渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

曲尺(かねじゃく)

2015年09月22日 | 文学・歴史・文化・科学



日本刀の長さなどは、メートル法で言い表すよりも○尺○寸○分○厘で表す
ほうがピンと来ますよね。
尺はアジアで古くから使われてきた長さの単位で、今でも日本の古い
文化様式では使われたりしますし、言葉にも残っています。ちょっと短い
ことを「寸足らず」などと言ったり。

さて尺とは・・・。
ネット百科事典によると、以下の説明があります。

<尺>
尺(しゃく)は、尺貫法における長さの単位である。東アジアでひろく
使用されている。日本では、明治時代に1尺=(10/33)メートル =
約303.030 mm(曲尺(かねじゃく)の場合)と定義された。
鯨尺(くじらじゃく)は、曲尺の1.25倍であり、約 378.788 mm である。
中国では、1尺=(1/3)メートル(約333.333mm)と定義している。
人体の骨格の尺骨は、この尺とほぼ同じの長さであることに由来する。

尺貫法の長さの基準となる単位であり、転じて物の長さのことや物差し
のことも「尺」と呼ぶようになった。映画のフィルムやカットの長さのことを
「尺」と呼ぶのもこれに由来する。それがさらに広まり、テレビ、ラジオの
番組や、各種イベントなどにおいて、割り当てられた時間のことを指すよう
にもなった

日本では、1958年制定の計量法で尺貫法は計量単位としては廃止され、
1966年4月1日からは商取引など(取引又は証明)における使用が禁止
された。

ただし、木造建築や和裁の分野での利用の便に資するため、尺・寸に
変わるものとして、1/33m(尺相当)や 1/26.4m(鯨尺尺相当)の目盛り
を付した「尺相当目盛り付き長さ計」(尺に当たる、メートル法による目盛り
が付された物差し)が認められている。


私が子どもの頃に法律が変わって、尺貫法での寸法表示が一切禁止
されました。公式に使ったら国家権力がその者を検挙拘束して罰する
などという嘘みたいな話が本当に横行しました。
そのため、曲尺のサシ(モノサシ)を売ったりした業者、それで寸法を
測って取引したりした大工さんが片っ端から逮捕されたりという今では
信じられないことが起きたりしました。
日本刀の登録証では一切尺や寸の寸法は記載されいないでしょう?
寸法とは言っても寸は示してはならない、なんてことが法律によって
規制されたのです。昭和41年=1966年以降は、日本国内のありとあら
ゆる物はメートル法で公式には表示して取引や証明しなくてはならなく
なったのです。

これは重さも同様で、匁(もんめ)や貫(かん)などは使ってはならないと
なりました。
その頃からですね。「百貫デブ」などという言葉もだんだん消滅して
いったのは。百貫(375kg)もある太っちょはめったにいないのですが、
昔は例えとしても尺貫法を使っていました。
今ならば「全日本10分の1トンクラブ代表」(100kgあった友人が考案)など
とは言っても、自虐ネタで笑いはとれてもあまりピンときません。
デブという単語自体は江戸時代からある江戸言葉の「でっぷり」や「でぶ
でぶ」から派生した言葉で、とりわけての差別的な意味もありません
でした。現在でも、周囲から太っていることをネタにデーブと呼ばれて
いたのでデーブを好んで自分の登録名としてしまったプロ野球監督さえ
いる
ほどです。
しかし、「百貫デブ」は尺貫法使用禁止とともに廃れて行った。現在では
デブは身体的特徴を論うので差別にあたるとなっているようです。しかし、
「ぽっちゃり」と呼び方を変えただけで、身体的特徴を言っていることには
変わりはありません。やはり使用のされ方が差別性や排外性を持つか
なのでしょう。「うっせーな、このデブ!」と言うと攻撃的ですが、「うっせーな、
このポッチャリ」と言っても何だか間が抜けています。

さて、現在では、長さや重さの単位では尺貫法の単位を取引や証明などの
公的な場面で使用してはならないことになっています。
ですので、日本刀も「○尺○寸○分」のほうがすっきりと解りますが、それは
いけない。販売も含めてありとあらゆる公的取引や証明や申請などは
メートル法での表示をしないとなりません。尺貫法だけの表示だと御用と
なり、手が後ろに回ります。

ところが、言い方を変えても、実際には日本刀の長さは尺貫法での概念を
基準としていますし、鐔、鐔桐箱、金具、下げ緒、すべて尺貫法を尺度として
います。「尺度」なのですから尺度であり、「寸法」ですから寸法なのです。
それが本来だし、事実上は日本建築や和風構造物はすべて尺で作られて
いる。
でも、尺貫法のみで表示したり、その単位を用いて取引することは法律
違反となり、犯罪者になってしまうのです。
法律は市民の権利を守ったりする盾ともなります。その最大のものが
憲法で、日本国憲法は日本国民の生命財産を守る最大の法ということ
です。(政府の御用学者さえもが全員「違憲である」という判断をした
法案が強行採決されたが、果たして違憲である法がそもそも法として成立
するのかという大変重要な法理論的な問題がある。日本の実体は無法国家
なのだと先日明白に知った)
しかし、法律は国民の権利を守る側面もありますが、一方で国家が国民を
統制するためにも運用される社会の仕組みでも
あり、長さの計測については、
1966年以降は、尺度で尺を取引に使うと犯罪とされることになりました。
ついこの前まで15センチ未満だったらOKだった両刃刃物が「改正銃刀法」
により「きょうから法律違反です」となったのと同じです。


曲尺(かねじゃく)は指金(がね)のことで、現在でも工業界や建築業界など
では必要不可欠の金属製定規となっています。
ところが、メートル法表示だけだと、尺貫法に基づく物を計る時にはいちいち
変換計算しないとならないので、非常に不便です。
便法的には便利なダブル表示のスケールも発売されていますが、「取引・
証明用以外」と明記されていますし、寸尺の文字はありません。

尺貫法・メートル法のダブル表示のスケール。


私は日本刀の長さを採寸(寸だよ寸!)する時には、便利なのでこの
スケールを使っていますが、一応1寸=3.03センチメートルで計算も
します。

ただですねぇ・・・。
小箪笥の抽斗(ひきだし)の深さや、日本刀関連でも小物の採寸をする
際にはこれが便利なんですよ。

正真正銘の本物の曲尺(かねじゃく)。


採寸長さは七寸五分まで。


真鍮製ですが、コーナーには鋼が埋め込んである。


これは実にスグレモノで便利です。
ただし、今は売ってません。
古道具屋や骨董商でもこれを販売したら法律違反で犯罪となります。
こういう便利な物ですが、売買はできません。
ダブル表示物ならOKなのでしょうが・・・。
この指金(さしがね)は明治時代あたりの物でしょうか。

