鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

チョウゲンボウが飛来

2023-01-17 21:35:23 | おおすみの風景
今日の昼過ぎ、我が家の南側の畑でトラクターの耕耘が始まった。

秋にはサツマイモを作っていたところで、収穫後に放置していた畑だ。

放置していたと言っても草刈りをしなかっただけで、堆肥か何かは散布したのかもしれないが、見ていたわけではないのではっきりしない。

今は一年で一番寒い時期で、1月6日に「小寒」に入っている。この寒は20日からは「大寒」を迎え、2月の節分までの4週間続いて「立春」となる。

その寒のうちに堆肥を撒いて耕す農家が多い。俗に言う「寒肥」で、土の基礎体力を養うと言われている。

トラクターを運転している畑の持ち主は当然そんなことは知っているはずだ。4日前の雨で水分の含有率が高いので、耕耘には最適だと判断したのだろう。

そんなこととは知らぬ鳥が一羽、合歓の木の先端の枝に飛来した。


鳥は畑に最も近い枝の先っちょに止まり、トラクターの動きを眺めているかのようにじっとして動かない。

そこでデジカメを持って玄関をそうっと開けて庭に出、鳥の止まっている枝から7~8メートルまで近づき、シャッターを押した。

幸い、鳥の向きは反対側のトラクターの方なので気付かなかったのか、飛び立つ気配はない。

そこで望遠機能(最大で10倍)を使ってアップで写してみた。やはり動かないが、それでは背中しか写せない。

それで口笛を吹いてこっちを向かせようとしたところ、うまく後ろを振り返ってくれたので写したのがこれである。

ネットで調べたら、この鳥はハヤブサの仲間のチョウゲンボウのようだ。(※オスかメスかは分からないが、背中の模様からするとメスの可能性が高い。)

だが、チョウゲンボウがじっとしていたのもこれが最後で、大きな羽を広げて飛び立ってしまった。

ちょうどトラクターの耕耘も終わりかけていて、チョウゲンボウはそのトラクターのすぐ上を滑空してはるか向こうのむき出しになっているパイプハウスの一端にひらりと止まった。

もちろんチョウゲンボウがただ単に耕耘するのを眺めていたわけではないだろう。おそらく土の中からカエルなどのエサが現れるのを待っていたに違いない。

首尾よくエサにありつけたかは、昼食を摂りに家に戻ったので分からない。

隠れた名園「旧田中家別邸」(霧島市福山町)

2023-01-15 18:55:36 | おおすみの風景
2泊3日で単身で帰省していた息子を鹿児島空港まで送った帰り道、往路の東九州自動車道には乗らず、垂水経由の海岸通りを帰ることにした。

国分の南部敷根から道路は海岸沿いに走ることになる。神武東征のいわれが残る若尊ノ鼻(わかみこのはな)入り口を右手に見ると道路はちょっとした峠への上り道となり、峠を越えると福山町の海岸に面した街並みに入る。

しばらく行くと左手に有名な「福山酢」の工場が見え、そこを過ぎると行く手に海岸の波止が迫ってくる。すると道路の左に「旧田中家別邸」のさほど大きくない看板が目に入る。

この看板は国分から垂水経由で鹿屋に帰る時には必ず目に入るのだが、これまで何十遍と目にしながら一度も立ち寄ったことがなく、今日は時間の余裕がたっぷりあったので、寄って行くことにした。

国道を左折して細い道をたどると、右手に郵便局があり、そこからほどなくして駐車場の案内があり、車を入れて止めた。

駐車場から一軒家をやり過ごした所が「旧田中家別邸」だ。

軽自動車なら上がって行けそうな石畳の通路を上がり、屋根付きの立派な門をくぐると右手奥に幅が広く、静かな佇まいの玄関があった。

ところが門にも玄関にも案内者も案内書きもなく、家の中にいきなり入っていいものかを質すことができないので、とりあえず、家の向こう側にあるという庭園に行ってみた。

ちょうど100年前の大正11年(1922)に建てられたという家の方は、県の有形文化財に登録されているのだが、庭園は対象ではないらしい。

しかし庭園を眺めてその規模には驚かされた。


山水式の庭園で、池の水が実に豊富である。石組みも素晴らしい。
借景は裏手(東側)の北から南に走る鹿児島湾に特有のカルデラの外輪山だ。

そして今日は曇りで見えなかったが、裏手の稜線と真反対に海に聳える桜島も借景だという。贅沢な話である。

別邸(別荘)の敷地面積は1100坪で屋敷の建坪は130坪というから、庭の面積はざっと900坪。巨岩や石灯篭、石の橋などの加工費用まで含めれば、数億は下らない代物だろう。

