渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

螺鈿(らでん) ~日本の美~

2012年12月27日 | 文学・歴史・文化・科学



正倉院の宝物にも多く施されている螺鈿(らでん)の技術。
元々は奈良時代に唐から輸入されたが、平安時代に漆技術の発達と
ともに急速に日本国内で発展を遂げた。
貝を煮て外皮をはがして削っただけで、光を受けたら角度により
色が変わる美しい貝片になる。これと漆器の技術が融合して日本の
螺鈿技術は発達してきた。
厳密には零コンマ以下の薄貝を青貝と呼び、1ミリ以上の厚みの貝を
用いる技法を螺鈿と呼ぶらしい。
西洋でもこうしたインレイ技術はやはり歓迎され、アコースティック
ギターのインレイなどに採用されている。
しかし、日本の螺鈿技術はかなり繊細で高度な匠の技と思える。

刀の鞘にギンギラギンではない螺鈿をひとさし施した物などがあったら、
とてもお洒落だろうなと思っていたら、そういう拵(こしらえ)はあった(^^

風に舞う桜花の花弁。ジャパン!である。

ゴテゴテさせてないところがよい。


ピンク色はこれは貝の染め技法だろうか。


日本人はなぜ武器である日本刀に美を求めたのか。
これは外国の人にはなかなか理解できないことかもしれない。
今の日本人でもよくわからないことかもしれないし。

上の刀はこちらで販売中のようです。 勇進堂

拵も粋だが、この刀めちゃくちゃ切れそう・・・。
価格はこのクラスで四半世紀前のバブルの頃から50万円程安くなっている模様。
日本刀の相場がいかに崩れているか。
廃刀令直後は日本刀はどんな名刀でも二束三文だったそうだが、現在の価格が
それに迫る感じがする。とはいっても、重刀クラスはそれほど値崩れはしていない。
そもそも投機的目的で刀を扱うこと自体私には抵抗があるし、日本刀の価値を
換金利率にしか求めない感覚の主とは会話をする気にもならない。

でも世の中、結構そういう人多いんだよねぇ。犬連れていたら「この犬高いんでしょ?」

とか訊くような人間なんだな、大抵そういうのは。
日本人にあって、すべての領域において「ゼニカネに換えたらナンボ」というのがモノを
見る判断の中心になったのはいつからなのだろう。
もしかすると、それは近現代の資本主義が入ってきてから醸造されたものではないかも
しれない。
現代に思う。「よい学校」「よい職場」「よい縁談」・・・。すべてつきつめると、地位や名声や
経済的裕福さなどが判断軸になっている。こうした「格差」を是認する思考法は、
前時代の封建時代に育成されて日本人に染みついた観念なのではなかろうか。
人の意識は格差を是正する方向には向かわず、自分だけがそこから脱出すればそれで
よしとする。自分だけ、おらがとこだけを基準に考える。いきつくところはゼニカネ
判断軸と
同軸になっていく。

数年前意図的に流布された大嫌いな言葉に「勝ち組、負け組」という言葉がある。
最近あまり使われなくなったが、やはり「経済格差」を「あって当たり前のもの」としたい勢力が
意図的に流布した一過性の言語だったし、そのステレオ概念そのものがナンセンスだし、
どうにも首肯できないものだったので、私はその言語を職務においても使ったことはない。
自分で言うのもなんだが、無思慮に流行語をエヘラエヘラ使う程、軽薄ではない。
この「勝ち組、負け組」に代表される感覚がなぜ起きるのか。
それはそうした概念と現実が当たり前だとすると得をする人間たちがいるからだ。
しかし、私は経済的に裕福になった者がどうして「勝ち組」なのかよく解らない。
ゼニカネにすべての判断軸を集中させるその精神はまったく受け容れられない。
アメリカンドリームのアメリカ人の真似してるのか?日本人も。
いくら経済面だけ欧米人の真似をしても、日本人は日本人だぜ。

今の時代、清貧というのはもう存在しないね。
今の若い子たちも、貧乏が悪いことではなく、貧乏人が悪いことのように勘違いしているもの。
若い子たちではないな。1980年代末期のバブル経済の時に日本の女性の雅は死滅したし。
愛の表現は手編みのマフラーから「アッシー」「メッシー」の要求へと変化した。

金満主義にいち早く飛びついたのは女たちだった(企業側策士によって戦略的に飛びつか
された哀れな人たちなのだけど)。

刀の価格は、よくよく思案すると、現在の価格が適正なのかもしれない。
バブリーな頃はやはりどうかしていたよ。
1980年代初期~中期のスタグフレーションを脱したのは80年代末の金融緩和であり、
これによって不動産投機などが活性化して景気が潤ったが、超極限インフレの行きつく
先は一挙的な金融引き締めによるバブルのポン!と音を立ててはじける日本経済の崩壊
だった。
その後「失われた10年」が「失われた20年」となり、今では「失われた四半世紀」となって
しまった。
インフレ政策がいいわけないでしょ?一時的な潤いはあくまで一時的なもの。
自分の任期中だけ一時的に景気回復して「あとは知らね」と逃げ出す為のカモフラ公約
だとなぜ多くの人は気づかないのかなぁ。
「取り戻す!」と言っている本人が一番日本の本当の美を壊すことをやろうとしているのだけど、
まあ、国民も自分たちで選んだことだから仕方ないね。堕ちるところまで堕ちてください。
もう泥の船には乗ってるのだから。

 


和服の季節

2012年12月26日 | 文学・歴史・文化・科学



そろそろ和服の季節がやってくる。
本当ならば、日常的にいつも和服を着ていたい。
しかし、仕事柄それもままならないので、仕事着である
背広の洋服を着ている。
夏休みと正月休みは和服を着て過ごせるので、それが嬉しい。

過去の和服に関するエッセイはこちら


巨匠クロサワのミステイク ~映画『七人の侍』~

2012年12月25日 | 映画・ドラマ・コミック



黒澤明監督の映画『七人の侍』(1954年東宝)は、洋画邦画を含める全作品の中で
一番の傑作だと私自身は思っている。
『七人の侍』は何度観たかわからない。

しかし、巨匠世界のクロサワも歴史的名作の中でも大きなミスを犯す。
いくつかあるが、ひとつだけ紹介しよう。

野武士が襲ってくることがわかり、村人を軍事訓練した傭兵たる七人の侍たち。
五郎兵衛(稲葉義男)と久蔵(宮口精二)が村の防備の様子を見まわっていると、
どうにも持ち場についた村人たちが怯えている。
「どうもいかんな」と思案に暮れていると、別な防衛拠点の持ち場からエイエイと
気合を入れる村人たちの声が聞こえてきた。見ると七郎次(加東大介)が農民たち
に気合をいれて指揮し、全員で気勢を上げていたのだった。


この時のシーンの久蔵の刀に注目してほしい。
長丸型の鍔で表の左に小柄穴があいている。


そして、一瞬画面が向こうで気勢を上げる七郎次たちにカットが移り、再びすぐに
こちらの五郎兵衛と久蔵にカメラが移る。
「これはよい、こちらもやるか」となってこちらの持ち場でも村人たちを鼓舞するのだが・・・。

ありゃりゃ!
久蔵の刀が別な刀になっている(◎。◎)

丸型鍔で左に小柄穴はなく右に笄(こうがい)穴がある。鍔の表左には
梅鉢の透かしがある。明らかに違う鍔である。


この場面カットが変わる時間はわずか2秒ほど。
ラッシュ段階でちぐはぐさに気づいてももう撮り直しはできない。編集で短く繋げる
ことでちょっと見には違和感が
ないようにしたのだろう。

このようなことはごく最近の山田洋次監督の『たそがれ清兵衛』にも存在する。
この『たそがれ清兵衛』は、撮影上の違和感がないように、徹底的に
シナリオと映像と演出にこだわりぬいた作品だというのがDVDのボーナス
トラックの撮影秘話から十分にうかがい知れる。
ところが、清兵衛(真田広之)と甲田豊太郎(大杉漣)が河原で対決する
シーンで、なんと大杉漣さんは左手の薬指に大きな指輪をはめたまま
なのである。これは実は撮影時に監督含めて誰も気づかなかったのだ
という。そしてラッシュでそれに気づく。しかし、出演者のスケジュールが
揃わず、撮り直しがまったくできない。やむなく「このままで使う」という
ことになったという。だから幕末の武士が現代指輪をしているという極めて
珍妙なシーンになってしまった。以前から「なぜだろう?」と思っていたが、
DVDを見てその理由が判明した。

映画という作品では映像上の齟齬(そご)がかなり多くあったりする。
アクション映画などではほぼ確実に存在したりする。『プレデター』でも、
サソリを踏みつけて潰して靴を上げたらサソリの向きが逆になっていたりとか。
しかし、大抵は短いカット割りやカメラアングルを変えたりして
違和感をなくす
偽装が施されていたりする。ただし、そのままのカメラアングルの場合、ちぐはぐさ
が目立ってしまう。

記憶に残る一番映像上のちぐはぐさが多かった作品は『ハスラー2』だった。
これは私は公開時から劇場で観た際に多くの部分に気が付いていた。
ビデオで再度観たとき、あまりに多いので驚いた。ビリヤードのシーンなどは、
顔のアップになって次にテーブルにカメラが移動すると玉位置が違っている
などというのはほぼすべてのシーンで存在した。

世界のクロサワでさえどうしようもないことがある。
それは、「撮り直しがきかない」ということだ。
しかし、『たそがれ清兵衛』は、CGもそこそこ使っているので、CG処理で指輪
だけを消すことは十分できたのではなかったろうか。黒澤監督の時代は仕方
ないとしても。
よくできた傑作『たそがれ清兵衛』だけに、唯一その指輪はめたままという
シーンのために画竜点睛を欠くような気がしてならない。