現在販売されているダブル表示の物も、メートル法以外の計測表示は
法律違反なので、上掲のスケール画像のように寸部分もたとえば2寸
部分の表示は「66/33m」などと記載されています。決して「寸」は表示
しません。目盛部分もただの「2」だけ。ではその2の単位は?というとても
妙な
表記方法をしないと法律上クリアできない(苦笑
現在入手できる新品のダブル表示の指金(さしがね)も、すべてそのような
表示に
なっています。一切「寸」や「尺」の文字は一文字も入っていません。

私は日本刀のメートル法表示の長さを尺貫法に変換して理解するために
常に自作の「換算表」を持っていますが、取引証明以外でしたら、日本刀の
長さを瞬時に分かりたいときには便利ですので、プリントアウトなどして、
ご自由にお使いください。
この換算表自体は違法ではありませんが、尺表示のみでの取引や証明
等は法律違反となりますので、ご注意ください。



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「炭は昔から『何俵』と決まってる。何キロと言われてもわからない!」と
怒っていた刀工がいましたが、販売業者としては法律違反をする訳には
いかないので、きちんとグラム表示でないと正式販売できないのです。
正業としてやっている法律を守っている業者さんに自分の尺度で「おかしい
じゃないか」と文句を言うのは、その業者さんが気の毒(苦笑)。


備後国(きびのみちのしりのくに)

2015年09月20日 | 文学・歴史・文化・科学



古代、『日本書紀』(やまとのふみ)によると、豊葦原千五百秋瑞穂国(とよ
あしはらの ちあきのながいほあきの みずほのくに)の中国(なかつくに)には
吉備国(きびのくに)といいう律令国があった。
現在の兵庫県西部、岡山県、香川県島しょ部、広島県東部、島根県南部
またがる国で、のちに東から備前(びぜん)、備中(びっちゅう)、備後
(びんご)
に分割され、さらに備前は北部と南部で二分割されて北部に
美作国(みまさかのくに)が誕生した。

備後は現在の広島県三原市内を西端としている。
しかし、金屋子(かなやご)神社のそばにある日本美術刀剣保存協会
(日刀保)のタタラのごく近い南部地域は、現在は島根県だが、かつては
出雲国ではなく備後国だったことはあまり知られていない。

畿内大和王権と古代出雲の関係性には古代製鉄との関連性が無視できない
のであるが、そこに吉備臣などの吉備国の氏族が噛んでいる。
そして、古代末期に半島経由で大陸との外交を担った小野氏の祖は春日臣
であり、さらに遠祖は和珥(ワニ)臣である。欽明天皇時代以降は和珥臣の
呼称は消滅して本宗は春日臣となった。その春日小野臣から遣隋使小野妹子
や六代孫の小野篁(たかむら)が出たのであるが、小野の祖は和珥臣だ。
大和盆地の東北部から山背地方に勢力を持った和珥(ワニ/和仁、
和邇、丸)
臣は、開化、応神、反正、雄略、仁賢、継体、欽明、敏達に后妃を
出していた
古代氏族で、六世紀に史誌で氏族が明確になる以前からの古い
集団だが、
吉備地域ともなぜか密接な婚姻関係を結んでいる。

そして、その吉備と縁戚を結んだ和珥族たちは備前・備中ではなく、なぜか
備後に集中している。
出雲と吉備の関係は、言葉がしゃべれない物言わぬ皇子であったホムチワケと
皇子に言語を話させる
べく鳥を追ったヤマベノオオタカの各史料にみられる記述
によって、ヤマベ
ノオオタカの広範な行動範囲と連動した各地への品治部(ホムチベ)
の設置が浮上する
のだが、皇子とヤマベノオオタカに触れた『日本後紀』逸文延暦
二十年(西暦
801)六月丁巳条において楯縫郡人として品治部真金が登場するに
および、
いよいよ古代製鉄を担った氏族としての大和和珥-吉備和珥-出雲和珥と
大和王権との関係の位相が
明白に浮かび上がってくるのである。
それはとりもなおさず、製鉄現場の確保と製鉄技術の掌握が実体だったことで
あろう。

弥生時代末期からの古代製鉄時代にあっては、「真金(まがね)吹く吉備」とは、
古代末期のような備前のことではなく、備中・備後こそが産鉄中心地域だった
ことだろう。
そして、備中よりも備後がその多くの産鉄地帯を占めていたことは疑う余地は
ない。

和珥臣は『新撰姓氏録』などの古代史料においては始祖を欠史八代のうちの一人
である考昭天皇においているが、実体は言語(後の文物の基礎たる言語学的
学識、古代大陸・半島・倭国の言語に通じた学識者の語学力)と製鉄冶金技術を
持った渡来系部族の末なのではなかろうかと私は思っている。(渡来系部族を
半島人・大陸人と即断するのは早計だ。とりわけ古代において韓半島南部と列島
諸国に形成されていた倭人が住むクニは全域が100以上からなる「倭人の国」と
しての「倭国」であり、国家としての「倭国」ではない。中国の歴史書『三国志』中の
「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称である『魏志倭人伝』も「倭人伝」で
あり「倭国伝」ではない。そのため渡来人=外国人という現代式概念が該当するか
否かは、今後の高度な学術的研究をまたなければ答えは出せない。これまで渡来人
とされていた部族は、原日本人とも呼べる帰国族であった可能性も否定できない)

ホムチワケノミコトは和珥族によって言葉を発するようになった。これは身体障害
としての言語障害が突如なくなったのではなく、通話としての言語を得たということ
ではなかったか。
ホムチワケの能力は製鉄技術と建築技術(鉄器なくば巨大建造物や船舶は建造
できない)を有していた出雲古代王権との接触によって拓かれた。
また、和珥が大和の大王一族と婚姻関係を結んだのは、言語と冶金という技能を
有した和珥と大王家に相互の利害関係の一致があったからだろう。
和珥臣の末裔の小野一族が遣隋使・遣唐使などに任じられたのも、書を解し、
大和言葉の倭人語のみならず外国語たる朝鮮半島と中国大陸の言語にも精通して
いたからだろうと思われる。
小野-春日-和珥族は元々は文字(漢字)を解し、その文字を倭国にもたらし、同時
に古代王権にとって権力掌握のために奪取すべき課題の中心幹であった製鉄技術
を倭国(朝鮮南部ではなく日本列島の倭国)に定着させた部族だったことだろう。
ちなみに、因幡の白兎に騙されて報復として白兎の皮を剥いだのはワニ族である。
これも古代製鉄技術集団をめぐる勢力争闘の逸話が転じたものであろう。

