鴨着く島

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神代三山陵と日本遺産

2019-10-29 15:09:31 | 旅行
今年認定された「日本遺産」の中に「薩摩の武士が生きた町」というテーマで、鹿児島の藩政時代に広がった「外城(とじょう)=麓(ふもと)」という武士による地域の支配体制下に形成された一種のミニ城下町群があった。

鹿児島では初めての認定で、当時存在した108外城と言われる数まではないが、旧武家屋敷群を有する主だった町を網羅し、かつ芋焼酎やつけあげ(さつま揚げ)などの食文化までを含めての認定だった。

日本遺産の認定(指定ではない)は2015年から文化庁の事業として始まり、2020年までにはおおむね100件の指定を予定しており、今年の認定数16件を入れてこれまでに83件が認定された。

文化庁のポータルサイトによれば、そもそも日本遺産認定事業を開始したのは「古都・鎌倉」が世界遺産に登録されなかったのがきっかけだそうである。ならば日本独自の歴史的ストーリー性を持った地域を丸ごと面的に認定して行こう、となったらしい。

現在までに5年間で83件が認定されたので、あと17件が認可範囲である。これに乗ろうと声を上げたのが鹿児島の天孫降臨神話(日向神話)ストーリーである。

アマテラス大神の孫のニニギノミコトの地上降臨が行われたのが鹿児島を含む「古日向」であり、ニニギノミコトの御廟「可愛山陵」は薩摩川内市、二代目のホホデミノミコトの御廟「高屋山上陵」は霧島市溝辺町、三代目のウガヤフキアエズノミコトの御廟「吾平山上陵」は鹿屋市吾平町にある。

これらを総称して神代三山陵というが、単に記紀に載る神話というだけではなく具体的に御陵があるという強みを生かして天孫降臨神話(日向神話)の実存する地域群として連携を考えているようである。

霧島のクシフルタケに降臨したニニギノミコトが大隅半島から薩摩半島に渡り、そこで山の神オオヤマツミの娘アタカシツヒメ(コノハナサクヤヒメ)と出会って結婚し、最初の宮を築いたのが加世田(現在は南さつま市)の笠沙宮だったということで、南さつま市もこの日本遺産認定への動きに加わった。


先日、この神代三山陵と笠沙宮を回って来た。

笠沙宮跡は加世田市の東南3キロほどの舞敷野という地区の少し山手にあり、行ってみたが小高い広場の一段上がった場所に「笠沙宮跡」という大きな花崗岩に陰刻された石碑が建つのみで、案内所はなく人の気もなかった。(旧笠沙町の海岸近くにも石碑がありそこから眺める夕日が素晴らしいそうだが、時間がなく回り切れなかった。)

加世田から約60キロ北上すると薩摩川内市で、ニニギノミコトの「可愛山陵」は4年ほど前に歴史仲間で行ったことがあった。山陵は新田神社のすぐ裏手にある。

新田神社で御朱印を頂き、裏手の可愛山陵を奉拝してから近くの「宮内庁書陵部桃山管区可愛山陵駐在所」だったかうろ覚えだが、いわゆる「墓守さん」の詰め所があり、そこに一人の男性がいたので恐る恐る「山陵の御朱印というのがあるのでしょうか?」と尋ねたところ、「ありますよ」との返事。

そこで新田神社の御朱印の次のページに押してもらった。それがこれである。

次に行ったのが「高屋山上陵」で、薩摩川内市からはほぼ真東へ、俗に言う「空港道路」に従い、いくつかの県道を経て約1時間(50キロ足らず)で到達した。

高屋山上陵はホホデミノミコトの御陵で、こちらは比高が40メートルほどの独立峰の山頂部にあり、最も「山上陵」の名にふさわしい。

上る途中で駐在員らしき人がいたので声をかけ、有難く朱印(御陵印)を押してもらった。それがこれである。

鹿屋市に帰り着いたのは4時で、吾平町の吾平山上陵まで行ってみたらまだ駐在員がいたので頼み込んで押してもらった。

さて、これらの山陵群がはたして首尾よく日本遺産に認定されるかは、その実在にかかわるストーリー性と地元の伝承への愛着と連携した取り組みに掛かってくる。

まずは古事記・日本書紀の記す神話の読み込みと伝承の調査が基本で、それを基にしたアイデアを出すことだろう。

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