黒澤明『七人の侍』においてもまだほかにもつじつまが合わないシーンが沢山ある。
特に、村の中をどうやって守るかと島田勘兵衛(志村喬)らが地図を作り、村の隅々
まで下見して回るシーンで、人物の影と太陽の位置、それと地図を見比べると、
実は実際の東西南北とは関係ない場所なのに地図上の東西南北に当てはめて
いる部分もあることが即座に判明する。これは私は、初めて『七人の侍』を観た時
に瞬時に
違和感を覚えた。ポイントは「影」だ。
特にクロサワ作品は「なんとなくそんな感じ」という「雰囲気ファンタジー」を監督は
撮ったわけではないので、たとい一人の観客にさえこのような違和感齟齬を察知
されてしまうのは、やはり文字通りの「ミステイク」だと思う。
何度もテイクしたはずだろうに
映画作りってムツカシイね。世界のクロサワ作品でも
こうしたことがあるのだもの。


モトGPマシンの加速

2012年12月21日 | バイク・車


D.ペドロサが駆るGPマシン

う~む。
モトGPマシンはツインリンク・モテギの裏の短いストレートで300km/hを
超えるんだ。ほえ~。
一番低速になるヘアピンコーナーで60km/hくらいに落ちるのだから、
加速減速のGってすごいよね、きっと。
短い距離で300km/hという加速はさすがに未体験だわ、おいらは。
250cc純レーサーでもせいぜい富士の長い直線で250km/hくらいじゃ
なかったかな。スピードメーターついてないからよくわからないけど(^^;


Moto GP Montegi mit Dani Pedrosa



イタリアのロッシが長年在籍したヤマハに戻って来た。2013年からはヤマハだ。
オフシーズンのテストランにも余念がないようだ。
久しぶりにヤマハのマシンにライドした時、「これだよ、これ」ともらしたという。
そして、ロッシはマシンにそっと触れながら「待たせたね」と語りかけたそうだ。
派手なパフォーマンスで誤解を受けがちだが、ロッシの走りは極めてきめ細かく
スムーズだ。力でねじ伏せるホンダ系ではなく、ヤマハのハンドリングと合って
いるのかもしれない・・・が、ロッシはどのメーカーに乗っても速い。車が速いの
ではなく、ロッシが速いのだ。マシンコントロールが異様に巧いのもスペンサーに
似ている。ロッシはほとんどハイサイドで飛ぶことはない。スペンサーもそう
だった(スペンサーのハイサイドは見たことがない)。スペンサーもロッシも
スライドを巧みに操る。スペンサーとロッシの違いは、スペンサーは単独先行
逃げ切り型だが、ロッシは後ろから激しいバトルでまくっていくタイプであることだ。
ロッシの走りはほぼこれだ。
15才の時から彼の走りを見ているけど、やはり走りにもタイプがあって、
俺は好きだな。バレンティーノ・ロッシ。おばかピーなところも。


Valentino Rossi- King on 2 Wheels

時代が違うから塚原卜伝と宮本武蔵のどちらが強いかとか比較できないが、
ロッシとフレディ・スペンサーが同時代だったら、どちらが速いだろう。
10代後半から1983年、1985年のスペンサーの速さは異常だった。
だが、燃え尽きるのも早かった。幾人かの秀でたチャンピオンたちの
ように何度も世界王者にはなれなかった。フレディが世界の頂点に立ったのは
3度だけだった。同時代の他のどのライダーよりも傑出した天才と呼ばれていた
にもかかわらずだ。

ロッシは10代の頃からものすごい数の世界チャンピオンになっている。
世界戦に15年参戦して9回世界チャンピオンというのは、尋常ではない。

そして現役だ。今もロッシが一番速いと思う。四輪のF1に移籍するとの
噂もあるが、このまま二輪でGPを走ってほしいな。
ちなみにロッシの父親は世界GPライダーだった。父グラツィアーノは1982年
まで活躍した。つまりフレディ・スペンサーと同時代だ。フレディとバレンティーノは
親子ほども世代が違うのである。

1980スズキ・イタリアのグラツィアーノ·ロッシのワークスマシン



Fastest - Official Trailer


井戸を焼く陶工

2012年12月20日 | 文学・歴史・文化・科学

井戸茶碗 -見果てぬ夢-(外部リンク)

いいなぁ。こういう作者は大好きだ。
是非とも若い刀工諸氏にこそ目を皿のようにして読んでちょんまげ、だな。
「刀匠作家先生」たちには無駄。自分を変えようとしないから。
作為を超える作というのは、何故か?何故なのだ?本当にそうか?本当に?
と、もがき苦しむことを通りぬけないと到達できないと私は思う。


【重要文化財】井戸茶碗 細川

 


タコの町は何を誇るのか

2012年12月15日 | 文学・歴史・文化・科学

所詮、三原は刀の町ではなくタコの町か・・・。ちょ。(つづきから、主として独白に転移)





確かに江戸期の古書を読んでも、
三原城下は蛸と鯛が沸くように獲れたという記録が
ある。
タコは吸盤がコリコリして
美味いのに三原の武家は吸盤は捨ててたんだってさ。俎板の
上に蛸足を乗せてひっつかせてサーッと横一文字に包丁を入れて吸盤を切り取っていた
みたいよ。吸盤付のタコを塩でヌメリを取って軽く焼いたタコ足は最高なんだけどね。
あとタコの天麩羅だな。これは衣をつける前に卵に身をサッと浸してから揚げると美味い。
ちょいと歩いた海で普通にタコが網ですくえるんだから、これはこれで地域特産だよね。

三原市長巻き込んで岐阜県関市のように「刀の町」としての地域活性化殖産興隆を
仕掛けようと思っていたけど、
こりゃあ無理だわ。
歴史ねつ造になるし。取ってつけたような「尾道ラーメン」みたいになってもねえ・・・。
歴史のないところに過去の歴史を基に未来への歴史は作れません。
タコでも食うか・・・。

だけど、タコが三原にいるのは、そこに住む人間とは関係ないからね。
よく地元の山や海や風景を自慢したがる人間がいるが、あれはその人間とはまったく
関係ないから。たまたまその人間がそこに生まれたというだけで、人間たちが造り出した
営みではないから。たまたまの偶然を自慢してもなんにも偉くはない。男に生まれるか
女に生まれるか自分では選択できないのに、男であることや女であることを自慢する
馬鹿馬鹿しさに似ているよ、地方でよく見聞する自然環境のお国自慢というのは。
東京でも東京生まれを自慢するのが結構いるけど、東京で生まれたのはおまえが
自分で選んで自分で成し得たことなのか、ってね。自分は関係ないじゃん、実は。
自慢するならば、そこで生活する人間たちが自分たち自らの力で培った何かを
誇りにすべきだと私は思っている。太陽や水や土や海や川や山や出生場所
を自慢
しても何にもならないよ。その人間が生まれる前からその人間とは関係なくそこに
存在するのだから。その土地で生まれたのは自分の意思とは関係ないんだから。
似たようなことに日本人による日本人であること自慢があるよな。
あれも実に馬鹿馬鹿しい。
自分が選んで自分で日本人に生まれた訳じゃないのに、自分の力以外で起きたことを
どうして自分の自慢にできるのさ。
日本文化や日本の伝統美を誇りに思うことと日本人に生まれたことを自慢するのは大違い、
別次元のことだよ。
たまたま日本人に生まれたことを嬉しく思うのは結構だが、「日本人に生まれて誇りに
思う」なんてのは愚の骨頂だ。たまたまだよ、その人間の誕生は。もしかしたら別な
外国人だったかもしれないし、あるいはカナブンだったかも知れない。じゃあカナブン
だったら不幸なのかというと、カナブンはそんなことは意識してはいない。自然の摂理と
偶然でたまたま生まれた生命を人は親に感謝こそすれ、とりわけ特定国の産である
ことを誇りに思うなどというのはナンセンス極まりない。競馬場にいて、自分が自分の
意思で狙った勝ち馬投票券がすべて外れた。そうしたら目の前にたまたま当たり馬券が
落ちていて拾った。それを誇りに思うか?思えるのか?日本人生まれを誇らしく思うなどと
いうのはそれと同じような愚にもつかないことだ。生まれた時から薬もない、殺し合いしか
ない、差別と貧困と恐怖政治しかないところで生まれている命もある。すべて自分が望んで
のことではない。出身地を誇りに思うなどというのは、ぬるま湯の安全地帯にいる人間が
抱く傲慢だ。
そして、大抵日本人生まれを自慢や誇りにしたがる人間は差別排外主義で外国人を
排撃している。その「誇り」とやらの中身がどんなものか露呈している。
そういうことしている人たちは、じゃあ自分は神州日本の貴族の生まれなの?あるいは
武家の生まれなの?仮にそれらの生まれでも、それは自分が選択して自分で望んだ
ことではないでしょう?
そうした自分以外のファクターからたまたま偶然得た立ち位置を自慢するというのは、
実にくだらないことなのですよ。没主体的で自己のアイデンティティの自立的な精神の
立脚基盤が不在なのであるから。
ましてそれに基づいて他者を排外するなんてのは他人の褌で相撲取るよりも下劣なことだ。
自分の力ではないたまたまの偶然を誇るのではなく、
人が人の力で人の世界をなんとか
創造していく。これこそが自慢できることだと思う。私は。

タコがいたら、タコが海にいることを自慢するのでなく、またタコが泳いでいる風光明媚な
海の町に生まれたことを誇りに思うのでなく、そのタコを獲った人、工夫して料理した人、
そうした人間の息遣いを誇りに思うならともかく、ただタコがそこにいることだけを
自慢しているのでは全くもってしょーもないことなのよ。タコはタコだから。ただそこに
いるだけだから。人間の自慢にはならない。