漢人(あやひと)の渡来人学者であった和珥たちは己らの始祖として王仁(ワニ/西暦
400年代初期)を創造した。
なお、高度な学識や技術を有した渡来人は古代には名に「吉士(きし/士の言を説く者)」
あるいは「吉師」(きし/人の手本となる子弟を教える者)
を冠して倭人たちに呼ばれた。
伝説上の人物である王仁は和邇吉師と呼ばれていた。
そして、王仁は、中央権力が邪馬台国からヤマト王権成立期とそれ以降、学識や
技術の争奪懐柔簒奪の中で征圧した後も畏怖して忌避した「オニ」のことでもあると
私は思う。
だが、人物としての王仁については後世の付会であり、和珥(ワニ)の遠祖の出自の
実体は、2世紀頃(西暦100年代)に日本海側から畿内に進出した太陽信仰を持つ
製鉄冶金技術集団だったことであろう。そうであるならば、ワニはまさしく鍛人(かぬち)
そのものであった。
吉備国の桃太郎伝説で大和中央勢力に「退治」されたオニのモデルとされた温羅
(ウラ)も、和珥族だったのではなかろうか。
吉備のキビは穀物の黍(きび)から来ているとの説を現在は岡山県の行政側も採って
いるが、これは古代の漢字使用における発音や当て字の弁別という言語学的見地
からも、また、交易穀物や租税において黍が一切みられないという古代史の面からも
否定されるべき俗説で、吉備のビは最初から最後まで「ビ」の発音として存在した。
吉備の温羅は、吉備の外から飛来して吉備に至り、製鉄技術を吉備地域へもたらして
鬼ノ城(岡山県総社市/備中国)を拠点として一帯を支配したとされる。
ヤマトが製鉄技術と権益を狙って吉備と出雲に手を出すまでの吉備の支配者であった
温羅は古代産鉄技術集団の長であり、吉師を備えた地という意味が吉備の語源では
なかったかと私は思うのである。
そして、吉備こそは地理的には畿内大和と出雲の中間にある中国(なかつくに)で
あったのだ。
古代呼称であった中国(なかつくに)からくる中国地区という呼び名は、21世紀の
現在でも我々日本人によって使用されている。


<現在の行政区に照らした備後国の範囲>


広島県
  ・福山市(備中国の部分を除く)
  ・東広島市(豊栄町飯田、豊栄町吉原)
  ・尾道市(安芸国の部分を除く)
  ・三原市(安芸国の部分を除く)
  ・三次市(安芸国の部分を除く)
  ・府中市
  ・庄原市
  ・世羅郡
  ・神石郡

岡山県
  ・笠岡市(用之江の一部)

島根県
  ・仁多郡奥出雲町八川三井野

赤丸の地域が現島根県の元備後国の場所。出雲国ではなかった。

 


古代山陽道を行く ~安芸国真良(しんら)~

2015年09月12日 | 文学・歴史・文化・科学

一昨日、仕事で三原市本郷町に出たので、帰りのルートは古代山陽道
を通って三原市内に戻った。
古代山陽道は、律令体制の確立と共に租税徴収のために大和政権が
整備した五畿七街道のうちの一つで、街道には約16kmごとに駅家(うまや)
が設置され、兵部省の管轄下に置かれた。

今回は五畿七道のうち、中国(なかつくに)の古代山陽道を行く。
七道のうち、東海道、東山道、北陸道、山陰道、南海道、西海道の駅家
ごとに5乃至10疋の馬を置くことが義務付けられたが、山陽道の特徴的
な面として、山陽道のみは馬を20疋置くことが決められていた。

古代山陽道の現三原地域のルート

現在の三原市地域を通る古代山陽道は内陸の山間部を通っていた。
それは、陸路である古代山陽道が開通した頃から後約1千年後頃まで、
現在の
三原地域に陸地はなく、急峻な山が海洋にせり出した地形だった
からだ。

現在の三原市の市街地全域はすべて海の中だった。大和朝廷時代には
海路が発達しており、畿内から西に進むには瀬戸内海航路をとり、古代
から栄えた尾道の関を抜けて、長井の浦で補水して南西に進路を取り
西進した。古代航路は現三原市の湾内には入らない。
だが、湾の奥地には突き出した山が二つあり、毛利家は中世からここを
拠点とし、山頂に「高山城(たかやまじょう)」「新高山城(にいたかやまじょう)」
を築いた。毛利は小早川家(鎌倉御家人相模国土肥実平の末裔)を襲い、
毛利一族が小早川を名乗るようになった。家を乗っ取ったといえる。
その毛利一門小早川家が、戦国時代末期に湾内の入り口付近に海上の
大小の小島をつなぎ、埋め立て事業により築城したのが三原城だ。
完成をみたのは慶長年間の福島正則入国治世時代で、現在の山口県
に押しやられた毛利一門は三原城を手放した。
毛利一門小早川隆景は三原城を愛し、四国進出の際の軍功で伊予国
の領主となった後も九州北部の領主となった後も、三原城を本城としたと
いう。
地形的に山岳が屹立して海に突き出した場所でただの断崖の海岸線に
すぎなかった三原は、古代にあっては辺鄙この上ない場所であり、人の
住むような所ではなかったが、瀬戸内海水軍と連携もしくは隷属させて
手下(てか)に置いた場合、軍港としては最良の地形と場所として機能した。
毛利はそこに目を付けた。
だが、当時、湾の入り口部(現三原城=三原駅地点)には新高山城と
同じく海岸にせり出した桜山という山の山頂には尾道地域を支配していた
杉原山名氏の桜山城があり、毛利は手を出せなかった。備後の武将山名氏
滅亡の後に毛利小早川家は現三原を手に入れるのである。

杉原山名氏桜山城の桜山と毛利小早川三原城。三原駅にて撮影。
桜山のふもとまでが海だった。現三原城は海上に築城された。
桜山の頂上には曲輪跡の土塁や井戸など城の遺構が残っている。


三原城築城後は、毛利は桜山城を後詰の砦として整備して後方に備え、
三原城の軍事的防備を鉄壁に固めた。
(桜山頂上の遺構)


(海に浮かぶ三原城の古写真)


この図を見れば右の対岸(現三原市貝野)などから当時の三原地区の
海岸線の状態が判る。三原城築城まではこのような海にせり出し屹立
した山と広がる海があるだけの土地だった。


現三原城がある場所は、前面を海、後ろ手三方を屏風のような急峻な山に
囲まれていて、水軍を中心とした軍事拠点としてはうってつけの場所だった。
三原城が築城された400年後の現在でも三原から外に出る(というより、
外から三原に入る)ルートは自動車でも難所であり、ほんのつい数十年
前までは、自動車がまともに通れるような道も整備されていなかったの
である。

(現在の三原市太郎谷)

かつては尾道に抜ける唯一の陸路だった。ここを路線バスが走っていた。
この道は、私が三原に転居するほんの数年前、現在から20年ほど前
までは尾道-三原ルートの内陸部幹道として使われていた。三原とは、
陸路は東・北・西ともに、このような道を通らなければたどりつけない
場所であるのだ。如水館高校に通う生徒たちは、バスや自転車で
三原駅前からこのような道を通って通学していたのだ。(現在は道路
整備により長大な坂の直線ルートが開設された)

