路隘庵日剰

中年や暮れ方近くの後方凡走

そのかみの水辺のひとの夏帽子

2013年05月04日 | Weblog


 二人で昨日今日と町歩き。ゴールデンウイークだな。
 やや寒いが晴天。聖五月。
 それでやっぱり古本市に入ってしまう。


                    


 レジのところで、今回の主宰者のかたに「毎日来ていただいて・・・」と声をかけられる。
 昔、「忍者部隊月光」というのがあって、まあ今の戦隊モノの原型みたいなやつかな。その隊員の中にいたんじゃないかな、という名前の古書店さんが今回の主宰者のオジサンらしいのだけれど、ワシはその方がかつて、高くて遠い村でお店を出されていたときに二回ほど行ったことがある。なかなかシブい品揃えのお店だったけれど。
 で今回、いくつか出店されている棚の中で、その方の棚がどうも圧倒的にシブい。というか求心力抜群の並び。ウウ、吸い込まれるゥ、みたいな並び。実のところ毎日眺めてシブすぎて手が出ない。なんというか、ちょっとこちらが試されているというか、そこに手を入れると魔界の結界が崩れますぜ、みたいな。(あいかわらずよくワカランな、われながら。)
 というわけで、その結界に手を入れられるか、明日も行くのではあるまいか。


                     


 昔、「安曇野」は本来「安曇平」で、安曇野とフツウに言われるようになったのは、臼井吉見「安曇野」以降だという話を聞いたか読んだかした記憶があって、はたしてホントかウソか知らないが、ともかく、岡茂雄『炉辺山話』(実業之日本社 昭和五十年)では専ら「安曇平」であった。
 岡茂雄については以前このブログで書いたな。
 
 松本駅を降りて正面にまっすぐ続く道の突き当りが県の森で、その背後に地元では東山とも呼ばれる魁偉な山が聳えている。その山は戦前は「王ヶ鼻」と呼ばれていた、と『炉辺山話』にある。確かに松本で戦前を過ごしたワシの親父も王ヶ鼻(オウガァナ)と言っていた。それがいつのまにか戦後の地理院の地図からは「王ヶ頭」(オウガトウ)になってしまっている、と岡茂雄は書いている。
 へえ、そうなんだ。
 でもそんなのはまだいいほうで、今や「王ヶ鼻」でも「王ヶ頭」でもなく、「美ヶ原」だもんなあ。おそらく高度経済成長期に誰かがシャレたつもりでこんな薄っぺらな書割みたいな名前をつけたんだろう。同じ頃農業用人造溜池に白樺湖とか女神湖とか名づけたみたいに。
 とワシはずっと思っていた。
 ところが、前述に続いて岡茂雄の「詮索」によれば、すでに元禄期から「美ヶ原」の呼称はあり、むしろ幕末以降「美ヶ原」がすたれて「王ヶ鼻」になり、大正中期に再度「美ヶ原」が復活してくるのだという。
 ね、世の中知らないことがいっぱいだね。

 というような話を謙虚な文章で惜しむように読んだ。
 ゴールデンウイークに岡茂雄の文徳。

 で、ついでにもう一冊、古本市で買ってきた池内紀『街が消えた!』(新潮社 1992)こちらも街歩き小説の連作。
 だけどなあ。
 スンマセン。ウンチクがカチすぎて、どうも・・・。



書肆出でて湖へゆく道紅満ちぬ

2013年05月04日 | Weblog


 古本市、補充があるかと思ったがそれほどでもなかった。さすがに初日を過ぎると狩場も荒れる。セドリ屋らしきが通った跡も。

 林虎雄『過ぎて来た道』(甲陽書房 昭和56年)
 林は明治35年下諏訪生まれ。幼少期父の事業失敗で中学進学を断念、働きながら青年団運動に加わり、日本大衆党、社会大衆党、日本社会党と無産政党を経る。その間、上諏訪町議を振り出しに、長野県議、上諏訪町助役、衆議院議員を経て、昭和22年長野県知事に。以後3期12年を社会党籍のまま務める。以後参議院議員2期。(かつてタナカ某が長野県知事になるとき、東京マスコミはさかんに長野県では戦後ずっと官僚天下り知事が・・・、と報道し続けワシは腹を立てていたわけでありますが。)
 そのひとの自叙伝。
 自伝の例に洩れず、半ば以降功なり名を上げてからはつまらない。やはり前半若い頃が面白い。大正デモクラシー下の青年団運動や小作争議での騒擾など。上諏訪の助役のときに市への昇格をはかって隣村を合併、それでも規定の人口3万人に僅かに足りず、急遽競馬大会を開催してその入場者をカウントして申請した、とか古きよき・・・みたいな話だ。

知事になって以降は戦後のこととて食糧増産とか失対関係とか。高度成長寸前までだから専ら農業を基幹とした地方施策が中心だな。面白いのは昭和23年、県庁別館の火災焼失をきっかけにおこった分県論。(こんとき分県しときゃよかったんだよ。)

 いずれにしても、往時の社会党の勢威をおもうばかり。社会党出身の地方政治家がどんどん(民間を含めて)理事者になっていった時代。(林のあとの知事の西澤権一郎だって社会党推薦での立候補である。)
 

                     


 というわけだけれど、信州社会党の人物でひとり、といえばやっぱり「参議院の良心」羽生三七か。
 石川真澄『ある社会主義者 羽生三七の歩いた道』(朝日新聞社 1982)という好著がありますが、参議院議員5期三十年、その間、①派閥に属さず、②特定労組と結ばず、③後援会はつくらない、という三原則を堅持し、夜の宴席には絶対に出ない、を貫き通した人物と、その人物をすべての選挙でトップ当選させた有権者が存在していたわけであります。

  沈丁花が一株あり日本社会党に与す   中塚一碧楼

 そんな時代があったわけであります。