映画『花のあと』

2012年12月14日 | 映画・ドラマ・コミック

藤沢周平原作の邦画『花のあと』を観た。

冒頭部分、若侍の刀の差し方、いいよいいよぉ~(^^)


北川さんも熱演です。剣の演技は全然だけどね(^^;
最初の木刀握ったシーンですでにド素人。というかひどすぎる。
まあ、『龍馬伝』で千葉佐那を演じた貫地谷しほりよりはずっといいけどさ。
北川さんも時代劇女優さんではないので、観るところはそこではないのでヨシとしよう、
とは思いたいのだが・・・


それでも剣のシーンがあまりにシドいので、少し書くと-------
最初の形の一人稽古でも、諸手の時に右手のみで剣を振ってはだめあるよ。
それに動きが硬すぎるし、目付が
地面ばかり見ている。「剣の達人」という設定の殺陣の
形としても、これはかなりひどい。
これを観て「できる」と思ったりする現代剣士もしくは現代武芸者がいるとしたら、その者も
ド素人、というか実力の程が知れる。

『幕末純情伝』(1991)の時の牧瀬里穂さんのように、國學院大學居合道部に何カ月も
通って真剣に刀法を勉強する、くらいの役作りが北川さんにもほしかった。あの映画での
牧瀬さんはなかなか良かったよ。北川さんは半年稽古したらしいが、半年やってこれ
なら、剣士の役などやめた方がよい。あるいはよほど師事した指導者が低級だったのか。
半年といっても中身が大切で、仮に半年で低級な中身を7回やっただけ、というので
あれば、それは同じ素人が同じスタートラインに立っての中身が濃い同じ1週間=7日間
には大きく水をあけられてしまう。生まれもってのセンス=筋の問題も大きくあるだろう。
「剣の達人」の役というのは、やはりごまかせないある一定の領域に達するまで稽古する
ことは最低限必要だと思う。理論を頭で理解しただけではできないよ、やはり。観て判る
人間が見たら即座に判ってしまう。底は浅ければ浅いほどよく見える。
「活劇ながら本物っぽく」という役者領域をプロ的に体現するためにも、どうしても一定
以上のタクティカルなメソッドを役者さんは身に着けないとならないと思う。
乗馬などもそうだよね。馬に乗れない役者が「馬術に長けた役」なんてできない。
ハリウッドウエスタンのグレゴリー・ペックの馬術などは、彼がプロの俳優であり、役
どころを自分に引き寄せているからいかんなくスクリーンに魅力があふれているので
あって、ああいうのがプロの仕事だ。『ハスラー』でのジャッキー・グレースンやポール・
ニューマン、『ハスラー2』でのトム・クルーズもプール・プレーヤーとして徹底訓練を
積んでビリヤード・プレーヤーとして一定のレベル(一般人よりかなりハイ)まで到達して
いるところが演技に違和感を出さなかったどころか「できる」登場人物として映像で
魅力をあふれさせていた。また、日本時代劇の場合では、若山富三郎や杉良太郎の
殺陣、萬屋錦之介の立ち居振る舞いなどはプロの仕事のお手本になる。人の心理
描写の表現としては『キューポラのある街』の吉永小百合の10代とは思えない傑出
した演技などがプロの仕事だ。この『花のあと』の北川景子はあまりにもひどい。
幼稚園児の学芸会でももっと観客を惹きつけるのではなかろうか。
それに立ち合い試合での袋しないの縫い目の向きが逆だしよぉ~。だれだ、殺陣つけた
のは。袋しないは縫い目を敵に向けるように今の竹刀とは構えた向きをグーギャにする
んだよ。なんじゃい、これは。それとも夕雲流では逆にするのか?というか、袋しない
使うのか?針ヶ谷流は。使うんだろうな(苦笑)。そして新陰流とは逆向きに構える、と。
というか、劇中の剣は無住心剣の形なんすか?これ・・・。これが?(^^;
そして、景子さん、突いた時にあれでは自分の左手の親指根元からザックリ自分で
斬ってますがな。骨まで行くよ、あんな添え手だと。だれだ?殺陣つけたの。
え?『ラストサムライ』の森さん?なるほど。

殺陣刀のため厚みがあり棟に見えるが、親指で押さえているのは刃側である。


絶対に真似してはいけない。真剣ならば親指はストンと無くなる。
仮に運よく無くならなくとも、指の骨髄に達するまで損傷する。
(例:昭和10年の相澤事件の相澤中佐。中佐は4指とも骨髄まで損壊)。
これでは左手全損なので、この後左手一本で剣を握って対決するという
殺陣の設定は成立しない。小指無しも難渋するだろうが、親指無しは
もっと剣が使えない。「龍の口」が機能せずに使えない。真剣刀法の
理論を説くまでもなく、この殺陣は駄目な殺陣立ち回りの典型だ。
「新春かくし芸大会」の映像ならばこれもアリだろう。


本作品の原作は藤沢周平の「海坂藩」ものだ。
下級武士ではなく、500石の上級武士の娘という設定がいつもの藤沢作品映画化とは異なる。
だけど、この映画作品は・・・とことん役者が演技できてねぇなぁ、おい。
主演女優も男優も、他の演技力ある「できる」役者さんとの演技力の差がありすぎるよ。
『リターナー』での鈴木杏の14才での天才ぶりを観た後だけに、いやはやなんとも・・・。
『花のあと』は他の役者さんが頑張っているので、惜しい。市川亀治郎がかなりいいよ、
この作でも。
ただし、江戸城として姫路城天守閣が出てくるのはあまりにもいただけない。この作の
スタッフのボロさがこういうところに出ている。江戸城天守閣は三度建築されたが、明暦3年
(1657)の振袖火事(明暦の大火)で江戸市内が広範に消失したのに伴い天守も消失
し、それ以降は江戸千代田城の天守は建造されていない。『暴れん坊将軍』ではないの
だから、姫路城を江戸城に模すなどというのは時代劇として下世話に過ぎる。劇中の
着装から元禄以降(原作からは多分幕末。老中安藤対馬守をもじった安西対馬の登場
からも藤沢作品の定番の幕末だと思われる)の時代設定であることは確かなので、
江戸城に天守があるというのは、現代劇で浅草十二階があるくらいに珍妙なことだ。
いや、現代のマンハッタンにツインタワーがあるくらいにおかしいことだ。今の東北の
シーンで失われた風景を無思慮に描くほどに無頓着なことだ。要はそれほどまでに
製作者サイドに日本人としての心の刻みがない、真剣に捉えていない、ということだ。
お手軽、安直なのである。江戸市中の大半を焼いた大災害で江戸市民がどんな思い
だったかに時空を越えて心の糸をたぐりよせて思いが至れば、このような安直な表現は
できないはずだ。
あと、最後の乱戦シーンでは、刺子を斬った時には、あのような斬り口にはならないので、
演出さんはエフェクトにもう少しリアルさを研究してほしかった。太ハムに刺子の袖を通して
日本刀であの振りきりで斬ってみれば判ります。(お前はやったのか?と問われれば、
やってるんだな、これが。過去の研究過程において)

『花のあと』は佐藤めぐみさんが可愛かったよ(それ、観るとこ違うから>俺)



それにしても、北川景子さんて、こんなにラディッシュだったっけ?
台詞回しなんて学芸会以下だぜ。
やはり、佐々木希にしてもそうだけど、モデルさんてのは、モデルさん
であって、アクターやアクトレスではない、とういことだね。
モデル出身でも阿部ちゃんなどはかなりいいけどね。阿部氏は苦労人
だし『チロルの挽歌』での情熱が役者としての境地を開いたんだろう。
北川さん、残念。岡山弁で「でーこんてーてーてー」てやつだな。
(=大根焚いといて)
いや~。時代劇としても、映画作品としても、剣戟物としても、ひどいの
観ちゃたよ。
中西監督、『青い鳥』ほどでないにしろ音楽流し過ぎじゃないの?
いらないシーンで、逆効果で耳障りだ。まるで『龍馬伝』のような演出で
鬱陶し過ぎる。正直言って、仕上がり、滑ってます。かなり安っぽい。
滑った正月TVドラマみたい。
役者の演技力を引き出さない映画ってのは・・・なんというかでして。役者を
殺すも活かすも監督次第。これ定番。同じ映画という土俵に立つのだから、
黒澤やマキノをもっと観てよ。
ただし、映画として観る価値はあり。映画製作のダメ例の参考資料として。


作品評価:2点/100点満点中


映画『リターナー』

2012年12月10日 | 映画・ドラマ・コミック



『リターナー』(2002/東宝)
・監督・脚本・VFX:山崎貴
・出演:金城武(ミヤモト/宮本)、鈴木杏(ミリ/Milly)、岸谷吾朗(溝口)、樹木希林(謝)

<あらすじ>
2084年、地球は宇宙人の侵略により戦争状態に陥っていた。地球の未来を守るため、
82年前の2002年地球に最初に到着した宇宙人であるダグラを抹殺するために
地球人戦闘員の少女ミリ(鈴木杏)がタイムループして2002年10月19日夜の「現代」に
やってくる。

