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酒の感想ばかり

「遠い山なみの光」 カズオ・イシグロ

2016-04-12 23:33:19 | 読書
買ってからほぼ一年経った。面白いのか面白くないのか?全く想像もつかないまま読み始めた。丁度、スティーヴ・エリクソンの  「Xのアーチ」を読み終え、次に、レオ・ぺルッツの「聖ぺテロの雪」を読み始めていたが、出張の日が重なり、持ち運びに楽な文庫で何かないか蔵書から探していたら、買ったまま未読のこの作品が抜擢されたのだ。
さて読んでみると、これが面白い。何てことはない会話が進む。しかし登場人物それぞれが何か秘密を隠し持ったような、後ろめたさを持ちつつ、それを恥じて虚勢を張るような会話が続く。
時代背景が似ているのか、小学生の時に教材で使用した物語、それは1945年の広島が舞台で、教科書ではなくどこからかの抜粋で藁半紙に印刷されたものだったが、その雰囲気を思い出させる。ちょっと気になったので、その物語は誰の何という小説だったのか探してみた。しかし全くわからない。呉という地名が出てきて、小学生ながらにそれが印象に残っている。何の因果か後年、20代の時に仕事で呉と関わることになった。そんなのもあり、この小学生の時に、ほぼイレギュラーで使った教材の呉が出てくる作品は何だったのか気になって調べてみるが、わからない。可能性としては、松谷みよ子、壺井栄、今西祐行なのだが、女性作家だったような気もするし、今西祐行という名前も記憶にある。しかしそれは別の話だったかもしれない。いずれにしても30年以上前で藁半紙だからちょっと難航する。
女たちの、幻想的なやり取り。
次は、緒方さんと二郎という親子の対話。親は自分の考えが基本となり、息子という次の世代の考えが気に入らない。親は懐古主義に浸り、息子はそんな古い考えに違和感を感じる。自分に置き換えると、この二郎が自分の親の世代になるだろう。多分、二郎の世代からすると自分の世代は歯がゆい気持ちだろう。さらには、自分は、次の世代に対してはがゆいおもいをすることもある。良くない傾向と思う自分があるが、前世代からすると現世代のことは受け入れられない。自分の時代は良かった、次世代は悪くなったと憂う。それがつぎのせだいにもつづく。つまり、世代を追うごとに悪化しているということだ。太古が最高の時代で、現代は最悪の時代なのか?そして自分の子ども、孫の世代はさらに最悪な世界になるのか?
東京にいた時の出来事。p103。万里子が目撃する。赤ん坊を海に沈めて息を止める女性を。目が合った万里子に対してその女性は、苦笑いをする。幼い万里子には、その状況が漠然としかわからない。悲惨なことが行われているにもかかわらず。
それから万里子はその女と思われる人物の幻を見ることになる。
東京から長崎へ引っ越す時に飼っていた猫が逃げてしまった。と万里子から聞かされる。佐知子は連れて行ってもいいと言っていたのに、前日にいなくなったという。その猫は賢くて、蜘蛛を捕まえて食べてくれた。それを思い出し万里子は蜘蛛を捕まえて口に入れようとするが、必死に悦子は止めようとするが自分の膝に蜘蛛が落ちしばし呆然とする。気を取り直した時には、万里子はいなくなっていた。川のほとりを探していると万里子はいたが、その途中で足に縄が引っかかり、外した縄を手に持っていた。その縄をみて万里子は怯える。ここで縄と首を吊るというイメージを想起させる。
佐知子はフランクと追うアメリカ人と付き合い始めていたが、そのアメリカ人は飲んだくれで金をすべて酒につぎ込んでしまう。挙げ句の果てには一緒にアメリカへいく約束までしてながら、反故にしてしまう。それでアメリカ行きは諦め、未練は残しつつ、また叔父の家に世話になることを決めた。
景子の自殺した下宿の主人が、ドアを開けて発見した時のことを想像し、悦子はかつて景子のいた部屋のドアの前に立つ。何かが動く気配を感じる。つまり自分がその主人の立場になったかのような幻覚を覚えるのだ。もしかしてこの扉の向こうで、いま首を吊ろうとしているのではないかと。この幻覚はこのあとも度々出てくる。
ニキはここ数日よく眠れないともらす。悪夢をみるからだと言う。どんな悪夢かははっきりしていないが、悪夢と言うことしかわからない。同様に母の悦子も夢をみると言う。昼間公園で見たブランコに乗っていた少女の夢だ。その少女は万里子を連想させる。そして第一部の最後で、実はブランコに乗っていたのではなかったのではないかと言う。と、そこまでしか書かれてないが、実は首を吊っていたのではないかということを連想させる。
ある日、夫の二郎と義父の緒方さんが将棋の勝負の決着を巡ってケンカとなる。将棋の勝負ではあるが本質は、古い考えの世代と新しい考えの世代の衝突だったのだ。完全に古い考えの世代がやり込められた結果となる。翌朝二郎は大事な会議ということで、ここ一番の時に着用する黒いネクタイを探したが、ついに見つからず、やむなく別のネクタイで出勤して行った。緒方さんはまだ起きてこない。悦子は起こすつもりはないが、ここでまた消えたネクタイと、襖の向こうの物音一つしない描写から、また襖の奥で何かよくないことが起こっていないかと読者を不安にさせる。
佐知子は叔父の家に引っ越そうとしない。フランクとよりを戻し、フランクはアメリカに先に帰り、職を探し、それまで神戸で住むことにしたという。結局アメリカに呼んでもらえないかもしれないと不安ではあるが、賭けてみようとする。猫はやはり連れていけない、読者からすると残酷に思えるのだが、佐知子は猫のことよりこれからの生活が大切だと、川で猫を溺れさせてしまう。つまり、東京から長崎へ引っ越しした時に、猫が逃げてしまったという、その事情がここで明らかになるのだ。
首つりを連想させる、「縄」や「どうしても見つからないネクタイ」といったアイテム。恵子の自殺を第一発見した下宿の女主人に同化したかのような「その奥では、物音のしない、しかし何かの気配を感じる」扉の前にたたずむ場面。ブランコに揺られる少女が、そのうちにブランコではなく、木につるされたイメージへと変わる。赤ん坊を川に沈めた後自殺する母親と、新しい生活にかけるため子猫を川に沈める佐知子との対比。佐知子と真理子の母娘関係と悦子と景子の母娘関係の相似(よく似ているが同じではない)。こういったアイテム、イメージ、人間関係が少しずつ浸食し合って確固とした現実感がなく白昼夢を見るような感覚に陥るのだ。怪奇小説とすら思わせられる場面でもある。
いろんな人の感想でもあるが、稲佐山に上ったあの日が一番幸せだった。つまり景子はまだおなかの中にいたころの話だ。しかし、話の最後で悦子の「景子もあの時が一番幸せだった」というセリフに驚く。そして意味を考えやりきれない気持ちになる。つまり生きている間一度も幸せな時はなかったということだ。何という悲しさだ。またカズオ・イシグロにしてやられた。
 

20160403読み始め
20160412読了

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