渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

映像に見る風景と台詞まわし 『その小さき手に』 ~子連れ狼~

2016年04月13日 | 映画・ドラマ・コミック

子連れ狼 Lone Wolf & Cub: Final Conflict (1993) Resisting Arrest


原作者の方はこの1993年田村正和版の子連れ狼が一番
原作のイメージに合っていて好きなのだという。
実は数ある子連れ狼シリーズで、私もこの作品が一番好きだ。
一番最初の若山富三郎先生版は生々しすぎでグロだし、劇画
原作に最も忠実な萬屋錦之介版は、安定感はあるが、動きが
もっさりしている。
ソフトバンクの白い犬のお父さん版は、ただの毎週放送の老人
向け時代劇になり下がっていて最低以下の出来だった。なんと
いうか素浪人天下御免の向こう傷カーッ!みたいな実に陳腐な
拝一刀になり下がっていて、史上最悪の出来だった。

この『その小さき手に』は、原作劇画とはかなり表現描写が異なる。
だが、私は惹かれる。
まるで舞台劇のような現実離れした美しすぎる田村正和の立ち
回り(殺陣における剣劇シーンのことを「立ち回り」と呼ぶ)なのだが、
肉親を殺された時の悲哀感などは田村氏が一番飛び抜けて演技
できているように感じた。他の方の演技は、原作をなぞるか、直截
過ぎる感じであり、「唇を知らずに噛みしめて血が流れる」ような感情
の表現は、田村さんが図抜けている。
比較するべきものでもなく、「田村正和は田村正和なり」と私は思う。

ところで、公儀介錯人旗本拝一刀は、公儀介錯人の地位を狙う
裏柳生の謀略により、登城出仕後に屋敷に帰宅すると、一族郎党と
妻「あざみ」が殺害されていた。
このyoutube動画はそのシーンだが、これはどの作品でも出てくる。
ここから拝一刀は刺客の道に入るからだ。
拝一刀が刺客道に入った
理由は拝家再興ではなく、ただ柳生に恨みを
晴らすためである。

刺客一殺五百両の報酬は、剣で柳生に立ち向かえない幼い一子
大五郎に南蛮渡来の投擲雷(とうてきらい。手榴弾)を与えるため
の資金だった。亡き妻あざみの従者だった「竹阿弥」が毎回送り届け
られる金子を溶かして竹の中に秘蔵した。
竹阿弥は明らかに忍びの者であり、あざみは柳生の娘であるかのような
ニュアンスを匂わせるシーンも原作には出てくる。
さすれば、最後のシーンで、柳生烈堂が大五郎を抱きしめて「わが孫よ」
と呟き、大五郎が「?」となるシーンのつじつまも合うのだが、大五郎が
柳生烈堂の実孫であるという見解は原作者が自ら後年否定している。