だが、到着した2002年の現場は、内臓摘出の為にチャイニーズマフィア日本支部の
溝口(岸谷五朗)が中国から人身売買された子どもたちを闇取引する場面だった。
ミリはその取引を潰して金を奪おうとした仕事人である宮本(金城武)に誤って撃たれて
しまう。
弾丸は防弾板により止められてミリは気を失っただけだった。ミリが過去である
2002年
の現代に登場した任務を宮本は当初信じなかったが、ミリによって首に高性能
爆弾を
仕掛けられ、嫌々ながらミリの任務に手を貸すことになる。
だが、地球に飛来した最初の
宇宙船の破壊威力に目を付けた溝口は、それを奪って
マフィアを乗っ取ろうと企んで
いた。宮本&ミリと溝口たちのダグラを手中にせんとする
激しい攻防がくりひろげられる。しかし
、宇宙船が地球に最初に飛来したのは実は侵略
の為ではなかった。地球を破壊に導いたのは地球の人間だったのである。歴史の真実を
知って
とまどうミリ。そして、自らの意思で任務を変更し、戦争で儲けようとする溝口と戦う。
熾烈な戦いが終わり、すべての任務が完了したミリは宮本に「愛してるよ」との言葉を残し
未来へと帰って行くのだが・・・。



<感想>
CGも2001年当時邦画では最高峰の出来であり、2002年公開時点での日本の最先端
技術を惜しみなく
見せている。まるでルーカスかスピルバーグが製作したような仕上がり
になっている。
力強い。映像・カメラワークにおいて、ショボイところはひとつもない。
以前から何度も観ているが再度じっくりと観賞した。全編で1時間57分だ。この時間に
まとめたのも計算ずくだ。大作を除いて、ヒット作品は1時間55分から58分以内にまとめ
られることが多い。なんでも、観客である人間の集中力を統計的に計ったデータに基づく
とのことらしい。

この作品は非常に脚本がしっかりしていて、映像描写もキメ細かい映画だ。SFによく
見られる映像的齟齬も存在しない(唯一、一ヶ所だけ気になる部分はあるが)。

撮影した2001年当時の最新技術であるCGが冴えている。脚本も良い。
何よりも、一番光っているのは14歳の鈴木杏だ。その彼女が自分と倍の年、14歳離れた
金城武と複雑な感情の触れ合いの演技を見せている。

食い入るように観たが、目だけ、唇のほんのわずかな動きだけで感情を細やかに
演技できる素晴らしい
女優がこの作品の中で十二分に輝きを放っている。
今回は、豪華箱入り2枚組特別版のDVDで観た。
全編鑑賞後、監督とプロデューサーが解説する副音声モードで再度観たが、この鈴木杏の
演技力と脚本の深い部分での理解度には監督・プロデューサーも感服していた。「子役」の
域をすでに超えている。



鈴木杏の山崎作品出演は『ジュブナイル』(2000年)以来だが、この作品では
とにかく鈴木杏の演技力が際立っている。

この映画では、彼女の表情の細かい変化による演技が見逃せない。
また、岸谷五朗が抜群の怪演を見せているが、これは彼の素のようにも感じる(笑)。
2002年10月22日夜明け後のラストシーン-
戦い終わって銃を捨てた宮本は、人身売買取引の時に見逃した溝口の
手下に
横浜市西区三倉5丁目の路上で心臓を撃たれてしまう。(場所の特定は映像の中の
一描写から)
だが、この宮本が最後に撃たれるシーンでもミリの愛情表現が生きてくる。
とにかく、鈴木杏の演技を堪能できる
映画作品だ。宮本を「必ず再び生還する
仕事人=リターナー」としている設定ではあるが、ミリこそが主人公で
「リターナー」
であり、過去を振り返るという作品全体のテーマになっているのだと思う。


「子役は太る」の定説通り、鈴木杏ちゃんは大人になってワイドになってしまった。
しかし、この『リターナー』においては、中学2年14歳で最高の演技を見せている
鈴木杏が映像に収められている。






彼女は、2011年の福島原発事故に思うところあり、昨年、自身のネット
発言で
「脱原発」の気持ちを訴えた。
たとえ地球の未来を思ってでも、政治的発言をすると芸能界では仕事を
「干され」る。特に企業利益と結びつく原発問題などは直截に述べると
人の安全よりも利益追求共同体で繋がっている日本のスポンサーの関係
から仕事をなくされ兵糧攻めにされる。
声高に脱原発を訴える山本太郎には一切オファー
がなくなった。
それが財界の「利益」と結びついた芸能界の実情であるので、最初は
原発について発言していた芸能人もすぐに口をつぐんだ。政治家と
なった大坂市長も「絶対に脱原発」の訴えを引っ込めて「原発容認」に
転じてケロッと開き直っていたことは記憶に新しい(何しろ政策も主張も
コロコロ変わって国民
をだまくらかすので、この人間の人間性は全く信用
できない)。

脱原発主張をする鈴木杏。

しかし、彼女は恐れず言う。
「正直なにをどうしたらいいのかはわからない。だけど、責任はちゃんと。
しっかり。持っていたい。できることは少ないかもしれないけれど、でも、
思いは東北に福島に。忘れることなんてできないよ」
「なにができるんだろう。なにをしたらいいんだろう。とにかく原発はなくそう。
なくしたい。自分たち、子供たちが生きていく
未来のために」 (ソース

リターナーのミリがそこにいる。今も。








 


広島藩の兵力と明治初頭 ~士族~

2012年12月09日 | 文学・歴史・文化・科学


新政府軍の将校

広島藩は幕末に藩内の保守派が改革派に更迭されてからは
早くから洋式装備が導入された。
「維新」後、明治初期の広島藩の兵力は・・・

<明治3年3月調査報告>
 士族 戸数  1,780戸
   うち男   4,640人
      女   4,896人
 卒族 戸数  4,730戸
   うち男  11,852人
      女  11,194人

 士族1大隊 17歳~49歳で編成
      員数  600人
      有司   31人
        計  631人

    1中隊   100人
       6中隊で1大隊
       卒族兵は5大隊

<5月29日調査>
 総兵員 6,000人 10大隊
   うち2大隊士族
      8大隊卒族(うち3大隊装備不完全)

 1大隊は6中隊と大砲3門
   大隊長    1人
   中隊長    6人
   分隊長兼大砲長 12人
   鼓長      1人
   
兵員    600人
  うち
   稗官     24人
   楽隊     24人

 大砲 四斥半 120門
  うち
   旋条砲    15門
   弾薬       200発

 小銃      4,200挺
   弾薬 1,200,000発


広島藩の武士の人口は維新直後で士卒老若男女合わせて32,582人
ということになる。
このうち、戸籍編成後、卒族は一部が士族に編入され、その余は「平民」
籍に編入された。これは明治に入り、いわば全国の旧武士の「給与」を
削減するために段階的に太政官布告でなされたものだが、結局は明治9年
(1876)に中央政府が打ち出した秩禄処分により旧武士の給与=禄高は
一斉に消滅した。
法律的特権が付与された「華族」とは異なり、この秩禄処分により「士族」
というものは昭和23年に至るまで一切法律的特権がない名ばかりの存在
となった。これは近代法制上、整合性を求める法の精神というものに反し、
存在自体がおかしい法律制度といえる。事実、大正時代には「『士族』と
いう法律上意味のない族称を戸籍簿に記載しているのは整合性がない」と
して廃止論議が帝国議会でなされている。実際に、士族と平民の間に
法律的差異は一切存在しない。法律上同じ扱いであるのに、族称を残す
というのは、封建時代の残滓以外の何物でもないばかりか、反面、封建
時代に存在した「奉公とそれに対する給与=禄」という主従の経済契約
関係を表すものを体現していないという矛盾する明治時代の制度の内実が
現出していた。
だが、この「士族族称」という幕末から明治初期の法律的不整合な混乱期
の残滓は、結局敗戦後昭和23年まで存続した。「士族」という存在は、結局
法律的権利義務は平民となんら変わらないものであるので、「旧武家」の
ルーツを示すだけの意味のない近代法制国家にとって法律的には不整合で
「あるべきではない存在」としてあったのである。
しかし、こうした矛盾をあえて帝国政府が継続したのは、「華族」という制度を
保全するための旧武士階級のガス抜きとして国家政策で為していたのである。
明治政府がいかに立憲君主制度に基づく「華族政治=貴族政治」であったかが
法制史の上からもうかがい知れる。明治初頭の士族の叛乱がなく、士族が黙る
だけのおとなしい存在だったら、「華族と平民」という法律的にも整合性を有する
二階級のみに制度を改めていたことだろう。
だが、そのような二階級制度にすると士族が黙ってはいない。結局は、近代
法治国家としては矛盾を抱えたままの法制度、だが逆説的にはそれにより
危険な存在である士族を骨抜きにするために利用できる制度として、戸籍上
の「士族」呼称を法律的に帝国政府は保証したのである。牙は抜いても元武士
であることを法律的に明記することにより、士族は頭をなでられて抑え込まれ
たのだが、武士の血筋のプライドが邪魔して法制上の矛盾を社会的に捨象
する方向には向かなかった。名を捨てても実を取ることは、自分らの存在の
ルーツ自体を比定することになるからだ。極言すれば、名ばかりの「旧武士」
という表看板を捨ててもまっとうな法治国家作りをしようとした士族は皆無に
等しかったといえる。また、士族制度を捨てるということは、華族以下の階級を
設置した明治帝国政府に叛旗を翻すことになるので、明治初頭の士族の乱
以降の士族はおしなべて沈黙を選んだ。
これは明治初頭の士族の乱さえも、人民を平らな存在に置き求める近代社会
を望んだものではなく、「自分ら士族」の特権をはく奪されたという待遇に対して
不平不満を爆発させただけであるという限界性をその後も補完するにすぎな
かったことを表している。結局、「士族」などというものは、明治以降の歴史上は
愚にもつかない塵芥のような存在なのである。
すでに武士は存在しないので、名ばかりの「士族」は法律的にも社会的有用性
という点でも全く意味のない存在でしかなかった。唯一意味があったのは、
帝国政府の屋台骨を支える(華族制度保全のため)という為政者側の思惑を
担保する点においてのみであったのだ。これが明治維新(1868年)以降、
昭和23年(1948)まで80年も続いたのである。