私も子どもの頃に三原に遊びに行った時、「なんでこんなポツンと山に囲まれた
箱のような
海辺に町ができたのか」と不思議に思っていた。三原から外に出る
陸路は
車が断崖絶壁に転落しそうな道幅の狭い片道一車線しか存在しなかった。
ところどころ車避けの地帯が建設されてはいたが、獣道のような山道の峠で、
車は離合できず、バスなどが来たら、くねくねの山道を車避けまでバック
して戻るという危険な道路しか存在しなかったのである。
東にも、北にも、西に
向けても、三原に通じる道路はつい先ごろまでこうだった。
海沿いの国道が開通したのは昭和30年
頃のことである。ほんのこの前まで、
現三原地区は古代街道開通から
1千500年の長きに渡り「陸の孤島」だった
のである。
いや、陸地といっても
平野部の「原」はない。現在の地名の三原の場所は全部
海に突き出した
山林の山間部だけだった。
小早川隆景の築城開始と福島正則の築城整備完成、城下町の一大開発
により、海の上に都市が出現した。それが三原だ。今でいうと、東京お台場
埋め立て副都心を想像してもらえば解りやすいかもしれない。

室町戦国時代末期の築城までは三原はこのような地形だったことだろう。
これは地質学的な面からも三原市行政サイドも図示しているところである。


だが、多くの場合は、公的機関も三原の名を「三つの原が合わさった場所」
などと文献史学的、考古学的な根拠のない捏造
伝承を公式見解としている。
三原に原などはない。原が登場したのは
築城埋め立て開発以降のことである。
中世最末期までは現在の三原地区は海だったというこの極めて重要な事項
をあえて無視し、さも大昔から栄えていた場所であるかのように
人をして欺罔
せしむることによって、人は「三原」という地名の
由来を語ったり、「鎌倉時代
から南北朝頃、現在の三原に古三原と呼ぶ
正家という刀工がいた」などとする。
備州(備後とは銘していない)正家作
が天皇の御物になっているからか、とに
かく古三原が確固たる歴とした
場所で造られたかのように捏造するのである。
特に刀剣界というところはそうした傾向が強い。


現在の糸崎の海辺。


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三原城築城前の地点はこの現在の糸崎のような様子だった。

このような場所でどうやって刀など造るというのか。
現在もなお「古三原は現在の三原で製作され」と断定している刀屋や
日本刀関係者がほとんどだが、不見識にもほどがある。木を見て森を
見ずとは
まさにこのことである。
陸地なくば人は住めない。
ただし、当時は陸路よりも海路が発達していたから、古代から補水地と
して存在した糸崎(糸崎←井戸崎←長井の浦)に刀工正家がいた可能性
はある。ただし、文献的あるいは考古学的な史料は一切存在しない。
ひどい刀屋になると「正家は大和から現在の三原に移住した」などと、
歴史的な地形や歴史そのものを無視して非現実的な思い込みをさも定説
であるかの
ように断言する刀屋もいる。(ほぼ99%がそれだが)
例えば、稀代の名人刃物師左久作は東京月島に住しているが、「名人
左久作は江戸初期から月島に住していた」などと言ったらとんでもない
嘘八百となる。月島は明治以降に東京湾を埋め立てて出現した陸地
だからだ。三原も同じなのである。刀剣界の人々は三原という場所が
鎌倉南北朝の頃に存在したかのような嘘を公言するのはやめたほうが
よい。嘘は嘘だからだ。
「三原」という地名が史上初登場するのは足利尊氏の書状によるもので、
これとて現在の三原城がある場所であるかどうかは疑わしく、デルタ化
していた現沼田(ぬた/渟田←ヒスイおよび古代製鉄と関係あり)川の
流域付近の事かは定かではない。
渟田の現地区名沼田。中世には南部で市が開かれていた。現三原城
からはかなり内陸部であり、毛利小早川氏の高山城のふもとの狭い平野
地域だ
。南部は渟田川から海が形成されていて、デルタ地帯となっていた。
規模の違いはあるが、釧路平原のような様子だったことだろう。


その小早川氏が居城とした現三原市本郷町(旧豊田郡本郷町。地名から
してここが元の人の里であることがよく分かる)にある高山城の山肌を
帰路ととり、走行してみた。
現在は本郷北という地名の住宅街になっている。

高山城の山の住宅街から下界を見下ろす。下に見える住宅地は、中世までは
すべて海もしくは人は住めないデルタ地帯だった。現在の海岸線からかなりの
内陸部だが、ここもすべて中世末期には湾内だった。今でも潮が上ると、高山
城の下まで沼田川を海水が逆流して押し寄せる。つまり、潮位から判断して、
ここらあたりまでが本来の海岸線であったことを如実に物語る。
三原城から内陸約12キロ地点。



右の山が高山城、左の山が新高山城である。この山頂が毛利小早川
の拠点城だった。


さて、谷に転落しないように気をつけながら、高山城の山を下って
古代山陽道(江戸期の旧山陽道とはルートが異なる)に出た。
高山城を東に下ると古代駅家(うまや)があった「真良(しんら)」と
いう場所に出る。現在でも大字名は「真良」と命名されている。大和
朝廷時代の地名がそのまま残っているのである。

真良には高山城と同じような山がある。岩山だ。


撮影場所はこの地点。






ここから駅家があった地域まで北上する。










このあたりの先に駅家があったことだろう。馬を養うには草原が必要だ。
ここは古代には大草原だったに違いない。三原城下がすっぽりと入る
ほどの平地、まさに「原」が存在する。







ここを少し北上した大字名が真良、字名が馬井谷という場所が古代駅家が
あった該当ポイントとされている。ただ、そこには馬を20頭余を飼育する
広大な平地はないので、少し南下したこのあたりが放牧地区ではなかろうか。

ところで、真良(しんら)という名称を聴いてなにか感じないだろうか。

シンラとは新羅に通じるのではないか。
この地を「邪馬台国」とする説を発表している人もいるが、ここは古代街道の
ただの駅家とするだけでは余りある古代遺跡が周辺には
散見できるのだ。
古墳群地帯は、古代在地勢力が権勢を振るった場所といえる。

この吉備国と安芸国の国堺では、それが本郷古墳群にあたる。
大和、吉備、出雲、筑紫という古代豪族(王権)はそのまま地名=氏族を表し
たが、ここ吉備の西端は、
ヤマトと何らかの関係があった古代豪族がこの地
に根を張って
おり、多くの古墳が存在し、鉄器、鉄剣も出土されている。
まだ発見されていない西方大五の部族ではなく、この地に根を張った勢力は
たぶん、吉備一族だった可能性が高い。

