛冶屋数は異様に多かった。こちらもどんどん
廃業している。市内に炉を据える打ち刃物鍛冶は一軒だけになって
しまった。

三原城下で「下町」と呼ばれている地域がある。現在名は「西町」
というが、かつては「かじ新町」と呼ばれた。「梶」の字があてられ
たりしたが、原意は「鍛冶」だろう。
江戸時代の記録を読むと、町内構成は以下の通りだ。
三原城下は東町が商人街、西町が職人街であったのだが、江戸中期の
「西町分 家数並竈数 諸職人之書付」によると、西町は家数が合わせて
「320軒余内 240軒本町 79軒新町」とある。(算用数字に変換)
そして多くの職人の家数を列挙しているのだが、お頭的なまとめ役の
家として以下が記載されている。
「内
  鍛冶役家 拾四軒
  大工役家 拾弐軒
  桶屋役家 三軒
  畳屋役家 壱軒
残テ弐百九拾軒余町役家
一 鍛冶 弐拾四軒 
(以下省略)」
鍛冶職の親方の家が職人街のなかで一番の軒数を示している。
狭い町内に24軒もの鍛冶屋がフイゴを据えている。もう、そこら
じゅうが鍛冶屋だ。三原城下西町の「かじ新町」は「鍛冶新町」であった
のだ。
明治初期に城内の屋敷召し上げ以降、我が家は下町のかじ新町
に転居したが(明治17年)、そこは周りに職人たちが多く住む
環境だった。今の東京の下町や広島城下の職人街によく似ている。
ただし、鉄砲鍛冶が集団居住した「鉄砲町」という町は三原には
なかった。そういう同族プロフェッショナルの鍛冶集団は、なんだか
トチローみたいでロマンがあるのだが。
(三原城下、旧「かじ新町」)


城下にあった鍛冶屋は江戸期からの□の中に/を描いた「ありマス」
看板を軒に掲げていた古風な鍛冶屋だった。時代劇のセットの
ような街並みにあったその古くからの鍛冶屋が残念ながら廃業する
と聞いた時、フイゴやスプリングハンマーを譲ってもらおうとしたが、
すでに売り先は決まっていた。造船所で使用する部品やジグを細々
と作っていたが、成業成りたたずにやむなく廃業となったのだった。
鍛冶屋と造り酒屋、造り醤油屋はどんどん廃業して行く流れにある。

そういえば、広島県の特色としては、「造り酒屋の息子」が政治家
になるのが一つの道のような時代があった。かつて酒屋は素封家
であったからだ。三原の隣りの竹原出身の池田勇人もそうだった。
だが、今では造り酒屋も存続さえ危機の時代となった。
現今の経済構造は、古い時代の「モノ作り」が生き延びられない
ような構造になっている。また、日本はそれを目指している。
家内制手工業やマニュファクチャをすべて潰すことが、果たして
本当の意味での国の豊かな近代化といえるのだろうか。
この圧殺構造は製造業だけでなく、小売販売業にも及び、現在は
昔ながらの小売酒屋や魚屋や八百屋等は暮らしが成り立たない
ようになってしまっている。無論政治はそうした商店存続に手は
貸さないどころか、大企業・大資本優先型経済で潰しにかかって
いる。同じ手法で国も金融資本も「国際経済」の美名の下にTPP
参加を軸として日本の第一次産業をも潰しにかかっているから、
この国の未来は「金主」=金融資本が最優先の国として内需不在
の単なる輸入国として完成されるだろう。たぶん将来は国そのもの
が中華帝国や欧米金融資本に乗っ取られるのではなかろうか。
そうしたことを今の日本国家はやっている。紙幣乱発による目先の
円安操作などは具の骨頂だ。
ただし資本家寄りの経済アナリストたちは国家百年の計ではなく、
眼前の利益優先の視点しか意図的に煽ろうとはしない。ゆえに
扇情的に投資を誘い水として国民にもそれを扇動する。丸ノ内経済
がその典型だ。新幹線のグリーン車に常設の経済誌などを読むと、
偏向した視座に笑いがこみ上げてくる。航空機内でもそうだが、同時
に必ず旅や古い日本を訪ねる「文化誌」が併備されている。なぜか。
経済構造が向かう未来がもたらす人々の閉塞感をガス抜きでカモ
フラージュするためだ。旅行やいにしえを訪ねる紀行などをなぜ今の
日本人が求めるのかを巧みに利用した人心操作に他ならない。
だから必ず二冊常備する。文化誌を見ておちおちとホッとしている
場合ではない。なぜか?を考察すると、己の置かれた状況が霧が
晴れるように見えて来る。絶望的な未来が。だが、それを国民に
気取られないように、資本は巧みに人心を操作する。
刀鍛冶に私淑するなどというのは、現今の日本経済の流れから
いうと実に馬鹿馬鹿しいくだらない愚行、という構造の中で完全に
オミットされる。今の世は、そういう時代になった。はたして豊か
かな?

