渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

古代山陽道 備後国の名称不明の駅家(うまや)跡地 (関連記事追記)

2016年04月17日 | 文学・歴史・文化・科学

古代山陽道(江戸期近世山陽道とはルートが異なる)には、
約16kmごとに馬家(うまや)が置かれていたとされる。
現在、名前だけが残る日本固有の長距離走破競技の「駅伝」
というものは、この駅家(うまや)間を走る古代物流の名残り
であろう。
物流といっても、現在のような民間経済交易のための流通の
ためにステーションが設置されていたわけではない。すべては
朝廷中央への租税徴収のための物流拠点として駅が設置され
ていたのであり、各駅には馬を何疋ごと常備しておくという細かい
取り決めが中央朝廷によって命じられていた。そのため、駅家と
書いて「うまや」とヤマト言葉で読んだ。

古代山陽道の謎の一つに、古代山陽道ルートで駅名が不明の
地点が
一つだけある。駅と駅の距離の取り決め事項からして、その
地域
に駅家がなければならないだろう場所に明確に駅家があったと
される記録が発見されていないのである。

その場所を「このあたりにあったはずである」とすることは学術界
でも認識上は採用されていた。
私は過去記事において、その場所を「三原市久井地域」として
いたが、地元の方からのご指摘があったので訂正したい。
地元の方の意識では、古代山陽道駅家があった場所は「垣内(かいち)」
というエリアで、どうやら私のように「久井」とすると、もっと別場所を
限定して指し示す意識が旧来地元にはあったようだ。
これはよく解る。地元東京人でない人は、「東京」といえば埼玉県
南部や神奈川県北部までの広域をひっくるめて「東京」と呼ぶが、
東京人は「東京」とは呼ばず、東京人が東京と呼ぶときは「東京駅」
のことになる。また、都内の区域は「新宿」とか「原宿」とか「渋谷」
などと、ピンポイントで呼ぶ。
「生まれはどちら?」と東京人が訊いて東京人が答える場合は、
「生まれは目黒です」と言う。「生まれは東京です」とは答えない。
似たようなことは地方でもあり、私などは「広島」というと広島県の
事を指して使ったりするし、「岡山」というと岡山県全域を指したり
する。私のみならず多くの県外者はそのような認識で地名を呼ぶ。
しかし、地元県人からすると、「広島」とは原爆ドームのある広島市の
ことであり、「岡山」というと倉敷や津山のことではなく、岡山城がある
岡山市のことを指すのである。

これと同じようなよそ者視点で私は言って(書いて)いたようだ。
三原市八幡町の広域のことを「久井」と呼んで(書いて)いたが、
それは地元の方からすると「久井」というのは、久井という場所の
ピンポイント限定意識からは外れるのであり、広域を示すことには
ならなかったらしい。
厳密を期すならば私が書いた「久井」の訂正表現としては、文意の
本旨からすると「現三原市八幡町地域」とすべきだったことであろう。
山陽自動車道久井インターチェンジがある場所なので私は「久井」と
大雑把に呼称していたが、実際には八幡町とすれば間違いもなく、
また地元の人のピンポイント意識からずれることもなかっただろうと
けさ認識した。

さらに、古代山陽道の駅家(うまや)があったであろうと推定できる
場所をさらに絞って呼ぶならば字名である「垣内(かいち)」とするのが
妥当性を有することだろう。
山陽自動車道の「三原久井インターチェンジ」があるために、つい
その地域を「久井」と私は呼んでいたが、公約数的妥当性あるものと
しては「八幡」と呼称するのが適切で、さらに絞り込んでの地名呼称で
あるならば、古代山陽道の駅家があった場所は、久井インターから
ピンポイント地名としては少し東に定点がある「垣内(かいち)」とすべき
だったようだ。
「久井」として表現すると、地域としてはもっと別なエリアを差すことを
地元の方からご指摘いただいた。私は地方の人が言う「東京」と
同じ認識齟齬を犯していたのである。
広域においても久井インター付近まで含めた地域を現在の地名表示の
字名では「垣内」と呼ぶが、ピンポイント地名地点では垣内は久井インター
付近よりも多少東の地点になるようだ。また垣内エリアと呼ぶならば、
当然にして概念としては「久井」をは指さないことになるらしい。
定点ピンポイントとしての地名呼称ならば、古代山陽道の名称不明の
駅家があった場所はピンポイント地点の「久井」ではなく、「垣内」と
いうことであり、また広域呼称で捉える概念においても現在の三原市
八幡町の字名垣内である「垣内」とするのが正確性を得ている、と
いうことになる。
繰り返すが、さらに大きな公約数的な呼称でいうと、古代山陽道の駅名
不明の駅家推定地は、私の過去記事の文意からすると「現在の三原市
八幡町」という呼び方にすればもっと正確になると思われる。




また、現三原市街地から北方に抜ける往来が通るエリアに「恵下谷
(えげだに)」と呼ばれる谷あい(谷津)がある。

そのことに関連して、地元の方から大変貴重なご指摘を頂いたので、
以下に引用して紹介したい。

(以下引用)

初めまして。古代山陽道が三原市内のどの辺りを通っていたかを
調べているうちに渓流詩人さんの日記にたどり着いた者です。
三原市についての見解はさすがだと思いましたが、恵下谷の
県道25号線についてはチョット違うかなと思いました。
あの道は昭和20年代まで谷底の川沿いの道だったのに県土木が
現在の場所に移設してしまい、何度も土砂崩れが起きる県土木の
お荷物と成ってしまった道です。
移設の理由は知りませんが、おそらく真砂土を堰き止めるための
砂防ダムを作る必要があったためだと思われます。
昭和20年代までは谷底の道を木材を積んだ荷馬車や木炭トラック
が行き交い、復員するはずの夫を出迎えるためにトラックの荷台に
乗って恵下谷の谷底の道を下っていたら夫が対向車の荷台に
乗っていたので対向車の荷台に乗り移ったと言う笑い話まであり
ます。細い道ですが、所々で離合できたようです。
御調町の中心部から尾道に向けて石見産出の銀を運んでいた旧道
と恵下谷の旧道を比較すると木材のような体積の大きい物は恵下谷
の旧道のほうが断然楽です。恵下谷は落ちたらすぐに拾えますが、
銀を運んでいた道は材木の端が山肌に当たりやすいうえに落ちたら
拾いに行くのが大変です。今では東城から福山まで良い道が付いて
いるので東城の木材は福山に運ばれることが多いのでしょうが、
県道25号線は昭和20年代までは東城で切り出した木材を三原へ
運ぶための重要な道でした。

三原が人工的に作られた町であると同時に、備後地方の中では比較的
に木材を搬出しやすい道が恵下谷にあったことと、本郷町以東を埋め
立ててしまったため生活に必要な塩や煮干しなどの干物を安価で入手
するためには三原まで買い物に行かなければならなくなった(埋め立て
以前は世羅郡や久井町の人は河内町や本郷町などでも安価で入手
できたはず)という事情も重なって、江戸時代にそれなりに発展したの
だと思います。

