渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

住宅地図

2015年08月30日 | 文学・歴史・文化・科学

江戸御府内には切絵図という便利な住宅地図があった。
江戸時代には家に表札などは一切掲げなかったから、切絵図は随分と役に
立ったことだろう。
地方の城下町にも似たような地図が全国にある。


江戸期の三原の地図



材木置き場の隣りに家があるからと、材木の管理をしていた訳ではない
でしょう、きっと(笑)。
屋敷の敷地内に城の櫓があるからと、櫓で寝起きしていた訳でもない(笑)。
櫓は倉庫であり、戦時のヤグラだ。
ヤグラ(櫓)とは矢倉であり、武器庫、食物備蓄倉でもあった。武器庫の番は
専門職がいた。


勤め人で務め先が家から徒歩10秒というのは、現代では考えられない。
ただ、江戸期の家屋敷は農家や商家はともかく、戦時要員の家はすべて
私物ではないので、主の転封(てんぽう)国替えやお上の体制が変わると
召し上げになってしまう。
家臣団は土地には縛られない。
土地や家屋敷に執着していては仕事にならない。
そもそも武士とは根無し草のデラシネなのではなかろうか。
土地に土着はせず、流転先をあくまでも一時の駐屯地として己に言い
聞かせた漂泊の民ではなかったか。

そういえば、昨日、親族と話していて、父の兄(三男)は鍛治屋になろうと
していたのだというのを知った。
三原城下で修行し、独立しようとしていたらしい。
いろいろあったらしく、結局は名古屋に出てデークになった。
鍛人(かぬち)希望もデークも移住も、先祖伝来か(笑
長男は陸軍尉官だったが、次男は予備、三男以下は穀潰し、みたいなもん
だったから、勝手次第、自分でたつきを立てよだったのだろう。
四男の父は三原を捨て東京に出て職を得た。
父が三原に戻ることになったのは巡り巡っての偶然だ。
ただ、私の場合は、土地に縛られないという感性を理解していなかった
ので、生まれ故郷の東国を離れるのを拒否して16歳で両親と別居し東京に
残った。
爾来22年、生後38年は東国にいた。
10数年前に初めて西日本に移住したが、未だに西日本の文化には馴染め
ない。
東国土着性が抜けないと本当の先祖伝来は得られないのかも知れない。


広島城の櫓。
三原城にあった22基の櫓もこのような感じだったのだろう。
江戸期の絵図を見ると西築出の城壁の様子も広島城に酷似している。
この再建された二ノ丸櫓と曲輪は見応えありますよ。鉄筋ではなく、
完全に木造建築での再現だから。基礎石は江戸期の礎石を一度外して
コンクリで固め埋め直して再利用した物。本丸天守よりもこちらが凄い。


三原城西之築出(にしのつきだし)。城壁は広島城と酷似だが、すべて白壁だった。


今治城(愛媛県/再建)。
こちらのほうが城壁は三原城に近いかも知れない。
三原城の櫓は下半分が板張りなので広島城の櫓が三原城の櫓に近い。


備後国三原

2015年08月30日 | 文学・歴史・文化・科学


神戸のイトコ兄が帰りしなに買い物したいとのことで、三原市内道の駅
までチューンド500Eと併走した。
奥さんがスイカ所望とのことで、スイカを買うために寄った。
8月最後の休日だからか、とても混んでいる。

時計がある。
時計台というと大学を思い出すが、うちは立派な時計台ではなく、校舎に
貼り付いたような時計台だった。今はない。キャンパスはまったく様変わり
し、宇宙局のようになってしまった。
昔、大学の象徴が時計台だったのは、あれは時計を持てない大学生が
多かったからではなかろうか。
大学のみならず、小中学校や高校でも、古い建物には校舎の高い位置に
時計があった。


昨夜、宴会の帰り道、東京のイトコ姉の夫が「三原の名称の由来は何?」と
尋ねた。
私は「三つの原が集まったところだから、というのは後世の付会である」
との見解を示した。
一通り聴いた後、イトコ姉夫は「成る程ねえ。原がないのに何故三原と
いうのかとずっと思っていた」とのことだ。
さすが着目点がちびっと違うね、と少し感じた。
姉夫は某大手新聞社の社会部デスクを務め、今は印刷部門の役員となって
いる元ジャーナリストだ。

