長州大工の心と技 その6 伊予神社、金毘羅寺

                                                                      
                                                                  

長州大工門井友祐は、明治20年代以降係わってきた神社建築において主としてその彫刻を担当してきたと思われるのですが、自ら棟梁でもあったりあるいは兄門井宗吉の棟梁のもとであったりで、多かれ少なかれ建築の中の彫刻ということを意識せざるをえない状況にあったと思われます。しかし、ここに紹介する二つの社寺では、建築の普請とは一応切り離された立場の彫刻師として参加しているのです。そのことが、門井友祐が納めた彫刻にどのような影響をおよぼしたか・・興味あるところです。

伊予神社

松山に近い松前町神崎にある伊予神社は、第7代孝霊天皇の第三皇子で伊予の国を治める功績の高かった彦狭島命(ひこさしまのみこと)を主祭神とし、愛比売命(えひめのみこと)、伊予津彦命、伊予津姫命さらに孝霊天皇、細姫命、速後神命を配神して祀る延喜式内名神大社です。(彦狭島命は越智氏、河野氏の祖とされる小千命の父)古来より歴代の朝廷の尊崇をうけ、源義経、河野家等が社殿を造営してきたと伝えます。明治29年、かくも格式の高い神社の拝殿改築に際し、彫刻師として門井友祐の名が挙がったのは、当時中山の永田三島神社、川崎神社、佐礼谷の山吹御前神社などの実績が松前にまで伝えられていたためであろうと言われています。
拝殿前拝の木鼻の獅子と獏、大瓶束の飾り付けは神功皇后征韓凱旋、水引虹梁上の蟇股の龍、向拝側面の蟇股の喰合獅子と巣籠鷹。明細記録には彫刻の名称がこのように記されているといいます。その一つ一つをじっくり見て回ります。
喰合獅子は永徳寺大師堂以来のまさに門井のものと感じさせますが、その他の彫刻は極めて立派な重厚さを見せるものの、あの木組みを飛び出してゆくような奔放な躍動感は何処か抑制されていると感じたのは私だけでしょうか。

伊予神社境内へ


拝殿


拝殿前拝部


拝殿木鼻の獏と獅子


拝殿木鼻の獅子


大瓶束の彫刻、水引虹梁上の蟇股の龍


喰合獅子


拝殿内部


本殿





金毘羅寺

金毘羅寺は松山の東、旧讃岐街道(現国道11号)に近い東温市河之内にあります。隣接する惣河内神社と合わせ広大な鎮守の森を有する大寺です。
平安時代の長寛年間(1163~5)の創立、称明寺と称したが、慶長年間、藩主加藤喜明により松尾山金毘羅寺と改められたと伝えます。寺名が示すように金毘羅大権現を本尊とし、今は真言宗豊山派に属します。近年は1981年に創設された伊予十三仏霊場の結願寺ともなっています。(伊予十三仏霊場には、浄土寺、太山寺、西林寺、八坂寺と四つの四国八十八霊場を含んでいます。)
寺ではありますが、全体の雰囲気は神社であり、拝殿、本殿の配置をそのまま維持し、仏殿と呼ばれる本殿は二重塔の様な形態とし神仏分離を実証しようとしたようにも感じられます。明治29年の拝殿、仏殿の再建に際し、拝殿の彫刻師として門井友祐が参加しています。
拝殿の前拝、水引虹梁上の龍、向拝柱の牡丹に唐獅子あるいは波に蓑亀?の籠彫り、拝殿周囲の欄間を飾る植物の透し彫り。これらは門井友祐のこれまでの仕事には見られない手法が含まれていると言われます。一方で、これらの彫刻は建物に対して控え目であり、独立した彫刻作品のように見えるとの評を生んでいるようです。

この金毘羅寺の彫刻を見て、私は同じ金毘羅大権現を本尊とする箸蔵寺(徳島県三好市池田町)の本殿を思い起こしたものでした。幕末に建てられたとされる箸蔵寺本殿、門井友祐もきっと目にしたことと思われます。その本殿を圧倒するような独特の彫刻を門井友祐はどう見たのでしょうか・・大変興味が湧くことです。参考に箸蔵寺の写真も加えておきます。

石段と仁王門


拝殿


拝殿前拝


拝殿前拝の龍


拝殿木鼻の籠彫り


拝殿木鼻の籠彫り


拝殿木鼻の籠彫り


拝殿前間


本殿(仏殿)


石段を下る



(参考)箸蔵寺本殿の彫刻


(参考)箸蔵寺本殿の彫刻


(参考)箸蔵寺本殿の木組み






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