モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

ヘーゲルーー「“観照”の近代哲学版」という読み方

2020年05月08日 | 「‶見ること″の優位」

西洋近世の哲学史に入りますと、観照・観想といった言葉はあまり見かけなくなります。
ここでの大きな流れとしては、意識のはたらきとか思惟とかの分析から
キリスト教神学の枠組みを取り去っていくプロセスが読み取れますが、
そういう流れの中にも、革新的な方向に思考を推し進めていく在り方と、
哲学の伝統的な枠組みを継承していこうとする在り方とがあります。
たとえば18世紀のドイツの哲学者イマニュエル・カントなどは、
近世を抜けて近代への扉を開いていった生粋の革命児とみることができます。
他方、ドイツ観念論の大成者というべきG・W・F・ヘーゲルの場合、その哲学体系の組み立て方には、
アリストテレスやプロティノス(新プラトン主義)などの古典哲学の枠組みを下敷きにしているようなところがうかがえて、
伝統的というか、西洋哲学史のメインストリームにのっとっているという印象があります。
そのように見ると、“観照・観想”という言葉は直接的には出てこないけれども、
意識のはたらきや思惟の発展過程を記述していくに当たって、
“観照”という人間の精神活動のイメージとして読み取っていくことも可能かなと思われます。

ヘーゲルの最初の大著である『精神現象学』の場合で見ると、
まず全体の構成というのが、意識あるいは精神の発展過程を、“感覚的確信”から始まって
“知覚作用”→“悟性による〈一般者としての物〉の認識”→“自己意識”→“理性による〈世界〉の認識”そして“精神”へと至る運動として捉えているのは、
プロティノスにおける“観照”のはたらきが、“自然”→“魂”→“知性”→“一者”
といったステップを踏んでいくイメージを下敷きにしているように感じられますし、
またその各段階で主体的なものと客体的なものが分離している状態があって、
それが統合されていくという運動のイメージは、ヘーゲルにおいては、
「真を把捉しながら、同時に真なるものの外に出て、再び自己に帰ってくる(反照する)」
という意識の運動(いわゆる“弁証法”)に翻案されているとみなすことができます。
ヘーゲルという人は、人間の心の二律背反的な在り様(矛盾する要素が並存して葛藤を演じる)に関心を向けていたようで、
『精神現象学』はそのような自らの心の観察から得てきたものを、伝統的な哲学の方法を借りて精緻を尽くして描写し、
そこから近代的な知見を豊かに生み出していったわけです。



同書の中で「見る」「眺める」という言葉が重要な意味を持って使われている文を1、2引用しておきます。

「そこでわれわれが、知を概念と呼び、実在つまり真を、存在するものまたは対象と呼ぶとすれば、吟味するとは、概念が対象に一致するかどうかを、見るということである。だが、われわれが実在もしくは対象の自体を概念と呼び、これに対し対象という言葉で、対象としての対象、つまり他者にとって在るものを呼ぶとすれば、吟味するとは、対象がその概念に一致するかどうかを、見ることとなる。」(「緒論」)

「意識が自己自身を吟味するのであるから、この側面から言っても、われわれはただ純粋に見ていればいいことになる。というのも、意識は一方では対象の意識であり、他方では自己自身の意識であるからである。つまり、意識は、意識にとって真であるものの意識であると同時に、その真についての己れの知の意識でもあるからである。」(「緒論」)

「物のこのような真の本質が規定されている姿は、物が意識に対して直接在ることではなく、意識が、内面のものに間接的に関係していることであり、悟性として、二つの力のたわむれを通して、物の真の背景に眺め入ることである。」(「力と悟性、現象と超感覚的世界」)

「理性」の項では、理性の主なはたらきを「観察すること」と捉えて、冒頭に次のような文に出会います。

「理性が目指しているのは、真理を知ることであり、思い込みや知覚にとって物であるものを、概念として見つけることである。すなわち、理性は物の姿のなかに、自分自身についての意識だけをえようとするのである。だから理性は、世界のうちの現在をもち、現在が理性的であるという確信なのだから、いまは、世界に対し一般的な関心をもつことになる。理性は、物において自己自身以外には、何ももっていないと知った上で、自らの他者を求めている。理性は自己自身の無限性をたずねているにすぎない。」

この文から、私などはアリストテレスの『形而上学』の出だしの「すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する」を連想します。
この意味でも、ヘーゲル哲学の土台にあるものは、西洋の思惟の歴史の中でとてもメインストリーム的に感じられます。
ヘーゲルの哲学は、ある意味では西洋的“観照”の近代哲学的表現と言えなくもないのではないでしょうか。

コメント
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