権力者がいるところ必ず鉄器あり。
そして、ここ三原市高坂町真良(しんら)は、古代製鉄の原材料だった
赤色褐鉄鉱の原料の宝庫だった。
さらに、現在のところ、日本最古の製鉄炉遺跡(製錬炉かもしれない)は
三原市内のこの古代山陽道沿いの小丸遺跡から発掘されている。
弥生時代のものとの説もあるが、一緒に出土した周辺出土品が6世紀の
ものなので、時代を下げる説が有力視されている。
しかし、中世の刀鍛冶がポッと降って湧いたことがないように、鉄器生産の
技術と技術者は超古代から連綿と続いていた筈だ。中世刀鍛冶をどんどん
紐解いていくと、ルーツは当然弥生製鉄技術者時代まで遡ることだろう。
律令制完備の後は、日本国内の鉄剣鉄刀製造はすべて「官製」とされた
一時期があったが、弥生から続く古代にあっては、勝手な民生鉄生産はなさ
れずに、やはり権力者が全掌握したことだっただろう。


鳥肌が立つほどに、古代製鉄原料のお宝の山がここ三原市高坂町だ。
この赤土はすべて製鉄原料となる。

ここを古代権力者が押さえない手はない。
故に、この真良地区周辺にその地方統治の派遣者として、在地支配者の
側面を持った部族の古墳群が形成されるに至ったのではなかろうか。
吉備中央の部族の鉄器産出の資源確保地帯と設定すると同時に、吉備国の
権益確保のための統治の地方出先機関のような役目を負った一族がこの
地を支配したのではなかろうかと私は推察する。

これは、古代技術者集団の中世賤民との関係性において、この地が近世から
近現代において被差別地区として扱われた歴史性からも、古代産鉄民と
在地支配層勢力の関係性を垣間見ることができるのである。
古代古墳の造営従事やその後古墳の周囲を取り囲むようにして集住した「守戸」や
埴輪を作った「土師(はじ)」も、あるいは古代から中世につながる鉄器や銅鏡
生産の産鉄民も、すべて「賤民」として支配構造の中では位置づけられてきた。
だが、彼らなくして王権の存立は成り立たないので、支配者は支配構造の中に
技術者集団を取り込みながらも、被支配層たる賤民階級として隷属支配下に
「絶対に手放せなき層」として置いたのである。
権力者の勝手は古代のみならず近世江戸時代にもその意識は継続した。
三原城築城後の新開地干拓の際には、難航する工事を進めるために「城下の
者でつぎあての服を着ている者を生き埋めにせよ」とのお達しが三原城に勤める
武士によって決定され、そして甚五郎という者が生き埋めにされた。
その地は今も「甚五郎の松」と命名され、悲嘆の地として祀られている。
また、他の城でも築城に従事した石工や大工や人夫などの作業員は、軍事施設の
建造の秘密を守るために工事終了後に皆殺しにされたりした。築城にもそのような
歴史が残っている。なお、戦国大名は国役という夫役を課していたので、領地から
徴用した人夫には一切の賃金は支払われなかった。要するに牛馬と同じく、労働力
を搾取する対象としてしか見ていなかったのである。牛馬のようにこきつかわれ、
用済みと思えば殺害だ。これが人が人に対してやるのだから、たまったものではない。
ほんの数百年前の時代にあってもそうなのである。支配者層というものは、「人の
命など虫けらほどにも思わない」という構造基盤の上に成り立っているのだ。
武士層などというものも古代支配者と同じく、そんなものだ。
(そうした構造から目を逸らして武士に憧れる「武士好き」という現代人の言動を
つぶさに見ていると、「単に人を支配して見下したい」という意識性が非常に強い
ことがよく見える。人としてとんでもないことだ)

歴史の如何を問わず、なくてはならない先進技術からの恩恵を受けながらもその
技術によって得られる成果を独占的に簒奪して強制支配により人々の自由を奪い、
殺生与奪の権を握るという支配構造の自己矛盾は、古代にすでに完成し、つい
近頃まで脈々とそれが存続していたのだ。
殺生与奪については、70年前という「現代」にあっても、人が死を強制されることが
実行されていた。一体誰のために?  国の為などというお為ごかしではない。
何を万歳と叫ばされたのか。誰の為に死を強要されたのか。決して私は忘れては
ならないと思う。
権力支配構造の上に立つ階級層に人民への感謝の念はない。感謝の念があると
すれば、「私のために汗水たらして働いて死んでくれてありがと」という程度の
ものだ。権力支配構造は、たとえ人がそこの頂点に立とうが底辺に落とされようが、
それに属する人のそれぞれの思念とは無関係である。構造は人を愛さない。
支配構造を根底から破壊しない限り、その構造そのものに支配されている人の
立場も心も解放はされない。
人が人を支配するという事柄は、人の情念においては人は誰からも支配を受け
ない(受けるとしたらすべて自主的)のであるところ、支配構造の完備によって
人の心はあたかも保険を得たかのように人を支配することの心情的満足を得る。
また、同時に、構造的な被支配実体があるからこそ、人は被支配による心の
苦痛を感じる。「どう思うか」ではなく、現実の支配-被支配の社会構造が実効力
を現出させて存在を示すからこそ、人は支配欲に満足したり、被支配に置かれて
いることに心の苦しみを感じたりするのだ。
これは支配を「差別」に置き換えてもまったく同じことが言えるだろう。差別とは
人が人を支配して自己グループに取り込み、あるいは選別して人(個体)や集団を
排除するために意図的に作出された支配構造体を基盤にした構造もしくはそれに
基づく心象的な人間の排外主義のことであるからだ。
支配あるところに必ず差別あり。差別は支配の補完物として運用される。
これは、鐵あるところに必ず人民支配あり、と同義といえる。
つきつめると、王あるところに必ず鐵あり、とは一体どういうことであるのかが
見えてくる。

金気(かねけ)のあるソブが普通に流れ出している。(三原市高坂町国民休暇村にて)


シンラとは古代韓鍛冶(からかぬち)との関連を想像させる。
ヤマト王権の各地制覇は最先端技術である産鉄をめぐる抗争であった。
その勢力抗争の境界線が出雲(出雲国譲り)であり、吉備(浦島伝説の温羅
=ウラとの戦い)であった。
ここ吉備の最西端の地域は、その両者の中央部を貫くライン上に位置する。
ヤマトが鉄を巡って各地の王権と紛争(あるいは政治的な傀儡化のための
懐柔作戦)を繰り返したのは、とりもなおさず、鉄資源と製鉄技術の取り込み
が主目的だったことだろう。
鉄器を手中にするということは、最先端の強力な武器を手に入れるという
ことだけではなく、農業生産性を飛躍的に拡大させられることになる。
ヤマトが狙ったのはそれだろう。
そして、図式としては、全国各地の「ヤマト成立以前の部族」こそが先進産鉄
技術と集団を持っており、銅剣しか持たない後進部族であったヤマトはそれらを
掌中に収める
ことで、当初は連合王権ヤマトであったのが、やがて大和朝廷
として国内統一
していったことだろう。
まさに「鐵」という字のごとく、「王は金(かね=てつ)哉(なり)」を実現したのが
大和朝廷だった。
そして、大和の王は大王(おおきみ)となって、唯一絶対の天皇と変化して
いったのである。
連合政権だったヤマト政権は、やがて鉄と稲を制し、単なる西欧型の「王室」
ではない(王は別家でも継承できる)、血脈主義的な日本固有の「大王(おおきみ)」
を形成してきたのだ。そして、剣と玉と鏡は大王の証である神器とされた。
日本の皇室が刀剣と稲作とは切っても切れない関係にあることは、古代の
王権成立以前からの権力と鉄と穀物の関係の歴史性を示している。
是非の判断などを遥かに超えた、超古代からの日本の歴史そのものを
皇室の存在にみることができるのである。
日本の歴史は、鉄(鍛冶)の歴史抜きにしては見ることができないのである。