現三原城がある三原市は中世末期までは湾であり、それまでのこの地は
山肌が海面に屹立する僻地で、道もなく、ほぼ未踏の地だった。
辛うじて谷間を形成する狭い丘陵地はあったが、その地区を「原」と呼ぶ
ようになったのは、人が住みはじめてからで、それまでは現三原は三陸
海岸のような場所であり、三つの原が集まったのも、城郭整備で大幅に
埋め立て地が出現してからだ。
ただし、三原の地名はそれ以前の足利尊氏の時代にも存在した。
だが、その場所はもっと内陸部であったはずだ。
これは柞原と書いてミハラ(後のミワラ)と読ませた古代の呼称からも類推
できる。
柞とはユス、サク、ス、クと読み、木が生い茂る場所のことだ。原っぱ
のことではない。
三原とは現三原のことではなく、糸崎、もしくは現在の久井地区等の
別地域もしくは広域地区のことであったことだろう。
久井地区であるならば、古代山陽道の駅名不明の駅家(うまや)があった場所
とも符合するし、かつてのミハラがどこであるのかということが不明で
あるとの条件とも「学術的にも駅名不明という謎の土地」として合致する。

ただ、ミハラ湾内には古代瀬戸内海航路はルートを取らなかったが、湾の
入り口の糸崎は井戸先、長井の浦と呼んで保水地になっていた。
神功皇后西征の折にも立ち寄ったとの伝承もあり、古くから西に向かう
航路では尾道の次に立ち寄る場所であった。

糸崎(平地部の陸地はすべて埋め立て)


この糸崎の地には「刀工三原正家の井戸」なる井戸がある。
しかし、これはかなり眉唾物で、江戸末期の藩庁の調査では「過去に
あったといわれる清水」を調査し、「詳細不明」と記録されているのだ。
現在の井戸囲いは明らかに近世以降の建造物であり、同様形式の井戸囲いは
尾道市内にもよく見られる。
因みに尾道は大正年間の築造の井戸囲いである。

しかし、正家の井戸とされる旧沿岸部の山手側には正家一族の墓所が
あったとされている。これは幕末の記録から。
だが、この道の駅建設の時に墓石等が発掘されたが、すべて学術的調査も
せずに廃棄処分されたという。

下の樹木付近が正家一族の墓所か。


ここでいう三原正家は古三原ではなく後代正家である可能性が高い。
それは、古三原の時代には三原は湾であり、物資輸送の陸路と鍛治に
適した陸地がなかった場所であること、古三原は「備州」とは銘切っても
「三原」とした銘の作は皆無であることからも、現三原とする後世の
作為には首肯できない。
南北朝時代の二代正家は因島(現尾道市)住であるという正家に関する調査
記録が江戸期の藩の記録にあり、また鍛治に関する奇習も現地に残って
いることからも、古代から栄えた尾道もしくは、古代の道の駅があった
山間部を本郷まで抜ける古代山陽道沿いのどこかが古三原の鍛刀地で
あったことだろう。

糸崎の長井の浦。(海に面した地区。平地は後世の埋め立て)


ただ、この今の道の駅が山肌を削って建設されたように、古い時代にも
山際に墓地が作られたことは十分に想定できる。
この糸崎のように。
(左手山際にあるのは墓地)


この墓地がいつ頃できたものかは不明だが、現在の山際にある道の駅に三原正家の
墓所があったとしても、不自然さは
ない。
ただ、言えることは、この室町戦国時代末期に海を埋め立てて造られた
現在の三原の地には「古三原」は住してはいなかった。
南北朝時代、そこに原はなく、ただ海面(うなも)が広がるだけだったからだ。

この市街地はすべて江戸期以降に埋め立てられた。本格的な陸地化開始は
慶長年間である。
また、三原城より南方の市街地は明治、大正、昭和の近現代の時代に
陸地が造られた。






(道の駅にてこれ記す)


ラーメンうまいよ!





光が与えてくれるもの ~砥石目~

2015年08月25日 | 文学・歴史・文化・科学

鋼の刃物は、一見鏡面に見える面でも砥石による研ぎである以上、
必ず
砥石目というものが見えます。これは程度の差こそあれ日本刀
にも必ず砥石目が見えます。

肥後守による砥石目の状態を示します。
段階ごとの画像ではありません。同じ状態の物を角度を変えて
のみの撮影です。


刃と鎬の方向に対して「キリ(真横)」の砥石目。一番下の
砥石目です。


筋違(すじかい)の砥石目


逆筋違の砥石目


地引き(縦)の砥石目


このように光の反射で砥石目が見えます。
この研ぎは日本刀に比べるとかなり「荒い砥石(#8000まで)」
での極めて雑な研ぎですが、これの目が非常に細かいものは日本刀
の研ぎ
においても肉眼で見ることができます。
「砥石目を消す」と言葉の上では言いますが、研ぎの砥石目というもの
は完全に「消す」のではなく「伏せる」ものです。極小に肉眼で確認が困難
なほどに前の砥石目を「伏せて」行くのが日本刀の研ぎで、これはルーペ
などで見ると砥石目は極上研ぎでも残っています。