ちなみに名称不明のうまやとしてマーキングされている場所は八幡町
垣内(かいち)ですね。仏通寺から崖に造られた道をゆっくりと登って
久井町坂井原トチ谷へ出て隣村の八幡町垣内の御調川で馬に水を
飲ましてねぎらって、もう一踏ん張り尾道市御調町市村まで行って欲しい
場所ですね。
八幡町には豪族の敷地跡や古墳はもちろん龍王山山頂近くに武士の
墓もありますが、地名の由来はたぶん宇佐八幡宮の巫女だった菅原
道真の姉が八幡町宮内に流刑され後年御調八幡宮が建立されて三つ
作られた鳥居の一つが八幡町本庄に建てられ本庄地区が八幡村と
称したことだと思います。
また、久井という地名は元々県道25号線沿いの江木や下津など(吉田
を除いた現在の久井町の北東部)を指していたようで、久井町役場の
近くの大字和草字黒郷の90代の女性は下津から来る車を見ては「久井
から来る車が見える」と言っているようです。
道が狭いことに言及なさっていますが、本町の本通りとか本郷町の
商店街の西国街道など大名行列が通ったはずの道は皆道幅が狭い
です。昭和30年代に皆実町に国道2号線が移設された時母は「大きな
道ができたと思った」と言うのですから、備後地方全体がモータリゼー
ションに適さない道幅だったのだと思います。

全く違う話になりますが、垣内から県道25号を3キロほど南下すると
西に分かれる道があり、この道を川沿いに徒歩で南下するとかつては
西野町小西に行くことができました。昭和20年代まではお腹が減って
いても皆健脚で八幡町民や御調町津蟹の人はよくこの道を往来し
八幡町と西野町はまるで隣村のような状態で八幡町と西野町の村人で
しばしば婚姻関係が結ばれ、昭和60年代までは双方の地区で個人
情報が筒抜け状態でした。

(引用ここまで)

これがご指摘にあった「かつての恵下谷の往来道」である。(撮影私:2014年6月)


現在は往来は谷の底ではなく、山肌部分に無理矢理とって付けた
ように作られた道路県道25号線が
通っている。今でこそ上下一車線
の複線になったが、私が子どもの時分までは、離合困難な嘘のように
狭い道だった。路線バスはそこを通っていて、離合エリアで離合して
いた。この道は昭和20年代に敷設されたようだ。



現在の県道25号線から崖下には上掲画像の古来の往来が通っているが、
谷が深く、見下ろしてもまったく旧道は見えない。


谷は深い。


ご指摘いただいた方の説明に基づくと、この大正15年6月17日と
日付のある石碑は、谷下の
往来道にあった物をこの山間部道路の
県道25号線に戦後移設したということになる。



再び登場してもらうが、ここがかつての三原城下から北方へ抜ける
道である。ここを戦後木炭トラックなどが通ったらしい。
(現在は車両通行不能)



この谷底の道の写真を見たら、古代飛鳥奈良平安、中世鎌倉室町時代から
景色が変っていないかのように
思えるが、それは錯覚で、昭和20年代
までは往来として利用されていたのでもっと栄えた整備された道路状態で
あったはずだと推測できる。

この写真のような状態は、昭和20年代に山間部に道路が敷設されて以降、
使用されなくなり放置され、現在に至り先祖返りのように天然化
した状態
なのだろう。
建造物は「廃墟」となるが、未舗装道路などが自然状態に戻るのはほんの
数十年で自然化するようだ。
この風景を見ていると、人類の痕跡は人がいなくなるとやがてすべて消えて
行く運命にあるようにも思えてくる。



映像に見る風景と台詞まわし 『その小さき手に』 ~子連れ狼~

2016年04月13日 | 映画・ドラマ・コミック

子連れ狼 Lone Wolf & Cub: Final Conflict (1993) Resisting Arrest


原作者の方はこの1993年田村正和版の子連れ狼が一番
原作のイメージに合っていて好きなのだという。
実は数ある子連れ狼シリーズで、私もこの作品が一番好きだ。
一番最初の若山富三郎先生版は生々しすぎでグロだし、劇画
原作に最も忠実な萬屋錦之介版は、安定感はあるが、動きが
もっさりしている。
ソフトバンクの白い犬のお父さん版は、ただの毎週放送の老人
向け時代劇になり下がっていて最低以下の出来だった。なんと
いうか素浪人天下御免の向こう傷カーッ!みたいな実に陳腐な
拝一刀になり下がっていて、史上最悪の出来だった。

この『その小さき手に』は、原作劇画とはかなり表現描写が異なる。
だが、私は惹かれる。
まるで舞台劇のような現実離れした美しすぎる田村正和の立ち
回り(殺陣における剣劇シーンのことを「立ち回り」と呼ぶ)なのだが、
肉親を殺された時の悲哀感などは田村氏が一番飛び抜けて演技
できているように感じた。他の方の演技は、原作をなぞるか、直截
過ぎる感じであり、「唇を知らずに噛みしめて血が流れる」ような感情
の表現は、田村さんが図抜けている。
比較するべきものでもなく、「田村正和は田村正和なり」と私は思う。

ところで、公儀介錯人旗本拝一刀は、公儀介錯人の地位を狙う
裏柳生の謀略により、登城出仕後に屋敷に帰宅すると、一族郎党と
妻「あざみ」が殺害されていた。
このyoutube動画はそのシーンだが、これはどの作品でも出てくる。
ここから拝一刀は刺客の道に入るからだ。
拝一刀が刺客道に入った
理由は拝家再興ではなく、ただ柳生に恨みを
晴らすためである。

刺客一殺五百両の報酬は、剣で柳生に立ち向かえない幼い一子
大五郎に南蛮渡来の投擲雷(とうてきらい。手榴弾)を与えるため
の資金だった。亡き妻あざみの従者だった「竹阿弥」が毎回送り届け
られる金子を溶かして竹の中に秘蔵した。
竹阿弥は明らかに忍びの者であり、あざみは柳生の娘であるかのような
ニュアンスを匂わせるシーンも原作には出てくる。
さすれば、最後のシーンで、柳生烈堂が大五郎を抱きしめて「わが孫よ」
と呟き、大五郎が「?」となるシーンのつじつまも合うのだが、大五郎が
柳生烈堂の実孫であるという見解は原作者が自ら後年否定している。


この柳生が自宅に乗り込んでくるシーンでは、どの作品でも、拝一刀は
邸内から走り出て、邸宅脇の水辺に柳生の一群を誘いこむ。
拝一刀と柳生烈堂が死亡したのは、原作からの類推では1702年の
元禄15年であるのだが、当時の江戸は、市内からちょっと出ると
山林原野のような地域が広がっていた。徳川実紀にも、江戸付近で
鹿狩りで鹿が大量に獲れたことが記録されており、現在の都心港区にも
「狸穴(まみあな)」という地名が残っているように、タヌキが棲むところ
であり、今でいうと、地方都市を想像してもらえばよいだろう。
ただし、「狸穴(まみあな)」という地名は馴染みが時代と共に薄れた
ためか、ロスインディオスの『別れても好きな人』では、最初は「歩きたいのよ
狸穴 灯りが揺れてるタワー」と歌っていたのに、後年のロスインディオス
&シルビア版では「歩きたいのよ高輪 灯りが揺れてるタワー」に歌詞を
変えている。実はロシア大使館の坂下の狸穴からはタワーがよく見えるが、
高輪からはタワーはあまりよく見えないのではあるが、イメージ的にマミアナ
よりも高輪のほうが時代的にオサレだったからだろう。高輪プリンスホテル
全盛期の頃に歌詞は変更された。
『別れても好きな人』では、本当は高輪ではなく狸穴から赤坂に歩く。
「ちょっぴり寂しい乃木坂 いつもの一ツ木通り ここでさよならするわ
雨の夜だから」となる。高輪となると、高輪から赤坂まで歩いたのか?と
すごく不自然になる。高輪というのはJR品川から丘を登ったところで、赤穂
浪士の墓がある泉岳寺のある場所だ。そこから赤坂まで歩くというのは、
かなり無理がある。
そして、初回盤の歌詞のほうが情景が豊かだ。なぜならば、ロシア大使館
あたりの狸穴を歩いて二人で赤坂まで一緒に行くという情景が浮かぶ
からだ。距離的にも無理はない。別れた後に二人が偶然再会して「恋の
いたずらね」となり、原宿や赤坂でまた会う。恋人同士にかえってグラスを
傾けた二人だったが、東京タワー近くの狸穴を一緒に歩き、赤坂乃木坂、
一ツ木通りのあたりで再びまた別れることにするのだ。雨の夜だから。
そうした『別れても好きな人』の歌詞で、高輪がリメイク版でとってつけたように
登場したのは、原詩の流れや情景からすると、とても不自然なのだ。
これはタワー狸穴あたりと赤坂六本木と高輪を知っている人からすると
リメイク版で歌詞が変更された時、「あれ?」と思った事だろう。
(ちなみに東京タワー下の直角コーナーは膝擦りコーナーで攻め所であった。
下りはすぐに信号があるので攻められないが、慶應大学方面に向かう上りは
タワー下コーナーを抜けてから続く高速S字も楽しめた)