古代山陽道を右に折れ、現在の三原城下に戻った。


もしかすると、ここが「元三原(柞原)」であったかもしれない。
あるいは、名称不詳の謎の駅家があった久井がそうかもしれない。
久は柞原(みはら)の柞(く)につながり、井は水源につながる。
久井は松林山林に囲まれ、流速の速い川(芦田川上流)が流れる。
木炭製鉄に適した環境なのだ。

だが、この地域は、駅家名不明の地区も、ここ真良地区も、学術的には
古代産鉄研究の視点からのメスが一切
入れられていない空白地帯と
なっている。

これは、「駅家名不明」とされる謎の地点が現三原の北部山間部を
越えた地点(真良=しんらと者渡=うつどの中間地点)という謎の場所
とこの真良の地区の関連においても、非常に古代史の学術研究の宝が
眠っている宝庫
の地帯と思えるが、なぜか、一切学問的な研究はされて
いないのだ。

それどころか、本郷古墳群の発掘研究においても、古墳単体での研究
という域を脱しておらず、古代山陽道が結ぶこれらの地域の総合的な
古代権力史、こだい統制史という観点からの学術研究はみられない。
この周辺地域に残る「ちんこんかん」という古代鍛冶と関与したと思わ
れる奇祭を民俗学的見地から紐解くといったようなアプローチとの提携
を文献史学や考古学は拒否している。
各分野の学術的研究が手を取り合えばかなりのアカデミックな研究の
発展が望めることは目に見えているが、日本の学術界というのは縄張り
意識が非常に強く、そして権威主義の権化のため、己以外は認めない。
古代王権のほうが現代人よりももっと鷹揚に多角的にさまざまなことを
組み立てて実現化にむけて構築してきたのではなかろうか。
学者たちは歴史に学んでいないという一面を垣間見る思いがする。




撮影地点から東を望む。現三原市街に続く道。古代には存在しなかった。




なぜ古代山陽道という古代のアプローチ限定ではなく、中世との
話を絡めるかというと、日本刀の刀鍛冶は古代末期(平安最末期)に
ポッと突然に「湾刀製造者」として登場した存在ではなく、当然にして、
古代初期から続く鉄器製造従事者の流れで冶金加工技術職として
あったという意識が私にあるからだ。
だから、鉄をめぐる古代街道への視的な接点も、細切れに古代は古代
とするのではなく、中世の時代状況との連綿性の上に立って捉えざるを
得ないという意識が働いているからである。


この古代山陽道めぐりに関連して、次回は「日本刀」成立以前の古代刀工
「神息(じんそく)」
について書いてみたい。古代王権の兵部省との関連
あたりを。

(余話)
三原市の山に生えるカネクサ。金属鉱脈の存在する山に生える。
弘法大師の諸国行脚は、犬を連れていたとの伝承からも鉄資源
確保の命を受けた鐵鉱脈探しだった可能性もある。鉄鉱脈探しで
ここほれワンワンで掘ったら
各地に温泉が出てきてしまったという
のが案外実際のところではなかろうか。


マイ・ウイスキー

2015年09月09日 | 文学・歴史・文化・科学

マイバー(笑)ではJ.T.S.ブラウンが多い。
キング・オブ・バーボンだ。
いや、もっと美味いバーボンは他にもいろいろあるが、J.T.S.だけは
別格だ。
なぜなら、映画『ハスラー』でポール・ニューマンが飲んでいたから(笑)。
あの映画は衝撃的だった。
作品の根底に流れるテーマは「人は負けた時の言い訳をいつも探している。
だが、それはルーザー(落後者/負け犬)なのだ」というものだった。
そして、ルーザーとなったポール・ニューマンが負けた理由にしたのが
J.T.S.ブラウンという1855年に創業されたメーカーのバーボンだった。
飲みすぎて正体不明になったのは自分のせいだろ、ってなことなんすけどね(笑)。
この映画の中では、J.T.Sブラウンというバーボンと、「パーン」の銅像彫刻
が非常に重要な意味を持っていた。
そして、私はJ.T.S.を飲む。ルーザーとならないためにも。



J.T.S.ブラウンはかつては輸入されていなかった。
1987年の第二次戦後ビリヤードブームの爆発的展開(5時間待ち当たり前)
によってキリン・シーグラムが輸入を開始した。
4年、6年、10年とあるが、10年がコクが深い。だが、ガツンと来る6年の味も
格別だ。
私が子どもの世代の関東人は「巨人・大鵬・玉子焼き」と言った。私個人は
1960年代はずっと関東にいても「阪神・江夏・崎陽軒」が揺るぎない自分の中の
骨だったのだが、バーボン好きの人たちもJ.T.S.を評価しつつそれを中心として
愛飲することは少ないように思える。
私はかなりJ.T.S.を飲んだ。もしかしたら、国内で一番J.T.S.ブラウンを飲んだ
男ではないかと思えるほどにJ.T.Sブラウンを飲んだ。
そりゃ、ハーパー12年(私が子どもの頃は特別に高級なバーボンだった。当時の
ジョニ黒のような)などは確かに美味い。問題なく美味い。
しかし、キャラクタとしてこだわりのバーボンとしては、私個人はJ.T.S.なのだ。
別段、普段使うキューまでを『ハスラー』当時にモスコーニやニューマンやJ・グレー
スンが使用していたハーマン・ランボウを選ぶということはないが、バーボンは
J.T.S.なのだ。ちなみに私の一番の愛キューはタッド・コハラである。

最近飲んだウイスキーで目から鱗で瞠目するウイスキーがあった。
珍しくストレートではなくボールアイスのロックで飲んだが、わきまえずにごくごくと
飲んでしまった。まるで映画『ワイルドギース』で傭兵部隊の隊長フォークナーが
依頼者の富豪の部屋で振舞われた大型ロックグラスになみなみ注がれたウイスキー
を麦茶のようにゴクンゴクンと飲んで「おかわり」と言ったように。

そのウイスキーはこれだ!シーバスリーガル ミズナラ!


