7月18日(日)、「史話の会」7月例会を開催。場所は東地区学習センター。
今日の論点は「崇神・垂仁両天皇の出自について」副題~キ―ワードは「五十(イソ)」だ~(『邪馬台国真論』174ページ~)
崇神天皇と垂仁天皇の和風諡号にある「五十」を取り上げ、崇神王権が半島南部の「御間城(ミマキ)=後の任那(ミマナ)」」に由来するものであることを解明する。
【崇神天皇の和風諡号】・・・古事記では「御真木入日子印恵(ミマキイリヒコ・イニヱ)」。日本書紀では「御間城入彦五十瓊殖(ミマキイリヒコ・イソニヱ)」
【垂仁天皇の和風諡号】・・・古事記では「伊久米入日子伊佐知(イクメイリヒコ・イサチ)」。日本書紀では「活目入彦五十狭茅(イキメイリヒコ・イソサチ)」
一見して違いが目に付く。古事記が「万葉仮名」を使って表現していることは別にするが、古事記の表記と日本書紀の表記とを比較すると、両天皇ともに大きな違いがある。それは古事記では「五十」を全く示さないことである。
その部分を取り上げて比較すると、古事記では崇神天皇と垂仁天皇の和風諡号の後半部分に「五十」はない。「五十瓊殖(イソニヱ)」は「印惠(イニヱ)」であり、「五十狭茅(イソサチ)」は「伊佐知(イサチ)」である。
なぜこれほど違うのか。なぜ両書を摺り合わせて諡号を統一しなかったのか(古事記の編集者である太安万侶は、日本書紀にも関わっていたのに…)という疑問が浮かぶ。
これについて私見では次のように考えている。
古事記は太安万侶が編纂している。
この太安万侶は古事記によれば、神武天皇の大和で誕生した3皇子の内の長子・カムヤイミミの子孫である。神武天皇(タギシミミ)は南九州由来の王権であり、北部九州由来の崇神王権に滅ぼされている。
しかもその王権の由来は半島南部の「御間城(任那)」である。
この王権による神武(実はタギシミミ)王権の簒奪を、太安万侶は認めたくなかったので、半島由来の崇神王権が北部九州に構えた王宮の所在地である「五十」(糸島市)の存在を消してしまった。
以上のように考えるのである。
では、太安万侶が書かなかった「五十」を日本書紀ではなぜ堂々と記すのか。
それは崇神王権の北部九州における発端の地「糸島」(五十)を隠し通すわけにはいかないということを、書紀の編纂者が考えていたからだ。
その証拠に日本書紀では半島系の渡来人の記述が、まさにこの崇神天皇の時代から始まっていることと、それ以降も半島との交渉の記事の無い天皇紀のほうが珍しいほど、半島がらみの記事があふれていることに気付けば了解される。
逆に言うと、半島との交渉(交流)を描かなければ日本の古代前史は成り立たないということである。それほど半島、ひいてはその背後にある大陸王朝との交流は列島に大きなインパクトを与えていた。
さてではこの「五十」だが、これは「イソ」と読んで福岡県糸島市(旧前原町と旧志摩町)を指すのだが、岩波本などの古典・歴史書では必ず「イ」とだけのルビで済ませている。これは誤りで、おそらく古事記の「イニヱ」だったり「イサチ」だったりの「ソ」を抜いてしまう読み方に同調したのだろうが、「五十」を本来ならば「イソ」と読むべきを古事記の読みに合わせて「イ」と読むその理由は付していない。
「八十神」と書いて「ヤソカミ」と読み、「八十梟師」と書いて「ヤソタケル」と読むのに、「五十」についてだけは「イ」としか読まないのはおかしい。これはやはり「イソ」と読むべきである。
そこで「五十」だが、この地名はどこを指すのかについては、次の二つの史料がある。
一つは「仲哀天皇紀」であり、もう一つは「筑前国風土記逸文」である。それぞれその箇所を示しておこう。
【仲哀天皇紀・8年条】