閑話休題-

三原市などは、今でも城から数百メートルの地点でイノシシやタヌキ、
キツネやテンなどが出る。城下町の市内の山ぎわを大型イノシシが
歩いている姿を想像できるだろうか。
まさに江戸時代の江戸シティがそのような感じだっただろう。

雪の日に私の家の駐車場横に出たタヌキ。城から300メートル地点。




そこで、拝一刀が邸宅から自宅脇の水辺に柳生を誘いこむシーンなのだが・・・
こうした風景は江戸府内としてもあったかも知れない。


だが、こうなると、後ろに明らかに「山」があり、これは愛宕山で
あるとしてもかなり無理がある。


一方、大人気高視聴率だった萬屋版では、拝一刀は邸宅を出て
すぐ横の川に柳生を誘いこむ。


気になるのは、かなり上流の渓流であること。


やはり山が映り込んでしまっている。
CGも存在しなかった時代、撮影場所がないから仕方ないが。


水鴎流(すいおうりゅう)波切りの太刀。




ただ、萬屋版は、屋敷のすぐ脇が川というところが原作に忠実である。


萬屋先生は、台詞回しが歌舞伎っぽいが、そこがまたよかったりもする。
特徴としては、早く言うところとゆっくり言うところの強弱をつけるのと、
文節の切り方が独特なところだ。
通常、「○は△であった。それが□である。」と言うところ、萬屋先生は
「○は△であったそれが、、、□である」というような文節の区切り方で
よく台詞回しを表現する。前段は素早くしゃべり、「□である」のところは
極めてゆっくりと言う。これが萬屋錦之介の台詞回しの特徴だ。

若山富三郎版の同シーン。


若山富三郎先生は何を言ってるのかよく判らない(^^;

田村正和は昔よくモノマネされたが、そのモノマネのデフォルメと同じ
ように、抑揚なく台詞をしゃべる。だが、それが棒読みとはなっていない
ところが特徴だ。感情を抑えた台詞回しが特徴だったが、この『この小さき
手に』では激情で叫ぶような感情も表現している。役者田村の「堪え」と
「発奮」の二面性の演技がこの『この小さき手に』では見られて面白い。

田村正和版では、川ではなくどこかの止水で撮影されたようだ。
止水といえば思い浮かぶのが虎ノ門から赤坂にかけての「溜池」だ。
現在は完全に埋め立てられて地下鉄が通っている。



明治初年の赤坂溜池






江戸期の溜池の地図。虎ノ門から赤坂に向かう途中にある。


旧田村町(現内幸町)から虎ノ門方面を見る。正面が日本初の
高層ビルである霞ヶ関ビルだ。ここらあたりに私の前職の職場が
あり、刀工小林康宏はここ田村町で生まれ育ち、中学の時に
高輪に引っ越した。東京の道割りは江戸時代から変っていない。
正面の霞ヶ関ビルの向こうに溜池があった。今は地名のみが残る。


私は、原作劇画から拝一刀の屋敷所在地を割り出そうとしたが
できなかった。
それは、現実世界の江戸の地形と、原作劇画の屋敷付近の地形が
合致しないからだ。架空の中の架空の場所として原作では描かれて
いる。
これが、同原作者同劇画家の作品の幕府御様(おためし)御用の
山田浅右衛門を主人公とした『首切り朝』では、かなり現実の江戸
市中がリアルに描かれている。

この切絵図は劇画『首切り朝』の中でも使われた。



時代劇を観る楽しさに屋外でのロケがある。

最近では時代劇の撮影場所が激減してロケハン(ロケ地ハン
ティング=ロケ地探し)も大変であることだろう。
だから最近は時代劇でもCGが多用されるのだろうが、なんだか
やはり味気ない。
萬屋版の面白さの一つは、スタジオ撮影がほとんどなく、刺客と
なって野外を放浪する拝一刀の姿が自然風景とマッチしていたから
というところもあるのではなかろうか。

そして、都市である江戸をはじめとする城下町は、戦後の高度
経済成長が訪れる以前の日本の地方都市の風景に似ていた。
私が生まれて初めて岡山市を訪れた時(1997年)に、なぜか
郷愁に似たものを感じたが、それは岡山市内には高いビルが
なく、歩道にガードレールが存在せず、市内を路面電車が走って
いたからだった。
それは、まさしく昭和40年代中期までの東京の風景に似ていた
のである。
時代劇が私の世代まで人気が高かったのは、劇中に見られる
風景に、多くの人が郷愁に似た感覚を無意識に抱くからかも
しれない。
同じような例として、なぜ韓流ドラマが中高年層にウケるのか
ということがある。
それは韓流ドラマで描かれる創作物が、失われた日本のかつての
情愛を描いた作品と重なるからではなかろうか。赤いシリーズや
もっと古くは「愛染かつら」のように。
私は、韓流ドラマの吹き替えがアニメのようにわざとらしくあざとく
思えて耳触りなので、韓流ドラマは観ないのだが。
洋画の吹き替えも似たようなところがある。

友近さんが日本語吹き替えの洋画ドラマのわざとらしさをネタにした
絶品モノマネがある。プロの職人技だ。
友近 「キャサリン」




若山富三郎の殺陣(たて)

2016年04月12日 | 映画・ドラマ・コミック

子連れ狼(若山富三郎)


歌はよくないが、殺陣は若山富三郎先生が一番だと私は思う。
これには妻も同じ意見で、「最高よ」と言う。

爆笑!柳沢慎吾「 若山富三郎」


殺陣(たて)と現実の違い

2016年04月12日 | 映画・ドラマ・コミック



倒れ込んだ拝一刀に刀を突き立てる柳生烈堂。
でも死なない拝一刀!