この柳生が自宅に乗り込んでくるシーンでは、どの作品でも、拝一刀は
邸内から走り出て、邸宅脇の水辺に柳生の一群を誘いこむ。
拝一刀と柳生烈堂が死亡したのは、原作からの類推では1702年の
元禄15年であるのだが、当時の江戸は、市内からちょっと出ると
山林原野のような地域が広がっていた。徳川実紀にも、江戸付近で
鹿狩りで鹿が大量に獲れたことが記録されており、現在の都心港区にも
「狸穴(まみあな)」という地名が残っているように、タヌキが棲むところ
であり、今でいうと、地方都市を想像してもらえばよいだろう。
ただし、「狸穴(まみあな)」という地名は馴染みが時代と共に薄れた
ためか、ロスインディオスの『別れても好きな人』では、最初は「歩きたいのよ
狸穴 灯りが揺れてるタワー」と歌っていたのに、後年のロスインディオス
&シルビア版では「歩きたいのよ高輪 灯りが揺れてるタワー」に歌詞を
変えている。実はロシア大使館の坂下の狸穴からはタワーがよく見えるが、
高輪からはタワーはあまりよく見えないのではあるが、イメージ的にマミアナ
よりも高輪のほうが時代的にオサレだったからだろう。高輪プリンスホテル
全盛期の頃に歌詞は変更された。
『別れても好きな人』では、本当は高輪ではなく狸穴から赤坂に歩く。
「ちょっぴり寂しい乃木坂 いつもの一ツ木通り ここでさよならするわ
雨の夜だから」となる。高輪となると、高輪から赤坂まで歩いたのか?と
すごく不自然になる。高輪というのはJR品川から丘を登ったところで、赤穂
浪士の墓がある泉岳寺のある場所だ。そこから赤坂まで歩くというのは、
かなり無理がある。
そして、初回盤の歌詞のほうが情景が豊かだ。なぜならば、ロシア大使館
あたりの狸穴を歩いて二人で赤坂まで一緒に行くという情景が浮かぶ
からだ。距離的にも無理はない。別れた後に二人が偶然再会して「恋の
いたずらね」となり、原宿や赤坂でまた会う。恋人同士にかえってグラスを
傾けた二人だったが、東京タワー近くの狸穴を一緒に歩き、赤坂乃木坂、
一ツ木通りのあたりで再びまた別れることにするのだ。雨の夜だから。
そうした『別れても好きな人』の歌詞で、高輪がリメイク版でとってつけたように
登場したのは、原詩の流れや情景からすると、とても不自然なのだ。
これはタワー狸穴あたりと赤坂六本木と高輪を知っている人からすると
リメイク版で歌詞が変更された時、「あれ?」と思った事だろう。
(ちなみに東京タワー下の直角コーナーは膝擦りコーナーで攻め所であった。
下りはすぐに信号があるので攻められないが、慶應大学方面に向かう上りは
タワー下コーナーを抜けてから続く高速S字も楽しめた)


閑話休題-

三原市などは、今でも城から数百メートルの地点でイノシシやタヌキ、
キツネやテンなどが出る。城下町の市内の山ぎわを大型イノシシが
歩いている姿を想像できるだろうか。
まさに江戸時代の江戸シティがそのような感じだっただろう。

雪の日に私の家の駐車場横に出たタヌキ。城から300メートル地点。




そこで、拝一刀が邸宅から自宅脇の水辺に柳生を誘いこむシーンなのだが・・・
こうした風景は江戸府内としてもあったかも知れない。


だが、こうなると、後ろに明らかに「山」があり、これは愛宕山で
あるとしてもかなり無理がある。


一方、大人気高視聴率だった萬屋版では、拝一刀は邸宅を出て
すぐ横の川に柳生を誘いこむ。


気になるのは、かなり上流の渓流であること。


やはり山が映り込んでしまっている。
CGも存在しなかった時代、撮影場所がないから仕方ないが。


水鴎流(すいおうりゅう)波切りの太刀。




ただ、萬屋版は、屋敷のすぐ脇が川というところが原作に忠実である。


萬屋先生は、台詞回しが歌舞伎っぽいが、そこがまたよかったりもする。
特徴としては、早く言うところとゆっくり言うところの強弱をつけるのと、
文節の切り方が独特なところだ。
通常、「○は△であった。それが□である。」と言うところ、萬屋先生は
「○は△であったそれが、、、□である」というような文節の区切り方で
よく台詞回しを表現する。前段は素早くしゃべり、「□である」のところは
極めてゆっくりと言う。これが萬屋錦之介の台詞回しの特徴だ。

若山富三郎版の同シーン。


若山富三郎先生は何を言ってるのかよく判らない(^^;

田村正和は昔よくモノマネされたが、そのモノマネのデフォルメと同じ
ように、抑揚なく台詞をしゃべる。だが、それが棒読みとはなっていない
ところが特徴だ。感情を抑えた台詞回しが特徴だったが、この『この小さき
手に』では激情で叫ぶような感情も表現している。役者田村の「堪え」と
「発奮」の二面性の演技がこの『この小さき手に』では見られて面白い。

田村正和版では、川ではなくどこかの止水で撮影されたようだ。
止水といえば思い浮かぶのが虎ノ門から赤坂にかけての「溜池」だ。
現在は完全に埋め立てられて地下鉄が通っている。