〈・・・筑紫の伊覩県主の祖「五十迹手(イソトテ)」、天皇の行る(いたる)を聞き、五百枝の賢木を抜き取りて、船の舳先に立て、上枝には八尺瓊(ヤサカニ)を掛け、中枝に白銅鏡を掛け、下枝には十握剣を掛けて、穴門(長門)の引島に奉迎して献上る。(中略)天皇すなわち五十迹手をほめたまいて「伊蘇志(いそし)」と言う。故に時の人、五十迹手が本土を号して「伊蘇国」という。いま、「伊覩(イト)」というは訛(よこなま)れるなり。〉
【筑前国風土記逸文】
〈・・・怡土郡、昔、仲哀天皇、球磨曽於を討たんとして、筑紫に出でましし時、怡土県主らが祖、五十迹手(イソトテ)、天皇出でましぬと聞きて、(中略)、天皇、何れの人ぞや、と勅門したまうに、五十迹手、奏しけらく、「高麗国の意呂山に天より降り来ましし日鉾(天之日鉾)の苗裔、五十迹手これなり。」と申しき。天皇ここに五十迹手を誉めて「恪(いそ)し」とのりたまいき。五十迹手の本土なれば「恪勤(いそしき)国」というべきを、いま、怡土(イト)郡と云えるは訛(よこなま)れるなり。〉
以上の二史料に共通しているのは、仲哀天皇の御幸とそれを迎えた伊覩(怡土=イト)県主「五十迹手」が天皇にまめまめしく仕えたので、天皇から「お前の国をイソとしなさい」ということである。そして繰り返すように「今はイト国と呼ばれているが、それは誤りで、イソ国が本来の国名であった」としていることだ。
つまり現在の糸島市はかつて「伊覩県(いとのあがた)」だったり、「怡土郡(いとぐん)」だったりしたが、もともとは五十迹手がそうであるように「イソ国」だったのである。
(※これによって倭人伝中の「伊都国」を糸島市に比定するのは誤りであることが分かる。糸島市を伊都国としたことによって倭人伝の行程解釈に全くの誤謬が生まれ、女王国には永遠に辿り着けない愚を犯しているのに気付かなければならない。)
すなわちこの「イソ」は「伊蘇」とも「五十」とも書いてよく、どちらも「イソ」と読むべき地名だということが判明する。
しかも五十迹手が首長をしていた怡土郡はイソ国であり、風土記逸文にあるように彼の先祖は半島(高麗国)の「意呂山」に天降りしているというのであるから、崇神王権が和風諡号に「五十」を持つ以上、先祖は半島南部のその意呂山に天降りしたとして何ら差し支えないだろう。
もう一度最初の崇神天皇の和風諡号に帰ると、まさに前半は「御間城(ミマキ)」に「入った彦(王)」で、後の任那(ミマナ)に王宮を構えた辰韓の王であるということが分かり、後半の「五十瓊殖(イソニヱ)」は海を渡った「五十(イソ)」つまり糸島に「瓊(ニ=玉)」すなわち王権を「殖(ヱ)」やした(拡大した)王であったということが了解される。
この「崇神五十王権」は勢力を伸長させて、ここ糸島で生まれた皇子の垂仁とともに北部九州に「大倭」の指導者となり、土着の奴国系の「厳奴(イツナ)国」と戦って勝利し、さらに八女邪馬台国を保護国化したあと、半島情勢及び大陸に晋王朝が樹立された(266年)ことによる危機感に促されて北部九州から大和への侵攻を開始する。これが私の「第二の東征」であり、この東征は3年半という短期で成就し、先に大和入りして橿原王朝を築いていた南九州由来の王権を駆逐することになる。
上に触れた「厳奴(イツナ)」こそ「伊都(イツ)国」であり、崇神率いる「大倭」に敗れて佐賀平野から撤退して、最終的には「厳木(きゆらぎ=イツキ)」に逼塞させられた。また、厳奴(イツナ)の主人公である「大奴主」(オオナムチ)は現在の出雲(島根県)に流されたと見ている。島根が「出雲(イヅモ)」なのは「厳奴(イツナ)」の転訛であろう。
また九州島のほかの国々、中でも「大倭」と女王国との関係、及び女王国の南にあって女王国に侵入しようとしていた狗奴国との関係にも触れておかなくてはならないが、それについては次回に。