また、日本刀研磨の場合は、その砥石目の入れ方(伏せ方、起こし方)
よって光の反射の力を借りて日本刀の作本来が持つ鋼の働きを引き出す
ものです。刀身の
肌を起こしたり伏せたり、錵・匂・鋼の多くの働きなどを
見せたり部分的に隠したりして刀の作者が表現した持ち味を十分に引き
出してやるのが日本刀の美術
研磨だといえます。鋼の変化を見せる必要
がない場合などは簡易研ぎでバフ掛けすれば防錆には事足りる(戦時中
の軍刀研ぎや海外の刀剣研ぎ等)のですが、美術刀剣研磨ではそれを
せず、十数種類の砥石を使用して段階を経て時間をかけて研いで行き
ます。美術研ぎでない抜刀研ぎでも1ヶ月ほどかかり、観賞用美術研ぎに
至っては刀剣1口に数か月かかることもあります。すべて砥石の数の省略
によって工数と金額が異なります。「並研ぎ」と「上研ぎ」と「極上研ぎ」の
金額が異なるのは、別な研ぎ方をしているのではなく、すべて砥石の数
の違いと考えて差し支えないと思います。すべては砥石を変えて砥石目
を段階的に複数入れることによって刀剣の持ち味を引き出していくのが
日本刀の研磨です。
さらに刀身の性質により合う合わないがありますので、内曇砥石のみで
日本刀研磨師は15~20種類位の砥石を保有しています。内曇砥石は
1丁10万円~数十万円ほどの購入金額です。この内曇砥によって、刃砥
では刃中の働き(砂(す)流し、金筋、
稲妻等)を引き出し、地砥では地の
働き(肌、地景、地沸、映り等)を引き出すようにします。内曇砥のみは
天然でないと日本刀の研磨になりません。一般刃物では内曇砥(天上巣板)
などという超高級砥石は使用しません。(京都の砥石山の最上砥石の産出
量が限られており、さらにどんどん枯渇により閉山しているため高価になる。
中には1丁数百万円~非売品という内曇砥も存在する)
内曇砥の段階で刀剣の持ち味を表現していきますが、鍛え肌などはそれ
以前の名倉段階のタツの突き方次第で起こしたり伏せたり研磨師は操作
しています。下地研ぎとはまさに仕上げを仕込む下地であるのです。

日本刀の色も、働きも、すべて光の反射具合によって肉眼で感知できる
ものであり、日本刀研磨師の腕次第で刀の表情が大きく変わり
ます。
人様の顔の似顔絵を描く場合、超リアルに描くとあまり受け容れられ
ません。良い部分を強調して、そうではない部分は強調しないほうが
多くの人に好まれます。それの好例が写楽で、作品発表当時はデフォルメ
が強すぎてあまり描かれた役者たち本人やファンたちには
好まれなかった
といいます。

日本刀の研ぎも似たような部分がありまして、素顔美人のような作柄を
涼やかに研ぎ上げる研ぎが昔は好まれたのですが、最近は舞台演劇メイク
のような強弱をつけすぎの研ぎやガングロギャルの化粧のようなドギツイ
超デフォルメが流行したりしています。(現行流行の日本刀の研ぎの傾向
は、ついほんの少し昔までは目利きの方々には「花魁研ぎ」といって嫌われ
ていました)


ただ、色合いそのものや色の変化のグラデーションや刀身の鋼の働き
そのものはすべて光の反射によって人間が感知できるものなので、
一角度からのみの写真では日本刀の景色を写し取ることは不可能です。
よく「刀は手に取って観ないと見えない」と言われるのはそのためです。

これは芸術的な木工品でも同じで、カナディアンメイプルなどの貴重な
銘木などは、同じ部分領域でもバーズアイやカーリーやタイガーといった
木目が混在しているのが常です。それが見る角度によって深い変化を
見せます。
その見る角度というのはアングルでいえば1度以内の変化で別な表情
が感知できるほどです。
同じ場所で折り重なるようないろいろな表情が見る角度によって認知でき
るので、幸いに肉眼を持つ人間はそれを鑑賞して楽しむことができるの
です。こればかりは、神が人に与えた特権で、カメラではこの表情と景色
は収められません。また写生などの描画でも不可能です。


メイプルの木目

重層的な木目が見る角度によって現れる。
これは表面のクリア塗装をはがすと確認しづらくなる。日本刀等の鋼の
刃物において荒研ぎすると鋼の変化がまったく見えなくなるのと同じ
である。すべては光の反射を得ることによって肉眼で現認できる現象
なのだ
。これは実際に手に取って角度を変化させないと、状態を視覚で
認知することはできない。