明治初年の赤坂溜池






江戸期の溜池の地図。虎ノ門から赤坂に向かう途中にある。


旧田村町(現内幸町)から虎ノ門方面を見る。正面が日本初の
高層ビルである霞ヶ関ビルだ。ここらあたりに私の前職の職場が
あり、刀工小林康宏はここ田村町で生まれ育ち、中学の時に
高輪に引っ越した。東京の道割りは江戸時代から変っていない。
正面の霞ヶ関ビルの向こうに溜池があった。今は地名のみが残る。


私は、原作劇画から拝一刀の屋敷所在地を割り出そうとしたが
できなかった。
それは、現実世界の江戸の地形と、原作劇画の屋敷付近の地形が
合致しないからだ。架空の中の架空の場所として原作では描かれて
いる。
これが、同原作者同劇画家の作品の幕府御様(おためし)御用の
山田浅右衛門を主人公とした『首切り朝』では、かなり現実の江戸
市中がリアルに描かれている。

この切絵図は劇画『首切り朝』の中でも使われた。



時代劇を観る楽しさに屋外でのロケがある。

最近では時代劇の撮影場所が激減してロケハン(ロケ地ハン
ティング=ロケ地探し)も大変であることだろう。
だから最近は時代劇でもCGが多用されるのだろうが、なんだか
やはり味気ない。
萬屋版の面白さの一つは、スタジオ撮影がほとんどなく、刺客と
なって野外を放浪する拝一刀の姿が自然風景とマッチしていたから
というところもあるのではなかろうか。

そして、都市である江戸をはじめとする城下町は、戦後の高度
経済成長が訪れる以前の日本の地方都市の風景に似ていた。
私が生まれて初めて岡山市を訪れた時(1997年)に、なぜか
郷愁に似たものを感じたが、それは岡山市内には高いビルが
なく、歩道にガードレールが存在せず、市内を路面電車が走って
いたからだった。
それは、まさしく昭和40年代中期までの東京の風景に似ていた
のである。
時代劇が私の世代まで人気が高かったのは、劇中に見られる
風景に、多くの人が郷愁に似た感覚を無意識に抱くからかも
しれない。
同じような例として、なぜ韓流ドラマが中高年層にウケるのか
ということがある。
それは韓流ドラマで描かれる創作物が、失われた日本のかつての
情愛を描いた作品と重なるからではなかろうか。赤いシリーズや
もっと古くは「愛染かつら」のように。
私は、韓流ドラマの吹き替えがアニメのようにわざとらしくあざとく
思えて耳触りなので、韓流ドラマは観ないのだが。
洋画の吹き替えも似たようなところがある。

友近さんが日本語吹き替えの洋画ドラマのわざとらしさをネタにした
絶品モノマネがある。プロの職人技だ。
友近 「キャサリン」




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若山富三郎の殺陣(たて)

2016年04月12日 | 映画・ドラマ・コミック

子連れ狼(若山富三郎)


歌はよくないが、殺陣は若山富三郎先生が一番だと私は思う。
これには妻も同じ意見で、「最高よ」と言う。

爆笑!柳沢慎吾「 若山富三郎」


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殺陣(たて)と現実の違い

2016年04月12日 | 映画・ドラマ・コミック



倒れ込んだ拝一刀に刀を突き立てる柳生烈堂。
でも死なない拝一刀!

活劇ですから(^^;
現実ならば死にます。
しかも刺してからグリグリやられてるし。

それどころか、背中からわき腹(肝臓の辺り)にも刀を
刺されてしまっています。


死にますから(^^;
でも、一刀は死なな~い。

活劇の殺陣(たて)は現実とは違うのだと、当たり前のことですが、
どうか理解してください。

良い子は真似しないように。

lone wolf & cub
- how to kill an angry looking weirdo with white hair + a lot of ninjas