今日の論点は「崇神・垂仁両天皇の出自について」副題~キ―ワードは「五十(イソ)」だ~(『邪馬台国真論』174ページ~)
崇神天皇と垂仁天皇の和風諡号にある「五十」を取り上げ、崇神王権が半島南部の「御間城(ミマキ)=後の任那(ミマナ)」」に由来するものであることを解明する。
【崇神天皇の和風諡号】・・・古事記では「御真木入日子印恵(ミマキイリヒコ・イニヱ)」。日本書紀では「御間城入彦五十瓊殖(ミマキイリヒコ・イソニヱ)」
【垂仁天皇の和風諡号】・・・古事記では「伊久米入日子伊佐知(イクメイリヒコ・イサチ)」。日本書紀では「活目入彦五十狭茅(イキメイリヒコ・イソサチ)」
一見して違いが目に付く。古事記が「万葉仮名」を使って表現していることは別にするが、古事記の表記と日本書紀の表記とを比較すると、両天皇ともに大きな違いがある。それは古事記では「五十」を全く示さないことである。
その部分を取り上げて比較すると、古事記では崇神天皇と垂仁天皇の和風諡号の後半部分に「五十」はない。「五十瓊殖(イソニヱ)」は「印惠(イニヱ)」であり、「五十狭茅(イソサチ)」は「伊佐知(イサチ)」である。
なぜこれほど違うのか。なぜ両書を摺り合わせて諡号を統一しなかったのか(古事記の編集者である太安万侶は、日本書紀にも関わっていたのに…)という疑問が浮かぶ。
これについて私見では次のように考えている。
古事記は太安万侶が編纂している。
この太安万侶は古事記によれば、神武天皇の大和で誕生した3皇子の内の長子・カムヤイミミの子孫である。神武天皇(タギシミミ)は南九州由来の王権であり、北部九州由来の崇神王権に滅ぼされている。
しかもその王権の由来は半島南部の「御間城(任那)」である。
この王権による神武(実はタギシミミ)王権の簒奪を、太安万侶は認めたくなかったので、半島由来の崇神王権が北部九州に構えた王宮の所在地である「五十」(糸島市)の存在を消してしまった。
以上のように考えるのである。
では、太安万侶が書かなかった「五十」を日本書紀ではなぜ堂々と記すのか。
それは崇神王権の北部九州における発端の地「糸島」(五十)を隠し通すわけにはいかないということを、書紀の編纂者が考えていたからだ。
その証拠に日本書紀では半島系の渡来人の記述が、まさにこの崇神天皇の時代から始まっていることと、それ以降も半島との交渉の記事の無い天皇紀のほうが珍しいほど、半島がらみの記事があふれていることに気付けば了解される。
逆に言うと、半島との交渉(交流)を描かなければ日本の古代前史は成り立たないということである。それほど半島、ひいてはその背後にある大陸王朝との交流は列島に大きなインパクトを与えていた。
さてではこの「五十」だが、これは「イソ」と読んで福岡県糸島市(旧前原町と旧志摩町)を指すのだが、岩波本などの古典・歴史書では必ず「イ」とだけのルビで済ませている。これは誤りで、おそらく古事記の「イニヱ」だったり「イサチ」だったりの「ソ」を抜いてしまう読み方に同調したのだろうが、「五十」を本来ならば「イソ」と読むべきを古事記の読みに合わせて「イ」と読むその理由は付していない。
「八十神」と書いて「ヤソカミ」と読み、「八十梟師」と書いて「ヤソタケル」と読むのに、「五十」についてだけは「イ」としか読まないのはおかしい。これはやはり「イソ」と読むべきである。
そこで「五十」だが、この地名はどこを指すのかについては、次の二つの史料がある。
一つは「仲哀天皇紀」であり、もう一つは「筑前国風土記逸文」である。それぞれその箇所を示しておこう。
【仲哀天皇紀・8年条】
