モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

初期「私小説」論――宇野浩二(1)宇野文学における“語り”の特徴

2024年06月13日 | 初期「私小説」論
例によって、宇野浩二における“敗残の意識”の有る無しを確認するところからはじめましょう。
と言いつつも、宇野の場合の敗残の意識について、これといった明確に指摘できるものを見出すことは出来ませんでした。
少なくとも葛西善蔵や近松秋江に見出しえたような、日本近代における家父長制度の中での敗残意識は、宇野の中では抽出することができません。
宇野は幼少時に父親を亡くして母親一人の手で育てられ、また兄弟関係においては長兄が知的なハンデーを負っていて、宇野は弟の立場ながらこの兄に対していたわりの心持ちで接していたようです。
つまり父親からの抑圧や、長兄ではないことによる家族の中での余計者の意識を持たされることもなく、いわばのびのびと育っていったことが想像されます。

この意味で宇野には“敗残の意識”は無かったか、あっても極く薄かったように思われ、むしろ逆に、社会的弱者へのシンパシーが小説作品の中でもそこはかとなく漂っているように感じられます。
たとえば、配偶者を失った母親とともに親戚筋の庇護を受ける境遇の中で、その家の家父長制度的な倫理観のもとにいじめられる母親を目の当たりに見て、その記憶をのちのちまで強く残していたり、知的ハンデーを有する兄に寄り添って面倒をみたりしている。
また、宇野を一躍流行作家にのし上げた出世作『苦の世界』に描かれている、貧窮生活のなかでヒステリー症状の女性(同居者)に苦しまされながらも、病気に苦しむ女性を憐れむ心を持ち続けるようなところに、社会的弱者の立場に同情を寄せる宇野の人柄が実感されるわけです。



貧窮を極めた生活の中で受けるさまざまな苦しみにもかかわらず、宇野の心の様態はどこかのびやかであり、ちょっととぼけたような心情をもって逆境に対していたというイメージがあります。
俗に言う「ええとこの子」の屈託のなさとでしょうか。
そのような心の余裕というか、心が傷んでも自らを癒して立ち直っていく作用は、宇野の先天的な能力ともいえる“語り”の実践の中で獲得されていったようです。
その語りの能力が小説の創作において遺憾なく発揮されたわけですが、現実にも宇野はしゃべりだすと途切れることなくしゃべり続け、しかも聞く人間を飽きさせることがなかったと伝えられています。

宇野文学の最大の特徴はその“語り”の妙というところにあります。
その語りはあることないことすべてひっくるめてのべつまくなしの印象があり、虚と実の境を消し去って(あるいは現実の中に夢を潜ませるような)混沌とした流れを作り出していきます。
あらゆる事象がその語りの中に取り込まれていくように感じられるのですが、そこは冷静に仔細を観察してみると、「あらゆる事象」という表現は宇野の語りの特徴をかえって不分明にするようにも思えてきました。

そこで宇野の語りの特徴についてつらつらと考えていったところ、以下のようなことが指摘できるのではないかという気がしてきました。
1.「空間を語る」ことに一方ならぬ関心を注いでいる。
2.空間を時間の秩序の中に溶かし込んでいく。
3.描写的であるが分析的ではない。
4.現象を語ることに徹して、構造は語らない。
5.視野は流動的(ノマド的)であって定住的でない。
6.無目的な行動を反覆的に語る(『蔵の中』はその代表的な作例)。












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