こんな別荘を建築したのは田中省三という実業家である。

建物の中に置かれていた自由配布のパンフレットには、田中省三のことが大略次のように書かれている。

<田中省三は当地で1858年に生まれ、1877年の西南の役では西郷軍に所属した。敗戦後は一時期監獄に入れられたが許されて、地元の小学校の教師となった。

その後大阪に出て大きな商店に勤め、そこで得た商業知識を基に海運業に乗り出したところ、日露戦争や第一次世界大戦時の商船ブームで当たって財を成し、衆議院議員にも担ぎ出されたという経歴の持ち主だった。

私立福山高校の創設に関与して多額の寄付を行っており、郷土の先覚者の一人である。

別荘の建築には大阪から大工の棟梁を連れてきたことや、庭園の石工は鹿児島人だったことが天井裏で見つかった上棟式の際の「棟札」に書かれていた。>

田中省三が寄付をして創設したという学校は、戦後になって県立福山高校となり、子弟の教育に大きく貢献している。

ただ現在の県立福山高校は同じ福山町でも牧の原の方に移転しており、それまであった場所は福山小学校となっている。

いずれにしても当時の成功者は何がしかの貢献を生まれ故郷に残したようだ。

田中省三の場合は別荘まで残したことで、なおのこと、後世の我々の脳裏にその偉業の一端を思い起こさせるよすがとなった。

出雲の神宝は金印か(古代史逍遥ー4)

2023-01-10 10:49:21 | 古代史逍遥
【大倭と厳奴と邪馬台国】

第10代崇神天皇は北部九州の糸島を本拠地とする五十(イソ)国王であった。

その来歴については、朝鮮半島南部の三韓のうち辰韓に最初の王権を築き、公孫氏を滅ぼした魏の司馬懿将軍が次には半島攻略を狙って来るのを避け、ついに王宮を糸島に移したので和風諡号「ミマキイリヒコ・イソ(五十)ニヱ」と表現された。

また息子の第11代天皇垂仁の和風諡号は「イクメイリヒコ・イソ(五十)サチ(狭茅)」であり、これは垂仁天皇が糸島という狭い地域の中で生まれ育ったことが表現され、さらに青年時代にイクメ(生目・活目)として邪馬台国の一等官として赴任したことがあることも表現している。

糸島の五十王国は崇神と垂仁の2代で北部九州の倭人国家群を糾合し「大倭」に成長したと考えられ、その大倭は魏志倭人伝の記す「国々に市有りて、有無を交易す。大倭をしてこれを監せしむ」とあるように、邪馬台国国家群内の市場取引を監督していた。

邪馬台国は、当時、言わば「大倭」の監視下にある保護国のような立場にあったわけで、その監督者の官名こそが一等官であった「伊支馬(イキマ=イキメ=生目)」だったと考えられる。

では邪馬台国が大倭から監督されるというような危機的状況に陥った原因は何だったろうか?

私見の邪馬台国は筑後の八女だが、北部九州の筑前と福岡県南部の筑後の間には佐賀県小城市から朝倉市にいたる広大な平野部があり、もともとそこを支配領域としていた「厳奴(イツナ)」こと「伊都(イツ)国」勢力が威力を振るっていた。「厳(イツ)」とは武力に秀でていることを示し、大国主が別名「八千矛(やちほこ)神」と呼ばれ、干戈によって国々を治めていたことの表現に他ならない。

しかしこの厳奴(イツナ)と北部九州の海岸部から南へ勢力を伸ばして来た五十王国(大倭)とは、早晩、干戈を交える運命にあった。そして実際に戦闘になった。

これが後漢書も記す「倭国の大乱」で、ついに大倭が勝利し、厳奴の主たちは出雲に流され、一部の者たちだけが佐賀平野の西の山間部、現在の厳木(きうらぎ)盆地に留まることを許された。これが倭人伝に記載の「伊都(イツ)国」である。

