渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

息の長いスタイル

2022年01月24日 | open


最近ドラマでも人気らしいけど、
バーチカルツインというのは、
何だか息が長くていいね〜。
流行に左右されない、というか。
スピード系とはまた違う魅力。


不二子ちゅわ〜んが1971年に乗って
いたツイン。かなり後ろ乗り。




不二子ちゃん、実在したなら現在
80数才(笑
息なげえ〜(笑



北海道便りNOW

2022年01月24日 | open

湖の上にテント張って、そして
氷に穴あけてワカサギ狙い。

テント内はストーブ焚いて熱い
くらいだったそう。
やっぱシュコシュコくんがいいね。

食いは渋かった、との事ですが
お酒のお供にはちょうどいい。
こちらの釣り人はウイスキー好き
な人。
これはコバルト色の美味いやつ。
いいすね〜。


うはあ、たまらん。
北国のこれは、大阪のスルメの
天ぷら位にセオリーすね。
瀬戸内海中国地区では不可能。
これはいい!


瀬戸内海だとコイワシになっちゃう。
まあ、同じような魚なんですけどね。
ワカサギはキュウリウオ科でイワシ
はニシンの事。

私はワカサギの氷上釣りはこれまで
一度しかやった事がない。
雪国はこれが楽しめるからいいねー。
湖の天然氷でアイススケートはやった
事がある。榛名湖で6歳の時。
新宿駅西口からバス乗って一泊で。
スケート国体選手だった人に連れて
行って貰った。
お楽しみスケーティングではなく、
6才なのに体育会系でしごかれて
厳しかったよ(笑

ワカサギ釣り、やりてぇ〜。
あとで「釣りバカ浜ちゃん」でも
観るか。


刃物研ぎ

2022年01月24日 | open


包丁でもナイフでも刃物研ぎの
基本。
カエシをきちんと出して、裏から
もカエシを取る。
そして、刃先を極微細研ぎをした
のちに、最後に革で優しく両面を
ストロッピング。
これだけで、刃味は格段に違います。
ストロッピングの革は、板に固定の
タイプではなく、張ってテンション
自在の物が最適。
昔の床屋さんのような。
これはもう、西部開拓時代から。
良いやり方は時代を超越します。




55年以上前の女子高生

2022年01月24日 | open


現在70才代中半(笑
今この写真見ても、現代的な可愛さ。
まあ、可愛い人を瞬間的に切り取る
と時代は関係ない、てな事ですかね。



コルト・シングル・アクション・アーミー

2022年01月24日 | open


コルト・シングル・アクション・
アーミー。
1873年に米陸軍に採用された。
開発は1871年から開始され、
最終プロトタイプが1872年に完成
し、軍用トライアルに出され、他社
の製品を退けて1873年制式新式銃
として採用された。
黒色火薬モデル、7.5インチ銃身だ。
一般的に民間に発売開始されたのは
1875年から。
騎兵隊に使われたので、通称キャバ
ルリーと呼ばれる。

私はモデルガンの7.5インチSAAは
持っているが、実はSAAの中では
あまり好きでは無い。
銃身が長すぎるからだ。

1875年以降、5.5インチモデルも
発売された。
のちに.45口径ではなく44-40の
ウィンチェスターM1873と同弾薬
の弾を使えるフロンティア・シッ
クス・シューターも発売され、アメ
リカのみならず英国でも人気を博し
た。
5.5インチ銃身モデルは artillery=
砲兵モデルとも呼ばれる。
日本のショップ店員で「アーテ・
ラリー」と発音している人が多いが
それはひどすぎる。


実は1970年代初期、仲間内では
この5.5インチモデルが大人気だ
った。私の周りだけでなく国内
全般で。
それは、マカロニウエスタンで
5.5インチが多用されたのと、
国内では1971年に少年ジャンプ
で連載開始された「荒野の少年
イサム」で出てくる銃が全て5.5
インチのピースメーカーだった事
によると思われる。
とにかく、5.5インチモデルがSAA
の定番、というような空気が日本
には満ちていた。
だが、私は5.5インチモデルのSAA
は嫌いではないが好きではなかった。
銃身が長すぎるからだ。
私はさらに短い4.75インチモデル
を好んだ。


