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長州大工の心と技 その1 まえがき

愛媛の社寺を訪ねて


「長州大工」とは江戸時代後期(寛政の頃)から明治、大正にかけて山口県(周防国)の周防大島出身の大工が、高知(土佐)、愛媛(伊予)の村々に入り住みつき、神社や寺などの建築に当たってきた、その一群の人々を言います。
周防大島は伊予灘を隔てて愛媛中部に近く、その昔は屋代島あるいは八代と表記された島、このブログの遍路日記の中でも屡々登場してきました。明治以降は、遍路としてお馴染みの中務茂兵衛、またあの民俗学者宮本常一の出身地としても知られます。

長州大工が四国の地に建て現存する建築物の数は、社寺だけでなく住宅等も含め棟数をカウントすると愛媛県で約85、高知県で180以上と言われます。その所在地は、愛媛県では中伊予地域に、高知県では県境を経て中伊予に繋がる山間地(仁淀川町(旧・池川町、仁淀村、吾川村など)近辺)に偏在しています。特に明治の初め頃までの社寺建築については高知県での棟数が圧倒的な割合を占めています。
長州大工の活動の場が限定されていたこともあり、四国遍路の札所寺との重なりは少なく、番外十夜ケ橋永徳寺大師堂、55番南光坊大師堂、番外西山興隆寺仁王門といったところ。遍路道沿いの神社としては、久万高原町下畑野川の住吉神社、内子町大瀬の炷森(とぼしがもり)三島神社を数え得る程度。

その長州大工の集団を率いた中心的人物の流れを辿ってみます。まず江戸時代の寛政・文化期に土佐奥地で活動した吉門藤次郎。この人の先祖は土佐の宮大工であったと言われ、このことが土佐での仕事に有利に働いたとされています。その弟子門井友助。(当初は吉門姓を名乗った。)その子、浅次郎。明治に入り、浅次郎の弟子とも言われる吉金庄次郎、浅次郎の子門井宗吉、そしてその弟、友祐。明治の中期以降、門井宗吉・友祐の活動の場所は愛媛県に移ります。(その出発点が永徳寺大師堂であったと。)
それまでの地元の大工のテレトリーのなかに新たに入り込むことは、長州大工にとって大きな困難と苦悩を伴うものであったことは想像に難くなく、そのことが、入魂ともいえる見事な彫刻に飾られる独自の社寺建築を生むことに繋がったであろうとする指摘もあります。
長州大工が残してきた社寺を見ること、それはその眼前の技をみることとともに、弟子へ子へと連綿と伝えられてきたその心意気を感じることでもあると思えます。

私にとって、社寺建築は私が四国遍路を始める以前からの関心事でありました。長州大工が係わったものを含め、社寺建築についてはこのブログの遍路日記の中でも結構拘ってきたつもりです。しかし、遍路道を遠く離れた社寺については訪ねることは困難で、願望でしかありませんでした。
私の体力はもう長く歩くことを許しません。この度、季節外れの台風を挟んだ日程ではありましたが、車の力を借りて長州大工が係わった愛媛県内の社寺15箇所を訪ねることができました。それは長州大工の心意気と技に出会う感動的なものでした。
幕末から大正にかけてほぼ年代に沿って紹介したいと思います。
(参考文献:犬伏武彦ほか「長州大工が遺した社寺建築」愛媛文化双書54(2011年9月))

社寺15箇所の地図





      長州大工の心と技 その2 河崎神社、住吉神社、早虎神社
  長州大工の心と技 その3 永徳寺大師堂、総森三島神社、高森三島神社
  長州大工の心と技 その4 山吹御前神社 炷森三島神社
  長州大工の心と技 その5 永田三島神社、川崎神社
  長州大工の心と技 その6 伊予神社、金毘羅寺
  長州大工の心と技 その7 大須伎神社、南光坊、西山興隆寺 



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