活劇ですから(^^;
現実ならば死にます。
しかも刺してからグリグリやられてるし。

それどころか、背中からわき腹(肝臓の辺り)にも刀を
刺されてしまっています。


死にますから(^^;
でも、一刀は死なな~い。

活劇の殺陣(たて)は現実とは違うのだと、当たり前のことですが、
どうか理解してください。

良い子は真似しないように。

lone wolf & cub
- how to kill an angry looking weirdo with white hair + a lot of ninjas


斬釘截鉄

2016年04月12日 | 文学・歴史・文化・科学


斬釘截鉄(ざんていせってつ)は禅語である。
二代目小林康宏復活刀(游雲会プロジェクト)の第一号刀では、なかごの銘に
この語を切った。
登録の際には、登録審査員が「康宏でなくとも釘くらいは切れるのに何だ
この銘」と言って揶揄した。
無知とは恐ろしいものである。
禅語である斬釘截鉄は、鉄をも断つ強い意志で困難を克服する、その信念を
曲げずに貫く、という意味だ。
第一号刀の注文主から相談を受け、私が復活の証にふさわしい語として提案
し、それが採用された。

さて、キルには斬と切という漢字がある。
漢字辞典を引いて原意を知って欲しいのだが、斬とは斬り割くことで、切
とは二つに切り離すことを意味する。
切断することを切という。
切腹と斬首では漢字の原意が逆転してしまっているが、こうしたことは時々
起こる。甲冑も甲がヨロイで冑がカブトであったところ、いつの間にか逆転
してしまった。

では、斬釘截鉄で使われている「截(せつ)」とはどういう意味か。
この截(せつ)は、「ズバリと断ち切る」という意味がある。
未練なくスパッと切り離すことを意味している。

截(せつ)は禅語であり、仏教用語なのだが、仏語といってもフランス語では
ない(笑)。
しかし、フランス人に説明するならば、さしずめ、フランス語では、
coupe(クゥペ)=切(せつ)、couper(クゥピィ)=截(せつ)となるかも知れない。

浮世の未練を断ち切る時には「截(せつ)」だろうが、間違って「裁(さい)」
としてしまうと、うまくより分けるという意味になるので、世の中を上手
に泳ぐことのようにも思える。
なんだか、「截(せつ)」とは違って俗っぽい(笑


刀の差し方

2016年04月12日 | 文学・歴史・文化・科学


(ネットから)

大刀の差し方は大別して4種ある。
閂(かんぬき)、鶺鴒(せきれい)、落とし、天神だ。(他にもいろいろあるが
割愛)
天神は太刀のように刃を下に向ける差し方で、馬上や甲冑着用の際の固定
方式で、平時や登城時の差し方ではない。

上掲の画像は「正しい」としているが、二つの点で誤りといえる。
一つは、刀の差し方は状況により異なるので、画一的に「これが正しい」
と画一的には括れないこと。
画像の場合、「閂差しはこれが正しい」とすべきだろう。綺麗な閂差しだ。
もう一つは、下げ緒の取り回しが全く正しくない。
大刀のこの下げ緒の取り回しは昭和初期に中山乙吉(号博道)が発明した方法
であり、江戸期の大刀下げ緒のさばき方ではない。
中山博道の大刀下げ緒の前垂らし袴紐への右結束は、昭和10年出版の書籍
に既に見られる。
前に垂らすので、袴紐への結束なくば処理ができない昭和新方式である。
幕末古写真で、大刀下げ緒を前に回して右に絡める侍の姿が一葉のみ残って
いるが、だらんと前に垂らしてはいない。
この中山式の下げ緒さばきは、昭和以前には今のところ絵図にせよ文章に
せよ、史料としては発見されていない。すべて残された史料では、下げ緒は
鞘に掛けて栗形より後方の下に垂らしている。

では、中山式下げ緒さばきならば、戦後昭和30年代から呼称しはじめた夢想
神伝流であれば上掲の写真は正しいではないか、と思われる向きもあるだろ
うが、それも間違い。
夢想神伝流は大刀一口(ひとふり)のみを帯刀する。
居合稽古は古来より一口のみ帯びて行った。剣術の竹刀稽古で竹刀二本を
帯びないのと同じである。
また、歴史的に、江戸期の武士と侍の違い、大小二口差しと一口差しの違い
等の歴史背景もあるのだが、それはここでは割愛する。

要するに、上掲の写真は、二重の意味で整合性がなく、完全に間違い。
全く「正しい差し方」ではない。

中途半端に正しい部分を入れると、辻褄が合わなくなる。
きちんと、「何がどうなのか」と見極めよう。
似たようなちぐはぐな例として、江戸期の様式で下げ緒を鞘掛けにして垂ら
しているのを時々見かけるが、これも下げ緒取り回しだけ江戸期方式を採り
入れているのでおかしなことになる。
昭和時代に袴紐への結束を前提に考案されて登場した現代居合用の長い下げ
緒のまま鞘掛けしているので、床に引きずるほどの下げ緒を下に垂らして
「正式」としているのである。
上掲の写真と同じで、面妖なること甚だしい。
江戸期方式で鞘掛けするならば、江戸期の下げ緒の長さにして掛け垂らさ
ないと珍妙なことになってしまうのである。
上掲の写真のように、かなりちぐはぐでおかしなことをしながら「正しい」
とするのは、自己中心的な自己満足であるだけで、常識的にみるとイタい。
現代において、背広のズボンをはかずにステテコのまま背広を着て外出した
ら珍妙であることと一緒なのである。

大小二本を差すならば、大刀の下げ緒は鞘に掛ける。これはどの派であって
もだ。流派は関係ない。(江戸期の最初の由来については私は不知)
剣士が袴をはくことは、流派に関係なく袴をはく。
そのように、二本を帯びるならば大刀の下げ緒は、流派に関係なく江戸期と
同じく鞘に掛ける。刀を差すには流派関係なく袴をはくのと同じだ。
大刀一口のみ帯びての下げ緒取り回しは、流派演武の際には各現代流派の
流儀による。
一番古い系統の鹿島の流派も夢想神伝流方式を真似て改変し、新陰流居合
(柳生厳長が創始)の全剣連所属派新陰流も平成18年から夢想神伝流方式
に変更している。
如何に中山博道派が戦前から戦後70年を過ぎた時代までも強烈な影響力を
持つかが窺い知れる。良い悪いとかではない。そうした次元を超えた面での
功績や影響力がある、ということだ。

だが、夢想神伝流に二刀差しはない。
なので、二刀差しの場合は、すべて流派に関係なく、江戸期様式を踏襲す
べきであると私は思う。(新派は別)

最近の時代劇の傾向として、江戸期の侍が二刀差しで大刀下げ緒を前垂らし
右結束にしていることが多く見られる。
とてつもなく珍妙である。

夢想神伝流の剣士でも、居合指導等の場合に、さっと刀を帯びてすぐに
形を示す場合に、下げ緒をパッと江戸期方式に鞘掛けにすることがある。
これは五六段の中段者だけでなく、神伝流の範士八段でもそのようにして
いることを私は何度も実見している。
これはこれで、意味がよく解る。
下げ緒さばきが素早いからだ。
ここにこそ、江戸期の下げ緒さばきの本当の意味がある。
下げ緒は何に使うのか。
すぐに外せないようでは、下げ緒を鞘に着けている意味がないのだ。
元々下げ緒は戦陣軍装の際に甲冑着用時の刀剣の固定に使用されたが、
その後に長さがどんどん短くなり、江戸初期には二尺二寸ほどになって
しまった。
また、下げ緒は紐であるので、襷になったり、呪縛用にも使える。
さっと外せるようにしておくのが下げ緒を活かすことであり、事実、だから
こそ江戸期の武士は下げ緒を鞘に掛けて下に垂らすことをしていた。
現代の平時におけるフォーマルウエアにおいて、私は首から垂れ下げるネク
タイの意味を知らないが、垂れ下げさせてもネクタイは「だらしない」とは
されない。
それと同じく、江戸期にも鞘掛けして垂れ下げた下げ緒をだらしないと捉え
る発想は江戸期の人々にはなかったのではなかろうか。
武士、侍、剣士は、大刀の下げ緒は鞘に掛けて下に垂らした。一口差しでも
そうした。
それが武家政権時代の標準仕様である。