私は、芥子粒ほどにささやかではあるが、個人的に「創活動」で
その流れに抗っている。
それは私一人ではできない。多くの有志と共に歩んでいる。
それは単なる売り買いの刀剣売買などではない。創文化としての
活動の一環なのだ。だから、私は商売ではそれをしていない。私
の活動に金員報酬は要らない。商売で動く社会活動ではある種の
桎梏が生じるからだ。
未来を見据える。
だからこそ、今までにない新しい形態での日本刀作品の提供が可能
になる。日本経済の流れの中で純色(にびいろ)の暗雲に押し潰され
そうな今の日本刀をめぐる環境に対し、一点突破の全面展開とまでは
いかないまでも、さらに希望の未来は無限に広がる。
私にとっての最大の報酬は、そこで生まれる人の笑顔だ。
なにも、これはカビの生えた先駆性論に立脚しているわけではない。
破壊ではなく創造へ、ということを小さいことながらもできることから
着実に歩み出しているだけのことだ。
こうした立脚点、視座に根ざして活動を行なっている日本刀関係者、
有志の方々は方法論やアプローチは違っても私以外にも多くいる。
これは僥倖だ。未来は決して暗くない。


備後国三原は「三原鉄」の産地と目されるが、三原鉱山という名の

鉱脈は現岡山県井原市芳井にも同名の鉱山がある。広島県
三原市の鉱山は数十年前に廃坑になったが、磁鉄鉱も採れた。
現在もゴロゴロとズリに転がっている。いわゆる鉄鉱石だ。

三原の名水で飲用としても人気が高いのは、三原市本郷に
ある水源だ。
右の山頂が高山城、左の山頂が新高山(にいたかやま)城だ。
小早川氏の居城である。この新高山城から、海上に築城した
三原城に小早川隆景は移住した。この画像の川は沼田(ぬた)
川というが、三原城築城以前はここは海であり、この川は入江の
一部だった。


私は個人的には、中世に古三原という刀鍛冶がいたとしたら、
この高山城付近も推定比定地の一つに加えてもいいのでは
と踏んでいる。
・旧山陽道(古代山陽道)の要路沿いであること
・戦国領主居城の近辺であること
・名水が湧くこと
・中世発祥の鬼伝説の奇祭が現存していること
・古代産鉄地近隣であること
等々から、この高山城付近の陸地が古三原鍛冶の鍛刀地の
可能性もある。しかし、刀剣界ではノーチェックだ。

そうそう。全く話が飛ぶが、刀工初代小林康宏は「そのうち赤目
(あこめ)砂鉄、
赤鉄鉱での製鉄も試みたい」と1970年代の書に
書いてある。

この近隣は、採れる砂鉄は赤目(あこめ)であり、ソブがやたら
とある。

つまり、超古代製鉄の材料と目されるベンガラ系の赤色褐鉄鉱
も豊富であるということだ。

三原の山はソブだらけ。


この赤土を炉で加熱して木炭で還元させれば鉄が生まれる。
弥生時代の製鉄は
これだろう。古墳群の近隣は決まってこの
赤土地帯だ。神社等にもみられる超古代の「赤の文化」は、
丹(に)と並ぶベンガラの文化でもあった。王権あるところ必ず
鉄あり。鉄あるところ必ず鉄となる土と砂あり、だったのである。
中国山地に松が多いのは人工的な植樹による二次林であった
ことは植物学的研究により判明している。製鉄で必要不可欠な
木炭を作る為に「山が作られ」て、そして丸禿げにされて「山が
壊され」た。古代から近世まで、日本はこのサイクルを繰り返し
てきた。これは維新後に大規模近代製鉄が登場するまで連綿
と千年単位で続けられてきた。木は刈っても植えればまた生える。
しかし、制御不能の近代化により、二度と生えないモノも存在する。
それは何か。