一見、ツルピカに見える刃物でも、鋼には表情があり、それを最良の
状態で見せるのが「研磨」です。ただ表面をツルツルにすることが
研ぎにおける研磨ではありません。



また、単に切れるように研ぐのはただの「研ぎ」でしかありませんが、
研磨という工程は目的が別なカテゴリーに属する研ぎといえます。
その研ぎの最高峰が日本刀の研磨で、こうした刀身の表情と景色を
肉眼に感知させる目的での研ぎというものは、この地球上では日本刀
の研磨にしか存在しません。
日本刀という武器は、ただの武具としてのみだけではなく、刀身のみで
観賞の対象になるという世界で唯一の武器で、極めて特異な存在です。
そして、日本刀の素顔は、世界で唯一の日本刀研磨師によってのみ
発現させられます。特殊で極めて高度な技術と美的センスを持つ日本刀
研磨師のみが日本刀の研磨を行なうことができます。素人には刀は
研げません。
日本刀の楽しみの一つは、研ぎ師=日本刀研磨師の技術と美的アプローチ
の手業を観るところにもあるといえるでしょう。
ただ切れるようにするだけでは包丁と同じで誰にでも研げます。
ところが、こと日本刀に関してのみは、専門的に修行を重ねた日本刀研磨師
によってのみ研ぎ上げることができるのです。

どうぞ、多くの日本刀を実際に間近でご覧になって、鋼の色と景色の変化を
存分にお楽しみください。



鳥取城

2015年08月22日 | 文学・歴史・文化・科学
帰りしなに鳥取城を見学。
かなり感動した。
ただし、鳥取城は登山なり。
山頂まで行く人は皆クマ除けを持っている。
私は装備がないので、頂上本丸は諦めた。
「大丈夫だよお」などと安直に思うとしたら、それは死を簡単に呼び
寄せる。
私が過去に何度も絶対絶命的なピンチを切り抜けてどうにか生存帰還
できたのは、臆病過ぎるが如くの細心のセンサーが働いていたからだ。
これは密林でも都市でも。
匹夫の勇ほどすぐに死ぬ。
本当の勇気とは、何が何でも生還するという執念の持続だ。

行政側の警告。クマと相撲取る気はないので、本日は中腹二の丸まで。




鳥取城のレポートは後ほど。


ゆるくないキャラ

2015年08月18日 | 文学・歴史・文化・科学



広島県三原市のゆるキャラが決定したらしい。
ブームに数年乗り遅れている。まあ、三原だから・・・。
それにしても、このゆるきゃら、「やっさだるマン」というらしい。
だっせー!なんだこりゃ?
ダサさの極みだ。
第一、ぜんぜんゆるくないし(^^;
ま、これが三原のセンスだから・・・。

ゆるキャラという呼称は2000年に広島県のキャラクタ着ぐるみの
ブンカッキーを見てみうらじゅん氏が発案した言葉だ。
なんと、「ゆるキャラ」の単語の誕生は広島県が契機になっていた。

元祖ゆるキャラの広島県ブンカッキー


元祖ゆるキャラとダントツ大人気ゆるキャラのくまモンの共演。


ゆるキャラが子どもたちにも人気を博すには、このように、見てすぐに
覚えられる姿と顔でなければならない。

日本におけるゆるキャラスタイルの第一号は、これはもう不二子先生の
「オバケのQ太郎」だろう。
1960年代にはオバQは超ウルトラ大人気だった。ドラえもんが登場する
前までは、ドジだけど頑張り屋のオバQが子どもたちのアイドルだった。
これはもう圧倒的に。
性格的なキャラとしては実写ドラマの「快獣ブースカ」ととても被るのだが、
TVアニメの世界ではオバQの人気は超絶ものだった。
21エ門から続くアイデアの「ドラえもん」が登場してからは、ドラえもんに
人気が移ったが、ドラえもんのシルエットもオバQからの外輪を踏襲して
いる。
そして、今のゆるキャラもオバQのような外形を継承している。人気の
くまモンなどはもろにオバQ系ゆるキャラである。


三原市のはあれは何者だ?
表情が複雑過ぎて(現在ではなく先代の三原神明市のダルマの
顔である←本来の伝統的な三原ダルマの顔ではない)、あれでは
子どもたちが似顔絵に描けないと思う。
まったくもって、大人たちの独りよがりの選考による決定なのでは
なかろうか。
大昔「まるでダメ男」という子ども向けギャグ漫画があったが、三原の
やっさだるマン、まるで駄目だと思う。

これじゃ、ゆるキャラというよりも、妖怪だっ!