なぜ銃身が長すぎるのを避けるの
か。
それは、日本刀の抜刀術と同じく、
素早く抜いて速く撃つには長身は
完全に不利だからだ。
この事は物理的な事なので否定し
ようがない。
日本刀でも、抜刀斬撃を旨とする
武技において、殊更に長い刀を使
おうとするのは暗愚だ。
精神論で実理は全うできない。
これは天の理だ。
この事をテーマとしてマカロニ
ウエスタン『怒りの荒野』では
銃技の師匠として悪者のリーバン・
クリーフは弟子のジュリアーノ・
ジェンマにあえて長銃身の銃を
与えた。
自分よりも速く抜く事ができない
ようにする為の保身だった。
やがて、その悪意と町での暴虐に
気づいたジェンマは泣きながら逃
げるが、その時、老人の形見の銃、
ドク・ホリデイの銃を受け取る。
それは速撃ち用に各部がチューン
ナップされた5.5インチSAAだった。


私がSAAのモデルガンを初めて購入
したのは1960年代後半だ。
その後、MGCでは世界初の「モデル
ガン」という物を買うには住民票を
必要とした。悪用を避ける為だ。
モデルガンは日本人が発明した。
それまではマテルなどの米国製の
幼児用玩具しか無かったが、日本
人が世界で初めて金属製のモデル
ンというリアルな玩具銃を開発
した。
あまりにリアルなので、ハリウッド
でも一時ステージガンとして多用
され、日本のモデルガン需要の主た
る収益は輸出がメインとなってい
た。これはこの世からモデルガン
ブームがエアガンに変換する時代
まで続いた。
60年代末期には世界初のモデルガン
メーカーのMGCでは住民票が必要
になったが、父に一緒にアメ横まで
同行してもらい、名義上は父に購入
してもらった。
また、横浜の店でも購入した。
当時、アクションの確実性はMGC
で、中田やCMC等は作動性が今イチ
だった。
唯一の例外は、中学生の頃から
中田でアルバイトでモデルガンの
組み立てを手掛けていた国本圭一
氏が組んだモデルガンのみが確実
な作動を見せた。これは現実に。
そして、国本氏は都立高校の時に
国内初の拳銃殺陣師として日本の
映画のガンアクションを指導する
ようになり、友人と始めた組み立
て部門は独立して後年には法人と
なってウエスタンアームズとなった。
国本氏は早くから米国に渡り、実銃
SAAやコルトM1911A1での実戦
射撃をマスターした。
そして、帰国後には日本にコルト
ガバメントのコンバットシューティ
ングという国内未知の射撃法を
紹介し広めた。
日本でのガバメント人気は歴史的
に国本氏が作ったといえる。
SAAの早撃ちにおいても、国本氏
は実銃で世界第2位の記録保持者
だった。世界チャンピオンはセル
"マーク"リードだ。
セル・リードのセルフドロウの
タイムは1960年代初期に0.06秒。
これは何度計測しても0.06秒だった。
私が13才の時の渋谷ラボでのレコ
ードが0.14秒なので、いかにとんで
もない驚異的な記録か分かる。
国本氏は0.07秒で、世界第2位だっ
た。

私が選んだのは、全て4.75インチ
銃身だった。
その後、7.5インチも5.5インチも
揃えるのだが、やはりメーカー
各社のSAAで一番好きだったのは
4.75インチ銃身モデルだった。
MGCのみが実銃から採寸しており、
他社は写真からの寸法出しの為、
広角作用により、グリップが実銃
よりも少し大きかった。
CMCなどはそれが顕著であり、
CMCの金型を引き継いだ現在の
ハートフォードなどもグリップ部
が実銃SAAよりも大きい。

1970年代初期には、実は4.75インチ
銃身モデルの通称シビリアンは5.5
インチ銃身モデル通称フロンティア
よりも日本では人気が無かった。
これは今では考えられないだろうが、
雰囲気好きな日本人は5.5インチの
銃身モデルを好んでいたのだ。
私の周囲でも4.75を選ぶのは、歳若
くしてファストドロウを狂ったよう
に日夜訓練していた私のみだった。
月夜の千本ノックみたいに練習した。
そして、日本人でも、速撃ちをやる
人たちのみが4.75オンリーであるか
のように4.75を選択していた。
だが、それはマイノリティであり、
むしろ、4.75の短銃身を好む人は
現代とは異なり、極めて少なかった
のだ。
速撃ちをやるごくごく一部の人たち
のみが日本では4.75を選んでいた
という現実があった。
今では想像もつかないだろうが、
それが社会的実相だった。
私の周囲などはほぼ全員が5.5インチ
だ。
一人のみ、のちに中学で生徒会長
になった奴のみ7.5にベタ惚れで、
7.5以外には興味を示さなかった。