三原市本郷沼田の天然水。


ここの水は美味しいらしく、遠方からも汲みに来る。
今度、焼き入れにはこの水を使ってみるか・・・。
右の山の山頂が小早川居城の第一城の高山城だ。
この天然水取水場所と右の山裾の道路との間に沼田川
が流れている。古くは渟田川と書いたが、ここいらも戦国
期には海である。現三原市内からは10km以上内陸部だ。
だが、中世末期までは現三原市街は海の中であり、ここが
古代山陽道の経路でもあるので、こここそが古い時代の
要衝だった。当然、律令時代の駅家(うまや)も6キロごと
に設置され、物流(といっても産業経済の物流ではなく中央
王権への納税のための物流)も盛んだった。


右の山裾が高山城。右の山肌が新高山城。(土の色に注目)


むう。名水ではなく「銘水」であったか。


KAKO

2014年12月16日 | バイク・車



このおっさん、何偉そうに広告でドヤ顔の腕組みしてんの?
ヴァカじゃね?
足の有様からして、気に入らん。

こういうのは40年前に埠頭に集まるパラリラパラリラ~のンコ座り
集合写真連中と変わらないんだよね。夜露死苦!みたいな。
カメラマンが要求したポーズだろうが、センスを疑う。
勘違いラーメン屋オヤジかフルコン格闘技の脳が筋肉野郎
みたいだ。
もっとも、このポーズが象徴的なこの社の客への姿勢だろう。
安全面でのリコール案件の時も、まず最初にユーザーにお詫び
するのではなく、「トヨタの名を汚すわけにはいかない。だから対応
する」というのばかり強調していた。社風と車作りの姿勢が分かり
やすい記者会見だった。

仕事で強制的に割り当てられた車はやむなくトヨタに乗るが、俺は
個人的には絶対にトヨタには乗らない。
俺は車好きではないが、ローバー、富士重、いすゞ、マツダ、三菱、
ホンダ、ダイハツ・・・と乗って来た。だが、トヨタには乗らない。
理由は一つ。
嫌いだからだ。社長が。


日本の文化と刃物

2014年12月14日 | 文学・歴史・文化・科学



「わっ。何これ?これいい!これほしい」
つい最近の事だ。
肥後守を初めて見たという人が言った。
私は世代間格差を強く感じた。
1960年生まれの私が小学生時分には既に子どもから刃物取り上げる
運動が学校をはじめ社会全般で進行中だったとはいえ、まだ小学生は
文具として肥後守を筆箱の中に入れていた。丁度、だんだん文具の刃物
が消滅して行くその最初期の時代だったからだ。
地元三原の友人に40歳を回った人がいる。
その友人は「僕が最後の肥後守世代かもしれない」と言っていた。
私の10才少し年下だ。私は1960年代後半から70年代初期が小学生で、
彼は1970年代後半から80年代初期にかけてが小学生だった。
ただし、友人が小学生の時には学校からは肥後守は完全に消滅しており、
個人的な釣りや工作などのシーンで肥後守を使っていたから自分は一般的
な世代からは外れていたかも、と友人は付け加える。
冒頭に書いた肥後守を見て感嘆した人は30代後半の人だ。
世相として、肥後守の存在さえ知らない世代で、世代的にごく当たり前の
「未知との遭遇」だったといえるのかもしれない。
そういえば、肥後守を「これは何ですか?」と初めて実見し、興味を示した
九州の友人も、肥後守を知らない世代だったが、冒頭の人と同学年だった。
その九州の友人には、自宅にお邪魔した時、私が文具として筆箱に入れ、
さらに「厳重に梱包して」持っていた肥後守をその場で進呈した。庭で極細
の竹笹を互いに切ったり削ったりしたが、今も使ってくれているだろうか。

かつて私の小学生時分は、教育の場でまだ刃物の使い方は教えて
いた。
現在は「刃物=危険」という一面だけを重視し、その使い方を教えない。
刃物の安全な使い方を教えずに、子どもから刃物を取り上げるだけの
教育放棄を行なっている。
だからなおさら刃物は危険な物になる。刃物を危険な物だけにしている
のは大人たちだ。