この厳奴の残存勢力が伊都(イツ)国として存続を許されたのは、おそらく大陸の漢王朝時代に彼我の交流を通じて漢籍や外交に明るかったからだと思われる。だが、厳奴の大首長である大国主は現在の出雲に流されたと見る(イツナ→イヅマ→イヅモ)。先年、出雲地方で発掘された銅鐸の鋳型が佐賀平野東部の三津永田遺跡から見つかっているのは一つの考古学的証拠である。

(※八女の邪馬台国は、厳奴と大倭との間の戦乱に直接巻き込まれることなく無事であったが、北部九州の大倭によって保護国化され、監督(総督)の置かれている間は良かったが、「大倭」こと崇神・垂仁の五十王国が大和へ東征してしまうとたちまち南の狗奴国の侵攻を許すことになった。

その結果、2代目女王トヨの時に八女邪馬台国は狗奴国によって併呑されてしまう。トヨは辛くも九州山地を越えて落ち延び、宇佐地方に至り小国を安堵された。宇佐神宮に祭られる正体不明の「比女之神」こそがトヨであり、このトヨに因んで現在の大分県域が「豊の国」と呼称されたと考えている。)

【出雲と崇神・垂仁王権】

北部九州から出雲に流された厳奴の首長は八千矛神ことオオクニヌシであった。この神は出雲大社に祭られているが、出雲大社の本殿の向きが西なのは、元の本拠地である北部九州を忘れてはならぬという決意の反映だろう。

出雲大社の宮司は千家氏(中世の一時期から北島氏も神職を得ていた)だが、現在の宮司は千家尊祐氏で84代続いており、2世紀後半の倭国大乱の結果厳奴が出雲に流されて祭祀が始まったとすると現在まで84代約1800年の系譜ということになり、1代が22年ほどとなり、代数と年数に整合性が得られよう。

千家氏の始祖は天照大神の五男子の二番目「アメノホヒ」であるのは、北部九州の厳奴と大倭との戦いこそが「国譲り」だったことを端的に示している。高天原系の天つ神が、敗れた側の国つ神である大国主を祭り、二度と干戈を交えないようにするための方途として第一級のやり方である。

さてこの出雲には神宝(シンポウ=かむたから)があるという。

日本書紀によると、崇神天皇の60年7月に崇神天皇は次のように臣下に告げた。

<武日照命(タケヒナテルノミコト)が天から持参した神宝は出雲大社にあるというが、ぜひ見たいものだ。>

そこで矢田部氏の遠祖である武諸隅(タケモロスミ)を出雲に派遣した。

しかし、この時に神宝を管理していた出雲振根は筑紫国(九州)に出かけていて留守だった。ところが振根の弟の飯入根(イヒイリネ)は兄に相談もなく神宝を崇神王権に上納してしまった。

筑紫から帰って来た兄の振根は怒り心頭で、ついに弟を殺害した。

その事情を下の弟の甘美韓日狭(ウマシカラヒサ)と子のウカヅクヌは崇神王権に訴えたところ、王権側から吉備津彦(キビツヒコ)と武渟河別(タケヌナカワワケ)が派遣され、振根は殺されてしまう。

崇神王権はついに出雲を徹底的に叩く政策に出たようである。

厳奴(イツナ)は北部九州において宿敵として戦った相手だが、首長の大国主は生存を許されて葦原中国を天孫に譲り、自分は「百足らず八十隈手に隠れて侍らわん」と出雲の地を隠居の地として鎮まったわけだが、その出雲には「神宝」があるとして、それを差し出させることが最終の目的だったかのようである。

【出雲の神宝とは】

その神宝が崇神王権側に奪われ、当時の首長で神宝を管理していた出雲フルネが殺害されたことで、出雲では神祭が行われなくなってしまった。その時に丹波の氷上の人が「子どもが神がかって不思議な歌を唄いました」と朝廷に奏上したのだが、其の歌とは、