シーバスリーガル ミズナラ ストーリー - CHIVAS REGAL MIZUNARA STORY -


銘柄知らずに、注がれて飲んですぐに「あ、美味いブレンデッド」とは判ったが、
申し訳
ないが以前紹介したニッカブレンドウイスキーよりも、シーバスリーガル
のミズナラ
スペシャルのほうがずっと私の口に合った。
てか、まじもんですごく美味い。

あまりに美味いと、言葉の語彙が貧弱になるね(笑
「ウマイ」しか言えなくなる(^^;
とにかくウマい(笑)。


これは以前「いける」と紹介したザ・ニッカ12年のブレンドウイスキー。


しかし、申し訳ないが、私個人はミズナラのほうがずっとウマいと感じた。
例えるならば、極上のマスやサケを食して美味いと思っているところに
鮭児(けいじ)を食って面食らったような感じだ。
全面的におすすめ。

ただし、美味いからと、ウイスキーの飲み方を忘れたように俺みたいに
ゴクゴクと麦茶のように飲むのはどうかと思う。安酒ではない。だが、
高い酒でもない。ショップでボトル3,000円台~5,000円程度だ。飲食店での
キープは10,000円~15,000円程か。

でも、これ、美味すぎて、1晩で軽く空いちゃうよ(^^;
飲みすぎ要注意!のウイスキーだな。飲み方が押さえられるか自分との
勝負を挑ませるウイスキーだ。
あえて、日本人のために作られたウイスキー。なかなかやる。
酒というものはどのような酒であっても、繊細で静かで熱いハートを持った
職人たち抜きでは生まれない。
そして、その職人たちが、愛飲者に挑戦するかのごとく、素晴らしい香りと
味を備えた逸品を丹精込めて作り上げる。
酒は料理と同じく、素晴らしい。

シーバスリーガルのウイスキーは、華やかでバランスの良い香りが特徴で、
世界150ヶ国以上で愛飲されている。
このブレンデッド・スコッチ・ウイスキー「シーバスリーガル ミズナラ」は、
1801年に操業したシーバス社が開業以来史上初めて日本のためだけに
開発したウイスキーだ。エクセレント!
ガツンとしたハードボイルドではなく、トロンとしたメロウな夜に向いている。

公式サイト → シーバスリーガル ミズナラ



シーバスリーガル ミズナラ、最高である。


 ウイスキーマガジン社の紹介記事から 

そのように世界に名だたるウイスキーブランドから、今回日本市場限定品が
登場したのはなぜか?
コリン氏はその理由をこう語る。
「私がシーバスブラザーズ社で働き始めた1973年、日本はわが社にとって
世界で第二位の消費国でした。マスターブレンダーとして日本を初めて訪れた
15年前から、日本文化の素晴らしさ、人々の温かさやシーバスリーガルに
対するリスペクトの気持ちに触れ、なにか恩返しをしたいとずっと思っていました」

そしてその感謝の気持ちの表れとして、ジャパニーズウイスキーの特色でもある
ミズナラの樽を使用することに思い至った。

ベースには12年以上の原酒を、ミズナラ樽の特徴に合うようブレンドしたウイスキー
を使用。このベースとなるウイスキーの一部をミズナラ樽でマリッジ(ブレンド後の
追加熟成)させ、他の樽でマリッジしたものと再びブレンドしている。

そのマリッジ期間・その他の樽の詳細は、通常のシーバスリーガル製品同様、
謎に包まれている。「これは企業秘密」というのはブレンダーという職人なら
もっともであろう。このような特殊なボトリングの詳細は明らかにできるものでは
ない。

コリン氏はグラスを掲げ、乾杯を促す。
「日本だけにあるものを使って、日本の皆さんのためだけにつくりました。
ぜひ楽しんで下さい。スランジバー!」


スランジバー Slainte mhor とは、イングランド、スコットランドでの乾杯の意味)




実は私、前職を辞めて今の会社に入る前、世界的に有名な日本の

酒造メーカーから本社採用内定もらっていた。
採用試験は公務員試験のような問題だった。入試問題なんて十ン年
ぶりに解いたよ(笑)。

上場企業を蹴って今の企業に勤めた理由は、今勤める会社のメーカー
工場には「ふいご祭り」がある職種だった
から(笑
「権利と義務の連鎖」を社会正義のリーガルマインドを背骨に実行する
という前職を辞した後の己の本業が「酒かフイゴか」という究極の選択肢。
私はフイゴを選んだ(笑)。

 


日本文化

2015年09月07日 | 文学・歴史・文化・科学



私は日本の伝統文化を大切にしたい。

だが、日本刀の世界では、日本の伝統文化の象徴ともいえる
日本語の常識を崩す傾向が一部に見られる。
これを初めて始めたのは人間国宝の日本刀研磨師だった故本阿弥
日洲氏だ。氏の日本刀研磨師としての功績には敬服するが、刀剣に
対する使用言語については私はどうしても首肯できなかった。

氏はすべての日本刀を「御刀」と呼んだ。
あまりに日本語の用法を逸脱しているので、ドキュメンタリーなどでは
その部分に説明テロップがついたくらいだ。

私はこの行為は、完全なる誤りで、日本の伝統文化を保存継承する
先鋒でありお手本でもあるべき日本刀刀職関係者にあって、看過でき
ない由々しき事
であると思っている。
氏の個人的な思い入れで個人的に刀剣を「御刀」と呼ぶのなら、それは
かまわないだろう。
だが、社会的な公的場においても、そうした日本の伝統を無視する
言語使用法を人間国宝である氏が行なうことによって、あたかもそれが
良いことであるかのように大きな勘違いをする人間が後に続出した。
自分の父を「お父さん」と人前で呼ぶことの恥ずかしさを知らない者が
現在非常に多く世間一般の場に登場している。芸能人のタレントや芸人
などは殆ど
それだ。また、なぜかスポーツ選手などにも多い。

日本の美しさの一つに「敬語」という世界稀有な言語形態がある。
尊敬・謙譲・丁寧という三様式で変化する母国語を日本人はごく自然に
かつ巧みに使用してきた長い歴史がある。
すべては、人を大切にする、人と人との関係性を潤滑にする、という
日本人独特の「和」の気風に基づいている。
日本刀という刀剣は、たとえ霊器であろうとも、それを造り出したのは
人間であり、刀はあくまで人あって故の物品だ。
日本刀は貴重でぞんざいに扱うべきものではないが、あくまで物であり、
人より物が優先される捉え方は私は明らかに間違っていると確信している。
すべての日本刀を「御刀」と呼ぶ行為は、一見日本刀を敬っているかの
如し(日本語に学術的に関与した者からしたらとんでもないことだが)

