モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

「気」について

2009年01月31日 | 気をめぐる物語
「かたち21」のHP




堀内亜理子作「塗り箸」より


北海道旭川市で漆塗りの制作をしている堀内亜理子さん(1月11日の記事参照)に、
「気」ということをどう考えているか訊いてみました。
以下はその堀内さんが送ってくれた回答です。


私が思う「気」。

1 「言葉」や「文字」に置き換えられないもの。
素晴らしい音楽や素晴らしいアートに出会った時、
その感動を言葉にできなかったり、文字にならない時、ありますよね。
あれは、アーティストが言葉や文字を越えたものを表現していると思うのです。
これが「気」のひとつかな、と。
ひょっとするとこれは、「こころ」につながる。


2 「電波」に近いもの。
これを使用する時は、キャッチする側も「気」に対する「意識」が必要です。
パソコンで言うと、お互いに立ち上げている状態、でしょうか。
笹山さんは「ナチュラル」とおっしゃいましたよね。
ナチュラルな状態で「嗚呼、あの人、最近どうしてるかな」とか、フッと思う時、ありますよね。
そういう時、素直に行動してみると、相手も「丁度連絡しようと思っていたのよ!」という事、あります。
あと、手紙が届いたり、ばったり街で遭ったり、感度が良い時は、同時にメールしていたり。
年末年始も「中野さん、あの封筒、開いてくれないかな、開いてくれないかな」って、度々思ってたんです。
結構毎日「気」にしていましたから。
そしたら、「気」付いてくれたのですね。
メール一本すれば良い話なのに、ものぐさで、こんな使い方をして、怒られますね 笑


と、ここまでは私が考えていた事。
そして、このたび、師匠(一番「気」が飛び交いやすい友人)に伺ってみました 笑





堀内亜理子作「塗り箸」より(箸置は林孝子作のガラス製)




師匠が思う「気」。

自分の意志、自分の力、では、どうにもならないもの。
「ただそこに存在しているもの」。
「気」として存在している。
生身の人間の「気」、意志力、ではない。
そうであっても、それを確認する事はできない。
思う先に「気」が走り、決して自分の意志や強弱ではない。

また、「気」にまったく関係していない時間、
「気」の事を全く考えない時期があるけれども、
相手の「気」が強い時はワッッと来てびっくりするそうです。




堀内亜理子作「手鏡」4種



堀内さんの作品はこちらでも




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