<玉藻の鎮め石 出雲の人祭る 真種の甘美鏡 押し羽振る 甘美御神 底宝御宝主。 山河の水泳(くく)る御魂 静かかる甘美御神 底宝御宝主。> 

意訳してみると、「水の中で藻が付着した石を出雲人が祭っている。本当の立派な鏡を押しのけてしまうような素晴らしい神。これこそが水底にある宝の中の宝だ。山川の水によって洗われている御魂が静かに居付いているような素晴らしい神。これこそが宝の中の宝だ。」となる。

前半の「宝の中の宝」までと後半の「宝の中の宝だ」までの二つの文は、同じ「宝の中の宝」を少し表現を変えて形容しているのだが、共通しているのは「宝の中の宝」が水中にあるということである。

また、その宝の貴重なことは、前半の文中の「本当の立派な鏡」を押しのけてしまう、つまり鏡よりも数段上の宝というほどだというのだ。

当時の貴重品は何と言っても祭祀の必須アイテムである「鏡・玉・剣」だろう。この中でも「鏡」こそは天孫降臨の際に天照大神が孫のニニギノミコトに「鏡を私の形代にしなさい」と言ったのであるから、最高の御神だったはずである。

しかしながら、それを上回る貴重な宝だというのである。

その宝を求めて崇神天皇は武諸隅を出雲に派遣し、その結果、神宝の管理者出雲フルネが筑紫(九州)に出かけていた留守の間に上納させることに成功したようだが、宝がどんなものであるかは不明であった。

ところが時代の垂仁天皇になったその26年8月、垂仁天皇は突然、物部十千根(モノノベトヲチネ)の大連に対して次のように言い出したのだ。

<「たびたび出雲に使いを遣って出雲の神宝を調べさせるのだが、どうもはっきりしない。お前が出雲に行って調べて来なさい。」

そこで物部トヲチネが出雲に出張し、調べて「これこそが出雲の神宝だ」と断定し、そう復命した。物部トヲチネはその神宝を管理することになった。>

これで出雲の神宝探しは一件落着したというわけだが、この時もまた出雲の神宝が鏡なのか玉なのか剣なのか、明確に記されていないのである。

出雲ではオオクニヌシが主祭神だが、オオクニヌシは高天原から出雲に天下ったスサノヲノミコトの6世の子孫であり、ならばスサノヲがヤマタノオロチから得た「草薙剣」こそが出雲で祭るべき至高の神宝のはずである。

それならそうと記されて何の不思議もないだろう。

ところがそのような記載はないのである。

【「漢倭奴国王」の金印こそが出雲の神宝か・・・】

父の崇神天皇は出雲の神宝を求めたが、得られず、子の垂仁天皇の時に改めて出雲の神宝を求めたが、これもどうやらはっきりしない。

そこで神宝探索の最初に戻ってみよう。

崇神天皇の派遣した武諸隅の時、神宝を管理していた出雲フルネは筑紫(九州)に行って留守だった――というのだが、朝廷から使者が派遣されるにあたっては突然やってくるのではなく、あらかじめ何らかの予約があってしかるべきだろう。

その予約がありながら、神宝を管理している肝心の出雲フルネが筑紫に行ってしまって留守をしていたということも通常なら有り得ない行動である。

私はそこに出雲の策略を見るのだ。つまりフルネは神宝が危ういとみて神宝を筑紫に持ち出し、そこに隠したと考えるのである。

九州北部には元来の土着倭人がおり、それを支配していたのがオオナムチことオオクニヌシの厳奴(イツナ)であった。その一国である博多奴(ナ)国は西暦57年に漢王朝に朝貢した。その結果得られたのが「漢倭(委)奴国王」の金印であった。

この金印は漢王朝の藩屏であることを物語るしるしだが、倭国として初めての「大国のお墨付き」であり、当時の倭人の国々のどこも持ち得ない最高の勲章なのであった。博多奴国を傘下におさめるのちの出雲こと厳奴(イツナ)にとっても同様であった。

ところがその後、約100年にして、糸島を本拠地とする五十(イソ)王国の崇神王権が次々に北部九州の倭国を傘下に「大倭」を形成すると、大国主の厳奴(イツナ)と「大倭」の両雄は戦端を開いた。

これが「倭国大乱」であり、後漢書に依れば「桓霊の間」すなわち後漢の「桓帝」と「霊帝」の統治期間(148年~187年)に起きた筑紫最大の戦乱であった。大国主の厳奴(イツナ)は敗れ、出雲に流されたことは上で述べたとおりである。

