路隘庵日剰

中年や暮れ方近くの後方凡走

書肆出でて湖へゆく道紅満ちぬ

2013年05月04日 | Weblog


 古本市、補充があるかと思ったがそれほどでもなかった。さすがに初日を過ぎると狩場も荒れる。セドリ屋らしきが通った跡も。

 林虎雄『過ぎて来た道』(甲陽書房 昭和56年)
 林は明治35年下諏訪生まれ。幼少期父の事業失敗で中学進学を断念、働きながら青年団運動に加わり、日本大衆党、社会大衆党、日本社会党と無産政党を経る。その間、上諏訪町議を振り出しに、長野県議、上諏訪町助役、衆議院議員を経て、昭和22年長野県知事に。以後3期12年を社会党籍のまま務める。以後参議院議員2期。(かつてタナカ某が長野県知事になるとき、東京マスコミはさかんに長野県では戦後ずっと官僚天下り知事が・・・、と報道し続けワシは腹を立てていたわけでありますが。)
 そのひとの自叙伝。
 自伝の例に洩れず、半ば以降功なり名を上げてからはつまらない。やはり前半若い頃が面白い。大正デモクラシー下の青年団運動や小作争議での騒擾など。上諏訪の助役のときに市への昇格をはかって隣村を合併、それでも規定の人口3万人に僅かに足りず、急遽競馬大会を開催してその入場者をカウントして申請した、とか古きよき・・・みたいな話だ。

知事になって以降は戦後のこととて食糧増産とか失対関係とか。高度成長寸前までだから専ら農業を基幹とした地方施策が中心だな。面白いのは昭和23年、県庁別館の火災焼失をきっかけにおこった分県論。(こんとき分県しときゃよかったんだよ。)

 いずれにしても、往時の社会党の勢威をおもうばかり。社会党出身の地方政治家がどんどん(民間を含めて)理事者になっていった時代。(林のあとの知事の西澤権一郎だって社会党推薦での立候補である。)
 

                     


 というわけだけれど、信州社会党の人物でひとり、といえばやっぱり「参議院の良心」羽生三七か。
 石川真澄『ある社会主義者 羽生三七の歩いた道』(朝日新聞社 1982)という好著がありますが、参議院議員5期三十年、その間、①派閥に属さず、②特定労組と結ばず、③後援会はつくらない、という三原則を堅持し、夜の宴席には絶対に出ない、を貫き通した人物と、その人物をすべての選挙でトップ当選させた有権者が存在していたわけであります。

  沈丁花が一株あり日本社会党に与す   中塚一碧楼

 そんな時代があったわけであります。


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