〈・・・筑紫の伊覩県主の祖「五十迹手(イソトテ)」、天皇の行る(いたる)を聞き、五百枝の賢木を抜き取りて、船の舳先に立て、上枝には八尺瓊(ヤサカニ)を掛け、中枝に白銅鏡を掛け、下枝には十握剣を掛けて、穴門(長門)の引島に奉迎して献上る。(中略)天皇すなわち五十迹手をほめたまいて「伊蘇志(いそし)」と言う。故に時の人、五十迹手が本土を号して「伊蘇国」という。いま、「伊覩(イト)」というは訛(よこなま)れるなり。〉
【筑前国風土記逸文】
〈・・・怡土郡、昔、仲哀天皇、球磨曽於を討たんとして、筑紫に出でましし時、怡土県主らが祖、五十迹手(イソトテ)、天皇出でましぬと聞きて、(中略)、天皇、何れの人ぞや、と勅門したまうに、五十迹手、奏しけらく、「高麗国の意呂山に天より降り来ましし日鉾(天之日鉾)の苗裔、五十迹手これなり。」と申しき。天皇ここに五十迹手を誉めて「恪(いそ)し」とのりたまいき。五十迹手の本土なれば「恪勤(いそしき)国」というべきを、いま、怡土(イト)郡と云えるは訛(よこなま)れるなり。〉
以上の二史料に共通しているのは、仲哀天皇の御幸とそれを迎えた伊覩(怡土=イト)県主「五十迹手」が天皇にまめまめしく仕えたので、天皇から「お前の国をイソとしなさい」ということである。そして繰り返すように「今はイト国と呼ばれているが、それは誤りで、イソ国が本来の国名であった」としていることだ。
つまり現在の糸島市はかつて「伊覩県(いとのあがた)」だったり、「怡土郡(いとぐん)」だったりしたが、もともとは五十迹手がそうであるように「イソ国」だったのである。
(※これによって倭人伝中の「伊都国」を糸島市に比定するのは誤りであることが分かる。糸島市を伊都国としたことによって倭人伝の行程解釈に全くの誤謬が生まれ、女王国には永遠に辿り着けない愚を犯しているのに気付かなければならない。)
すなわちこの「イソ」は「伊蘇」とも「五十」とも書いてよく、どちらも「イソ」と読むべき地名だということが判明する。
しかも五十迹手が首長をしていた怡土郡はイソ国であり、風土記逸文にあるように彼の先祖は半島(高麗国)の「意呂山」に天降りしているというのであるから、崇神王権が和風諡号に「五十」を持つ以上、先祖は半島南部のその意呂山に天降りしたとして何ら差し支えないだろう。
もう一度最初の崇神天皇の和風諡号に帰ると、まさに前半は「御間城(ミマキ)」に「入った彦(王)」で、後の任那(ミマナ)に王宮を構えた辰韓の王であるということが分かり、後半の「五十瓊殖(イソニヱ)」は海を渡った「五十(イソ)」つまり糸島に「瓊(ニ=玉)」すなわち王権を「殖(ヱ)」やした(拡大した)王であったということが了解される。
この「崇神五十王権」は勢力を伸長させて、ここ糸島で生まれた皇子の垂仁とともに北部九州に「大倭」の指導者となり、土着の奴国系の「厳奴(イツナ)国」と戦って勝利し、さらに八女邪馬台国を保護国化したあと、半島情勢及び大陸に晋王朝が樹立された(266年)ことによる危機感に促されて北部九州から大和への侵攻を開始する。これが私の「第二の東征」であり、この東征は3年半という短期で成就し、先に大和入りして橿原王朝を築いていた南九州由来の王権を駆逐することになる。
上に触れた「厳奴(イツナ)」こそ「伊都(イツ)国」であり、崇神率いる「大倭」に敗れて佐賀平野から撤退して、最終的には「厳木(きゆらぎ=イツキ)」に逼塞させられた。また、厳奴(イツナ)の主人公である「大奴主」(オオナムチ)は現在の出雲(島根県)に流されたと見ている。島根が「出雲(イヅモ)」なのは「厳奴(イツナ)」の転訛であろう。
また九州島のほかの国々、中でも「大倭」と女王国との関係、及び女王国の南にあって女王国に侵入しようとしていた狗奴国との関係にも触れておかなくてはならないが、それについては次回に。