鴨着く島

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邪馬台国問題 第10回(史話の会4月例会)

2021-04-20 10:44:38 | 邪馬台国関連
4月18日(日)に史話の会の月例会を行った。

拙著『邪馬台国真論』(2003年刊)の講読を続けているのだが、先月から倭人伝と同じ魏書東夷伝に書かれている「韓伝」の読解に入った。

韓伝のカバーする領域はほぼ今日の韓国であり、そこには「馬韓」、「辰韓」、「弁韓」という三つの国があった。総じて「三韓」とも言っている。

韓伝の内、「弁韓」はのちの任那と重なる国であり、3世紀の当時、倭人の影が非常に濃厚であることが分かるのだが、倭国そのものではなかった。倭人伝が語るように半島南部で倭国に属するのは「狗邪韓国」だけであり、この国はのちの「金官伽耶」すなわち金海市を中心とする港湾交易国家であった。

韓伝の記述の流れ上、馬韓が最初に記されており、前回で馬韓条に見られる国情を見たので、今月は馬韓の風俗についての読解になる。


  【 馬 韓(風俗) 】
(※逐次訳ではなく、要所の条文だけを取り上げて解説していく方法を採っている。)

●「国や村に、各々一人の人物を立てて天神を祭らせている。この人物を「天君(テンクン)」と呼んでいる。」

馬韓諸国(55か国)では国レベルでも地方レベルでも、「天君」と言う名の祭主(神主)のような人物を一人立てて天神を祭らせている。この「天神」とは、農耕儀礼を記した後に出てl来る神なので、農耕の神(水神、山の神)などを指しているのだろう。

倭人伝にはこのような現地の風俗的な描写はなく、卑弥呼ひとりが「鬼道」に仕えていると記しているだけだ。邪馬台国連盟の21か国にもそれぞれ男女の区別なく「小卑弥呼」の類の祭主がいて祭りを行っていたはずだが、魏の使いである帯方郡からの使者が目にすることがなかったのだろう。

南朝鮮の西半分を占める馬韓は特に帯方郡に近く、したがって帯方郡の役人が一年を通じて恒常的に馬韓国内の風俗・風習に接していた。詳しい描写が書けるのはそのためで、使者が卑弥呼時代に3度しか来ていない倭国(九州島)の風俗・風習に関してほとんど情報が無いのは当然と言えば当然である。

さてこの天君による祭祀とは別に、村々には「別邑」(別区)があってそれを「蘇塗」(ソト)と呼んでいる一種の「聖地」があったようである。

●「また国や村々には、別邑があり、蘇塗(ソト)と呼ぶが、そこでは大木を立ててそれに鈴鼓(鈴の付いた鼓)をぶら下げ、鬼神に仕えている。逃亡者でもその蘇塗に入れば、もう追われることはなく、却って賊となる者も現れる。仏教の聖地(修行地)に似ているが、戒律などの違いがある。」

蘇塗(ソト)という別区では「鬼神」を祭っているという。「鬼」は「祖霊」のことであるから、そこでは先祖の霊を祭っている所と言うことであり、確かに仏教の教義とは違う。

先の天君は「天神」であり、こっちは「鬼神」である。どちらも「神」に仕えることに変わりはないのだが、後者の「祖霊」に比べると前者の方がより神格が高いのかもしれない。

「天君」を「あめぎみ」と読むと倭語そのものであり、また「蘇塗(ソト)」はそのままで倭語の「そと」に通じているようである。魏志倭人伝にもう少し詳しく風俗・風習の類が描かれていたら、同じような習慣があったと思われるし、名称自体も共通していたかもしれない。そう思うと惜しいことである。

(※倭語の「そと」を、私見では次のように変化して行くと考えている。
  ソト→スゥトゥ→ウトゥ→ウト・ウツ
  ウトは「宇土」、ウツは「宇都」が当てられ、前者は元来「洞・穴」であり、「宇都(ウツ)」が本義である。
  ウツは「全き」という意味を持つ。「すべてが揃った」という形容であり、またそのような場所である。)


●馬韓の国名から若干の推理
※馬韓55か国の中にはどう見ても倭国内の国名と重なるものがあり、若干挙げておきたい。

臼斯烏旦国(クシウタ国)・・・串良国
臣雲新国(シウシン国)・・・志布志国
莫盧国(マクラ国)・・・枕崎国

馬韓は55か国で10万~11万戸あったと記されているから、一国当たりの戸数は2000戸程度であり、この三国も大小はあるにせよ、平均して2000戸なら、串良も志布志も枕崎もそのくらいの戸数は持っていておかしくない。

このような国名群を倭国(九州島)の地名に擬すことができるのは、九州倭国の国々と半島南部との交流が極めて濃厚だったかrに違いない。その主たる原因は朝鮮半島南部の「伽耶鉄山」の開発、冶金、鉄製品にかかわる交易が盛んだったからだろう。

倭国が弥生時代に入り、紀元前後からは大規模な水田開発が盛んになって行ったのと軌を一にしていると思われる。

そして上掲の半島と九州島との間の交流を支えたのが「定期航路」を担う海運に突出した南九州の鴨族、北部九州の宗像族・安曇族であったゆえ、結果として地名の共通性がもたらされたものと考えられるのである。



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