鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

ダイコンの収穫

2023-12-20 13:08:12 | おおすみの風景

昼過ぎ、南側の畑でエンジンの音が大きく聞こえて来たので、庭に出てみると、トラクターによるダイコンの収穫が始まっていた。

最近はこの手の機械による収穫が多くなっている。

トラクターの後ろに取り付けた「ダイコン掘り取り機」で、向かって右手の畝から大根を掘り取り、葉っぱの部分をチェーンで挟み、それをぶら下げながら左側へ移動させて落として行く。

トラクターの後ろから見ると、おおむね50センチくらいの細身のダイコンの列がぶら下がっている。まるでダイコンすだれだ。

手前に一本のダイコンが転がっているが、あれはチェーンから外れて落ちたのだろう。

以前の収穫は人の手でやっていたのだが、中腰になって抜き取らなければならず、農業者の高齢化もあって体への負担が大きくなっていた。

そこでこの機械掘りが主流になりつつある。ゴボウなどでも似たような機械掘りが普及している。

ここのダイコンは漬物用と思われるが、今の時期は煮物・おでんに無くてはならない野菜である。

そもそもダイコンを日常的に人間が食べる習慣は日本だけのものだ。韓国などではキムチ的な漬物があったように思うが、煮てまるごと食べるのは日本人だけだろう。

おでんを含む和食は受け入れられつつあるが、他人(他国人)は知らず、一番おいしく感じるのは、この時期何と言っても私はよく味のしみ込んだダイコンである。

ダイコンはアブラナ科だから寒さにはめっぽう強い作物で、当地では漬物用のダイコンが主流なのだが、高温期に盛んに作られるサツマイモが最近「基ぐされ病」なる細菌性の疫病に悩まされているのに比べ、ダイコンに関してはそうした病害を聞かない。

我が家のダイコンも先日の初物よりは一回り大きくなった。

同じアブラナ科のブロッコリーもだいぶ大きくなったので、ダイコンと一緒に収穫してみた。

ダイコンは30センチサイズ、ブロッコリーは直径が15センチほどになった。湯がくと鮮やかなグリーンになるのがブロッコリーの良いところだ。今晩はこれで一杯。

 


安倍派は総崩れ

2023-12-17 19:17:00 | 日本の時事風景

岸田現内閣の中枢を担っていた官房長官以下の安倍派所属議員による内閣の要がすべて交代するという事態に陥ったが、安倍派の「パーティー超過収入のキックバック」はやはり根深い。

安倍元首相が長期政権を担っていたため、慣例となっていたのが、政治資金集めのパーティ券収入でノルマ以上の金を生み出した所属議員に「キャッシュバック」することだった。

この「キャッシュバック」を初めから予定していたのであれば、パーティ券の定員以上の「空売り」が公然と行われていた可能性が高い。

一回500名のパーティ定員に対して1000名分の券を売っていたのであれば、一枚が仮に2万円として差額の1000万円が「浮く」。これを還流していたのだが、パーティの決算書には500名分の収入しか載せなかった。

まさに架空売り上げだが、架空分は無いことにしていたわけだ。要するに「裏ガネ」で、これを最初から予定していたイベントだったのであれば、刑法に触れることになる。

福田赳夫元首相の旗揚げから続いていた「清和政策研究会」の屋台骨がぐらつくことになった。

もともと福田元首相は田中派の金銭至上主義的な政治活動に異を唱えて、清廉な政治を目指していたが、やはり多数決主義の政界ではそうも言っていられなく、結局、派閥政治は今日まで存続している。

政治活動には金がかかるのは周知のことだが、そのために「政党交付金」が各党の議員数に応じて国家予算の中から配分されるようになった。

この配分金と議員歳費で活動すれば問題は起こらないはずだが、民主政治には国民との不断のつながりが必要ということで「時局講演会」なる名目でいわゆるパーティが欠かせず、今回はこれが肥大化してキックバックの温床となった。

このような政治パーティを催すのは自由だが、パーティ券の空売りつまり「裏金作り」を公然と行っていたのは全くの勇み足だ。

明治以降の歴代首相の中でも2番目に長い総理の就任期間をもった安倍元首相の「安倍一強政権」の負の面が露出したのが今回の事案だろう。特捜部の取り調べがどのような形で入るか注目される。

去年の6月に旧統一教会関連で殺害された安倍元首相の死後に鞭打つのは本意ではないが、岸田首相の防衛増税への前のめりが政権不支持を拡大していることと併せて考えると、安倍派の清和政策研究会の屋台骨が揺らぐどころの話ではなく、自民党政権そのものへのカウンターパンチの様相を呈して来たと言っても過言ではあるまい。

 

 


