鴨着く島

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弟の没後40周年

2023-12-05 20:58:06 | 日記

今日は昭和58年(1983年)の12月5日に亡くなった弟の40周年(41回目)の命日である。

弟の光雄は私の2学年下の松下家の末子であった。享年32歳と若く、惜しまれる死だった。

中学校の2年生の時に「不登校」になり、その時の心的な状況が何ら変えられることなく、16歳から精神的な病(当時は自律神経失調症という病名)で入退院を繰り返し、同じ16年という歳月ののち帰らぬ人となった。

死の直接の原因は今日で言うところの「統合失調症」による自死だが、その死に至るまでの過程は時に嵐があり、凪ぐ時もあり、彼の想い(希望)が貫かれるかと思われることもあった。

もともと感受性の優れた子であった。というのは絵画にしろ書道にしろ音楽にしろ小学生の時はずば抜けていて、他の兄弟の及ぶところではなかった。学業成績も我が家の4兄弟の内ではトップでもあった。

ところが中学に入り、若干成績が下り坂になると彼の心中は穏やかならぬものとなった。

兄の私が学校でトップクラスになっていたのが気になり出したのだ。

核家族で両親ともに教員であったことも大きな影響で、我が家は母がずうっと外働きで、「お手伝いさん」と呼んでいた住み込みの女中を雇用して家庭を回していたから、母の家庭内の存在感は薄いものだった。

兄弟は1女3男、姉が昭和16年以外はみな戦後の生まれで、3兄弟は21年、25年、26年と連続した生まれだった。この連続した3兄弟にお手伝い一人ではかなり無理があった。母親が家庭にいた上でお手伝いさんが一人、都合2人での家庭運営なら分かるが、いかんせん、無理であった。

母親の存在感は「子どもに寄り添って何ぼ」だが、我が家では生まれると母親は4週間後には職場に復帰しなければならず、ほぼ父親と同等の存在であった。

入学式にも卒業式にも、勤務先の小学校のそれを優先せざるを得ないので母の姿はなく、代わりにお手伝いさんの参列で済ましていた(だが、私はその姿を見ていない)。

母が勤めから家に帰ったら帰ったで、姉と3兄弟で母の取り合いになるのだが、おそらく一番上の姉の独壇場で、少なくとも私は母に学校の出来事をあれこれしゃべった記憶はない。

話しても無駄だと思っていたのか、次の日に学校へ行って「あ、雑巾が要るんだった」とあわてて家に帰って持ってくるのが常態だった。

弟は律儀だったので母に最後まですがって「明日雑巾が要る」と伝えたに違いなく、持ち物の忘れ物などは全くなかったと思う。

しかも末子だったから母の期待は大きかったと思われ、成績優秀・品行方正の小学校の時代には「この子は将来は医者に」などと言っていたことを覚えている。

翻って自分は成績は中クラスで、体育以外、図画も書道もからっきしダメで、母の期待感はほぼなかった。

姉は長子で女でもあるから、割と「蝶よ花よ」的な扱いを受けたと思うが、何せ身近に寄り添う母の姿を見ていないから、彼女は彼女なりに苦労したと思う。

兄は私より3学年上で、父からよく「スローモーション」「グズ」とののしられていた記憶がある。何とも気の毒な話だが、世間で言う「長男のお人よし」というタイプだったからある意味で「ツボ」を得ていたのかもしれない。

弟と私は学年こそ2つ違うが、生まれた間隔は1年と3か月しかなく、小学校の高学年になって私が成績を伸ばし始めると、親による兄弟間の評価が変わり始め、弟はやや「引け目を」を感じたのだろう、母親との意思疎通がうまくいかなくなって行ったようだ。

これと思春期特有の「親離れ」による不安感が相乗した結果、弟はついに心を乱してしまい、学校に行かなくなった。それが中学2年生の1学期のことであった。

起きてトイレに入ったらそのまま出てこないことが始まりだった。

母は「どうしたのかねえ。首にロープを付けて学校に引っ張っていきたいわ」と音を上げ、そのまま勤務先に出かけるのだが、私から言わせれば、母親にこそ首にロープを付けて家に引き留め、兄弟に寄り添ってもらいたかったのであった。

子供にとってまさに非常事態なのに、仕事を優先させ、寄り添おうとしない母親の姿は鬼か蛇か――いま思うとやるせない限りである。

さほどに仕事(収入)を優先させる親の誤った考えは、やがて弟を精神病院に追いやり、のっぴきならない結末を生んでしまったとしか言いようがない。

私は10年前の平成25年、弟の死後30周年を追悼して『或る若き魂への回想と真実ー松下光雄没後30年祭に寄せてー』というタイトルの小冊子を上梓した。

その冊子の最後の章で「中今」(なかいま=今に中(あた)る)という古語を取り上げ、子ども養育の基本は成長のステージに合わせて親(保護者)が寄り添うことが求められると書いたが、我が家ではそれができなかった。少なくとも極めて不十分だった。

※母が寄り添ってくれなかったことで「貴重な体験」をしたことを思い出す。

6歳か7歳の私と光雄がともに疫痢になった時のことである。前日から二人ともひどい下痢(腹痛)と嘔吐に陥った。夜が明けて病院へ行くことになったのだが、母に連れられていつもかかる塩谷医院とは違う近所の医院(牧野医院)に行く時のこと、私はほとんど腹痛で意識のないような状態だった。

バスの通るやや広い舗装道路に出て、もう目と鼻の先に牧野医院はあったのだが、意識がもうろうとしていたのだろう、自分の意識が道路の反対側のやや高い所に移っていた。そこから母とそのすぐ後ろに付いて行く自分と弟の並んで歩く姿を見下ろしていたのだ。

診療の時間には早かったのだろう、母は医院の通用口で私たちを預けるとそのまま学校に行ってしまった。医院に預けられた後のことは全く記憶にない。おそらくしかるべき手当てを受け、その後にお手伝いさんが迎えに来たのだろうが、やはりそれも記憶にない。

本来なら母が勤めを休んで看病に当たるべきところだが、そうはしてくれなかった。学校の担任をしている以上休むことができなかったに違いないが、子どもとしては無念なことである。

この体験は「幽体離脱」というそうだが、死の一歩手前まで行っていたことになる。貴重な体験だが、母との関係では切ないの一言だ。弟も同じ体験をしたのかどうかは聞いたことがなかったが、おそらくしていたに違いない。合掌。