公道競争

2016年04月11日 | バイク・車

BMW S1000RR X REPSOL HONDA CBR1000RR in BRAZIL


公道なのに危ないちゃんちゃこりん。


いつか君と僕は同じ一線で結ばれた優しい放浪者だった

2016年04月10日 | 映画・ドラマ・コミック



「いつか君と僕は同じ一線で結ばれた優しい放浪者だった」

ドラマ『高校教師』(1993年。全11話)。

私の中で、この作品がここ四半世紀で一番のドラマだ。
作品の作りと撮影が物凄く丁寧ということを言うと陳腐になる。
原作者野島伸司はこのドラマを「ギリシャ神話のようにしたい」とのことで
脚本を書いた。
多くの俳優に出演を断られた。それはあまりにもタブーとそれを超える
愛をテーマにした作品だったからだ。
ようやく決まった主人公の女子高生の一人二宮繭(まゆ)は桜井幸子が
演じた。
また、多くの女優が断った繭(まゆ)の親友相沢直子役は持田真樹が
演じたが、鬼気迫る教師藤村(京本政樹)の演技によって、本当に
京本を持田は嫌いになってしまったそうだ。(20数年後に和解)
主人公の教師羽村は真田広之が演じきっている。

このドラマはドラマとわかっていても、切なく悲しい。
悲しいだけでも切ないだけでもない。切なくて悲しいのだ。
第1話の段階で主人公の教師羽村のナレーションが過去形で述懐
する形で入る時点で、私は初回放送を観て「これはとんでもない不幸劇だ」と
感じたが、
実際にドラマは重く切なく哀しい展開になっていく。

役者の演技が物凄くいい。
これは役者の力量もあるだろうが、監督の手腕が大きいと思える。
特に主人公の二人、高校2年生二宮繭の桜井幸子とひ弱な新任教師
羽村の真田広之の演技が素晴らしくいい。
台詞まわし、そして台詞がなくとも表情や仕草で心象風景を十二分に
表現している。
桜井さんはこの作品で「燃え尽き症候群」になってしまったのか、クランクアップ
後に一年間
女優業を休業した。その後は静かに女優を続けたが、ひっそりと
芸能界
を引退した。
この作品が彼女の演じた作品群の最高峰だろう。とにかく、作品が良い。

劇中、多くの伏線と布石があり、サスペンス要素も多いのだが、見逃して
しまっている人も大勢いるのではなかろうか。
私はこれまで何度も何度も観たが、やはり全編の中で一番好きな登場
人物の表情のシーンは繭のこの表情だ。


これは、最終話の1話前の回で、羽村が公園で待つ繭を迎えに行った時、
繭が羽村に気付いて、公園の砂場で立ち上がって見せる表情である。
実はこの表情は、羽村が全く同じ面持ちで、似たようなシーンで見せる
回があった。どの回かは、ファンの方のお楽しみということで、全編を
ご覧になってみてください。
その時の羽村の表情は、この最終話前の繭の表情と対になっていたのだ。
この二宮繭のこの画像を私は初めて自宅用に購入したパソコンの待ち受け
画面にずっと設定していた。

だが、最終話前の回でとんでもない逆転が起きる。
それはなぜ。
理由は教師羽村が、それまではまだ「優しい放浪者」ではなかったからだ。
漂泊者の心は、心の漂泊を持つ者にしか理解はできない。
絶対に踏み越えられない、絶対に向こうには到達できない川が眼前に流れて
いる
のである。
だが、その川を超えれば、人はあちらにいる人の世界に行ける。

また、作品中、相沢をレイプした英語教師藤村(京本政樹)を体育教師の
新庄(赤井英和)が暴力で成敗して重傷を負わせる。だが理由は明かさない。
すべては相沢直子を守るためだった。
そして、新庄は免職となり女子高を去っていく。
この去りゆく時に、生徒たちは新庄を取り囲んで口々に罵声を浴びせる。
これはゴルゴダの丘に向かう救世主イェスを重ねて描いている。

全編を通して、目が離せない描写ばかりで、一つも倦怠感は感じさせない。
作品としても見事な仕上がりで、やはり日本ドラマの中での「不朽の名作」の
一つに数えられるだけはある。
ただ、このドラマは、「作り物」ということを感じさせない程に、観る者の心に
迫る。

劇中で役者が良い演技をしている=というよりも役そのもので演劇とは
感じさせない=という良い表情のシーンは多くあるのだが、その中でも
私の気に入ってるカットを数点のみ並べてみたい。
有名な悲しいラストシーンのカットはあえて挙げない。
女優桜井幸子は表情がめぐるましく変化するので、静止画像よりも、
絶対に作品の動く映像を観たほうが良い。
それにしても、この作品のスタッフは、とんでもない大仕事をしたものだ。
カメラさんと照明さんとかって・・・凄すぎ。

図書館でのシーン。この時の繭の人形での心の表現と、それを見る教師羽村
の心の変化を表現する表情の変化が凄い。台詞は一切無しの長回しである。


近づいてきた繭と言葉を交わす羽村。ここのシーンの心理描写も実に奥が深い。




屋上でのシーン。
この屋上でのやりとりは次のほんのひと時の幸せの時間への伏線となって
心と心がすれ違う切ないシーンとなっている。この時の二人の演技も凄すぎ。


繭と父の悲劇的な関係を知った羽村は、父親の下には繭を置いて
おけないと繭を強引に父親と住む家から
連れ出した。
これは、藤村に重傷を負わせた新庄が、殴り続けながら「教師の前に
人間じゃい!」と言ったこと、事件後の「俺が守らんで、誰が相沢を
守ってやるっちゅうんや」という言葉に羽村が衝き動かされてのこと
だった。繭を守る。守り抜く。
そうして羽村は父親の暴力に立ち向かいながらも繭を実家から連れ
出したのだった。

羽村は電車に乗ってビジネスホテルに泊まり、繭を部屋に保護する
日々が続く。
羽村の部屋で生活を始めた繭だったが、ある日、羽村が部屋に戻ると、
繭は姿を消していた。「ごめんなさい、ウチに帰ります」との書置きだけを
残して。
その2日前の夜、繭の父親二宮耕介(峰岸徹)は
深夜羽村の部屋に
やって来て繭を取り戻そうとした。泥酔して
窓ガラスを割り侵入しようと
したところを二宮は警察に逮捕される。
その後、その割られたガラスを繭が張り紙で修繕したカットが映る。

その絵は、何日か前に私鉄駅に羽村を送って行った繭が、電車のドア
越しに
羽村にキスをねだり、羽村がそっとガラス越しにキスをした時の
二人の図を猫に重ねて
繭が描いたものだった。
この絵も、実は最終話の最ラストシーンでの悲しすぎる結末の列車の
窓の曇りガラスに描いた絵の伏線であり、ラストカットとの
対表現と
なっている。絵柄が幸せそうであればあるほど、現実との乖離に悲しい
定めが浮かび上がる。