1970年前後のコルトSAAの人気の
実態はそのようなものだった。
しかし、当時、日本国内であまり
知られていなかったコルトの表面
仕上げで、ブルーイングではない
ケースハードゥンというものが
あった。
これは特殊な金属加工なのだが、
日本では実銃を見る機会は少なく、
モデルガンも単なる黒色酸化ブルー
イングからすべて金色メッキに
1971年10月から変更になったの
で、実銃のブルーの深さとケース
ハードゥンの実体は日本人は無知
だったのだ。

広く実銃の実態が日本人にも知ら
れるようになったのは、1980年代
に入って国際環境が変わってから
のことだ。
なにしろ、私が子ども時分の戦後
昭和40年代の時代には、日本人は
海外旅行も自由にはできず、政府に
貯蓄証明をして政府から許可を得た
特別な人しか海外に出る事はでき
なかった。
敗戦国の現実とはそういうものだっ
たのである。
今の日本、今の世の中が最初から
あった、今が常識だと思い込むの
は、歴史を知らぬ愚の極みだ。
愚者は目の前の狭い経験のみに
学び、賢者は歴史に学ぶ。
これが人の世の定理だ。
その定理は、人類が地球にいる
限り、不朽性を具備する。

ケースハードゥン処理された実銃
SAA4.75銃身。
今では日本でもこの銃身のモデル
が一番人気となった。


マイケルたち

2022年01月24日 | open


うちのマイケルたちに毛布占領される
の図。

海見てキャンプ

2022年01月24日 | open










グランピングを決してキャンプの
範疇に入れる事はできないが、
野外で過ごす場所が増えるのは
よい事だ。
ただし、企業資本がグランピング
施設をとんどん開設させている
一方で、行政が運営していた無料
キャンプ場などは閉鎖廃止が増え
ている。
高額を支払える者たちのみが楽しみ
を享受できる格差社会の歪みがこの
「キャンプブーム」にも訪れている。
企業がキャンプにテコ入れしはじめ
たのは、それはキャンプブームは
「儲かる」からだ。
国民の心身の健康の育成の事などは
関係ない。
まさにそれはグランピングの思想で
あり、キャンプとは呼べない。
キャンプブームの中、キャンプとは
関係のない勢力がキャンプと人を
利用して儲ける事のみを目的として
企んでいる。
そのうち「キャンプ詐欺」も出て
来るのではなかろうか。

映画『ペイルライダー』(1985)

2022年01月24日 | open

『ペイルライダー』(1985)
監督主演:クリント・イーストウッド

15歳のシドニー・ペニーが滅茶苦茶
かわいいの。
まるで、本作品公開当時タイムリー
な当時の後藤久美子さんみたい。
 
ペイルライダーとは、聖書にある
神が遣わす
四士のうちの第四の
使者の事。蒼ざ
めた馬に乗り、
人の死を司る。
四名の騎馬使徒は人類を殺す権利
持っている。

西部開拓時代のアメリカ。
山のクリークで金すくいをする
開拓者たちに町の実業家が土地
を奪おうと暴虐の限りを尽くし
ていた。
その金鉱掘りたちと共に住んで
いたpreacher=宣教者と呼ば
れる男は、これから始まるブル
ジョアジーによる暴虐の理不尽
な金工夫たちの大虐殺を前に、
かつて使用を封印して町の貸金
庫に保管していた昔の自分の
拳銃2丁を手にするのだった。
宣教者の印であるホワイトの
カラーを取って貸金庫の箱に
投げ捨てて。


本作は、ラストシーンは『シェーン』
(1953)へのオマージュ表現の描写が
ある。
シチュエーションだけでなくシーン
のカットも。
そして、シドニー・ペニーの母親役
との心のやりとりも『シェーン』
へのオマージュが含まれている。
そうなのだ。
主人公はシェーンと同じような
経歴を持っているのだ。