千本イチョウと観音渕

2023-12-14 17:36:49 | おおすみの風景

垂水市の西に高峠という標高800mくらいの峠があり、そこは春になるとツツジの名所として知られているが、この10年くらいは途中にある「千本イチョウ」の方が有名になっている。

11月の黄葉シーズンは約1か月続くが、観光客はひきも切らず、大型バスなども繰り出しているから駐車場の確保も大変なくらいだ。

12月3日で今シーズンは終わっているのだが、今日はむしろその後の「落葉シーン」を訪ねてみた。

我が家から垂水市街地へは約35キロ、市の中心部から右手(西)へ県道71号線で登っていくこと6キロ、道路の右側の谷に向かってイチョウが植えられている。

その数1200本というから紛れもなく「千本イチョウ」だ。

このイチョウ並木は中馬(ちゅうまん)さんという垂水出身で定年か定年近くになって郷里に帰ることになり、親からの遺産である山をイチョウの山にしようと、約40年かけてコツコツと夫婦二人で植えられたそうである。

その結果が広大なイチョウ園として今に至った。平成23年には鹿児島県の「景観大賞」に推挙され、一気に名前が知られることになった。

もうすっかり葉は落ちて、黄色の絨毯がどこまでも続く。

そこのお姉さんは銀杏を拾っているのだが、園の入り口に「銀杏は拾わないでください」と書いてあったと言うと、渋々立ち上がった。

その代わり園の入り口でパック入りの銀杏を買うことにした。

20分くらい滞在したあと、道はそのまま高峠まで行き、そこから降ること15分で鹿屋市のアジア太平洋交流センターという施設へ。さらにそこから5キロほど下った「観音渕」という洞穴に行ってみた。

志布志湾で太平洋にそそぐ大隅半島最長の串良川上流に位置しており、分厚く積もったシラス台地の縁辺に地下水が刻んだ洞穴が観音渕だ。

串良川のほとりに洞穴はあり、車を止めて行くとお爺さんが来ていて、洞窟内にたくさんある石造りの仏像に線香をあげているところだった。

こんにちは、と声をかけても一心不乱のようでチラッと顔を向けただけで、何十という数の石像に線香をあげて回っていた。

洞穴の奥は30メートルほどで行き止まりで、先日行った溝ノ口洞穴が200数十メートルあるのとは大きく違うのだが、突き当りの壁の下からは水が簾のように滴り落ちている。

したたる水は小流となり、洞穴を出て20メートル位から先は滝になっている。

観音渕という名の通り、数々の仏像が洞穴入り口と突き当りに安置されており、特に突き当りには6体の石像が並べられ、その手前には座る場所と木魚が置かれている。誰かがここに来てお経を唱えるのだろう。

国の天然記念物の「溝ノ口洞穴」と比べて入口の幅は10mほど狭いのだが、高さはほぼ同じくらいだ。

ただこの洞穴の成因は2万5千年前のシラス台地を穿ってできたものであり、溝ノ口のようにもっと古い火砕流の堆積による凝灰岩層がくりぬかれてできたのではない。この成因の違いが天然記念物かどうかの分かれ目となった。

だがこの観音渕の方が市街地に近く、洞穴の奥から湧き出る清冽な水の恵みが大きく、その水を求めて来る人が多い。まさに生きている記念物だ。私としてはこちらを推す。

 


紅葉散り敷く

2023-12-12 10:56:34 | 日記

つい5日前には見頃だった紅葉も、3日前のやや強い風のためにどんどん葉を落とした。

紅葉の木にはまだ淡い緑色を残した葉もあるが、ほとんどの葉は赤く染まり、今朝は風もほとんどないのに次々にはらはらと落下して行く。

紅葉の下のちょっとした庭には、日当たりを好まないシダやイワヒバ、それに勝手に芽を出して勢力圏を横に広げているアイビーの類が生えているが、そのグリーンの絨毯の上に朱やオレンジに染まった紅葉の葉が班ら雪のように散り敷いた。

今は色鮮やかだが年の暮れか新年になるころには茶色く変化してしまうから、今日から10日間くらいが「花」だろう。

鮮やかと言えば、向こうの紅葉の幹の左手の一株のアジサイはまだ装飾花の赤い色をキープしている。また葉の緑色もまるで黄変して行く気配がない。

日当たりがごく制限されていたのがこのアジサイにとって良かったのか悪かったのか、よく分からない。何にしても驚きと楽しみをもって見守っている。

 

このところ暖かい日が続く。こちらでは一週間前に今年3回目の降霜があったにはあったが、それ以外は穏やかな日々だ。

家庭菜園の野菜たちも今はほぼ虫の食害には遭わず、順調に育っている。

一昨日、ダイコンはまだ若かったが初収穫してみたら、太さが7センチ、長さは25センチほどあった。ただおろして食べてみたが辛いのなんの。鰹節と甘醤油をかけて何とかごはんと一緒に食べたが、胃のクスリにはなったに違いない。