「こんな映画やドラマのようなことが現実にはある訳ないやろ、あり得へんわ」
などと軽く思ってはいけない。
現実世界でも私はこれとまったく同じシチュエーションはある。
二人の間にあるガラスは、姿が見えるのに直接は触れられないという象徴的な
存在としても二人の間に立っている。
そして、電車の時にはガラスの向こうの世界に相手がいた。割れた窓ガラスの
時には相手は向こう側に絵として描かれているが、実際に自分がいるのは体と
心はこちら側(羽村の部屋)であるつもりなのに、真実の「状態」は自分は外の
側にまだいたのだ。
こうした鏡に映るような相手と自分という姿が真実の現実であったことに、まだ
この時の二人は気づいていなかった。


良い作品は何度観ても良い。
この作品こそ、映画という短い時間では表現しきれないことまでをすべて表現
できる時間的余裕があるというドラマの
特性を十二分に発揮したザ・ドラマだと
思う。
なぜこのような作品が生まれたか。
それは、この作品は、一般的なドラマとは異なり、撮影開始前までに最終話まで
のシナリオ脚本が完成していたことが要因のひとつとして挙げられる。通常、
映画のようなそういったドラマはほとんど存在しない。
それゆえ、役者は役柄の心情、心象風景、感情の起伏を充分に読み込んで
演技をすることができた。
だから、この作品における役者の演技は飛び抜けて光っているのであると
いえる。

機会があれば、ぜひご覧ください。
15分ごとに止めて別なことする、というような形ではなく、正面から作品と向き
合う形で。



ああ、凄かった・・・。
結末知ってるだけに、何度観ても、最初の出会いのシーンから泣けてしまう。
悲しい運命・・・。命運は変えられないが、運命って変えられる筈なのに。
繭も羽村も悲しすぎる。
結局最後は一つになれたのだけど・・・。

途中のシーンでとても気になるシーンがある。
繭が歩道橋の上でクラスメートの相沢直子のように嘔吐するのだ。
それを何も事情を知らない羽村が横で介抱して抱きしめるのだが、
繭は羽村に
「死にたくない。先生!あたし、死にたくない!」と言うのだ。
この時、繭は妊娠していたのではなかろうか。
その後の展開ではそれを窺わせる表現描写はしていないが、物語の
展開からして、私にはそうした暗喩表現としか思えない。
繭が死にたくないと言ったのは、自分のことだけではなく、「命」そのものが
何かによって絶たれることへの恐れだったのではなかろうか。
命という直截なことよりも、「存在」そのものの消去を彼女は一番恐れたの
ではなかったか。


そして、繭と羽村は、いつか同じ一線で結ばれた優しい放浪者と
なるのだった。
「永遠」を手に入れるためのあまりにも悲しすぎる結末によって。
だが、人は人を本気で真剣に好きになることから始めないと、人と人は
決して理解できない。
そして、真実の愛とは、求めるものではなくすべての外皮を取りはらって
身を挺するものだと、この作品は私たちに教えてくれる。
というと言わずもがなだが、人には人それぞれの愛がある。人を愛する愛
なき「愛」もある。それも本作品ではしっかりと描かれている。
ご堪能ください。

最終回「永遠の眠りの中で」視聴率33.0%


正しい青春映画 五十嵐いづみ

2016年04月10日 | 映画・ドラマ・コミック



風、スローダウン Trailer


刀工康宏友の会「游雲会」の新メンバーとメールをやりとりしていて
意見が合った。

五十嵐いづみはドストライクである(笑
特にこの『風スローダウン』でのレーシングチームメンバー時代の
五十嵐さんがいい!


おいらの場合はね、ピットにいたかみさんと結婚できたからよかった
けど、この映画は
切ない映画だったね・・・。
悲しくはない。とても切ない映画だった。

うちもこのパンかじってる画像のようなこんな時代があったのだけどね。
着てるもんもよく似てる。まあ、この世代だからというのもあるけど、
シチュエーションもよく似てる。
かみさんは、レースのことはあまり話したがらない。
いい思い出はないから。
バリ伝の歩惟ちゃんのようにはなれなかったし。
そして俺は、よくいた「サーキットにいるボロ雑巾のような亡霊」だった。


シソウシンジョウ?んなもんねーよ。あるのは命だけ。

2016年04月09日 | 文学・歴史・文化・科学

道場の居合仲間のある高校教師が私に言った。
「え?あなた右翼じゃなかったの?てっきり日頃の発言から極右かと思ってた」と。
いえ、あえて云うならば、いわゆるマスコミからかつて喜劇派と呼ばれた極サです(笑
ほんとは主義者でなく協賛趣味者だけどな~。
協賛趣味者同盟焚火(たきび)派なんだ、おれ(笑



まあ、右も左も本当の真実は同心円でぐるっと回って繋がってるんだけどね。
宙ぶらりんのニセ右翼やノンポリに限って、右だの左だのだけで分けたがる。
真実の奥はもっと深い。そんな単純なものではない。
てか、まじなのは、ぐだぐだめんどっちーんでよく知らんけどね。


あ!
ゼリーがこのメットで登場したのは1988年だが、チクチョー!アウトピンが外周
に露出したのではない
当時のメットの中でもオサレな型式のヘルメットだ。
キヨシローめ、やりやがったな。

ただし、60年代~70年代型は、インナーの固定には細いロープのような紐が
外周に飛び飛びにめぐらされていた。
学園紛争などの映画を撮影する時には、時代考証は正確に。
このキヨシロー、いやゼリーのつるんとしたタイプで1960年代末期を再現したら、
それは嘘っす。




現行タイプ。なんだかカッチョワリ~。白嫌いだし(笑)。でも仕事だからしかたない。

お。なんだよ、つるりんタイプも売ってるじゃん。
なになに?
左からチュン、ミン、中大(某学部)、旧アオカイ、べ平連(薄)、アオカイ(70年代)、
四トロ、中大(某学部)、中大(某学部)、明大ブント(not 竹内)でしゅか(笑


なんだよ。ワレワレワァの青空直下の俺様自己主張のPR色ばかりで、
暗黙集団の夜戦戦闘仕様の焦げ茶サンドブラストが
ねぇじゃねーか(苦笑
ありゃあ、きっと忍者装束の柿渋染めにヒントを得てたな(笑

あれ?
一般市販の安全帽って、黒がないね、黒が。知らなかった。

黒ヘル(ノンセクトの色)を被る野坂昭如先生。

「心情三派」とか言ってた頃?1969年12月頃の写真。1969年だとしたら三派
全学連の時代じゃないのになぁ。セクト主導は実質上は崩壊よ。セクトに反する
全共闘の時代だ。野坂もわかってねぇなぁ。(ちょっとマニアックな社会史だけど)
てか、野坂のおっちゃんは「焼跡闇市派」を名乗って左翼も右翼も批判してたよな。
しかし、この姿はどう見ても新左翼(笑
まあ、テキトーな人だからね。心情について信用はできるが、信条については
信頼はできん。
人の事言えないけど(笑