『アウトロー』(1976)と『ペイル
ライダー』(1985)と『許されざる
者』(1992
)の主人公のキャラクタ
は共通している。
それは過去に人を殺し、贖罪の
ために銃を捨てる。
そして、平和なひと時の生活を
営むが、やがて理不尽な暴力が
大手を振る現実にいやがおうに
も引き戻されて、再び銃を取る。
『シェーン』(1953)もそれだった。

『荒野のストレンジャー』(1973)
ではクリント・イーストウッド
の監督主演作品とはいえ、まだ
ドン・シーゲルとセルジオ・レオ
ーネの影響を受けたままの作品
の特色があった。それの風味は
『続・夕陽のガンマン』(1966)
に作品基調のエッセンスが似て
いた。
しかし、『アウトロー』(1976)
では、後年のクリント・イースト
ウッドの基盤を垣間見る事がで
きる。
それはのちに名作『許されざる者』
(1992)へと結実する。
そして、この『ペイルライダー』は
静かなる傑作だ。


ベレー

2022年01月24日 | open
 
大昔、人から「ベレーのかぶり方を
教えて」と言われた。
どんな時にかぶるのか尋ねたら街着
だと言う。
「好きにやればいいんじゃない?」
と答えた。
ただし、西欧人でベレーがバスク
発祥である事や、英軍を嚆矢とし
て欧州各国の軍隊の軍帽に採用さ
れて来た歴史を知る人たちは、
例え街着のファッションとしての
ベレーであろうと「外した」着用
はしていない。
日本刀を腰に差す時に股間部分の
真ん中に差す日本人などいない
ように。
 
キモは「シンメトリーを崩す造形
美」だ。左右非対称にする。
そのためには片側は必ず横に垂ら
す。真横には広げない。
ズッポリと手ぬぐいの頬被りのよ
うに被ったり、キノコ型や波止場
でマドロスが足を載せているよう
なビットのような形にして被るの
は、ファッション的にも最悪の造形
といえる。


日本人はベレーのかぶり方を知らな
い人だらけで、1971年の『仮面
ライダー』のショッカー戦闘員など
は軒並み「画家さん被り」をしてい
た。
軍帽として着用するベレーには決ま
り事がある。それを知らないからだ。
 
だが、1970年代初期でも、ベレー
のかぶり方を知っている人は例え
ファッションであろうとも、きちん
と押さえどころは外してはいなかっ
た。
 
これは青木眞理さんご本人ではなく、
スタイリストさんがちゃんと解って
いて番組出演前に着付けをしたのだ
ろうが、当時でも「理解している」
人はいたという事を示す。多分、
1972年。
だが、こうした例は極めて稀有だ。
 
そして、ベレーを軍帽として、つまり
ミリタリーベレーをミリベレとして
着用する際には、「絶対に」外して
はならない決まりがある。
各国軍隊では、それを徹底させて
指導している。
日本の自衛隊ではそのマニュアル
が無かった時代には、国連派遣
部隊などは全員が波止場のビット
状態で世界から笑われた。
しかし、その後、研究が進み、
マニュアルも作られた。
「将校のたしなみ」という幹部向け
テキストでは、私の専門解説サイト
から画像と記述内容が多く流用
されていた。
それは、陸自将校の友人の指摘で
判明した。
ミリタリーベレーにはミリタリー
ベレーの決まりがある。
それは、武士の刀の差し方を江戸
幕府が詳細に規定したのと同じだ。
つまり、「決まり事」なのである。
 
軍隊を持たない日本に住む日本人
は、ファッションシーンでのベレー
のかぶり方と軍事場面でのベレーの
着用方法について、どちらも極めて
疎い。
芸能人でもほとんどは目を覆うよう
な出鱈目な被り方をしている。
テリー伊藤さんのようにビシッと
キモを押さえてかぶりこなしてい
る人はマレだ。
 
思うに、日本人でベレーのかぶり方
についてトンデモが多いのは、外国
人が袴の履き方を知らないのに近い
のかも知れない。
映画『燃えよドラゴン』などでは、
中国人が日本の袴の履き方を知ら
ないから、袴を後前に履いてたもん
ね。悪者空手マンたちの日本人の役
で。
あれはあまりにもしどかったが、
日本人の多くのベレー被りもそん
なもんなのかも知れない。
 
「なんでも自由」というのは、
「なんでも筋を外して好き勝手に
やってもいい」という事ではない。
そこのとこ、頭で解る事は大切。
たとえ平和な世界のファッション
であろうとも。
袴を後前に履くのはよくない。