最後の肥後守世代かもしれない、と自認した地元の友人は積極的に
二人の自分の子にも適切な刃物の使い方を教えているという。
日本の伝統と文化を継承させていると言っても過言ではないだろう。
その友人が、母校の大学附属小の懇談において、教師と意見交換を
する機会があったという。
なぜならば、広大附属も教育方針がここのところ著しく変容したらしく、
私の娘が通っていた頃とは大きく様子が異なるし、その友人が通った
数十年前とは大幅に異なることを知ったからだという。
広大附属では、休み時間等でサッカーなどでボール遊びをする場合、
肩より上にボールを上げてはならない、という規則で児童を厳しく取り
締まることを強化し始めたという。
肩より上?
サッカーではスローイングができない。バスケットでは、バスケそのもの
がプレーできない。オーバースローをするドッジボールも禁止だ。当然
ボールを真上からスローする野球もできない。
刃物狩りとまったく同じ発想である。
スポーツにおける危険プレー(例えば野球で投手が打者にビーンボール
を投げるとか、サッカーで足狙いでキックするとか)をスポーツルールの中で
禁じることはスポーツマン精神に則った上で教育的指導がなされることで、
ただやみくもに禁止すれば事足りるという精神で行なわれることではない。
まして、スポーツの基本運動形態を禁止するということは、児童に「球技を
するな。危険だから」ということ以外の何物でもない。
広大附属三原校は、一般的公立とは一線を画し、これまで運動会で徒競走
もやってきたし、騎馬戦も棒倒しもやってきた。
だが、やはり、時代の波に呑まれて来たのか。

友人との懇談で対応した教師は友人の主張に一つ一つ納得していたと
いう。「おかしい事ではなかろうか」という友人の父兄としての主張にだ。
そこで、友人は教育放棄という指摘の中で、刃物のことに触れた。
長野県のある小学校で、刃物(肥後守)を安全に取扱い、研ぎから手入れ
まで自分で小学生児童が自分で行ない、安全と危険回避を身につけたが
ゆえにきちんと刃物で物が作れ、子どもたちが刃物で人を傷つけることなど
せず、日本の歴史と結びついたかつての日常文化を「情操」として教育
できることを教師に紹介した。
その教師は身を乗り出して非常に興味を示し、これはいいなぁ、と自らも
取り組めないだろうかと、この情操教育へのアプローチの方策を模索する
ような姿勢を示したという。
だが・・・、この先生は信任の教師らしい。
現行、大きな力で「危険回避」の名目だけがゴリ押しされるようになった
広大附属校の中にあっては、この新任教師の「やる気」は、全方位包囲網
で潰されることが容易に予想がつく。「よけいなことをするな」と、勤務評定
にも影響が及ぶことも想像される。何しろ、「肩上ボール上げ禁止」で生徒を
取り締まって厳重注意するような校風になってしまったからだ。

小学生の教育課程で図画工作は外せないが、現在小学生が使用する彫刻刀
は、刀の刃先に円形のガイドが装着されている。「手を切らないように」「人を
傷つけないように」とのことらしい。
正直言って、まったく使えない刃物にされてしまっている。それで彫刻をしろ
と「教育」される。
考えてもみてほしい。包丁の刃先横の刃先より出た部分にガイドが付いて
いたとしたら?それで本当の料理ができますか?
彫刻刀という刀も同じことだ。
現在の小学生は、そんな刃物で彫刻授業に参加させられている。
刃物が人を傷つけるのではない。人が人を傷つけるのだ。そこを教えようとは
しない。
刃物にはガイドを付けてさあ安全、私たちに責任はない、などというそういう
歪んだ発想の教育では、「刃物で人が傷ついたのはガイドがないからだ」
という自己責任逃れをするような子どもたちばかり量産することになりは
しないか。刃物取り上げ運動で育った世代がモンスターペアレンツになって
いるという現状が、歴史で私たち日本人がどんな大切なものを失ったかを
示しているといえるのではないか。