どぞ。「やっさだるマン」をご堪能ください。

ネーミングも長すぎるんだよなぁ・・・。「やっさ祭り」と「神明市ダルマ」と
「三原タコ」と、詰め込み過ぎなんだよ。それだったら「だるマン」のほうが
ずっといい。「だるマン?どこ?え?三原?そう」というのを引き出せる。
映画でもそうだけど、表現においては、説明表現というのは表現スキル
としては稚拙なんだよね。
三原のゆるキャラは
タコをキャラクタにして、かわいらしいタコのデザイン
考えて、名称も「たこミー」とかなんとか
にするとかさ。なんかあるだろに
なぁ・・・。とにかく名称は2単語合体で1フレーズで呼べる短いものに
限る。三原は何につけ戦略構想がなさすぎる。
「くま+モン」とか「ふな+っしー」(非公認キャラ)とか「オバ+Q」とか、
ヒットを生むには分析と狙い撃ちの戦略と緻密な戦術が必要だ。
単に「好きだから」とか「これがまあええわ」といったゆるいところでは
本当はヒットするゆるキャラなどは生まれない。自分の私的欲望を制御
して、冷徹に情勢を分析していけば、どうやればどうなるかという構想も
立って来るだろうところ、残念ながら三原気風にはそれが極めて薄い。
いきあたりばったりなのだ。
だから、企業誘致型市制からいつまでも脱却できず、大企業におんぶに
だっこの地方治世となり、企業が撤退したら右往左往して市の収益(税収、
その他の経済効果)が大幅ダウンして市がどんどん廃市の如き死滅に
向かうような状況になってしまう。
「やっさだるマン」は、「やっさ(祭り)+だる(神明ダルマ)+マン(キャラ)」
というのを盛り込んだもので、長すぎで駄目だ。2ワード・1フレーズコールの
ヒットキャラの王道を分析し切れてないんだよなぁ・・・。リズム感も無視
している。ネーミング考えた奴は、ぜったいに音痴だね、これは。
やっさだるマンは、例えば「何を訊かれても『わっはっは!』と大声で笑うだけ」
とかの強烈なキャラクタを与えられたりもしていないだろう。何かズドン!と
いうインパクトがないと、広く知られて愛されて地元興しになるゆるキャラには
ならず、ただ作ってそこにいるだけの「しおしおのパァ~」キャラになることは
必定だ。
くまモンが全国区でウケたのは「著作権を設置しない」という熊本の大胆戦略と、
くまモン自身の動きの切れだ。ふなっしーはあのしゃべりだろう。
そうした、強烈なインパクトというものも、実は冷静に分析され設定された
ものだ。仕掛け人がゆるくてはヒットするゆるキャラは造れない。
三原の人たちは、お笑い芸人たちがネタを絞り出すのにどれだけ苦労して
いるか、また落語家が噺の深化についてどれだけ心を削るか、もうちびっと
だけ目を向けてもよいのではかろうか。戦略的に分析して創造された「ゆる
キャラ」と、製作サイドが自己満足だけで作ったぬるい「ぬるキャラ」は
違うのだと知ってほしい。
俺みたいな外から来た人間ではなく、地元産のジモチーがバン!とした
全国区で通じるのをどんどこ開発してぶつけてくれるといいのだけど・・・。
なんつーか、どうも三原の人というのはパイオニア精神というか、俺が
パスファインダー(先行者)になるのだ、という踏み出しの気概があまり
なくてねぇ・・・。
まだね、広島市内の人は大分違うのよ。広島の人は「よ~し。一発やっちゃる
けぇ!」みたいなガッツがすごくある。あれは未曾有の痛手をくらった中で、
「今に見ていろ」と戦災復興を快進撃で遂げた「生」のパワーだろうね。
あと尾道ね。尾道の人は「広島県特区」みたいにまるでそこだけスポットライト
が当たったように広島県内では(内容はどうあれ)特筆的な前向きで開明的
な人が異様に多い。(大林監督、漫画家かわぐちかいじ、小説家高橋源一郎、
赤軍派の塩見議長、etc・・・すべて尾道に吹く風が生み出している。尾道には
古くから文化的で前衛的で時代の魁(さきがけ)のような気風が溢れている)

まあ、なんつーかかんつーかてとこでして。
岡目八目、よく見える。(by 椿三十郎)


判明

2015年08月10日 | バイク・車



4歳の時の俺は補助輪なしの自転車には乗れなかった。
弟くんから昨夜ラインで送られてきた約半世紀前の
写真を見て
判明した。


デスノート

2015年08月10日 | 映画・ドラマ・コミック



ドラマのデスノート、つまんねー!

なんだこりゃ!
原作はどこいった?

ネットで評論読むと、原作の2000年頃と2015年の現在ではネット情況が
異なるから、このドラマの仕立てが効果的だ、みたいなこと書いてる。
アホか、と。
だったら『めぞん一刻』なども、リメイクするとしたら現在の賃貸マンションでの
コメディにするのかと。

そんなことより、キャラだよ。
ここまで原作を改変してよいのかどうか。

ぬるいなぁ・・・。


日本てぬぐい

2015年08月09日 | 文学・歴史・文化・科学

頂き物の日本手ぬぐいをご紹介します。

かえるさん。


なんというゆるキャラ系なんざんしょ(^0^)


いいねぇ~。


こちらは一気に江戸のイキでイナセなキップ系だ。


これまたいいねぇ~。


これまたいいぞ!オサレだよこれは!