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公道競争

2016年04月11日 | バイク・車

BMW S1000RR X REPSOL HONDA CBR1000RR in BRAZIL


公道なのに危ないちゃんちゃこりん。


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いつか君と僕は同じ一線で結ばれた優しい放浪者だった

2016年04月10日 | 映画・ドラマ・コミック



「いつか君と僕は同じ一線で結ばれた優しい放浪者だった」

ドラマ『高校教師』(1993年。全11話)。

私の中で、この作品がここ四半世紀で一番のドラマだ。
作品の作りと撮影が物凄く丁寧ということを言うと陳腐になる。
原作者野島伸司はこのドラマを「ギリシャ神話のようにしたい」とのことで
脚本を書いた。
多くの俳優に出演を断られた。それはあまりにもタブーとそれを超える
愛をテーマにした作品だったからだ。
ようやく決まった主人公の女子高生の一人二宮繭(まゆ)は桜井幸子が
演じた。
また、多くの女優が断った繭(まゆ)の親友相沢直子役は持田真樹が
演じたが、鬼気迫る教師藤村(京本政樹)の演技によって、本当に
京本を持田は嫌いになってしまったそうだ。(20数年後に和解)
主人公の教師羽村は真田広之が演じきっている。

このドラマはドラマとわかっていても、切なく悲しい。
悲しいだけでも切ないだけでもない。切なくて悲しいのだ。
第1話の段階で主人公の教師羽村のナレーションが過去形で述懐
する形で入る時点で、私は初回放送を観て「これはとんでもない不幸劇だ」と
感じたが、
実際にドラマは重く切なく哀しい展開になっていく。

役者の演技が物凄くいい。
これは役者の力量もあるだろうが、監督の手腕が大きいと思える。
特に主人公の二人、高校2年生二宮繭の桜井幸子とひ弱な新任教師
羽村の真田広之の演技が素晴らしくいい。
台詞まわし、そして台詞がなくとも表情や仕草で心象風景を十二分に
表現している。
桜井さんはこの作品で「燃え尽き症候群」になってしまったのか、クランクアップ
後に一年間
女優業を休業した。その後は静かに女優を続けたが、ひっそりと
芸能界
を引退した。
この作品が彼女の演じた作品群の最高峰だろう。とにかく、作品が良い。

劇中、多くの伏線と布石があり、サスペンス要素も多いのだが、見逃して
しまっている人も大勢いるのではなかろうか。
私はこれまで何度も何度も観たが、やはり全編の中で一番好きな登場
人物の表情のシーンは繭のこの表情だ。


これは、最終話の1話前の回で、羽村が公園で待つ繭を迎えに行った時、
繭が羽村に気付いて、公園の砂場で立ち上がって見せる表情である。
実はこの表情は、羽村が全く同じ面持ちで、似たようなシーンで見せる
回があった。どの回かは、ファンの方のお楽しみということで、全編を
ご覧になってみてください。
その時の羽村の表情は、この最終話前の繭の表情と対になっていたのだ。
この二宮繭のこの画像を私は初めて自宅用に購入したパソコンの待ち受け
画面にずっと設定していた。

だが、最終話前の回でとんでもない逆転が起きる。
それはなぜ。
理由は教師羽村が、それまではまだ「優しい放浪者」ではなかったからだ。
漂泊者の心は、心の漂泊を持つ者にしか理解はできない。
絶対に踏み越えられない、絶対に向こうには到達できない川が眼前に流れて
いる
のである。
だが、その川を超えれば、人はあちらにいる人の世界に行ける。

また、作品中、相沢をレイプした英語教師藤村(京本政樹)を体育教師の
新庄(赤井英和)が暴力で成敗して重傷を負わせる。だが理由は明かさない。
すべては相沢直子を守るためだった。
そして、新庄は免職となり女子高を去っていく。
この去りゆく時に、生徒たちは新庄を取り囲んで口々に罵声を浴びせる。
これはゴルゴダの丘に向かう救世主イェスを重ねて描いている。

全編を通して、目が離せない描写ばかりで、一つも倦怠感は感じさせない。
作品としても見事な仕上がりで、やはり日本ドラマの中での「不朽の名作」の
一つに数えられるだけはある。
ただ、このドラマは、「作り物」ということを感じさせない程に、観る者の心に
迫る。