16歳で自動二輪の免許が取得できる法律があるのに、それを犯してまで
高校生からバイク免許とバイクを取り上げれば事故が起きても自分たちには
責任が及ばないとする「三ない運動」と「刃物撲滅運動」は同軸にある。
安全運転指導や安全使用指導を放棄することで事足りるとする。
つい先ごろ、「危険だから市民は自転車には乗らないでほしい」と発言した
極めて愚かな市長がいたが、「安全とはなにか」、について真剣に取り組む
姿勢は毛頭見受けられない。そこには一切の建設的な啓蒙というものが
不在だ。
危険性を含むものだからこそ、安全な使い方、適切な方法を啓蒙して
人としての質性を高めることを呼びかけるのが教育の場であり、行政が
市民に呼びかけることだろう。
しかし、どうやら世の中の流れは少々違うようだ。
「自転車乗らないで」発言はさすがに一般市民の批判にさらされたようだが、
発言を撤回しても、あの市長の心根の根幹は変化しないだろう。普段その
ように思っているから、問題とも感じることなく発言に出るのだ。現今の
教育現場をはじめとする指導層の姿勢をあの市長は如何なく代弁したに
過ぎない。本質的根源部分では生徒のことを考えていない「教育者」と
同じである。自分の身の保身のみが先行する。そういう発想に凝り固まって
いる。

教育の放棄は責任の放棄だ。
それは人をないがしろにすることだ。学校においては、生徒児童をないがしろ
にすることだ。
それを教育とは呼ばない。

過去記事だが、こちらをぜひご一読願えたらと思う。
→「豊かさ」(2013年4月23日記事)


将兵皆殺し ~天文22年-1553年~

2014年12月13日 | 文学・歴史・文化・科学





備後国三次(みよし)。
今から460年前、この地で大きなイクサがあった。

(古戦場跡)




備後高杉城である。
戦国時代の城は山城が一般的で山頂に作られることがほとんどだったが、
ここ高杉城は平地に作られていた。
この地では山陰の尼子氏vs山陽の毛利氏・大内氏が激しく争っていた。
その状況下、地元の武将である三吉(みよし)氏、和智氏、江田氏はどちら
に与するか不安定だったが、尼子氏側についた江田氏は天文22年-1553年、
毛利元就の総攻撃
を受ける。江田氏の支城だった高杉城には城主祝(ほふり)
甲斐守治部大輔
の一軍約1000名が籠城した。














石灯篭には宝永元年とある。1704年、210年前だ。富士山大噴火の3年前である。





左右で一対の石灯籠。こちらには霜月吉祥日とある。


未舗装道路。横の溝のような川は一級河川だ。


備後二宮知波夜比古神社。ここが高杉城である。



東側から遠方に高杉城を見る。土塁で固められて小高くなっているのが判る。




高杉城のイクサでは、城に籠城した敗残兵は皆殺しにされた。
鉄砲伝来は一応1543年とされているので、10年後の1553年の
高杉城の戦いでは鉄砲が主力武器ではなく、弓矢と刀槍で戦ったの
だろう。もろに近接戦闘の白兵戦が展開されたことだろう。
エグイよなあ。ビシュッ、ドバッ、グハァ、ギャアー、ドビシッ、バシュッ、
ザックリ、スポン、バタンということが弓矢や槍や太刀で行なわれていた
ということだ。
討ち取られた祝側の将兵の首は600に及んだと記録にある。皆殺しで
ほぼ全滅だ。

負ければ死。これが戦国時代だ。厳しい。

国内大争乱の戦国時代の始まりは応仁の乱(1467年)からと
されているが、実質上の国内騒乱状態は1300年代初期の鎌倉
時代末期から開始されていた。300年戦争とも呼んでよいくらいの
戦乱の時代だった。新興武家勢力が群雄割拠して殺し合いをして
いたのである。
現在のモノサシで歴史を量ることはできないが、いつでも殺し合いが
常の状態はまともな時代とは思えない。赤子が生まれて老いて死ぬ
までずっと戦争しかない時代。これというのは、一体どんなものか。
現在の中東なども、生まれてからずっと戦乱しか知らない子どもたちが
大勢いる。
「倭国大乱」の時代から何度も我が国は内乱を経験し、260年
に及ぶ最長平和時代が続いたのは徳川江戸幕府政権成立期が初めて
だった。
そして明治10年以降、130年ほどは日本に内乱は起きていない。
だが、国際戦争には明治以降も断続的に参加してきた。
日本が戦争を「停止」してから、まだたったの69年である。

高杉城近くにある鉄道の駅に寄ってみた。


無人駅だ。無人駅であるからして改札もない。路面電車と同じだ。







南側を臨む。「福塩線」というJRの鉄道だ。
ここらはまだ平地だが、山陽山陰地区を走り抜ける福塩線、芸備線、
伯備線、木次線、三江線は、山間部を抜ける時の風景が絵に描いた
ような明媚さを映し出す。


