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鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

オスプレイと陸自ヘリの墜落

2023-12-08 20:49:13 | 災害

米空軍の輸送機オスプレイ一機が屋久島の近海に墜落事故を起こして今日で9日、米軍は搭乗していた8名のうち6名が死亡収容されたことと、残り未発見の2名についても彼らの名前と所属および役職を明らかにした。

それによると実に若い人たちだ。最も若いのが最初に発見された24歳の軍曹で、あとは25歳、32歳が3名、33歳、34歳、36歳となっている。士官や医官もいる。所属先は横田基地と嘉手納基地である。

そもそもオスプレイは開発途上から事故の多い機体で、これまでに総数50名ほどが事故死しているそうだが、今回の一度に8名の事故死は最悪だそうだ。

米軍は今度の事故原因について詳細は公表していないが、飛行中の彼らの操作ミスではないことには言及している。おそらく機体の不具合(プロペラがヘリ仕様の回転翼に変換する際のギアの不具合)によるものだろうと示唆している。

(※米軍が引き揚げた残骸についても遺体についても、日本人から隠すよう(秘密裡)に持ち去ったのだが、彼らの氏名と所属先などを公表したことは彼らの操作ミスではなかったということを、米国民に知らせ、関係者の失望感を和らげようとする「情報戦略」なのだろう。)

今日(12月8日)の新聞でいつもと違うのは、例年太平洋戦争の開戦ということでそれに関する多くの記事が載せられるのだが、今朝はほとんど鳴りを潜め、一面にはでかでかと日本の米軍基地にあるオスプレイはすべて飛行停止になったとあった。

全国の米軍基地には約450機のオスプレイが配属されているらしいが、今度の日本国内での事故死は初めてである。

陸上自衛隊にも40機ばかりが導入されており、今後同じような不具合が起きる可能性は大だ。

 

実は今度のような軍機による大量死事故は、今年の4月にもあった。

陸上自衛隊のヘリコプターが宮古島の隣りの池間島近海で墜落し、九州の陸上自衛隊第8師団長の坂本という人が亡くなっている。同乗の10名全員が死亡し、坂本氏をはじめ8名が幹部だったというから衝撃的な事故であった。

宮古島の自衛隊基地を飛び立ち、島伝いに海岸線を視察している最中の事故で、師団長の坂本氏は就任したばかりだった。墜落した機体を含め同型のヘリコプターは比較的最近に整備を終えており不具合は無かったということで、原因究明は難航している。

10名のうち引き上げられたのは半分の5名に過ぎず、海上事故救援の難しさを浮き彫りにした。

(※2年前だったか、北海道の知床遊覧船の転覆で20数名が遭難したが、やはりいまだに行方不明者がいることでよく分かる。)

これが戦時の撃墜だったら、海に落ちる前に機体も遺体もバラバラになり引き上げどころの話ではなくなるだろう。何にしても戦争はやってはいけない。

 

 


見頃になった紅葉(202312.07)

2023-12-07 14:51:05 | おおすみの風景

今朝は曇りというかカスミがかかったような空模様だった。

昨日の夕方の天気予報で、大陸からの黄砂の飛散状況が示されていたから、おそらく黄砂だろう。

外に出ると西風が強い。毎秒10mはあるに違いない。大陸で発生した高気圧の気流の流れに乗ってゴビ砂漠から巻き上げられてやって来る黄砂は、冬の到来を告げる風物詩だ。

同じ大陸から到来するPM2.5は化学物質の塊だそうだから、これと比べれば何ということもない。ただ、洗濯物がほんの少し汚れるくらいだ。

風物詩と言えば、秋から冬にかけては何と言っても紅葉だろう。

我が家の庭には垣根に仕立てたのを除いて4本の紅葉があるが、西の狭い庭に一本だけある結構な高さになった紅葉がちょうど見頃となった。

午後からは西風が大分収まり上天気になった。狭い庭だから木洩れ日程度の日光しか照らさないのだが、西側の窓からその日差しを浴びていい具合に色づいたのが目に入った。

紅葉の根元に近い辺りには、例の夏から持ち越しの一本のアジサイの花(装飾花)が、以前より赤みを帯びてまだ枯れないでいるのが見える。

南側の庭のアジサイの花(装飾花)はすべて枯れ果てて、すっかり茶色に変色しているのに、根性があるとしか思えない。

もう少しすれば、赤が赤さび色になり、その内に茶褐色になってしまうのだろうが、葉の方も青々として枯れる様子はないから、もしかしたらこのまま年を越すのかもしれない。

昼から近くの荒物系のスーパーに行って6株のパンジーを購入し、娘の家の庭のプランター二基に以前植えておいたキンギョソウの苗と交換して植えた。

キンギョソウは切り花用だったので、プランターではなく地植えの方がよく育つようだ。

冬から春にかけての鉢花と言えば、やはりパンジーの右に出るものはない。

 