上記広島藩兵制員数の資料は、その秩禄処分以前、維新直後の旧武士
階級である員数である。
兵として戦闘部隊に編成された明治初期の広島藩の兵力は6,000人
となっている。戊申戦争もほぼ
この兵力だっただろう。
戸籍法が施行されたのは明治5年(1872)だが、明治3年(1870)に
戸籍地図掛が民部省地理司へと拡充し、全国的な国税調査に着手
している。
徴兵令は明治6年(1873)に制定、廃刀令は明治9年(1876)に発布された。

法制史を学ぶとわかるが、明治初期の日本は混乱状態で、太政官布告が
法令の代わりとなり、朝令暮改の様相を呈していた。太政官布告は明治18年
(1885)に内閣が成立するまで継続した。
内閣ができても、明治政府は中央集権国家なので民意はまったく反映しない。
それでも板垣退助などの自由民権運動の盛り上がりは無視できず、政府は
明治22年(1889)にようやく大日本帝国憲法を発布して日本は立憲時代に
入っていくのである。
明治23年11月29日に第一回帝国議会開院式が開かれ、大日本帝国憲法
が施行された。
だが、日本で普通選挙が行われるのは、39年後の昭和3年(1928)まで
待たなければならなかった。
この普通選挙も大正デモクラシーの盛り上がりによって実現したものだ。
ただし、第二次大戦敗戦まで日本において女性の法的権利は一切認め
られていなかった。女性は「無能力者」として扱われ、一切の法的権利が
なかったのである。男女とも同じ法的権利保障がなされたのは、戦後に
アメリカが
日本の制度改革をしたからである。

明治「維新」から学ぶこと。
それは、旧体制を壊して新体制を作った場合、すくなくとも体制が安定する
まで四半世紀近くはかかった、ということだ。すぐに新体制は完備しない。
また、イモと串団子によるゴリ押しの中央集権的藩閥政治は、全国的な
人民の不満を蓄積させた。やがてそれは士族の反乱として噴出していく。
反政府叛乱蜂起という単発ではなく日本での最後の本格的な内戦の決戦は
明治10年(1877)の西南戦争だった。
全国の士族の決起はすべて武力鎮圧された。
だが、士族の反乱が自由民権運動の起爆剤となり、国民の社会運動によって
この国の憲法制定と国会開設を実現したことは歴史の真実である。


備後国分尼寺跡 ~どこだ?~

2012年12月08日 | 文学・歴史・文化・科学

以前、備後三原鍛冶のルーツ探訪でフィールド調査を行った。

だが、本日図書館で調べ物をしていたら、国分廃寺(尼寺との説もあり)跡は
1976年に三次にわたり発掘調査が行われ、その際の出土品からの所見が
教育委員会により残されていた。
それによると、出土品は単弁と複弁の蓮華文、重圏紋の軒丸瓦、重弧紋・
唐草文、忍冬文の軒平瓦、須恵器の杯・壺・長頸壺、土師器の杯・瓦質土器
などで、出土瓦から白鳳期(645~710)の創建ではないかとされている。
さらに、これにより「国分寺尼寺説は弱まった」とされていた。(『小山池廃寺発掘
調査
概報-第一・二次』広島県教育委員会1977年)
つまり、国分寺と国分尼寺造営の詔が出されたのは天平13年(741)であるので、
それ以前に建立された寺であるから国分寺尼寺ではありえない、とするのだろう。
ただし次の参考サイト(国分寺・国分尼寺について)を読む限りにおいては、この
サイトの考察のように元々あった寺を国分尼寺とするように指示したとの見方もできる。

この小山池廃寺とはどのような寺であったのか。また文献上この近辺に存在したと
される「国分尼寺」は一体どこにあったのか。
備州助国がこの地で鍛刀した600年後の鎌倉末期~南北朝初期には、すでに尼寺は
廃寺になっていたと伝わっている。
鎌倉末期から600年も前というのは、考えたら気が遠くなるような古い時代だ。
何しろ白鳳期には湾刀であるいわゆる「日本刀」は存在しないし、古墳時代の延長の
ような世界であり、「日本」が成立して間もない頃だからだ。その少し前が大和連合王権
時代であり、倭国の時代なのだから、気が遠くなる。

(小山池廃寺跡地)


う~む。備後三原一派のルーツ筋と考えられる国分寺助国が鍛刀したといわれる
「尼寺跡」とは
一体どこだ?
助国の鍛刀地との伝承の「東条」という地名もすでに消滅しているようだし、場所の
比定ができない。
中条という地名は現在も残っている。

ただし、「付近」というのは、この場所から500mほど東にある備後国分寺と小山池
までの区間であることは
確かだろう。
ここは古代山陽道の街道筋でもあった。古墳際の道筋には、名もない荒神社がある。
ここに何かあると私は睨んでいるのだが。



取水できる流れがあったと思われる。ただし、いつ頃の物かは不明。

地名が消えた東条地区。国分寺助国が備前福岡より移住し、赤線の区間のどこかで
駐鎚したとされている。


この地域は、刀工助国だけでなく、古代統制史の面からも研究課題が多く埋もれている。




さて、ここで重要な根本問題に触れよう。
実は、「備後国分寺」もしくは「備後国分尼寺跡付近」で刀工助国が鍛刀したという

南北朝当時の文献上の記録は一切ない。佐藤寒山博士と村上孝介氏が「地鉄が
似ている」
ということだけを以て「備州国分寺助国」を芦田川流域の「法華一乗の祖」
比定して「備後国分寺で鍛刀した助国」としてしまったのが事実なのである。
私がライフワークとして研究している「三原鍛冶」というのは、「散在する『三原派』は
連綿性があるのか」というのがテーマだが、「三原派」という一派自体が本来存在する
のかは極めて
怪しい。これも各々バラバラの地区に時代も異なって存在した刀工群を
佐藤博士が
「三原派」として一括りにしてしまったことが歴史事実だからである。
佐藤博士たちの「権威筋」による定説は、「備前福岡→備後国分寺付近→法華一乗
→備後三原、他地域」に人的および技術伝播したとの説であるが、全面的にこの説を
認めるには疑問が多すぎる。拙稿で先に考察した通り、現在の三原城付近の
三原は
鎌倉末期~南北朝の頃には「三原」という地名を体現する物理的地理的土地
では
なかったからだ。数百年後に三原と呼ばれた地区は鎌倉南北朝期には海である。
古墳群がある現三原市西部の内陸地まで入り江になっており、現在の三原駅
北側の山間部の海岸線はただの寒村である。「三原」という名さえ存在しない。
「三原」という地名が歴史上登場するのは室町以降なのである。三原さえも明治
までは現在と異なり「みわら」と発音した。
そのような鎌倉南北朝の時代背景であるのに、時代区分も異なる備後国の各地の
刀工群を「三原物」、「鎌倉南北朝の助国から続く正家の末流」と括ってしまうのは、
あまりに乱暴すぎると思われる。博士とも思え
ない学術的な視点が微塵も感じられ
ないところに、「権威」たるゴリ押し定説路線を汲みとる
ことができる。
鎌倉南北朝当時の文献も資料も何も存在しないのに、
「地鉄が似ている」という
だけで説を成すというのは、「仮説」として提起してそれが
学術論争を呼ぶのならば
よいが、「これが定説だ」と初めから結果ありきであるなら、
そこに学問の真理探究と
いう学術的研究精神は存在しない。

刀剣界で「三原物」の評価が極度に低いのは、こうした佐藤寒山博士たちに代表
される
「権威絶対主義」が備前刀優越主義を採っているためと思われるし、なによりも
定説を
次々と作りだして行く行為そのものが強権主義であり学術的良心に反する
行為だと
私は思量する次第なのである。
いわゆる「三原派」については、あまりに刀工群が各地に散在し過ぎている点、また
時代が重複と偏移を複雑に伴う点から、私は「同時多発的」に存在した別々の系列
および血脈の別個の
刀工群だと推測している。
一番の理由が、戦国末期の安芸国大山住の宗重の存在だ。
大山宗重は道延家の伝承によると筑州左の血脈とされているが、作風はいわゆる
「末三原派」そのものなのである。

また、広義には周防の二王派も三原物と酷似している。
だが、刀剣界でこれまで安芸大山宗重派や二王を「三原物」と呼ばないのはなぜか。
実は現在の「三原物」の概念自体が学者により作為で作られたものだから、と
いうのが真相だと私は佐藤博士の日本刀をめぐる数々の行為から類推的に確信
している。

本来ならば、三原地区で作られた物のみが「三原物」であり、その他は「国分寺」、
「法華一乗」、「鞆」、「木梨」、「貝」、「五(其)阿弥」、「辰房」、「安芸大山」、「二王」
などと個別に呼称される
のが正しいと思われる。作風は各集団間で近似ではあるが
微細に見れば差異が確実に存する。ただし、国分寺助国に関しては自称が「備州」
であるので、これはやはり「備前国分寺」か「備中国分寺」と見るのが素直な見方
ではないだろうか。備後国分寺付近が盛況に要衝地となったのは室町期である
ことは、「三原地区」が鎌倉南北朝期にはただの寒村であったことと符合する。
つまり、「備後国分寺助国」は「三原正家」と同じく太刀銘に場所明記も存在しない
のであるし、正家と並んで「そこで鍛刀はしていなかった」というのが実は歴史の
事実ではないだろうか。正家は備後国内だろうが、助国に至っては備前か備中である
可能性がかなり高い。地鉄と作りが似ているからという佐藤博士の思考法でいくと、
大山鍛冶も二王も「三原物」になってしまう。また、無銘青江と無銘備後三原の
極めの区別は少なくとも私にはつかない。大家の鑑定自体が一口の太刀について
両者の極めの紙が二通発行されて裁判沙汰になったりするのだから、私になど
見極めがつく筈がない。