劇中で役者が良い演技をしている=というよりも役そのもので演劇とは
感じさせない=という良い表情のシーンは多くあるのだが、その中でも
私の気に入ってるカットを数点のみ並べてみたい。
有名な悲しいラストシーンのカットはあえて挙げない。
女優桜井幸子は表情がめぐるましく変化するので、静止画像よりも、
絶対に作品の動く映像を観たほうが良い。
それにしても、この作品のスタッフは、とんでもない大仕事をしたものだ。
カメラさんと照明さんとかって・・・凄すぎ。

図書館でのシーン。この時の繭の人形での心の表現と、それを見る教師羽村
の心の変化を表現する表情の変化が凄い。台詞は一切無しの長回しである。


近づいてきた繭と言葉を交わす羽村。ここのシーンの心理描写も実に奥が深い。




屋上でのシーン。
この屋上でのやりとりは次のほんのひと時の幸せの時間への伏線となって
心と心がすれ違う切ないシーンとなっている。この時の二人の演技も凄すぎ。


繭と父の悲劇的な関係を知った羽村は、父親の下には繭を置いて
おけないと繭を強引に父親と住む家から
連れ出した。
これは、藤村に重傷を負わせた新庄が、殴り続けながら「教師の前に
人間じゃい!」と言ったこと、事件後の「俺が守らんで、誰が相沢を
守ってやるっちゅうんや」という言葉に羽村が衝き動かされてのこと
だった。繭を守る。守り抜く。
そうして羽村は父親の暴力に立ち向かいながらも繭を実家から連れ
出したのだった。

羽村は電車に乗ってビジネスホテルに泊まり、繭を部屋に保護する
日々が続く。
羽村の部屋で生活を始めた繭だったが、ある日、羽村が部屋に戻ると、
繭は姿を消していた。「ごめんなさい、ウチに帰ります」との書置きだけを
残して。
その2日前の夜、繭の父親二宮耕介(峰岸徹)は
深夜羽村の部屋に
やって来て繭を取り戻そうとした。泥酔して
窓ガラスを割り侵入しようと
したところを二宮は警察に逮捕される。
その後、その割られたガラスを繭が張り紙で修繕したカットが映る。

その絵は、何日か前に私鉄駅に羽村を送って行った繭が、電車のドア
越しに
羽村にキスをねだり、羽村がそっとガラス越しにキスをした時の
二人の図を猫に重ねて
繭が描いたものだった。
この絵も、実は最終話の最ラストシーンでの悲しすぎる結末の列車の
窓の曇りガラスに描いた絵の伏線であり、ラストカットとの
対表現と
なっている。絵柄が幸せそうであればあるほど、現実との乖離に悲しい
定めが浮かび上がる。



「こんな映画やドラマのようなことが現実にはある訳ないやろ、あり得へんわ」
などと軽く思ってはいけない。
現実世界でも私はこれとまったく同じシチュエーションはある。
二人の間にあるガラスは、姿が見えるのに直接は触れられないという象徴的な
存在としても二人の間に立っている。
そして、電車の時にはガラスの向こうの世界に相手がいた。割れた窓ガラスの
時には相手は向こう側に絵として描かれているが、実際に自分がいるのは体と
心はこちら側(羽村の部屋)であるつもりなのに、真実の「状態」は自分は外の
側にまだいたのだ。
こうした鏡に映るような相手と自分という姿が真実の現実であったことに、まだ
この時の二人は気づいていなかった。


良い作品は何度観ても良い。
この作品こそ、映画という短い時間では表現しきれないことまでをすべて表現
できる時間的余裕があるというドラマの
特性を十二分に発揮したザ・ドラマだと
思う。
なぜこのような作品が生まれたか。
それは、この作品は、一般的なドラマとは異なり、撮影開始前までに最終話まで
のシナリオ脚本が完成していたことが要因のひとつとして挙げられる。通常、
映画のようなそういったドラマはほとんど存在しない。
それゆえ、役者は役柄の心情、心象風景、感情の起伏を充分に読み込んで
演技をすることができた。
だから、この作品における役者の演技は飛び抜けて光っているのであると
いえる。