弟の没後40周年

2023-12-05 20:58:06 | 日記

今日は昭和58年(1983年)の12月5日に亡くなった弟の40周年(41回目)の命日である。

弟の光雄は私の2学年下の松下家の末子であった。享年32歳と若く、惜しまれる死だった。

中学校の2年生の時に「不登校」になり、その時の心的な状況が何ら変えられることなく、16歳から精神的な病(当時は自律神経失調症という病名)で入退院を繰り返し、同じ16年という歳月ののち帰らぬ人となった。

死の直接の原因は今日で言うところの「統合失調症」による自死だが、その死に至るまでの過程は時に嵐があり、凪ぐ時もあり、彼の想い(希望)が貫かれるかと思われることもあった。

もともと感受性の優れた子であった。というのは絵画にしろ書道にしろ音楽にしろ小学生の時はずば抜けていて、他の兄弟の及ぶところではなかった。学業成績も我が家の4兄弟の内ではトップでもあった。

ところが中学に入り、若干成績が下り坂になると彼の心中は穏やかならぬものとなった。

兄の私が学校でトップクラスになっていたのが気になり出したのだ。

核家族で両親ともに教員であったことも大きな影響で、我が家は母がずうっと外働きで、「お手伝いさん」と呼んでいた住み込みの女中を雇用して家庭を回していたから、母の家庭内の存在感は薄いものだった。

兄弟は1女3男、姉が昭和16年以外はみな戦後の生まれで、3兄弟は21年、25年、26年と連続した生まれだった。この連続した3兄弟にお手伝い一人ではかなり無理があった。母親が家庭にいた上でお手伝いさんが一人、都合2人での家庭運営なら分かるが、いかんせん、無理であった。

母親の存在感は「子どもに寄り添って何ぼ」だが、我が家では生まれると母親は4週間後には職場に復帰しなければならず、ほぼ父親と同等の存在であった。

入学式にも卒業式にも、勤務先の小学校のそれを優先せざるを得ないので母の姿はなく、代わりにお手伝いさんの参列で済ましていた(だが、私はその姿を見ていない)。

母が勤めから家に帰ったら帰ったで、姉と3兄弟で母の取り合いになるのだが、おそらく一番上の姉の独壇場で、少なくとも私は母に学校の出来事をあれこれしゃべった記憶はない。

話しても無駄だと思っていたのか、次の日に学校へ行って「あ、雑巾が要るんだった」とあわてて家に帰って持ってくるのが常態だった。

弟は律儀だったので母に最後まですがって「明日雑巾が要る」と伝えたに違いなく、持ち物の忘れ物などは全くなかったと思う。

しかも末子だったから母の期待は大きかったと思われ、成績優秀・品行方正の小学校の時代には「この子は将来は医者に」などと言っていたことを覚えている。

翻って自分は成績は中クラスで、体育以外、図画も書道もからっきしダメで、母の期待感はほぼなかった。

姉は長子で女でもあるから、割と「蝶よ花よ」的な扱いを受けたと思うが、何せ身近に寄り添う母の姿を見ていないから、彼女は彼女なりに苦労したと思う。

兄は私より3学年上で、父からよく「スローモーション」「グズ」とののしられていた記憶がある。何とも気の毒な話だが、世間で言う「長男のお人よし」というタイプだったからある意味で「ツボ」を得ていたのかもしれない。

弟と私は学年こそ2つ違うが、生まれた間隔は1年と3か月しかなく、小学校の高学年になって私が成績を伸ばし始めると、親による兄弟間の評価が変わり始め、弟はやや「引け目を」を感じたのだろう、母親との意思疎通がうまくいかなくなって行ったようだ。

