毎朝トイレにストーブ入れて水を通さねばならぬ。便利は不便である。
地上はスケートできるくらいにカチカチに凍ってしまった。そのうち転倒して頭打たねばいいが。
週末から確定申告ボツボツとやって、すぐに嫌になるから横になって本でも読む。何か軽いもので章立ての細かいもの、ということで、森銑三『思い出すことども』(中公文庫 1990)取り出してきてポツポツ読む。
著作集の月報に書いたものをまとめたもので、各章が短いからちょうどよい。確定申告やんなって、ゴロリと横になって一章か二章読み、また勇気を出して数字を書いて、そんでまた横になって一,二章読む。そのうちに眠くなってうたた寝する。
結局殆ど進まない。
というわけだけれども、『思い出すことども』自体はけっして軽い読み物ではない。軽く書き流しているようだけれど底には自恃と自負の強烈な思いが奔流となっている。
ここにも学歴に頼らず徒手空拳で学問の世界に生きてきた明治人がいるわけだ。
東大史料編纂所の雇員として、あからさまな差別と闘いながら独行して学問する人物の気迫と、同じような身分の者への共感と、学歴あって無能な人物への静かな怒りと。
そしてやっぱり出会いだよなあ。いつのまにか彼の周囲にいて彼を励ます人たちの存在というか、出会いを呼ぶのはやっぱり本人の人間にあるという当たり前なことども。
柴田宵曲はじめ縁の下にいることを好む実力者たちは、かつてのこの国の良質な知性を支えていたわけだ。
まあ、なんだかよくわからん感想になったが、これから気をつけてこの人のものを探すことにしよう。
それにしても、かつての中公文庫の良質と現在のそれのテイタラクよ、ということであります。