10月からこの方、体重が3キロ増えたのは新米のせいだと納得していたのだが、こんなに辛いダイコンなら食事制限に役立つかもしれない。

もっとも先日は集落の餅つきと蕎麦打ちに参加したが、集落センター内で餅をぜんざいで食べ、帰りに丸もちを5、6個もらって家に帰ってから家内と二人で即完食してしまった。

ごはんは炊き立て、餅はつきたてが最高にうまい――とはまさにその通り。その至言を実行に移してしまったわけで、あの辛い大根おろしと一緒に食べればよかったと反省しきりである。


「日本人の下戸」が解明?

2023-12-10 20:52:51 | 日記

昨日の新聞に面白い記事があった。

日本人の「下戸」(酒に弱い)体質は2万年前と7500年前に増加した――というものである。

これを最近、国立国際医療研究センターを中心とする研究チームが突き止めた。

「下戸」とは酒に弱いかほとんど飲めない体質のことで、酒(アルコール)が体内に入ると、まずADH1Bという遺伝子の働きでアセトアルデヒドに転換されるが、下戸はこのアセトアルデヒドという体にとって毒となる成分を無害なものに分解するALDH2という遺伝子(酵素)が少ないか全くない人が多い。

その持たざる遺伝子上の変異が、約2万年前と7500年前により一層増加したことが、国際医療研究センターや他の高度医療センターで保管されている約1万人のゲノム(全遺伝子情報)を解析したことで判明したそうだ。

上記の2種の遺伝子(酵素)のうち、ADH1Bの変異は2万年前、ALDH2の変異は7500年前に増え始めたという。だが、その原因は不明だそうだ。

単純に考えれば、その二つの時期にそれまではあったアルコールを摂取する習慣がぐんと減り、その状態が長く続いたことによってアルコールをアセトアルデヒドに分解し無毒化する体内の機序が弱まったのだろう。

ではその原因はというと、生存環境の大きな変化がアルコール摂取を妨げたからと考えられる。

7500年前ということで咄嗟に思い付くのは、南九州の海中で起きた有史最大の大規模噴火と言われる「鬼界カルデラ」の大噴火だ。

鬼界カルデラは薩摩半島の南60キロばかりにある薩摩硫黄島付近の海底火山カルデラで、ちょうど7500年前の頃に起き、鹿児島の南半分はほぼ壊滅したとされている。

国分(霧島市)の上野原遺跡は8千年から1万年前の高度な土器文明があったことを証明した遺跡だが、この大噴火によって完全に人が住めなくなっている。

南九州のみならず西日本の多くの地域まで降灰をもたらし、それによる植生の変化でアルコール飲料を作るのに必要な穀類が大不作(飢餓)となり、アルコールの生産どころの話ではなくなったのだろう。

また、2万年前にも同様な天変地異があってアルコールを生み出す余裕がなく、アルコール摂取から遠ざかるを得なかった状況が考えられる。

2万年前と言えば最終氷河のビュルム氷期の最中であり、数万年続いたとされるが、2万年前がもっとも寒冷であった。この時期は海岸線が大きく後退し、対馬海峡の一部を残して列島がほぼ大陸と地続きになっていた。

この時代、アルコールを生み出す穀物生産は到底考えられず、したがって摂取することも不可能であったに違いない。そのためアセトアルデヒドを無毒化する酵素(遺伝子)を体内に持つ必要が無かったのだろう。

以上のような「生存環境によるアルコール分解遺伝子の減少説」が考えられるがどうだろうか。

もともと日本人は西洋人と比べてアルコールにはかなり弱いそうで、それはアルコール分解後に生まれるアセトアルデヒドを分解する酵素が少ないからとされている。

何かのテレビ番組で見たのだが、アルコールに弱い日本人の中でも最も弱いのが三重県人だそうである。

アルコールを飲む習慣を持つ人が少ないのがその理由だろうが、これは全くの虚説かもしれないが、三重県は江戸時代からお伊勢参りの参詣客の絶えない所で、宿を貸す言わばホテル業を営む人が多いからではないか。

宿泊客に酒を勧めはしても、ホテルの主人自身が飲む(酔う)ことは商売上憚られたのだろう。そんなことをしていたら商売は上がったりとなりかねない(客に付き合って飲んでいたら身が持たない)。

私の母方の祖父は三重県の出身だが、よく母が冗談交じりに「おじいちゃんは奈良漬屋の前を通っただけで酔ってしまう」と言っていた。それほどの下戸だったそうだ。