こちらは別な方からの頂き物。完璧にアートです。


う~む。唸る。


有難うございます。
ヒデキ、感激!(^0^)

こりゃいいね。嬉しいやぃ。
おいらもお土産とかに日本手ぬぐいをメモっておこう。


筆致

2015年08月08日 | 文学・歴史・文化・科学



恐ろしいものですな。
いくらド素人が真似っこしようとも、すぐに専門家には「王義之」と
看破された。
赤面もので、お恥ずかしい限りだ。
付け焼き刃はすぐにバレる(^^;

こっちにしといたほうがよかったか(笑)


これはあたしの関係者の字だ(^0^)

このおっさんね。小林作の刀に絡むといっても小林一茶じゃないよ。
三跡のうちの野跡と呼ばれる。


うを志んがね、数年前にいいのを世話してくれたのよ~。(鞘に似た入れ物は私の手製




トーフーのおっちゃんの図だぜ。
おいらも多少血縁的に縁がある(笑)。

でも、個人的に一番好きな書体は青蓮院流だったりする。

道風は道風で和風書体を完成した感もあり、なかなか味が
ある書体だと思う。4トロあたりのゲバ字っぽいけどね(笑)。
自分の書体が完成されている人はいいなぁと感じる。
書の基本はまずお手本の写しから、というところだろうか。


江戸刃物師の左久作師ご本人も見て大笑いした私の写し(右)。
ただし、墨を磨り過ぎてしまい色が濃くなり過ぎてしまった(笑)。

と、こうなると、筆致ではなく贋物作りの感性に属しそうな感じだが、
書をアートと考えた場合、贋物などではなく写し物ならば、色合い
風合いもお手本と同じ世界を狙って行くのが王道のように思える。
コピー機がなかった江戸時代、特に幕末などは、貧しい武士たちは
「写本」をしてアルバイトしたりしたでしょ?
あの写本というのはなかなか凄いよ。字体までそっくりに似せて
写し書きしてるんだよなぁ。
もうそうなると、「書き」ではなくて「描き」だよね。
写本はアートではないけれど、一つの独特の「写し物」の一端を
構成しているように思える。


手ぬぐい

2015年08月07日 | 文学・歴史・文化・科学



手ぬぐいってさー、あれ絶対に二種類あるよね、なんて思ってた。
剣道などでは大会参加賞として日本手ぬぐいをくれることが
多いのだけど、先生の名前が入っていたり、揮毫したりの手ぬぐいは
なかなか実用で使うのには躊躇する。
だって、汗ふいたり、時にはケツ拭いたり(背中のほうのケツの頭ね)
することもあるかもしれないのでしょう?脇の下拭いたりとかさ。
先生の名前の入ったのをそんなのに使っていいのかね?とか思ったり
する。

でもって、二種類あるというのは、実用に供した場合の日本手ぬぐいの
肌触りのことだ。
最近増えているのがプリントで絵柄や文字を印刷した手ぬぐいで、
これはですね、洗ってなじませても、どうにもやはりごわごわして
使い勝手が非常によくないのです。
やはり、染物の手ぬぐいのほうがずっとソフトでいい感じ。

日本手ぬぐいは刀鍛冶が仕事の時に被ったりもする。

これは90年代初期に刀道連盟の大会参加賞で配った手ぬぐい。
私も持っていたが被りまくって消耗してしまった。
私も鍛冶仕事(の真似事)の時に被っていたのだ。
被らないと爆ぜた飛び火で髪の毛チリチリになっちゃうから。

手ぬぐいは消耗品とはいえ、日本手ぬぐいを考え出した人偉い!
すんげ~便利だもの。
稽古の時に汗拭ったりするのには、タオルなどよりもずっといい感じ
だもの。
実はね、試斬を恒常的にやっていた頃は、一太刀斬るごとに
薄く油を滲みさせた日本手ぬぐいで刀身を拭っていた。
良く洗って陰干しにしてフンワリさせておくのがポイント。
ソフラン仕上げでね(笑
そして、プリントのは駄目っす。染物の本手ぬぐいをふわふわに
して柔らかい肌触りにしておいて、それに部分的に中央部に刀剣油
を浸み込ませておくの。
これで畳表のアクはかなり防げるよ。
撮影などでは斬術のまま切ってすぐに鞘に納めたりしているけど、
本当は試斬は鞘に納める前には刀身を拭ったほうがいい。
刀道連盟の制定では、かならず刀身を拭う所作が入っていた。
拭い布の規定はなかったが、日本手ぬぐいを使っている人がやはり
多かった。