だが、その実は、人よりも刀を優先し、日本語の伝統文化をことごとく
無視する行為であるのだ。
日本刀の所有者、帯刀者のそれに対し、その人を敬い奉り、己を謙譲
する視点があるからこそ、その個体に対して「御刀」という謙譲の美徳たる
日本語が
存在する。人をすっとばして刀を優先してすべての刀に「御」を
つける
などというのは、人前で父を「お父さん」と言って憚らない行為と
同質だ。
尊敬している父であろうとも、他者に対しては「父」と謙遜する。そこに
こそ日本人の日本語の奥ゆかしさと美しさが存在する。
己は「拙者」であり、己の差料を人に示す時には「拙刀」なのである。
企業にあっては先様の会社は「貴社」「御社」であり、自分の社は「弊社」
なのである。

日本の美しい伝統文化を継承し担うべき立場にある人物がそうした
日本語の大原則を根本から破壊するような行為に及ぶのははたして
いかがなものか。それがあたかも日本刀を敬っているかのような思い
込みで行使されているところが重大度を増している。会社の存在を敬愛
しているからと自分の会社を「御社」と呼んで人様に紹介する行為が
日本の世の中でまかり通ると思ってか。


前述したように、氏がごく個人的にプライベートな場でそのように呼称
しているならばよい。

だが、日本刀界の重鎮であり国の宝である重要無形文化財その本人
である人物が、公的場面においても、日本文化を無視する程の自分の
ごく個人的な想い入れで
そのような日本語の誤用行為を継続したため、
斯界の後進たちの間でそうした日本文化の
破壊行為がさも「正当」で
「美しく」、「敬意を表す言動」であるかのように
誤認され、それが実行され
ているという事態をみるに、私は「あなたがたは一体なにを
取り違えて
いるのか」と強く思うのである。
特に刀剣研磨師の間にその
日本文化の象徴たる日本語を破壊する
行為が継続されている。本阿弥日洲氏に右に倣えで、すべての
日本刀を
場面立場状況関係なく一様に「御刀」と呼んでいるのだ。

そうした行為は、日本刀鑑定の言葉を使えば、「能候(ヨク/不正解だが
同じ国の刀工)」どころか、まるっきり
「イヤ(同じ街道にも入っていない)」
なのである。

すべての日本刀を画一的に無思慮に「御刀」と呼ぶことを為している日本刀
関係者は、日本の伝統文化を継承すべく斯界に生きているのだとの自覚が
ある
ならば、自分のそうした言動は日本文化を内実として破壊しているの
だと知って
ほしい。


ヘネシー

2015年09月06日 | 文学・歴史・文化・科学



「さ~て、葡萄のお酒でも・・・」とか言ったら「はい」とこれを出された。
真昼間っからのんでんじゃねーよ、という暗黙の意思表示だろうか。

葡萄の酒ったっていろいろあるよ。何もワインだけが葡萄の酒ではない。
コニャックだよ、コニャック!おれなんて、おでんのコンニャクくらいしか
知らないが。
これ!


って、こんな貴重な酒、おいそれと飲むわきゃねーだよ。




ヘネシーXOのグランデシャンパンだぜ!
居合道場の方からドウジョともろた。びびた。ヒデキ感激!(古っ)
貴重過ぎて、飲めません。いや、飲みません。寝かせます。


う~ん。
オールドボトルのこのラインが、ポルシェのお尻みたいで、セクシ~(^0^)

ちなみに、地球上で一番高価な酒はこれ。ほとんどボトル代だと思うけど
(^^;


「高貴な夜に酔いしれましょう」って、書いた奴は飲むのか?飲んだのか?(苦笑
というか、こういうのをスコンスコン飲んでるような連中もこの地球上にはいるのよ。
どうなってんだ、世の中は。
責任者、出てこい!(古っ)

ということで、新装開店した友人の車屋さんに今からお祝い持って挨拶に行くので、
本日の昼は麦茶にしておく。


映画『バトルロワイヤル』

2015年09月05日 | 映画・ドラマ・コミック



深作欣二監督の問題作『バトルロワイヤル』(2000年/東映)
なのだが、こんなシーンがあった。

殺し合いの中で銃を突きつける。銃は9ミリ弾のブローニングハイパワー。


ところが、カットが変わると、ハイパワーがなぜか.45口径のコルトガバメント。


ハンマーはコマンダータイプのリングハンマー。


格闘になって地面に落ちたガバメントのハンマーはノーマルの平たいスパータイプ。
ハンマーはいつの間にか下りている。



それを拾って構えただけなのに、なぜかハンマーは起こされていて、
しかも、ハンマーはリング型のコマンダータイプに戻っている。


こういうのって、てんで駄目じゃん。深作監督・・・(´ー`)

要するに、撮影には3種類のプロップガンが使われたということ。
・ブローニングハイパワー
・ガバメント(リングハンマー)
・ガバメント(ノーマルスパーハンマー)・・・放り投げ用
さらに、発砲用には別のプロップガンが使われた可能性もある。

このシーンは相当撮り直しをしたのだろう。
助監督やスクリプターたちがしっかり仕事していると、こういう単純ミスは
起こらないし、ラッシュの時に必ずチェックできるはずなんだけどね・・・。
なんというか、とても雑な作りだ。


1ページ漫画「姉」

2015年09月05日 | 文学・歴史・文化・科学



泣けた。
姉の呼び方が時代とともに変わっていくのがラストにつながる布石となる。
これ、俺は泣けた。
久しぶりに秀逸な作品を見た。
純文学だよ、これ。


ワタリ

2015年09月01日 | 映画・ドラマ・コミック

Watari Ninja boy - Trailer


1966年7月公開。
50年ほど前の映画だ。
今でも楽しめそう(^^)
白土三平ものでは『ワタリ』は『サスケ』よりも好きだった。
幼稚園の頃読んだ原作漫画では、カズラの姉のツユキが
ちょっと色っぽかったのを覚えている(笑
ただし、映画は原作と異なり、階級解放闘争のテーマが一切
描かれてないので原作者が激怒し、映画作品を全否定した。
怒り心頭の白土は東映ときっぱりと縁を切った。
白土作品は横山光輝のような単なるニンジャちゃんばら劇画
ではない人間社会を描いた慟哭の劇画だったからだ。
原作者白土の猛反対により『ワタリ』のテレビカラードラマ化は
実現しなかった。そして、横山光輝の作品に切り替えることに
よってドラマ化が実現されたのが『仮面の忍者 赤影』(1967~
1968)だった(原作『飛騨の赤影』のちに『仮面の忍者 赤影』
に題名改称)。赤影の忍者TVドラマはUFOまで登場するキテレツ
作品だったが子どもたちには人気があった。なぜか私はあまり
好きではなかった。断然原作のワタリだった。これはぜってー
ツユキ姉ちゃんの色気だな(笑


『プラトーン』(1987年公開)
オリバーストーン監督のベトナム戦争を扱った名作のこの有名な
シーンは、監督自身によると劇画『ワタリ』を参考にしたとのことだ。


日本の漫画が海外の人たちに影響を与えることはかなりある。
ブレードランナーのラストシーンなどももろに『火の鳥』の写しだろうし、
他にも多くの事例がみられる。