長州大工の心と技 その2 河崎神社、住吉神社、早虎神社

                                                           

最初は土佐に近い久万高原町東南部にある三つの神社です。これ以前の伊予における長州大工の係わりを探れば、東温市滑川の地蔵堂厨子(寛政三年(1791))、砥部市高市の鴨瀧薬師堂(享和二年(1802))、それに「龍澤寺大工」と呼ばれた岡田家が三代に渡って携わった西予市城川町の龍澤寺の諸堂宇をあげることができると言われます。(前記文献より)

河崎神社

河崎神社は四国霊場45番札所岩屋寺の前の道、県道12号を南下、左折した東川にあります。この道さらに進めば国道494号を経て石鎚スカイラインに通ずるルートと言った方がその大体の位置を想像し易いかもしれません。
ちなみに、先の県道12号左折の箇所を右折し500mほどの地点が旧土佐街道が西から東へ交差していた所です。七鳥の集落へ下ってきた道は県道の七鳥下組のバス停の所から面河川へ下ります。今はそこに沈下橋があるのですが、折からの台風増水、橋は水の中のよう。川から杉林の中に消えかかった旧街道が待ち受けているのです。(愛媛の旧街道については谷向夫妻が自らの足で踏査された貴重な記録「四国の古道・里山を歩く」(ブログサイト)があります。)

さて、河崎神社。768年国司越智宿祢玉興に勅して廟舎を定め浮穴郡鎮護の神として祀るという由緒を持ちます。(年代と越智玉興が合わないとも。)惣河内八社大明神とも河前宮と呼ばれたとされ、祭神は五男三女神(ごなんさんじょしん)。神紋「折敷に縮三文字」が飾られます。
長州大工の係わりから言うと、天保五年(1834)の小大工 八城嶌六次良(弘化二年(1845)棟梁 防州大島郡松越住 本田吉蔵直道の棟札もあるとも。)の棟札があるといいます。
「杉ほがよけーおちとるけーきーつけて」、台風で落ちた杉の枝を踏んで森の中の参道を行きます。石段と狛犬、鳥居が見えてきます。両部鳥居です。拝殿から覆屋に囲まれた本殿に至り、この神社が驚くほど立派なものであることに気付かされます。

参道を行く


石段


狛犬


鳥居


拝殿


拝殿内部


拝殿木鼻の猫のような獅子


拝殿木鼻の獅子


拝殿木鼻の獅子と象


拝殿蟇股の笠と蓑


本殿覆屋


本殿


本殿木鼻の獅子と龍、中央に天狗のような顔




住吉神社

久万高原町下畑野川の住吉神社。四国霊場44番札所大宝寺から45番札所岩屋寺への遍路道に沿っており、私も遍路の際何度か立ち寄った記憶があります。
祭神は住吉三神(底筒男命、中筒男命、表筒男命)息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)。
元文16年(1547)上畑野川岩川よりこの地に遷されたと伝えます。本殿は入母屋造・千鳥破風付、向拝を唐破風とした壮麗なもので、飛翼形春日造と呼ばれます。この造りは高殿神社など近隣の神社に影響を与えたと言われます。(高殿神社は大三島の大工による建築。)
住吉神社本殿は、神社沿革誌に「安政二年(1855)周防大島郡平野村住人、棟梁 丸山熊次郎繁則」の記録を持ちます。
木鼻を飾る彫り物などは控え目ですが、本殿の四手先斗拱の通肘木の各段に巻斗と並べるという独特の組物構成を有しています。

住吉神社参道


拝殿を望む


拝殿


拝殿蟇股の龍、何処かで見たような・・


本殿


本殿




早虎神社

早虎神社がある久万高原町柳井川字本村は、久万高原町の中心部より国道33号で南下、面河川沿いの久万高原町柳井川支所の付近よりヘアピンカーブを重ねる細い舗装道を辿った標高560mほどの高地です。本村という字名が示すように、この高地に結構な数の民家が点在しているのです。
東方に目を向ければ、面河川の深い谷を隔てて高知県境の山、中津山(明神山)1541mが間近に迫ります。
本村へ上る道で「何方から・・」の問いに「広島から・・」と答えると「こちらの出身かのー・・」。所縁のない旅人が来ることは滅多にないことなのでしょう。「神社はまだまだ上、杉の枝が落ちとるけーきーつけて」と親切なお言葉。
神社の前は折からの風で落ちた銀杏の絨毯。手水鉢からは水が湧いている。鳥居、二対の狛犬。周りは樹齢500年にも及ぶ杉の森。
この神社には五穀養生神の伝えを持ち、古くは楊井河内五社大明神と号し、推古天皇4年(596)あるいは神亀5年(728)の設立と伝えられます。祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)大山積神、大市日女神、萱野比売神。
石段を上り拝殿の前に立つと、向拝の唐破風の下、兎毛通しの鳳凰、水引虹梁の上の龍の彫物、その全体の流れるような見事な構成に圧倒されます。
拝殿の周囲の壁は新しいアルミサッシがはめ込まれています。この神社は地方祭の中心であったり、結婚式が行われたり・・人々の暮らしの区きりに重要な役割を果たしてきたと聞きます。神社は今も生きています。新しい建材の採用はむしろ喜ぶべきことと思えてきます。
覆堂に覆われた本殿は豊富な彫刻が飾られる一つの世界を造っているようです。向拝柱の木鼻には獅子と龍、脇障子の「鯉と滝」「竹に虎」が彫られます。また、側壁面には司馬温公の説話「瓶割り」、「猩猩と酒甕」が飾られています。
棟札には「安政二年乙六月廿六日 奉上棟早虎五社大明神本社中殿鳥居」「大工棟梁 防州大島郡西方村 吉門浅治郎生勝作 郡御領中 吉門生春」と書かれているといいます。吉門浅治郎とは周防大島の門井家の三代目浅治郎(浅次郎とも書く)のこと。吉門生春はその父門井友助のこと。
安政二年は幕末の1855年。幕末、維新の30年の時を経て愛媛中予地方で多くの社寺建築を残した門井家の四代目、門井宗吉その弟友祐へとその心と技はいかに引き継がれ、いかに変化していったことか。吉門藤次郎、門井友助による土佐山間部の社寺建築、門井宗吉、友祐の明治の愛媛における社寺建築、その結節点としてもこの早虎神社の建築が重要な位置づけにあると言われる所以です。

本村より中津山(明神山)を望む


銀杏


鳥居


手水鉢、水が湧く


狛犬、杉の大樹


石段を上る


拝殿


拝殿の向拝彫刻、折敷に縮三文字の神紋も見える


拝殿内部


本殿


本殿側面、鬼か


脇障子「竹に虎」


脇障子「鯉と滝」


本殿側面、「猩猩と酒甕」


本殿側面、「瓶割り」




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