日々雑感

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東洋のモナリザ5-51

2019年03月26日 | Weblog
       東洋のモナリザ


  ガイドブックに紹介された東洋のモナリザといわれる、デバターはシエムリアプの市街地から北東の方に向かって、40キロくらいの所にある、バンデアイ・スレイ寺院にあるという。、僕はバイタクの後ろにまたがって悪路をひた走りに走った。
 
普通なら時間と時速を掛け合わせて、大体の距離を出すのだが、なにせこの道は、土の上ににぎりこぶしの5倍はあろうかと思われる石を、敷き詰めてというより、土の上に幾重にも転がして、今からブルドウザーで平らな道にしようという工事を始めたばかりの道である。たいていのことは我慢するが、がたがたと揺れる後ろの座席に2時間もすわってると、もういい加減にしてくれと悲鳴を上げたくなった。それは僕だけではない。ここ2,3日バンデアイ・スレイの遺跡を訪れる人はみな同じ思いをするはずだ。バイクだけにとどまらず車とて、条件は同じである。時速10キロで走れないから、途中でオーバーヒートして、立ち往生している車を何台も追い越した。
ブルドーザーで整地されて、まともな道路として使えるのは1ヶ月先のことだろう。
 
此の悪路に耐えかねて、バンデアイ・スレイってそんなに値打ちのあるところかと、何回も疑問に思った。これ以上此の石道を走れというなら、見ないで引き返してもよいとさえ思った。
 
そのころになってようやく、つまり走るのも限界に来て、やっとバンデアイ・スレイ遺跡は姿を現した。
ちょっと見は赤色砂岩で作られた、こじんまりしたチンケイな寺院である。それは今まで見た、どの遺跡よりも貧弱に見えた。確かに規模は小さいが、保存はましな方である。
 東塔門を一歩入ると屋根近く、ひさしの辺りに彫られた浮き彫り彫刻が目に飛び込んでくるが、確かに見事なものばかりである。
完全にヒンズー教寺院である。こういうタイプの寺院はインドではよく見かけた。紅砂岩で作られているので、建物も彫刻も皆赤灰色である。楼門をくぐると、主祠堂の両側に経蔵があり、中央にはシバ神殿、左側にはブラウマン神殿、右側にはビシュヌ神殿があり、どの建物にも浮き彫り彫刻があった。その一つひとつに意味があるのだろうが、

 僕の頭の中は 東洋のモナリザ でいっぱいだったから何を考える余裕もなかった。
ただ全体的に見ると、これがシバ寺院であることはすぐ判った。というのはバンコクのメインストリート・シーロム通りにも同じ形式の寺院がある。僕はその寺院の前を毎日のように通っているからだ。バンコクにあるワット・00は大抵は仏教寺院でこのような赤れんが色ではなくて、白壁と金ピカ仏である。そのバンコックに在ってこのシーロム通りのシバ寺院は孤立して何か異様な雰囲気を辺りに醸し出している。
バンコクのヤワラ通りの中華街を通りすぎると、次はインド人街があるからヒンズー教寺院が在ってもおかしくはない。

正面向かって右側の神殿、即ちビシュヌ神殿の正面から見て左側に 東洋のモナリザは在った。フランスの有名な作家・アンドレ・マルローがそのあまりの美しい魅力にとりつかれて、これを国外(多分フランスだろう)に持ち出そうとして逮捕され、それが「王道」という小説に書かれたと言う。そのことが頭に在って、そんなデバターって一体どんなものだろうという思いが強いために、胃腸がでんぐり変える思いをこらえて、ここまでやって来たのだ。そのモナリザと今出会ったのである。

 彼女は背丈が1メーターに満たないデバターで、顔はふっくらと丸みをおび、謎の微笑を秘めている。胸は豊満で全体的にふわっとした感じで、つられて心がふわっとなった。緊張がほぐれる一瞬だ。1人の彫刻家の魂にふれて、僕の心は緊張感から解放された。
僕はいろいろ角度を変えて、出来るだけ多くの方向から眺めるように努めた。彼女は正面を向いているのではなく、首を少しだけ右に振って、物静かに何かを考え事でもしているかのようであった。聡明そうな上品な顔立ちと、高貴な姿態が僕を魅了した。このとき僕はこの世から離れた別の世界の住人だった。忘我、そう、忘我の世界にいたのだ。

 よかった。あの悪路を乗り越えて、ここまでやって来た甲斐があるというものだ。僕はつくづくそう思った。
この芸術作品にはきっと1人の彫刻家の思いが込められているのだろう。どう考えても、共同作業とは思えない。もし何人かの彫刻家が集まって、共同作業の結果、此の神像を作ったとすれば、どこかに作家の顔の端くれが見えるはずである。
 我々の知るモナリザは絵画であるのに対し、東洋のモナリザは浮き彫りの彫刻である。立体感がある分素人に対しては迫力が在る。彼女は1000年の間微笑み続けた。これからもこの遺跡がこの地上から消えてなくならない限り、ここにこうして鎮座して、
訪問する人に微笑みかけることだろう。こんなすばらしい作品が、ポルポト一派の破壊の手を免れて、ようこそ昔のままの姿で、ここにこうして在ったものだと安堵の息がもれた。
審美に関しては東洋、西洋の別なく、人間であれば美しいものはあくまで美しいのであって理屈はいらない。

