鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

隠れた名園「旧田中家別邸」(霧島市福山町)

2023-01-15 18:55:36 | おおすみの風景
2泊3日で単身で帰省していた息子を鹿児島空港まで送った帰り道、往路の東九州自動車道には乗らず、垂水経由の海岸通りを帰ることにした。

国分の南部敷根から道路は海岸沿いに走ることになる。神武東征のいわれが残る若尊ノ鼻(わかみこのはな)入り口を右手に見ると道路はちょっとした峠への上り道となり、峠を越えると福山町の海岸に面した街並みに入る。

しばらく行くと左手に有名な「福山酢」の工場が見え、そこを過ぎると行く手に海岸の波止が迫ってくる。すると道路の左に「旧田中家別邸」のさほど大きくない看板が目に入る。

この看板は国分から垂水経由で鹿屋に帰る時には必ず目に入るのだが、これまで何十遍と目にしながら一度も立ち寄ったことがなく、今日は時間の余裕がたっぷりあったので、寄って行くことにした。

国道を左折して細い道をたどると、右手に郵便局があり、そこからほどなくして駐車場の案内があり、車を入れて止めた。

駐車場から一軒家をやり過ごした所が「旧田中家別邸」だ。

軽自動車なら上がって行けそうな石畳の通路を上がり、屋根付きの立派な門をくぐると右手奥に幅が広く、静かな佇まいの玄関があった。

ところが門にも玄関にも案内者も案内書きもなく、家の中にいきなり入っていいものかを質すことができないので、とりあえず、家の向こう側にあるという庭園に行ってみた。

ちょうど100年前の大正11年(1922)に建てられたという家の方は、県の有形文化財に登録されているのだが、庭園は対象ではないらしい。

しかし庭園を眺めてその規模には驚かされた。


山水式の庭園で、池の水が実に豊富である。石組みも素晴らしい。
借景は裏手(東側)の北から南に走る鹿児島湾に特有のカルデラの外輪山だ。

そして今日は曇りで見えなかったが、裏手の稜線と真反対に海に聳える桜島も借景だという。贅沢な話である。

別邸(別荘)の敷地面積は1100坪で屋敷の建坪は130坪というから、庭の面積はざっと900坪。巨岩や石灯篭、石の橋などの加工費用まで含めれば、数億は下らない代物だろう。

こんな別荘を建築したのは田中省三という実業家である。

建物の中に置かれていた自由配布のパンフレットには、田中省三のことが大略次のように書かれている。

<田中省三は当地で1858年に生まれ、1877年の西南の役では西郷軍に所属した。敗戦後は一時期監獄に入れられたが許されて、地元の小学校の教師となった。

その後大阪に出て大きな商店に勤め、そこで得た商業知識を基に海運業に乗り出したところ、日露戦争や第一次世界大戦時の商船ブームで当たって財を成し、衆議院議員にも担ぎ出されたという経歴の持ち主だった。

私立福山高校の創設に関与して多額の寄付を行っており、郷土の先覚者の一人である。

別荘の建築には大阪から大工の棟梁を連れてきたことや、庭園の石工は鹿児島人だったことが天井裏で見つかった上棟式の際の「棟札」に書かれていた。>

田中省三が寄付をして創設したという学校は、戦後になって県立福山高校となり、子弟の教育に大きく貢献している。

ただ現在の県立福山高校は同じ福山町でも牧の原の方に移転しており、それまであった場所は福山小学校となっている。

いずれにしても当時の成功者は何がしかの貢献を生まれ故郷に残したようだ。

田中省三の場合は別荘まで残したことで、なおのこと、後世の我々の脳裏にその偉業の一端を思い起こさせるよすがとなった。