これと思春期特有の「親離れ」による不安感が相乗した結果、弟はついに心を乱してしまい、学校に行かなくなった。それが中学2年生の1学期のことであった。

起きてトイレに入ったらそのまま出てこないことが始まりだった。

母は「どうしたのかねえ。首にロープを付けて学校に引っ張っていきたいわ」と音を上げ、そのまま勤務先に出かけるのだが、私から言わせれば、母親にこそ首にロープを付けて家に引き留め、兄弟に寄り添ってもらいたかったのであった。

子供にとってまさに非常事態なのに、仕事を優先させ、寄り添おうとしない母親の姿は鬼か蛇か――いま思うとやるせない限りである。

さほどに仕事(収入)を優先させる親の誤った考えは、やがて弟を精神病院に追いやり、のっぴきならない結末を生んでしまったとしか言いようがない。

私は10年前の平成25年、弟の死後30周年を追悼して『或る若き魂への回想と真実ー松下光雄没後30年祭に寄せてー』というタイトルの小冊子を上梓した。

その冊子の最後の章で「中今」(なかいま=今に中(あた)る)という古語を取り上げ、子ども養育の基本は成長のステージに合わせて親(保護者)が寄り添うことが求められると書いたが、我が家ではそれができなかった。少なくとも極めて不十分だった。

※母が寄り添ってくれなかったことで「貴重な体験」をしたことを思い出す。

6歳か7歳の私と光雄がともに疫痢になった時のことである。前日から二人ともひどい下痢(腹痛)と嘔吐に陥った。夜が明けて病院へ行くことになったのだが、母に連れられていつもかかる塩谷医院とは違う近所の医院(牧野医院)に行く時のこと、私はほとんど腹痛で意識のないような状態だった。

バスの通るやや広い舗装道路に出て、もう目と鼻の先に牧野医院はあったのだが、意識がもうろうとしていたのだろう、自分の意識が道路の反対側のやや高い所に移っていた。そこから母とそのすぐ後ろに付いて行く自分と弟の並んで歩く姿を見下ろしていたのだ。

診療の時間には早かったのだろう、母は医院の通用口で私たちを預けるとそのまま学校に行ってしまった。医院に預けられた後のことは全く記憶にない。おそらくしかるべき手当てを受け、その後にお手伝いさんが迎えに来たのだろうが、やはりそれも記憶にない。

本来なら母が勤めを休んで看病に当たるべきところだが、そうはしてくれなかった。学校の担任をしている以上休むことができなかったに違いないが、子どもとしては無念なことである。

この体験は「幽体離脱」というそうだが、死の一歩手前まで行っていたことになる。貴重な体験だが、母との関係では切ないの一言だ。弟も同じ体験をしたのかどうかは聞いたことがなかったが、おそらくしていたに違いない。合掌。


縄文系のゲノムは朝鮮半島にも

2023-12-04 19:57:53 | 古日向の謎

3日前だったか、高山町(現・肝付町)出身で東京在住の中村さんという方からファックスが送られてきた。

何かと思えば、中村さんの主張を何かの雑誌に載せたのか、そのコピーと同時に「ゲノムの多様性」という全国紙Y新聞に載った物のコピーの2枚がファックスされていた。

中村氏の主張は「戦争回避に日本は役割を果たせ!」というタイトルで、B5の雑誌の2ページにわたる論考を披歴していた。その中で氏の最も肝心な内容が次の書き込みだろう。

<世界的に自然との共生を理念とする精神をDNAの中に持っている日本が見直される中で、平和の精神をDNAの中に持っている日本の政治家、宗教家が新たな世界平和の構築に役割を果たす余地は少なくない。

と私は思っています。>

さらにその根拠を、

<初代神武天皇が、即位の時に「世界は一家、人類みな兄弟」の世界観を述べられたのです。このことは

神武の祖先がはるか彼方から苦難を乗り越えて渡来した平和志向の民族だったことを思わせます。>

日本が平和へのDNAを持っているのは神武天皇の代から継続している、と考えている。そして、

<神武の世界観と共に世界に波及させる日本の出番を世界が待望しています。>

と結論している。

(私注)「世界は一家、人類みな兄弟」の世界観というのは日本書紀の<神武天皇即位前紀>にある「六合を兼ねて都を開き、八紘を掩(おお)いて宇にせむこと、また良からずや」という宣言(詔)のことで、六合は国の内、八紘は天の下、宇は家と訓読みされている。