この時、厳奴(イツナ)は「漢倭奴国王」の金印を大倭に差し出さず、「神宝」として出雲に持参し、深く隠匿したのだろう。

それが崇神王権が大和に開かれ、しばらく経つと「あの漢王朝から貰ったという金印はどうなったのか」と過去を振り返るようになり、それは出雲にあるという疑いに発展し、ついに「神宝を探し出せ」という崇神の要求になったに違いない。

その一報を聞いた出雲フルネは金印を持って筑紫に下り、ゆかりの地である博多沿岸の志賀島の海岸の浅瀬に石の板囲いを設え、その中に金印を隠したのだろうと考えるのである。

まさに「水泳(かか)る」場所であり、もしかしたら出雲から元の本拠地である筑紫北部を奪還しようとして金印に魂を込め、海岸の浅瀬に置いたのではなかろうか。

時は移り天明4年(1784年)、当地は陸地となっており、そこを田んぼとして耕作していた百姓甚兵衛が排水路を改修していた折に金印を見つけたのであった。金印は実に1500年ほどの眠りから覚めたのである。これこそが「出雲の神宝」であろう。






同盟国と同志国

2023-01-08 21:05:22 | 専守防衛力を有する永世中立国
今日、陸上自衛隊の第1空挺団(落下傘部隊)が新年の展示訓練を「同盟国アメリカ」と「同志国イギリスおよびオーストラリア」の軍隊傘下のもとで行ったというニュースがあった。

同盟国といえば無論アメリカで、日米安全保障条約に基づく同盟国だが、「同志国」とは初めて耳にする言葉だ。

端的に言うと、この同志国とは例の「クワッド」に属する国のことだろう。

クワッドは日米豪にインドを加えた「4か国」による安全保障と経済的連携を目指す枠組みで、去年初めて首脳会談(日米豪印戦略対話)が行われた。

クワッドにイギリスは属していないが、オーストラリアはイギリス連邦の一国なので、実質的にはイギリスも「同志国」だろう。

クワッドの目的は対中戦略にあり、インドと太平洋における自由往来を確保しつつ、中国を囲い込み、中国の軍事的な海洋進出に圧力をかけることにある。

だがしかし日本は日米安全保障条約という日本とアメリカの二国間同盟を結んでいながら、さらにクワッドの中でもアメリカとの連携を持つという「2重の同盟」となるが、これをどう理解すればよいのだろう?

そもそも国連憲章では「二国間軍事同盟」は認めておらず、多国間による同盟によって紛争を解決しようというのが最大のテーマなのだ。

国連の成り立ちそのものが、まさにその理念によって裏打ちされている。

ところが国連憲章の第53条によって、国連の創設国家群(連合国家群)に楯突いた日本はじめドイツなど枢軸国家群について「旧敵国」というレッテルが張られており、結果として日本などがどんなに国連分担金などを負担しても、常任理事国には成れないでいる。

しかしその旧敵国でも「自由と民主主義(選挙による議会運営)」が国家の屋台骨として機能するようになれば、堂々たる自主独立の加盟国になるはずだった。

だが残念ながら東アジアをめぐる共産勢力の伸長によって朝鮮動乱(1950年6月25日勃発~1953年7月27日休戦協定)が起こって風雲急を告げることになった。

そのため1951年9月28日のサンフランシスコ平和条約によって晴れて世界の民主国家の仲間入りをしたにもかかわらず、同時に日米安保(旧安保)が結ばれて国連軍の駐留から米軍の単独駐留へ移行し、そのまま今日に至っている。

ところがここへ来て米中間の軋轢が強まり、中でも台湾情勢をめぐる中国の不穏な動きが米国をして危機感を抱かせるようになったため、クワッドを利用して日米豪英による共同訓練が陸上自衛隊習志野演習場で開催されたわけである。

私などはこのように多国間の共同訓練は歓迎するが、アメリカとだけの日米同盟による共同訓練はすべきではないと考えている。国連憲章に抵触するからだ。

日米安保解消後の多国間による枠組みの一つとして、このような取り組みは必要で、そこではアメリカも多国間の一員として参加すればよく、何も二国間に縛られる必要はない。それでこそ日本独自の積極的平和主義が生かされる。

日米安保を結んだまま、アメリカが今以上に中国敵視政策を取った場合、台湾防衛にあたって日本が今のウクライナ以上にアメリカの楯になる可能性が高い。

対米従属が好きな人は「これぞ醜(しこ)の御楯」と喜ぶのだろうが、とんでもない話だ。


「交通戦争」は終わった?