日本の手ぬぐい、いいっす。
あれ、海外へのお土産にもいいのではないかなぁ。
5月に浅草行った時、祭り衣装の店に行ってみたのね。
法被ほしいなぁ、なんて。本格半纏は結構したなぁ。安いのでも3万円代
だったよ。ちょっと手が出なかった。
手ぬぐいも沢山あったけど、大人気でしたよ。日本人にも外国人にも。

こんな手ぬぐいなんて、粋だよなぁ。町内会でそれぞれオリジナル
のロゴ意匠を持ってるんだぜ。江戸っぽいだよなぁ。


游雲会で日本手ぬぐい作っちゃおうかな。
それより先に、「うを志ん」手ぬぐいかな(笑
最近メールの返事は「うぉ」とか書いて来てるから、本人も
案外気に入ってるのだろう。

日本手ぬぐいは日本の織物の歴史そのもので、奈良時代から
あるんだってさ~。
で、昔は綿が絹より高かったのだけど、江戸時代に綿が日本でも
栽培されるようになってから値が下がったので手ぬぐいが一般的
に庶民にも普及したんだって。へ~。


お国ことば

2015年08月02日 | 文学・歴史・文化・科学



「魚屋うを志ん」のテンチョと話していて、時々テンチョは意味不明なことを
言う。

意味不明とはわけわからないことを言いだすのではなく、使う方言の単語が
解らないということだ。(面白がってわざと使っているフシもあるが)

私は埼玉県に居住したことがあるが、県南と県北では全く言葉が違う。
県南はほぼ(というか限りなく100%に近く)標準語で、これは大宮(現さい
たま
市大宮区)あたりまでまるっきり標準語だった。
ところが、大宮を過ぎると、一気に県北埼玉言葉になる。
これは現JRの京浜東北線の終点が大宮であり、かつての都内への
通勤圏が大宮が北端であったことによるものではなかろうか。
今では群馬・栃木県さえも東京への通勤圏となっているが、かつては
大宮以北は「首都圏」ではなかった感がある。
東京都が接している県は神奈川、埼玉、千葉、山梨だが、京浜工業地帯
である神奈川は早くから東京のベッドタウンのような位置にあった。
その後、埼玉が開発された。千葉県などは私が学生の頃までは、東京に
隣接した千葉県内でさえも「超田舎」という印象があったし、
成田などと
いったらドがつく僻地のようなイメージだった。成田は実際に
茨城と言葉が
ほぼ変わらない。「あんちゃん、みしっとしたらかっぺや
(お兄さん、きちんと
しなさいね)」などと普通に使う。


神奈川県も同じ横浜市内でまったく言葉が異なる。
いわゆる本当のハマというのは元町から本牧・根岸あたりにかけてだが、
横浜市全域となるとかなり広い。横浜市は武蔵国だが、南は相模国の
藤沢市に隣接している。藤沢市も横浜市戸塚区南部もかつては鎌倉域で
あったというのはあまり知られていないが、そもそも横浜は神奈川だから
相模国だろうという誤解をしている人が多いようだ。
以前の川崎市の道場でも、横浜市金沢区六浦(米倉家1万2千石の藩が
あった)の人を愛称で「相州タダのはげ」とか呼んでいたが、今思うと、正式
には武州タダのはげであっただろう(苦笑)。(「タダノハゲっておい、関取
みてぇだな」と本人は言っていた)

ただし、武州金沢(六浦)藩は相模国の現在の茅ヶ崎市、秦野市の一部も
領地だった。

横浜言葉としてよく知られる話し言葉で、ほぼ東京方言にも入っているものに
「じゃん」がある。これは「でしょ?」という意味だが、この言葉はハマ
(横浜市
中区)から横浜市南部にかけて多用される方言で、同じ横浜市でも
北部の
鶴見区や港北区の地元では使われない。だが、東京では使われると
いう
怪現象がある。通勤圏の問題だろう。

東京でジャンを定着させたのは横浜から東京への通勤者で、横浜市鶴見と
いう北部でジャンが使われないのはもともと鶴見はハマ文化圏ではなかった
ことを体現している地元民と
いうことだろう。県名にもなった神奈川区はハマ
と市内北部のハザカイであり、
文化も言葉も入り混じっている。
子どもの頃、父の赴任先転勤に伴い、横浜から埼玉県に一時転住した際、
転校した小学校では「じゃんじゃん言ってすかしてんじゃねえよ」とか「とっぽい」
とか言われたことがある。「すかしてる」「とっぽい」という言葉自体がサッパリ
理解できなかったが、印象としては「埼玉って横浜よりなんだかガラが悪い~」
というものがあった(^^;
(この場合、「すかしてる」も「とっぽい」も気障という意味で使われたようだ。
ようやく理解したのは1年後の中1の時だ)
父の転勤と戸建住宅購入に伴い
小学校は3校、中学は2校転校したので、
「転校生」というのを地で行ってたが、
転校によって得たものは文化と言葉の
違いについて敏感になるということと、
適応性が小学生の時からいやおうなし
に求められたので、言語と文化の差異
に自ら溶け込んで順応し、多くの友だち
がすぐにできるようになるということ
だった。性格上自己閉塞することは一切
なかった。小学生当時の友人に話を
聞くと気がつけばクラスに一人いたら面白い
というような存在だったようだ(柳沢
慎吾みたいな感じか)。
ただ、神奈川と埼玉の違いでは、神奈川はヒエラルヒーのようなものというか、
確かに気取った気障な面が強くあり、埼玉のほうは「みんな一緒」という同胞意識
いうようなものが強い土地柄のような印象が小学生の時にはあった。大宮
なんていい奴ばかりだった。