機会があれば、ぜひご覧ください。
15分ごとに止めて別なことする、というような形ではなく、正面から作品と向き
合う形で。



ああ、凄かった・・・。
結末知ってるだけに、何度観ても、最初の出会いのシーンから泣けてしまう。
悲しい運命・・・。命運は変えられないが、運命って変えられる筈なのに。
繭も羽村も悲しすぎる。
結局最後は一つになれたのだけど・・・。

途中のシーンでとても気になるシーンがある。
繭が歩道橋の上でクラスメートの相沢直子のように嘔吐するのだ。
それを何も事情を知らない羽村が横で介抱して抱きしめるのだが、
繭は羽村に
「死にたくない。先生!あたし、死にたくない!」と言うのだ。
この時、繭は妊娠していたのではなかろうか。
その後の展開ではそれを窺わせる表現描写はしていないが、物語の
展開からして、私にはそうした暗喩表現としか思えない。
繭が死にたくないと言ったのは、自分のことだけではなく、「命」そのものが
何かによって絶たれることへの恐れだったのではなかろうか。
命という直截なことよりも、「存在」そのものの消去を彼女は一番恐れたの
ではなかったか。


そして、繭と羽村は、いつか同じ一線で結ばれた優しい放浪者と
なるのだった。
「永遠」を手に入れるためのあまりにも悲しすぎる結末によって。
だが、人は人を本気で真剣に好きになることから始めないと、人と人は
決して理解できない。
そして、真実の愛とは、求めるものではなくすべての外皮を取りはらって
身を挺するものだと、この作品は私たちに教えてくれる。
というと言わずもがなだが、人には人それぞれの愛がある。人を愛する愛
なき「愛」もある。それも本作品ではしっかりと描かれている。
ご堪能ください。

最終回「永遠の眠りの中で」視聴率33.0%


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正しい青春映画 五十嵐いづみ

2016年04月10日 | 映画・ドラマ・コミック



風、スローダウン Trailer


刀工康宏友の会「游雲会」の新メンバーとメールをやりとりしていて
意見が合った。

五十嵐いづみはドストライクである(笑
特にこの『風スローダウン』でのレーシングチームメンバー時代の
五十嵐さんがいい!


おいらの場合はね、ピットにいたかみさんと結婚できたからよかった
けど、この映画は
切ない映画だったね・・・。
悲しくはない。とても切ない映画だった。

うちもこのパンかじってる画像のようなこんな時代があったのだけどね。
着てるもんもよく似てる。まあ、この世代だからというのもあるけど、
シチュエーションもよく似てる。
かみさんは、レースのことはあまり話したがらない。
いい思い出はないから。
バリ伝の歩惟ちゃんのようにはなれなかったし。
そして俺は、よくいた「サーキットにいるボロ雑巾のような亡霊」だった。


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短編映画 『勿忘草』予告編

2016年04月02日 | 映画・ドラマ・コミック

短編映画 『勿忘草』予告編


内野未来さんのブログにリンクがあったので紹介します。
う~ん。青春!(^^;

ただ、この作品が超非現実的なのは・・・・
こんなかわいい子ばっかしの学校なんて、ねえぇええーー!(笑

しかし、内野さん、本当に引退しちゃったなぁ・・・。
ブログ と ツイッター は1ヶ月くらい残しておくそうですが、もう二度と
メディアなどでは内野さんの活躍が見られないのが残念です。

まじかわいかった(^0^)






いつか綺麗な奥様、お母さんになってください。陰ながらいつまでも
応援しています。
ほんま、わすれなぐさ、だわ。
私が通った道場があった多摩動物公園駅で、ふと出会いたかったな(^。^)


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オールドテイスト・ネイキッド

2016年04月01日 | バイク・車



ネットで見つけたけど、俺が欲しい4ストネイキッドのイメージはこれよ!
なんつーカコイイまとめにしてるんだ、この人は!
てか、この家、おらの高校の時住んでた家にクリソツなんすけど(笑

こうなると、スタイルでいえば2ストオールドよりいいぞ!