日本人がもともと平和志向であるのは初代天皇である神武の頃からで、その時の精神を受け継ぐDNAによって世界に平和をもたらす役割を自覚せよ――というのが中村氏の訴えであろう。

この考えには賛成だが、日本列島の歴史の中でどれだけ多くの戦乱があったかを思うと疑問が残る。

また上の引用文の中で下線を施した部分についても疑問を感じる。

氏が神武天皇の祖先であるニニギノミコトがはるか彼方から列島に渡来してから日本の皇室が始まった、つまり南方から「天孫降臨して」始まったという考えには賛成できないのだ。

それは同時に送られてきた「ゲノムの多様性」という全国紙Y新聞のコラム(11月26日付)によっても指摘できる。

この「ゲノムの多様性」は国立科学博物館の篠田教授へのインタビューから構成されたもので、列島の縄文人の成り立ちについて最先端の分子生物学(遺伝子情報学)の新知見によっている。

それによると朝鮮半島や大陸から陸続と渡来した人たちと、列島生え抜きの縄文人とが混血することによって弥生時代の文化が始まったとする学説は否定されたそうだ。

ゲノムの分析によると半島の釜山の6000年前の遺跡から発見された人骨から採取したゲノムからは縄文人のゲノムが優勢だったそうで、6000年前の時代にそこに縄文系の人が住んでいたことが明らかになった。

また、弥生人77体のゲノム分析でも、現代の大陸人のゲノムよりも縄文人のゲノムが優勢だったそうである。

半島の釜山に居住していた縄文人は九州との関係を持つもので、九州の縄文人が向こうへ渡ったのだろう。私はその理由を「鬼界カルデラ」の大噴火によって逃れた古日向の縄文人(早期)がいたからだと考える。

この九州から逃れた(ディアスポラした)人々のグループが何百年か経って、九州南部(古日向)の植生が回復したのちに故郷の古日向へ帰還した。これが「天孫降臨」ではないかと思うのである。

現代に喩えれば、ユダヤ人は2000年前に世界各地に離散(ディアスポラ)したが、2000年のちに当時居住していたパレスチナの「シオンの聖なる地」に帰って来た(シオニズム)のとかなり似ている。

パレスチナ人は差し当たりその地(パレスチナ)に住んでいた「オオクニヌシ」であり、その土地を我らに譲れと迫ったのがユダヤ人の「天孫降臨」(シオニズム運動)であった。

※オオクニヌシは国を譲り「八十隈手」(隅っこの方)に引きこもり、その代わり大きな神殿を所望し、平和のために祈ろうとした。オオクニヌシたるパレスチナ人も矛を収めて大局的な見地から平和を祈って欲しいものだ。

 


初氷(2023.12.02)

2023-12-02 21:42:56 | おおすみの風景

今朝は冷え込んだ上に全くの無風だったことで初めて氷が張った。

氷が張ったのは車のフロントガラスだった。出かける前に庭の水道の水を掛けようとしたのだが、水道の蛇口も少し凍っていたらしく、ひねってもすぐには水が出てこなかった。

周辺の畑地帯にも霜が降りていた。今年2回目の霜だ。

だが家庭菜園には降りていなかった。菜っ葉類やブロッコリーが旺盛に繁っているので霜を敬遠したに違いない。

去年の初霜は12月13日だったから、10日ほど早い降霜だ。去年はまた北に聳える高隅山に冠雪が無かった年でもあった。全く降らなかったのではなく、地上からはっきりとそれと分かるような積雪が無かったのだ。

今年も長期予報では暖冬のようで、果たして清々しい白い山並みが見られるのか、確実ではない。

暖冬で当面困ることはない。暖房費が安上がりになるのは大歓迎だ。

しかしウクライナでは当たり前の冬になっている。積雪も相当なものだ。昨年の2月に戦闘開始以来、本格的な冬をどう凌ぐのか懸念される。

プーチンは来年3月の大統領選挙を有利にしようと、ウクライナへの攻撃を強めこそすれ弱めることはないだろう。いつまでバカな「特別軍事作戦」を続けるのか、プーチンの退場を願うほかない。