大島渚のパーティーに呼ばれて、発言求められたときに野坂がいきなり大島
監督をぶん殴ったのはよかったよ(笑
監督も負けじとマイクで「クヌヤロ、クヌヤロ!」とぶん殴り返してたけどな。
世の中、そうでなくっちゃいけない。
最近の東京都内の花見、みぃ~んな牙抜かれた羊みたいに縮こまってよ、
つまんないよ~!みんな!
収集つかなくなって、機動隊が出てくるくらいの花見をしないとな~。
在京時代はとにかく花見は面白かったよ。
隣りの一角で仲良くなった元自衛隊員たちなんて(ヘリ団だった)、洗足池
公園入り口にあったウルトラマンのでかい人形とか担いで持ってきちゃって
ドンチャン騒ぎしてたしさぁ。あんなのどうやって持ってきたのさと思ったけど、
肉体派だから苦もなく担いで来たみたい。
意気投合してうちのグループととことん盛り上がったけどさ(笑
酔って肩組んで全員で軍歌とインターナショナル(革命歌)を歌ってた(笑

こういうことやってっから「ただの愚連隊」とか言われちゃうんだよな。

ケーサツは昔から濃紺(機動隊)と権中核納言みたいな白だね。


最近は黒いのもあるみたいだけど。


一度、指揮車の上の機動隊員に指テッポでバーンとやるゼスチャーをしたら、
アウッと撃たれたような反応してくれた機動隊員がいた。
あれ、絶対に大阪出身だな(笑
でも、その直後に向こうが指テッポでバ~ンとこちらを撃つしぐさをした。
なかなかシャレの解る奴だったよ(笑
(実話)


生麦事件

2016年04月05日 | 文学・歴史・文化・科学


生麦事件現場

この写真を見て、影の向きからこれが江戸方面から神奈川方面を
向いて撮影されたものだと判る。
写真右手に写る山影は、現在の横浜市鶴見区から神奈川区にかけて
の丘陵地帯である。(花月園競輪があったあたり)


TVドラマでの生麦事件の現場は、実際の生麦事件の現場に
似たオープンセットで撮影されていた。


生麦事件(ドラマ)


だが、劇中のナレーションには以下のようにある。
「八月二十一日、久光は江戸を発って京へ向かった」と。
となると、この映像はおかしい。
影からして画像左側が南方であり、この島津の行列は東海道を
西から東、つまり京から江戸に向けての方角に行進していること
になる。
惜しい(^^;
また、英国人を斬殺した際の描写も現実の事件とは大きく異なるし、
殺害実行者も現実とは異なるのだが、それはドラマ描写だから
割愛する。

どこかの河川敷だろうが、実際の生麦と似た風景の場所をロケハン
したスタッフに拍手を送りたい。行列の向きがまったく逆だけど。
たぶん、スタッフが上掲の幕末古写真を見て探してきてロケ地が確定
したが、古写真の
向きのまま江戸と京の東西南北の位置関係を考え
ずに監督がカメラを
回してしまったのだろうなぁ。
こういうのは監督のドボンだね。
西から昇ったお日様が東に沈むのはバカボンの世界だけなので、
こうしたミスはさすがにアレなわけで(^^;
活劇の表現としては人物がどのような動作でもよいとは思うが、
「江戸を発って京へ向かう」のが、明らかに映像上で西から東に
行列が進んでいたら、明白におかしいことなのである。
現代劇で富士山をバックに左から右に富士川鉄橋を走る新幹線を
南側から映しながら「東京を出発して京都に向かった」とかいうナレー
ションがかぶるのっておかしいでしょう?
もっと極端に言えば、東京駅に入ってきている列車を東京駅のホームで
撮影して、「これに乗り今東京から京都に向う」とするとか。
それ。

さらに突っ込むと、生麦事件があった文久二年八月二十一日はグレゴリオ
暦でいうと1862年9月14日であるから、このドラマ映像のバックで鳴く
蝉の声はおかしいということにもなる。ツクツクホーシ全開ならまだしも。
音声にはツクツクホーシも混ざって鳴いているので、確かに季節的に
大外れではないが、多分現行太陽暦でお盆過ぎ頃に撮影されたのでは
なかろうか。
また、蝉の種類としては東日本と西日本では生態系が逆転し、関東では
関西と逆でミンミンゼミは平地、アブラゼミが山地であり、この映像の蝉の
鳴き声からすると、同時録音だとすると、このシーンは西日本で撮影された
ことが判る。
お笑い芸人の山口智充氏がよくやるモノマネの蝉の鳴き声は、あれは彼が
大坂出身だから蝉の鳴き声がジージーシーシーシャワシャワシャワなので
あって、関東ならばミーンミンでないと市街地では馴染みが薄い。
ただし、山間部とまではいかないちょっとした丘陵地=生麦事件があった
生麦の西北方面の横浜市の総持寺の裏の鶴見区東寺尾中台・北台あたり
ではアブラゼミがシーシー鳴くことはある。(実質は丘というより小高い山
が連なる地形が横浜鶴見の山の手だ)
だが、山の手とは違い、海辺の生麦においてはミンミンゼミの棲息が圧倒的に
多い。

従って、見る者が見れば、このドラマでのシーンがおかしい、似て非なるもので
あることは一発で見抜くことができる。
ただ、映像活劇はドキュメンタリー再現フィルムではないので、それが許され
るし、また克明に時代状況と現場をただ写しとることに主眼はない。
芸術表現とはそういうものだろう。
これは現代日本刀の作刀における表現意思にあっても、まったく同じだと
私は考えている。


煤竹

2016年04月03日 | 文学・歴史・文化・科学

古民家の解体があったとのことで、日本刀探究苑游雲会の山陰のメンバー
から煤竹をいただいた。感謝!

煤竹(すすだけ/ばいちく)は、一般民家で100年~200年ほど
煙で燻された竹のことで、茶褐色に変色する。粘りがあり丈夫だ。
最近では人工的に短時間で燻製により煤竹が作られているようだが、
本煤竹は気の遠くなるような年月をかけないと出来上がらない。

こういう民家で親子4世代前後にわたりじっくりと作られるのが本物の
煤竹だ。


囲炉裏の天井にはこのように竹が敷き詰められている。
これが200年後には煤竹になる。気の長い話だ。
だが、こうした長年かけて熟成してはじめて完成する物品という
ものが日本には存在する。


「時間をかけるのはナンセンス」というネット世代の落とし後ホリエモンには
絶対に理解できない世界だろう。
また、「金を出せば何でも手に入る」という彼の感覚も、こうした長い年月の
文化の重みに理解が及ばないことだろう。
彼に代表される一般的現代感覚は、刃物よりも鉛筆削り、鉛筆削りよりも
電動鉛筆削り、という利便性のみが「良質」だと勘違いしているからだ。

囲炉裏の自在鉤のパーツにはなぜ魚が多いのか。


その理由は、日本には古くから「 懸魚(げぎょ) 」を設えるという思想がある
背景があることと関係している。
火に対しては防火上の精神性を表現するものは魚でなくばならない。
日本の伝統的文化であり、もともと外来の風習であるとはいえ、こうした
ことは日本で発展した独自の「日本人らしさ」なのである。
「囲炉裏?エアコンあればいいじゃん」「防火?スプリンクラーねぇのかよ」

済まそうとしても済ますことができない歴史の重みがこの囲炉裏の魚にはある。
日本の文化には和色や文様等、さまざまなものがあるが、国風文化を失うと
いうことは日本の心が消滅するということだ。