また、これら備後国の刀工群全体の呼び名としては、安芸大山および二王を除けば、
「備後刀」と
するのが正確で類型的に正しい呼び名になるだろう。「備前物」と同じく
「備後物」とする
のが学術的分類としては整合性がある。それをしなかったのは、
備前優越主義に基づいて、周辺地域の刀工群を「中央に対する辺境地域」とする
思想が強く働いていたと思わざるを得ない。それまでの五箇伝に照らしたとしても、
「備前」に対置する「備後」という捉え方の不在は、論理的整合性が破綻している
からだ。ここにこそ「五箇伝以外は『脇物』であり低級」とする権威の作為が存する
のである。

また、備後物は確かに技術的には備前鵜飼派(宇甘派)や備中青江派等の影響を
受けたと思われる。

この独特な備後刀の作風は、備後より西の安芸大山、二王まで現実に見て取れる。
しかし、この技術的相似性を無視して「三原は大和伝風=三原地域が古代大和管領
だったから」
ということにしてしまって片付けようとする風潮が刀剣界には強い。大和伝
風ではない
「三原物」が多く現存するのにもかかわらず、なのである。「三原物」は
作風を見れば
備前備中の影響を受けたことが容易に判るのに、なのである。「三原物」
は鎬幅が広い刀ばかりではない。実物を多く見れば、
そのルーツが大和伝系ではない
技術体系が入っていることは容易に推察できる。
ちなみに、「五箇伝」そのものも近代に本阿弥が唱えた便宜上の類別なのであるが、
それがいつの間にか「五箇伝を以て分類する」という「何が何でもまず定説に当て
はめる」という発想の逆転が斯界では常識化してしまった。五箇所以外の地域の作でも
まず五箇伝のどれに該当するかで概念化しようとする。加賀新刀の独特の作風は
明らかに伝系が美濃←志津←相州であるからといって、加賀物を「相州伝」と
してしまうのには論理的蓋然性がないと思われる。
また、直刃を見れば大和伝とするような単純思考もそれにあたる。
だが、肥前新刀の直刃と古刀備後刀の直刃は検証すれば明らかに異なる。
無論、備後刀と大和物も異なる。地域が異なり(事実)、材料も製法も異なり(推測)、
師弟関係の技術伝系が異なる(推測)としたら、おのずと出来上がった作品は異なる
のが定理だ。

ともすれば「作刀地域」を五箇伝で括ろうとすることは、各地を渡り歩いたオロチョン
の存在が鍛冶職に与えた影響を歴史学的に勘案しないことのようにも思われる。
またそれは蔑視・差別の歴史とも緊密に絡み合ってくる。ボーダーなき鍛冶職に
ボーダーを設けたのは後世の為政者たちではなかったか。武器生産者として
犬追物のスタッフである河原者(かわらのもの)と同じく軍事的な囲い込みが
あったのだろう。
尤も、現今の刀剣界では、近世までは「刀鍛冶」というものがどのような階級に
組み込まれていたかについては明らかにしようとしていない。鍛冶だけでなく
刀職そのものが賤民階級に位置づけられていたことは知られていない。また、
餌取(えた)、非人、守戸以外に1000種以上もの賤民階級呼称が設置されていた
ことも学校の授業では習わないし一般には知られていない。
中世以降の賤民の呼称は、主にはその生業から発生している物が多い。
山家、散家、浮浪、うかれびと、遊芸人、河原者、傀儡子、祝言(ほぎごと)、
ほかいびと、乞食、乞胸、万歳、春駒、越後獅子、人形回し、猿回人、祭文、
ほめら、巫、みこ、太神楽、浮かれ節、田楽、猿楽、掃除人、植木屋、庭造、
日雇、猟人、手品、犬神人、山番、産所、算所、散所、守戸、放牧、葬送、
餌取、余部、おんぼう、ゑた、ゑつた、穢多、革田、川田、皮田、門付、
長吏、横目、非人・・・・・まだまだ沢山ある。
祝い事や祭り事の神事や清めに関する職、出産や死体に関わる職、今でいう
音曲(おんぎょく)芸能全般の芸能職、施しを請い貰い歩く職、春をひさぐ職などの
ほぼ全域が賤民の仕事であり、賤民を差す呼称となっていた。僧兵なども賤民階級
に属していたし、歌舞伎役者や能楽者も河原者(かわらのもの)と呼ばれる賤民
階級である。
「祝い」は「ほふり」であり「屠る(ほふる)」に通じる古語である。これらは賤民の
存在が古代天皇制と密接な関係にあったことを示している。
江戸幕府成立による「士農工商」は実は四民という単純な区割りではなく、内実は
「士とそれ以外」という概念を支える制度的な「貴・平・賤」構造であったことは最近の
学術界の常識となってきている。江戸中期に提訴により非人階級からの脱賤を成功
させた歌舞伎役者がその喜びを「助六」で表現したが(この演目は「十八番」つまり
オハコとなって特別な存在となった)、歌舞伎界は元非人階級であったところ現在
では梨園と称して「名家の血筋」のように巷間喧伝されている。自立的に賤民階級を
脱した歌舞伎役者だったが、それが階級そのものの打破という発想に結びつかな
かったのは、けだし残念である。

私は、古刀と新刀の端境がこれまで言われてきた座の整備と材料の変化、送風
装置の発達という鉄をめぐる物質的変化によるものだけでなく、兵農分離と城下町
整備による固定住の強制という人民-とりわけ賤民への制度上の変化が、武器
である刀剣の生産者(賤民階級に属した)にも及んだということを今後研究解析
していきたいと思っている。
中国地区だけでなく近畿や埼玉などの関東でも、古墳の外周には古代には守戸
(しゅこ)と呼ばれる墓守が置かれ、守戸は「夙(しゅく、しく)」となり、地方によっては
四苦とも呼ばれ、「宿の者」として賤民階級に置かれて差別されてきた。これが地域
として固定した区域は現在でも被差別部落として差別されている。部落差別は中世
~近世の居住地固定化による地区差別であると同時に、特殊技能という職能に
おける血脈差別でもあったのである。その原初を土器部(はじべ)や鍛冶(かぬち)や
陰陽師(おんみょうじ)や門付の技能集団、守戸や餌取の専業集団にみることが
できる。
ただ、学校教育では何が「非人」で何が「えた」であるのか、どうしてそうした階級
が過去に作為的に作られたかを教えない。「古代、時の権力者に立ち向かって
敗れた誇り高き一族の末裔」ということを教えたりはしない。差別する側は血脈
主義を好んで温存させるくせに、そこらの素性の知れぬ俄か武士より出自がはっきり
している血脈の末裔たちのことは「敗北者→俘囚→賤民の血筋」として差別し抜く。
ただいわれなく忌避するだけだから、無垢で生まれた子どもたちは大人たちから
「差別」を教わり、それを自ら体現し、さらに「差別意識」を増幅温存させ伝承させ
ていく。そして、権力者から「長吏(ちょうり)」として警察力を与えられた下級神官や
下級僧たち「河原者(かわらのもの)」は「良民(=平民)」である百姓たちからこと
さらに敵対視され、差別された。中世末期から近世にかけて賤民を以て監視する
体制が強化構築される中で、差別意識はさらに加速していったことが各種文献
から読み取れる。こちらも土百姓どもは「オホミタカラ」の時代からの差別意識を
体現している。
自分たちも含めて土地にしばりつけられて自由を奪われたことが生みだした
ことであると気づこうとはしない。
かといって、そうした差別意識は百姓領民のように土地に縛られるがゆえに
醸造されたものでもない。非人地区で育った秀吉に対する「由緒ある」大名たちの
蔑みの意識などは現存する書簡などに明白に残されている。土地に縛られず、
侵略と移封により日本各地を転々とした武家の中にあっても、「故なき者」として
秀吉はその出身地を以て賤視されていたのである。特に秀吉が関白に任じられた
際の周囲(細川や島津など)の蔑みがひどい。秀吉が信長から「六つ」や「猿」と
呼ばれていたのは側近たちの記録から秀吉の右手六指の奇形と出身地区生業
からのもじりであることが指摘できる。実際に秀吉は猿の形態模写で栗を皮ごと
食う大道芸をして「乞食」をしていた時期がある。
ただし、秀吉は彼を頼って来たきょうだいや親族をそうした「過去消し」のために
皆殺しにしている。出世した秀吉は「よきことあり」と下知を出して呼びだし、
喜んで招きに応じて訪ねて来た一族の老若男女四十数名を陣内に招き入れて
即座に皆殺しにしているのである。
また後年、秀吉はそれまでの武家のしきたりに存在しなかったことを歴史上初めて
行なった。それは、それまでは敗戦の将や側近に死罪を断行するのは武家の常
だったが、婦女子は助命されるのが常識だった。しかし、唯一秀吉だけは子どもに
至るまで女子もすべて殺戮した。秀頼の出生に際しては、周辺関係者を女官に
至るまですべて抹殺した。唯一生き残らせたのは秀頼とその生母であるネだけで
ある。豊臣家滅亡の後も、武家で秀吉のこの手法を倣った者はいない。同時に、
秀吉が行なった「兵農分離」も、信長以上の独裁政権を作りだす為の策だったと
思われる。戦国百年の要因は人民が武装したためではなかったことは、応仁以前
の統治期間において兵農分離が為されていなくとも統治の貫徹は保全されていた
歴史性からも、秀吉による兵農分離は「個人的な恣意性」を裏付けるものといえる
だろう。いずれにせよ、非人から天下人になったのは、日本の有史以来豊臣秀吉
ただ一人である。