2ストオールドの決定番はやはりカワサキのマッハだろう。


もっといじるとこうなる。





しかし、世の中変えたヤマハのRZはカワサキのマッハの影響も受けていた
ことが、このマッハSSのメーターから見て取れる。
まるでRZ(笑


セパレートハンドル=セパハン=クリップオンがカッコいい。
というかですね、初めて市販車でセパハンにしたのはホンダのCB750F
(バリ伝グンちゃんの)だと記憶しているけど、フロントフォークに直接接続の
クリップオンハンドルって、とても良いのよ。
何がって、「察知できる」てとこが。
ダイレクトだからね。
それゆえ、街乗り用でも、レーシー。
見た目の問題じゃないんだよ。中身なんだ。
スズキのみは振動を吸収できなかったから、ハンドルバーエンドにくっそ重たい
バランサーを付けたけどね。
ガンマでも最後までそうだった。
ヤマハはレーサーでも樹脂マタンキだけよ。

好みは分かれるが、車の総合的な出来はヤマハが4社の中では抜きん出て
いる。
ただ、これがレースとなると、ホンダてのはなんであんなに凄いのかね。
曲がらないバイクで成績出すのだから、ホンダというのは頭抜けた世界
トップの曲乗り師を集めたようなもんかね(笑

それにしても、これはヤマハだが、実にノーマルのダサさを華麗に脱却して
いると思う。
ホンダは最初からゴテッとした完成車という外見にするが、ヤマハは素材
としていじれる楽しさもある。

しかし、これはいい!センスがいい!
レーサーみたいにバッテリーがぬぁい(笑

でもね、ナンバーはプレート下に鉄板かまさないと、確実にナンバーが
折れて脱落するよ。おいら、高校生の時に経験したもの(^^;

バイクも車も剣士の着付けも、ダサいのはダメよ。
ダサいてのは、とどのつまりは、無頓着で身づくろいとか身だしなみとか、
人への配慮にも気をつけないてことだから。
そうね。個別個人的な部分では、ジーンズにアイロンかけて革靴はくよう
なそういうダサさ?
全体の流れでこれにいたしましょう、これで行きましようということに
なったのに、俺が俺がと我を張るのが個性だと勘違いしてるイタいダサさ?
そんな感じ。
ダサの対語はイキだけどさ。
わかってる奴は意外と少ない。
イキの対語には野暮てのもある。
形にはまったことしかできないのもダサいが、個性の出し方勘違いしてる
のはもっとダサい。
車でも竹槍マフラー出っ歯とか2ストなのに集合菅とかダサさの極みだ。

思うに俺自身は生き方がダッセーのが一番嫌だ。
関西弁でいうとこのええかっこしいも、ほとほとダサいぜ(笑
あと、勘違い激しい上っ面滑りの丸ノ内のOLとかCAとかな。
ダサくてたまらん(苦笑

ダサいてのは江戸時代からあった言葉だから、映画『少年メリケンサック』
で「あの頃(1980頃)にはダサいて言葉はなかったけど」と言ってたのは間違い。
実際には俺が中学の頃の1973年には使ってた。
もっと言うなら、小学生の頃から使ってた。
江戸言葉なんだから、そらそうだ。

で、話を戻すと、ヤマハでイキな2ストネイキッドとなると、こうなる。
SDR200。86年から88年の3年間しか製造されなかったエンスーモデルだ。
このセンスの良さったら、ないね。
これはサブだろうと、一台は保存モードでも私は欲しい車だ。
でもね、ベンツ500Eと同じで、もう良い玉がないのよ、ほとんど。


なんだか知らないけど、最近の市販モデルはダサいのが多い。
30年前でいうとこの「とっつぁんバイク」みたいなのが多い。
アーリーテイストとも違うんだよなあ。
大昔のマシンて、かっこいいもん。






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