西欧型資本主義経済体制下では、企業売却は普通に起きる。資本主義体制下
においては、「金」こそがすべてだからだ。利益が上がらなく負債を抱えたら
技術力含めて会社を売却する。
NEWSにもあったように、国内大手の家電メーカー数社が海外企業に買収された。
パナソニックは2012年に三洋電機から引き継いだ白物家電事業を中国のハイ
アール・グループに売却し、東芝はインドネシアのテレビ工場を中国のスカイワース社
に売却し中国国内販売権を譲渡した。そして今回はシャープが中国の鴻海傘下と
なった。
トラックメーカーでは、三菱ふそうはディムラー傘下となり、日産ディーゼルは日産
系列から離脱してUDトラックスとなりボルボに買収された。乗用車業界でも、日産も
マツダも海外の資本が経営権を握るようになった。

自由主義というものは、そういうものだ。生活に自由がある、思想信条の自由がある
ということではない。「競争の自由」であり、「収益確保の自由」であるのだ。
土地売買も当然自由である。
現在、中国人と韓国人が物凄い勢いで日本の地面を買いまくっている。
あと、100年後には、日本は中華人民共和国の一地方となっているかもしれない。
自由主義というものは、そういうものなのだ。別段、基本的人権の尊重、国民主権、
平和主義という憲法に保障されたものが民主主義体制下の基本事項なのではない
し、ましてそれらが「自由主義世界の一員としての象徴」などというものではない。
資本主義体制は高度に発達すればするほど、自ら崩壊へと突き進まざるを得ない
仕組みであり、そういう体制なのだとたれか知る。

TPP推進により日本の国内第一次産業はこれからじわじわと死滅に向かう。国の
第一次基幹産業(とりわけ酪農を含む農業)は壊滅する。
自民党って、先の総選挙の前には「TPP断固反対!絶対に軸がぶれない自民党」
と選挙公約で明言していたのに、政権に返り咲いたらケロリと掌を返した。
掌返しの無策民主党とどっこい大作というわけだ。
戦後一貫して売国奴たち(社会党含む)が支配する政治社会のまま存在できる国。
残念ながら、それがわれらが愛すべき日本なのである。

関係ないんだよ。国土や国民や邦なんて、そういう資本家とそれに連座する有産
階級の別な顔を持つ政治屋の連中にとってみれば。
知らないうちにポケットにお小遣いが1700万円も毎月入っているような連中ばかり
なのだから。
そゆこと。

やはり日本革命というのは必要なのではなかろうかと思うが、まあ国民の多くが
売国奴を支持しているのだから、そんな国民のための革命など必要ない。
ただ、覚醒を促す前衛=アバンギャルドによるアジテーションは今後も必要かとは
思う。

長い歴史を経て人前にやって来た煤竹を眺めて、ふとそんなことを思ったよ。


短編映画 『勿忘草』予告編

2016年04月02日 | 映画・ドラマ・コミック

短編映画 『勿忘草』予告編


内野未来さんのブログにリンクがあったので紹介します。
う~ん。青春!(^^;

ただ、この作品が超非現実的なのは・・・・
こんなかわいい子ばっかしの学校なんて、ねえぇええーー!(笑

しかし、内野さん、本当に引退しちゃったなぁ・・・。
ブログ と ツイッター は1ヶ月くらい残しておくそうですが、もう二度と
メディアなどでは内野さんの活躍が見られないのが残念です。

まじかわいかった(^0^)






いつか綺麗な奥様、お母さんになってください。陰ながらいつまでも
応援しています。
ほんま、わすれなぐさ、だわ。
私が通った道場があった多摩動物公園駅で、ふと出会いたかったな(^。^)


オールドテイスト・ネイキッド

2016年04月01日 | バイク・車



ネットで見つけたけど、俺が欲しい4ストネイキッドのイメージはこれよ!
なんつーカコイイまとめにしてるんだ、この人は!
てか、この家、おらの高校の時住んでた家にクリソツなんすけど(笑

こうなると、スタイルでいえば2ストオールドよりいいぞ!

2ストオールドの決定番はやはりカワサキのマッハだろう。


もっといじるとこうなる。





しかし、世の中変えたヤマハのRZはカワサキのマッハの影響も受けていた
ことが、このマッハSSのメーターから見て取れる。
まるでRZ(笑


セパレートハンドル=セパハン=クリップオンがカッコいい。
というかですね、初めて市販車でセパハンにしたのはホンダのCB750F
(バリ伝グンちゃんの)だと記憶しているけど、フロントフォークに直接接続の
クリップオンハンドルって、とても良いのよ。
何がって、「察知できる」てとこが。
ダイレクトだからね。
それゆえ、街乗り用でも、レーシー。
見た目の問題じゃないんだよ。中身なんだ。
スズキのみは振動を吸収できなかったから、ハンドルバーエンドにくっそ重たい
バランサーを付けたけどね。
ガンマでも最後までそうだった。
ヤマハはレーサーでも樹脂マタンキだけよ。

好みは分かれるが、車の総合的な出来はヤマハが4社の中では抜きん出て
いる。
ただ、これがレースとなると、ホンダてのはなんであんなに凄いのかね。
曲がらないバイクで成績出すのだから、ホンダというのは頭抜けた世界
トップの曲乗り師を集めたようなもんかね(笑

それにしても、これはヤマハだが、実にノーマルのダサさを華麗に脱却して
いると思う。
ホンダは最初からゴテッとした完成車という外見にするが、ヤマハは素材
としていじれる楽しさもある。

しかし、これはいい!センスがいい!
レーサーみたいにバッテリーがぬぁい(笑

でもね、ナンバーはプレート下に鉄板かまさないと、確実にナンバーが
折れて脱落するよ。おいら、高校生の時に経験したもの(^^;

バイクも車も剣士の着付けも、ダサいのはダメよ。
ダサいてのは、とどのつまりは、無頓着で身づくろいとか身だしなみとか、
人への配慮にも気をつけないてことだから。
そうね。個別個人的な部分では、ジーンズにアイロンかけて革靴はくよう
なそういうダサさ?
全体の流れでこれにいたしましょう、これで行きましようということに
なったのに、俺が俺がと我を張るのが個性だと勘違いしてるイタいダサさ?
そんな感じ。
ダサの対語はイキだけどさ。
わかってる奴は意外と少ない。
イキの対語には野暮てのもある。
形にはまったことしかできないのもダサいが、個性の出し方勘違いしてる
のはもっとダサい。
車でも竹槍マフラー出っ歯とか2ストなのに集合菅とかダサさの極みだ。

思うに俺自身は生き方がダッセーのが一番嫌だ。
関西弁でいうとこのええかっこしいも、ほとほとダサいぜ(笑
あと、勘違い激しい上っ面滑りの丸ノ内のOLとかCAとかな。
ダサくてたまらん(苦笑

ダサいてのは江戸時代からあった言葉だから、映画『少年メリケンサック』
で「あの頃(1980頃)にはダサいて言葉はなかったけど」と言ってたのは間違い。
実際には俺が中学の頃の1973年には使ってた。
もっと言うなら、小学生の頃から使ってた。
江戸言葉なんだから、そらそうだ。

で、話を戻すと、ヤマハでイキな2ストネイキッドとなると、こうなる。
SDR200。86年から88年の3年間しか製造されなかったエンスーモデルだ。
このセンスの良さったら、ないね。
これはサブだろうと、一台は保存モードでも私は欲しい車だ。
でもね、ベンツ500Eと同じで、もう良い玉がないのよ、ほとんど。


なんだか知らないけど、最近の市販モデルはダサいのが多い。
30年前でいうとこの「とっつぁんバイク」みたいなのが多い。
アーリーテイストとも違うんだよなあ。
大昔のマシンて、かっこいいもん。