刀剣は武器であった。それは為政者の武器であるとともに、抵抗者の武器でも
あった。日本刀を解明することは日本の差別史の解明なくしてはあり得ない。
なぜならば、日本刀(湾刀)は俘囚の刀剣から発生したものだからだ。
また、全国で古墳周辺に刀工群が発生していることは古代から続く権力者の
人民統制史と守戸および後世の「かわた村」の存在と無関係であるとは思われ
ない。
中世までは「えた」は非人階級とは別の階級で「かわた(川田、皮田、革田等)」と
呼ばれ、鷹の餌を取ることから派生したとの研究者の指摘がある。貴族や武士が
軍事訓練で使用する鷹の日常的な餌は主に生肉を以てあてがわれた。掃除人や
芸能者たち非人階級とは異なり、「えた」は血脈的固定存在であった。非人のように
百姓や武士が非人に落とされたり、また財力を得て脱賤することが叶わない階級
が「えた」階級だった。職業の独占を認可されていたので、中にはかなり富裕層と
しての「えた」もいた。
一方、飛鳥奈良時代から興った悲田院のように疾病罹患者や貧困者の救護施設
として設置された場合もあり、鎌倉以降は非人の溜り場となったが、これは近世の
「御救小屋」の原形ともいえるだろう。(「病院」の語源は、聖徳太子が設置した
悲田院・敬田院・施薬院・療病院といわれる四箇院のうちの「療病院」からの由来と
思われる)
古代から中世に移り、そうした救護施設の形態は、江戸期においては「溜(たまり)」
とあえて称されて介護や救護・治療よりもハンセン病患者や身体障がい者の
「捨て場」のように概念化されて一層の差別の対象となった。これら「溜」は江戸
切絵図にも記載されている。中世から続く江戸期においても医師が賤業として
賤視されたのは、こうした歴史背景があるためかも知れない。
また、地域によっては「えた」は農業や商業を営んだりもしていた。まったく百姓と
同じであるので「えた」という呼称を廃止してくれとの訴えも江戸期には起こって
いる。
中世~近世の被差別民全般が顕著に貧困にあえいで細民化したのは、明治期
における解放令による職業独占の破壊によるところが大きい。また、解放令により、
「平民」からの差別観は明治に入りさらに増加してしている。ほとんどが「なぜ
エタが自分たちと同じ階級=平民であるのだ」(裏返せば「なぜ自分たちがエタと
同じであるか」という選民意識)とする差別意識そのものであり、それは旧被差別
階級に属した人々に対し「新平民」と隠語を使用して文字通り「差別」しようとしたり、
明治の法律で使ってはならないと定められた「穢多」の呼称を侮蔑の意を込めて
口々に多用したりすることで平民や士族たちは被差別部落への差別を当たり前の
ように行ない、戸籍の族称が消滅した現在に至るも、部落差別は一向に消滅して
いない。
結婚差別などは部落差別の最たるものとして厳然と今も存在している。これは
中世~近世に植えつけられた「血の穢れ」の思想を21世紀の現代でも体現して
いる差別意識の中心幹そのものだ。自分らの一族血脈とは血を交えてほしくない、
つまり親族にはなりたくない、自分らの一族と交わって子どもを作ることはしないで
ほしい、という差別の最たるものだ。裕福な家庭との婚姻を望むという一般的な
差別観の裏返しなどという生易しいものではない。こうした「良民」を気取る差別
する側が「平気の平左」で行なう部落差別によりいくつもの悲劇的な事件が明治
以降日本中のあちこちで起きている。
日本の歴史の中ではいわゆる被差別階級の人々の功績は大きいのだが、
学校の教科書ではそうしたことは一切教えない。幕末に咸臨丸で勝安房や福沢
諭吉などがアメリカに渡った際、船の乗組員クルーは全員「カコ」と呼ばれる
非人階級だった。彼らの働きなくして日本史上初の日本人による渡米航海は
成功しなかった。
だが、教育機関において、こうした「明るい材料」は学校では教えないで伏すの
である。
中世期の「えた」の生業は様々あるが、特に弊死した牛馬の処理(「屠殺」は
中世も江戸期も禁止されていた)と皮革生産を主とした。皮をなめして革とする
業務処理には河川の存在が不可欠であり、このため河原付近に集団居住した。
為政者たちである武士の武具の供給には皮革が絶対不可欠であり、河原の者
である「えた」たちは弓師や他の武具製造者と共に賤民階級に置かれながらも
その生業から武士階級とは密接不可分な関係にあった。
しかし、桃山期から江戸期にかけて、あえて差別意識を助長するために「穢多
(えた)」という表記に為政者が切り換え、各地はこれに倣った。室町までの
「かわた」時代には差別はあるにはあったが、江戸期に比して緩やかだった
ことが研究者によって明らかにされている。武家たちが「えた」に対して軍事訓練
で感謝状を贈ったり、敬意を払っている記録が多く残っているのである。また、
戦国武将でも武装した「えた」集団の支援なくしては戦功を収められなかった
例は枚挙に暇がない。

ただし、江戸期に入りまず「かわた」という「言葉」を狩って「穢多(えた=穢れが
多いという当て字)」という呼称を強制することにより差別意識の徹底的なプロパ
ガンダがなされた。しかし、広島藩のように幕末まで藩の公式言語を「革田」と
した例もある。だが、これは現代感覚で人権的措置と見ると大きく見誤る。例と
して備前岡山藩などでは、公式の場では紋無しを着ること、着衣は柿渋による
渋染に限ること、下駄履きの禁止(事実上の履物の禁止)、そして極めつけは
「ゑた」と身分を書いた皮製の名札を常時身につけること、これらを「えた」たち
に強要した。岡山藩領内の「えた」たち53グループが大同団結して非武装で
真っ白の死に装束に身を固め決死の総決起を行ない、藩庁に猛抗議の嘆願を
したため、この法令は
撤回された(首謀者は拷問死)。
為政者の武士などはこういうことを平気でするのだ。この岡山藩の例は渋染一揆
と呼ばれているが、典型的な武家政権の差別政策と被差別部落民決起による
解放抵抗行動の一例といえるだろう。
ちなみに全国で一番被差別部落地区が多いのは、同和対策審議会事業整備
申請件数によると、福岡県の906地区、広島県は二番目で457地区となっている。
三番目は愛媛県だ。近畿圏のように「広大な部落地区による少ない地区数」と
いう現象ではなく、小部落が群生して置かれていた。
現広島県(備後国・安芸国)のうち、江戸期に編纂された国勢調査にあたる
『三原志稿』などを見ると、三原城付五村(広島藩家老浅野家3万石のうちの
家老直轄地)の一つである家老の御鷹狩場であった某村では、戸口329軒、
居住者数685人一般農村であるのに「革田小屋」(7軒58人)が存在していた。
「革田村」として集団居住させられているケースではなく、員数からして何かの
目的で村に付けられていた感がある。
この村は1624年に新たに開かれた新開(しんがい)という開墾地であるので、新規
に意図的に「革田」が農村部に入植開拓農民と共に配置されたことは確かだろう。
このケースは、「小型被差別部落」のケースからも外れる。いわゆる一般的に「被
差別部落」という一定地域を呼ぶケースとも異なる。そこは現在も被差別部落では
なく、一般農村であるのだ。このケースの「革田」が関東の「長吏」のような農村監視
役であるのか、あるいは広島藩三原支城の武士への武器供給の皮革生産のために
配置されたのであるのかは定かではない。文政二年時の村の男馬数は5疋、男牛数
は65疋であり、農耕用の牛馬が斃死した場合には革田たちが処理にあたったろう。
しかし、毎日のように牛馬が死ぬわけではない。日常的に革田たちは農耕に従事
していたのではなかろうか。ただし、『三原志稿』に残る村の庄屋たちが藩庁に提出
した文章を見ると、革田たちは「一、人数六百八十五人」には含まれていない記述
形式がとられている。百姓たちの人数内訳の記載の後に「〆」と記載されており、
その後に「革田小屋七軒 但人数五拾八人 内三十人男 弐十八人女」と記載されて
いる。革田たちは「村の人の人数」からは除外して別記のように書いているので
ある。同じ村に居住していながら、明らかな差別政策に基づく差別意識が存在した
ことを古文書は物語っているのだ。

この時期の新刀期には三原城においては刀工の存在は確認されておらず、末三原
鍛冶系は備中水田国重に合流して備中井原で作刀し、隣藩の福山藩までは駐鎚
していたとされている。三原城界隈でこの時期武器製造が行なわれた形跡は現在
「三原住真直」「正近」以外詳らかではない。
ただし、戦闘者いるところ必ず武具供給源があるのは常であるので、江戸期の三原
城下の刀剣武具類に関してはまだ明らかになっていない事実がかなりあると思われる。
まして、幕末まで異様なほどに武芸が盛んだった土地である。武器・武具製造者が
皆無ということは想定しにくい。「三原派」とされる刀工から金工師・鍔師になった
其阿弥(ごあみ)派は三原の隣りの尾道に住していた。尾道は三原領(本藩広島)
である。
ただし、前述の村における「革田」の存在は、武具製造系の目的以外で配置させら
れたものかも知れない。もしかすると、城から極近いその村は、御鷹場であるという
ことが「革田」配置と関係しているのかも知れない。犬追物(いぬおうもの)と同じく
軍事訓練である鷹狩には専属の鷹匠や鳥見下役(賤民階級)が置かれ、武士階級で
ある鳥見役のもと、賤民階級の人たちが鷹の日常の餌となる鳥や獣を飼育しなければ
ならなかったからだ。
『三原志稿』においてその村の記述は、村役人5名の名と百姓家の軒数、百姓男女の
員数、雄牛馬の数、革田男女の員数まで記載されているが、住居と思しき建造物に
ついて「小屋」という表現は「革田小屋」についてのみ記されている。革田男女の員数
からしても住居とみて間違いないだろう。この「小屋」表現には明らかに何らかの意図
がある。百姓家とは異なる表現自体が明白な「差別(この場合区別の意味も含む)」
であるし、「小屋」が物理的な建築形態を指したものとは想定しづらい。やはり差別
統治政策上の表現ではないだろうか。
大和政権が存在した近畿圏や埼玉などの集団的多人数居住とは異なるこれらの
形態の歴史的理由については、今後の研究者の研究に俟つ。