2023-01-05 21:13:43 | 日本の時事風景
去年の交通事故による死者数が2600人余りと、統計を取り始めて以来最少になったと報道された。

たしかに少なくなった。鹿児島県でも40数人とこれも最少を更新した。

昔、団塊世代が自動車免許を取り始めた頃の1970年代は「交通戦争」と言われ、死者数が1万人を超えていたので、隔世の感がある。

その頃は今より車、特に自家用車の数は圧倒的に少なかったのだが、道路事情が悪かったのと、車自体の性能が今より劣っていたためだろう。ラジエーターの沸騰で立ち往生してしまった車やブレーキの不具合など、割とよく見かけたものだ。

余りの交通事故死者の多さに「車は走る棺桶」と揶揄されていたのを思い出す。

高速道路での「あおり運転」がよく話題になり、それによる死者も出ているが、高速道路は車の利用頻度からすれば交通事故死の割合は一般道路よりはるかに少なく、車にとっても人にとっても安全である。

一般道路の場合は、車対人の事故が死を招いている。鹿児島県の40数人の死者のうち半分以上はそういった事故で、しかも高齢者が被害に遭う場合がほとんどだ。

いずれにしても日本では今や「交通戦争」は終わりを迎えつつあるようだ。

外国ではどうだろうか?

去年の12月半ばだったと思うが、ロシア大統領のプーチンが出征兵士を持つ家族(ほとんど母親らしき女性たち)と懇談する場面が放映されたことがあったが、プーチンの言葉で、

「我が国では交通事故死で3万(が無駄死にしており)、ウォッカによる中毒で3万も死んでいる。今度の戦いでたとえ戦死したとしても、それは国家のために戦った名誉の死だ」(※カッコ内は引用者の補い)

と集まった家族(母親)の前でそう述べ、家族を慰めていたが、この場面の評価は別として、ロシアでは交通事故死者が3万人もいることが明らかになった。アルコール中毒死も3万いるという。

ロシアは今ウクライナへの侵略戦争を起こし、アメリカなどのメディアによるともう数万人規模の戦死者が出ているというが、仮に3万としてもプーチン流の解釈によれば交通事故やアルコール中毒によって無駄に死ぬよりかはるかにましな「名誉の死」なのだ。

3万という交通事故死者を見ると、日本の2割増しに過ぎない人口(1億4千万)からすれば、こっちもまさに戦争であり、プーチンは二つの「戦争」を抱えていることになる。

アメリカの交通事故死者数も3万ほどと聞いたことがある。この数はロシアと肩を並べるが、人口はアメリカの方が2倍もあるので、交通事故死亡率はアメリカが1とするとロシアは2であり、ロシアの死亡率は驚くほど高いことになる。

アルコール中毒死に関してはおそらくアメリカの方がはるかに少ないだろう。その代わりアメリカで多いのが「銃による死」だ。

これも約3万と聞いたことがあるが、すべてが他殺(殺人)なのか銃による自殺も含めているのか寡聞にして知らないが、いずれにせよ「銃による死」はアメリカの専売特許だ。一般人の銃の保持は憲法で認められた権利だ、というのだから始末が悪い。

ロシアのプーチンは戦線に送り出す若い兵士に「たとえ死んでも、交通事故やアルコール中毒で死ぬよりはるかに国のためになる。名誉だし報奨金が出るぞ」と言っているのだろうか。

アメリカはアメリカでアフガニスタンやイラクへ送り出した若い兵士に「たとえ死んでも、国内で銃撃戦をやって死ぬよりはるかに国のためになる。名誉だし、金になるぞ」とでも言ったのだろうか。

そんな風には言わなかったことを願うが、いずれにしても日本で「交通戦争」は過去のものになりつつあるのは喜ばしい。