私が住んだ神奈川県内の地域は、プチ東京山手住人のようなザーマス一族も
多かったように思える。埼玉のほうがざっくばらんで庶民的な土地柄だった。

神奈川県でも江ノ島のある藤沢から横浜市南部(キロ数では数キロ北部)に
転校した際は、言葉もまったく同じだったし、「別の土地」という印象はなかった。
しかし、神奈川県と埼玉県ではまったく「異国」であることを小学生の時に知った。
東京都文京区本郷生まれのイトコは幼い時に埼玉に転住して埼玉県最南部に
住していたが、よく横浜のウチに遊びに来た時、「いいな~、神奈川は海がある
し横浜というのがいい。埼玉なんて海もないし、第一県の形がイモ形だぜ」なんて
言ってた。
神奈川にいた小学生は神奈川について「引け目」みたいなことは一切感じて
いなかった。しかし、埼玉の小学生はいわゆる後に「ダサイタマ」と呼ばれる
ようなものを1960年代の時点で感じていたのかもしれない。
こうした意識性は、江戸期から続く、江戸者が田舎者を「浅葱色」と小馬鹿に
したようなものの延長のようにも思える。
「浅葱色」とは、地方から江戸に出て来た田舎侍の着物の裏地が浅葱色だった
ことに由来し、主に遊女たちが地方の侍たちを馬鹿にした時に使った言葉だ。
浅葱色とは、幕末の新選組の制服のダンダラ羽織の色で、薄い浅葱色は
切腹の際に着用する裃の色でもある。大丸で作った新選組の制服は、隊士たち
には
かなり不人気で、ほんの数か月、しかも一部の隊士にしか着用されなかった
のが事実らしいが、案外、作りがチャチというよりも、色も起因していたという
こともあったかもしれない。劇画やドラマや映画ではあのダンダラ羽織が新選組
のシンボルのように描かれるが、実際には記録や八木家の伝聞をみると、
新選組は上下黒ずくめの出動服だったことが多かったようだ。

うを志んのテンチョは埼玉県の浦和という県庁所在地(県南部)の文教地区の
出身であるのだが、県北に引っ越してからはやはり「異国」のようなものを強く
感じたという。
神奈川県横浜まではいわゆる京浜工業地帯であり、臨海部は県南と県北で
言葉は違えど同一
文化圏的要素が強いためかそう異国性は感じなかったが、
埼玉では大宮
以南と以北ではかなり文化も言葉も違うというのは今でもある
ようだ。

浦和などは大宮以南でも「都会」というか洗練された印象がかつては強くあった。
だが、
浦和出身だったうを志んテンチョも私と共に浦和レッズのサポーターの
民族排外
主義と脅迫的言動に心をいためた。「あれ、浦和の恥、埼玉の恥、
いや日本の恥だ」と。

(→浦和レッズサポーターによる暴虐

こういうのを見ると、埼玉を知らない人は「うわ、サイタマって野蛮」とか思う
だろうが、確かに正直なところ私の経験上も横浜よりガラが悪い印象はあるに
せよ、この浦和レッズの一件は度外れている。
だが、これは昨今の一部の日本人の心象の縮図でもあり、このような感性は
自分で
意識して厳粛に取り除いていかないと、人間の心を自己制御しないで
野放図に野犬のように野放し
にしていると、人の心の中に自然発生的に生まれ
てしまう精神のダークサイドという差別排外性がばい菌の如く人の心を蝕む
ように思える。

知的生命体である人間の理知とは程遠い感性であるし、このような悪しき感性
の野放しは、人と人が作る社会というものを
破壊するものだと私は確信している。


とりあえず

2015年08月01日 | 文学・歴史・文化・科学



へ~。こんな漫画あるんだぁ。→ Amazon

「とりあえずビール」というノリなのだろうか(^^;
でもね、俺、ビアホールのカウンターでバーテンダーと話して
いたら、そのバーテンダー怒ってたよ。
「世の中、『とりあえずビール』と言う人がものすごく多いの
ですが、あれはビールなめてるのかと少々腹が立ちます」と(^^;
なんとなくそのバーテンダーの言に頷いた。