ところで此のモデルは一体誰だったんだろう。きっとなにがしかのモデルがあったはずである。これだけの顔つきからすると、そこらそんじょの女性ではあるまい。王妃か、王女か、位の高い女官か、いや作者の永遠の恋人か、作者が祈る女神像だったのか、僕には全くの架空の人物とはおもえない。 西洋人のマルローも東洋人の僕も共にこの像が放つ魅惑の虜になっている。この虜の思いが強すぎて、マルローは国外持ち出しを決意した。それに対して僕は此の神像だけを切り離すよりは、此の壁全体を構成する1つの部分として保存した方がより高い価値を生み出すように思える。

余計な事ながら、顔に注目した人は顔だけを切り離して、持っていこうとするのだろうか。顔の部分だけが無くなっているデバター像はたくさんある。もし今完全な形で保存されていたら、ひょっとしたら僕の目の前に在る此の像よりも、もっと優れた芸術作品が在ったかも知れない。もしそうだとすれば、盗難や破壊から此の遺産を守るために、遺跡保存係の警官を配置する必要がある。此の像や装飾品の価値が判らず削ったり、切り取ったりして持ち帰ろうとする連中や、価値が判りすぎて、我がものにしたいというつよい欲望を持つ両極端の人間の思いから、此の人類共通の芸術作品遺産を守らなくてはならないと思った。 

 恥も外聞も気にしないで、僕はこの東洋のモナリザの横に顔をよせて記念撮影した。僕と同じような思いの人だろうか、僕と同じような事をする外人がいた。写真のシャッターを押してあげると、メルシボクーという謝辞が返ってきた。
そう言えば、ここはフランスが植民地にしていたところだ。この寺院を丸ごと本国に持って帰ったところで、大した金はかからなかった筈である。でもフランスは大して保存もしなかった代わりに、持ち出しもしなかった。文化遺産というものは、そこの場所にあって初めて真の値打ちをだすものだと考えたのであろうか。その辺がイギリスのやり方と違う。ロゼッタストーンだってイギリスはエジプトからちゃんと持ち返っている。

それは外国の宝物をうばって持ち帰るという考えのほかに、世界人類の遺産として王者イギリスが完璧な保存をして、人類遺産を守るという決意としての行動だったのだろうか。
確かにアンコールワットという壮大な建造物には、発見以後手を加えているが、このような小さなデバターに目をくれたという話は聞かない。マルローがいうまで、気が付かなかったのか、それとも価値を見いだせなかったのか、はたまたこの程度のものは無視したのか。
 誰か物の値打ちの判る有名人がそれについて何かをかいてくれれば、それが人目を引くことになり、より多くの人が関心を持つようになる。現に僕だってマルロー逮捕という話は決して見逃すわけには行かない。逮捕という犯罪を犯してまで、この著名な作家が手に入れたかった神像彫刻作品とはどんなものかと関心が集まるのは当然である。見方を変えれば偉大なる宣伝だ。

もし彼のこの事件がなかって、ここに黙ってそのまま鎮座していたら、このように有名にはならなかった筈だ。なぜならアンコールワットを初め、カンボジャの遺跡群には数え切れないほどのデバターが在るからである。一つひとつ丁寧に踏査する専門家がいてもいいくらいだ。しかし今のカンボジャは往年の王国とは比べものにならないほど落ちぶれて国力はなく、往時との国力の差があり過ぎる。現在のカンボジャの国力では、現状保存さえままならない。精々破壊や汚損を防いだり、自然崩壊を防ぐ手当が出来るくらいのことである。この地方に在る膨大な石像遺跡群を守ることは負担が大きすぎるだろう。世界遺産だというなら、世界がまもる手立てを講じる必要があると思った。カンボジャはさしたる工業がなく、特産もなく、今まで通り当面は農業を続けるしかあるまい。それはそうとして、偉大な先祖がのこしてくれた、これらの遺跡を観光資源として活用して観光立国を目指したらどうか。僕はこんな余計なことまで考えた。

ところで、もし僕に東洋のモナリザを選べと、お声がかかったら僕は自分の美的感覚で、今目の前にある物とは違ったデバターを選んだだろう。僕には心に決めた楚々とした僕好みの美人デバターがある。それはちゃんとカメラに収めて自宅で焼き増しが出来るようにしてある。今後はアンコール遺跡群を自分なりの東洋のモナリザ探しに歩いてみるのも面白いと思った。