刀剣界では、「刀剣のことだけ」しか見ない傾向が蔓延している。
すべての歴史を解き明かさないと、歴史事象は繋がらない。考古学と歴史学、
冶金学と民俗学が手を結んで共に学術的に真実の探求をなさなければ、真実の
歴史の解明はできないと私は思っている。真実の解明なくして、明日は作り得ない。


刀剣界とその周辺にはどういう訳か頑強に「強引に思いこむ」タイプの直情単細胞
の人間が異様に(本当に異常に)多い。
日本刀の原料は最初から砂鉄であったとか踏鞴製鉄によって作られた玉鋼である
とか(大抵は玉鋼なる言語が維新後の新語であり江戸期には存在しなかったことも
知らない無知)、日本刀はずっと心金構造であったとか、日本刀は神器である
とか、
とかく科学的根拠に基づく思考を全面的に否定する輩が大手を振って跋扈
している。
魔物がうようよいる世界が日本の刀剣界なのである。そこには学術的
な知性さえも
否定する風潮が残念ながら現在でもはびこっている。
日本刀を「為にする」ために頑として自説(旧態)に拘泥し続ける日本刀好きに
なぜか国粋主義者(エセ)と差別大好き人間が多いのも特徴である。

今後は、これまでの斯界の「定説」と私の考察はきちんと弁別して記述する必要が
あるかも知れない。「」付で表現しないと、私もこれまでの「定説」に首肯している
ように誤解を生むかも知れない
からだ。
私の目的は「真理探究」なのである。


六本木グリンゴのおみやげ ~シャングリア~

2012年12月03日 | 文学・歴史・文化・科学



昨日は、六本木のワインバー「グリンゴ」で結局朝5時まで飲んだ。

朝3時を回った頃、お客さんがいなくなったので、ゆっくりとマスターと
いろいろな話をしながらワインを飲んだ。
話の中身は絵のこと、剣のこと、音楽のことだった。
二人の合意点、それは「ピアフが最高!」だった。

帰りしな、階段を上りかけた時、マスターである友人Joey近藤が
「そうだ!ちょっと待って」と言って、ワインセラーから何やら引っ張り出してこれをくれた。


マスターJoeyのお手製シャングリアだ。
スペインの果実ワインで、リンゴやミカンなど様々なフルーツが漬け込まれている。
こいつぁありがてえ!
冷やして週末に食前酒としていただきます♪

シャングリアで使った果実はどうするのかなぁ~、なんて思ってたら
こんなブログがあった。
これは!

ほぉ~。なるほど!
ジャムね♪
なるほどのぉ。

うちでも作ってみようかな・・・。Joey近藤に教えてもらって。
東京のイトコのねーちゃんはワイン好きだから、今度姉さんにも勧めてみようかしらん。

サンクス!Joey!
って、イタリア語でなんていうんだろう・・・つーか、Joeyは国籍日本で日本人だし(^^;
時代小説の話してたら、大抵は読んでいたし(笑)
話盛り上がるわな、そりゃあ(^^;
さっき電話したら、飲み方教えてくれた。コンちゃん、ありがと~(^^)
   


俺の愛用のワインオープナーはこれさ。昔ある人がプレゼントしてくれたものだ。

大切に使ってる、というか、今でも愛用しているよ。これで初めて空けたボトルは
アイスワインだった。あれもウマかったなぁ・・・。

 ♪くもりガラスの雫ぬぐって 二人で覗く 街が眠る前に (『雪代-ゆきしろ-』 by おれ)

ってね(笑
曲もできてるし、何度も歌ってるけど、譜面に起こしてないんだ、まだ。
もうすぐ10年経っちゃうよ(苦笑
ギターよりピアノの方がいい感じなんだけどね。




三島由紀夫と東大全共闘

2012年12月03日 | 文学・歴史・文化・科学

三島由紀夫vs東大全共闘(長尺版)


壮大なるゼロ、11月の季節が終った。

その残滓は、youtubeコメント欄に投稿する稚拙な思考に現出している。
そこでは三島と全共闘を真に理解していない幼児たちが群れている。
国粋主義者にも革命主義者にも、いわゆる「主義者」になりきれない、
稚拙で醜い有象無象が日本語らしき言語を真似してコメント欄に投稿している。
三島と東大全共闘の共通項、彼らが崩そうとしたモノは何であったのか、
また互いに共通地平を持ちながらも反した部分は何であったのか、
現在蔓延するエセ右翼のネトウヨには100年経っても理解が及ばない
だろう。
暴力を以て自らの生命をかけて起ち上がったことがなく、他人や自らと、
また「権威」「権力」「体制」と対峙したことがない人間は、ネット掲示板などで
ただただ排外主義をほざいているだけの醜悪な姿をこの動画コメント欄でもさら
している。権力者に尻尾を振ることが大好きなポチたちが何か言ってる。
現在の体制側の「右傾化」に便乗した疑似右翼、疑似愛国者、疑似国士を
気取るニセモノたちの幼児以下の思考回路がこの動画コメント欄にも溢れている。
その傾向は、奇しくも、三島や全共闘が目指した「官僚テクノクラートが支配
する体制」打破と反し、一層の権力の一極集中と愚民化政策を補完する
ことを完遂している。ようするに「バカな大衆」が自らのバカさ加減をさらして
いるだけのことなのだ。
その「バカさ」加減は、体制を補完し、あたかも「国のため」であるかのような
外皮を被った言辞であるだけにタチが悪い。
ネトウヨのような思考回路とその存在は、三島や全共闘が模索した「新たな
世界の建設」とは全く無縁であるどころか、害悪でさえあることを深く理解して
いる人間がどれだけいるのか。
「知性の叛乱(東大全共闘)」と「知性の独占構造の拒否(三島由紀夫)」という
共通地平を持ったこの両者が闘った相手は、実は体制そのものではなく、
こうした暗愚な人民だったのかもしれない。
脊髄反応の外国人排外主義を口にすれば愛国者になれるということは存在
しないのであり、存在しえないことを夢想して言質を為すとしたら、臍で茶を
沸かすことそのものだ。茶は沸かなくとも十分に噴飯は現実的に現象として
生じる。三島と全共闘が否定した世界が今一層この日本で広がっている。
それは「愚」の蔓延という現象によって「一部の知識集団がこの国の権力を握る」
ことを否定した三島と全共闘の思想を皮肉にも逆説のロジックとして具現化
させている。

国粋主義とは国際人でもありえて初めて獲得できるものだ。真のナショナリズムは
インターナショナリズムを理解せずして成立しない。「他」の捨象のみから「自」は
生まれないのである。無論、排外主義的内向性からは「世界」は拓かれない。
外へ向けてだけではなく、内に向けての自己世界さえも拓かれない。
三島は外国を否定すること、他者を否定することから自分のアイデンティティを
確立しようとは思っていなかった。自他の区別をすること、独立した自我を認識する
ことから強烈な「自己」と「自意識」を自己確認することにより国粋主義を自らの中に
育成していった。そこには「破壊」に伴う「建設」の思想があった。
外国人を排撃することだけに躍起になっている現況蔓延する幼稚で醜いネトウヨたち
の思考と言動は、真の愛国主義とはまったく無縁であるどころか明らかに反する存在
なのである。

少しでもよいから三島が言ってることに耳を傾けてみればよい。
Yukio Mishima Speaking In English

動画中、6:47以降の日本の魂のありかについて説明する部分については、私は
彼が最後に結んでいる言辞=つまり、レフテストのスチューデント・ムーブメント

よってディサイドされてコンプリーテッドになった=とは思えない。
当時は、三島のような「彼ら」こそが
彼も言うように時代の中ではマイノリティだった
ことは事実である。
ただし、左右の両極はまるで無限ループ
の同心円のように本質的には底流で繋がって
いることを三島は東大全共闘との討論集会でも明らかにして
いる。
それは戦後の「体制」と「権力」という共通の敵がまさに互いにハッキリと見えていた
からだ。
ただ、時代世相が40年前と変わっても、変わらぬ定理がある。
それは、自民党などを支持する者は右翼でも国粋主義者でもない、ということだ。
無論、左翼でもない。

まあ、なんというか、俺の思想的な内実はこんなところだ。 
先ごろ、ハシモト大坂市長は国政選挙遊説で山口県を訪れた。
そこで、「長州の志士たちが今の日本を造った。またこの長州から国を変えましょうよ」
と演説した。
とことんバカだねこいつ、と思った。日本の歴史を知らな過ぎ。鹿児島に行って同じように
「長州が・・・」と言ってこいよ。もしくは福島県に行って。識者からは笑われるだけだよ。
まあ、よく調べもせずに弁護士時代に「ハーレー乗ってる弁護士は俺だけ」とか
平気で言っちゃう恥知らずだから仕方ないけどね。