芸備線


伯備線


伯備線


芸備線。奥出雲オロチ号。いにしえの産鉄地を走り抜ける。


便数は一日に7本だ。


旧国鉄=JRは、運賃で駅間の凡その距離が判る。




この備後三次(みよし)地域は古代には一大古墳群があった。
縄文・弥生時代の遺跡は圧倒的に海岸線の三原地方に多く、
5~7世紀遺跡はここ県北の三次地区に集中する。
大和王権影響下による「砂鉄製鉄」の普及と密接な関係が
あるだろう。




備後に住むということは、古代産鉄地に住んでいるのだなぁ、という
ことを時々強く感じる。
もっとも、私は武蔵、相模、備後にしか住したことがないが(笑
あ、いっとき、本家を出た時、三原市内の安芸国に住んだことが
あったか。現在は同市内の備後国域に住んでいる。江戸期の家からも
ほど近い。

最近気づいたが、武蔵=武州については勘違いしている人が多い。
武蔵の国は広く、現在の神奈川県横浜市南部の金沢八景あたりまで
が武蔵の国だった。武州六浦藩とかあったよね。
言ってみれば、鎌倉のすぐ北までが武州だったのよね。
これ、案外知らない人が多いみたい。神奈川県=相州みたいに思って
るんじゃないかなあ。

武蔵国の範囲


もっとも、広島県三原と同じで、武蔵国は古くは大きく湾が入り江に
なって
いたが。入り江だから「江」の戸となったのでしょう。


旧国の境界線についての誤解というケースってあるよね。
たとえば、
備前・備中・備後と分けられたのは後代で、その三国が元々は
一つで
「吉備国」だった。だから三原市も吉備なんだよね。これも案外知ら
れて
いない。吉備というとすぐに岡山を思い浮かべる人が多いように見受
けられる。

あと、「まがね吹く」のは「吉備」だけど、備前じゃないんだよね。備前では
砂鉄製鉄は盛んではなかった(むしろさらに古代の褐鉄鋼小型製鉄が主
だったと思われる)。中国地区の鉄産地は備中・備後・出雲が中心地だった。

備前は国内最大ともいえた「市」があったところだから、産業集積地として
栄えたんだよね。水運も発達していたし。
備前福岡が懐かしくて、九州に赴任した大名黒田氏は博多に福岡なんて
地名を
新たに付けちゃったくらいに備前は栄えていた。このネーミングは
「東京」と似ている。「京」というのは京都府の京都のことではなく「王都」と
いう意味があるのだが、それと同類の地名付与として九州福岡は備前から
取って命名された。

昔の吉備の国というのは現在の兵庫県西部加古川から広島県三原市内
までのこと。ここんとこ、夜露死苦!
吉備国はね、まあ、なんというか、人の性格は良くない。
400年ほど吉備に住した血を引く俺が言うのだから間違いない(笑
俺さ、岡山県のことボロンチョに言うけど、ほんとは同族同類なんだよ~。
トホホのホ。
まあ、自分に刃をあてて自戒している訳。偉いな、俺って(笑


選択

2014年12月11日 | バイク・車



イトコ姉の夫は、機種選択をこれにしたいらしい。
う~む。CBはホンダのフラッグシップ。栄光のナンバー。

俺はケロッコでめたんにしとくよ(笑

こんなの。


あ。違った。これはこれで痺れるし、1台は死ぬまでに絶対に保有
するだろうけど、近々の予定は2ストパラではなく、4ストマルチの
こっちだった。
伝説の'89モデル、カッケー!!





それにしても、オーストラリアの風景や道路って、日本の
高原地帯の風景とそっくりだね。

new plymouth back roads


俺の人性の締めは、「カワサキ乗りだった」で終わろうと思っている。
俺自身は、年老いてバイク乗れなくなって「ああ、若い時にバイクに
乗っておけばよかった」ということではないので、人性の中で悔いは
ないが、現状で悔いが残るとしたら、これまでカワサキには乗ったし、
二台保有もしたが、正真正銘の「カワサキ乗り」では無かったことだ。
だから、俺はカワサキに乗る。
人間いつ死ぬかわからない。
だから、俺はカワサキに乗る。
悔いを残さないように。