三輪山のふもと、纏向の地に王朝を開いた崇神天皇は、「二人のハツクニシラス」(記紀点描②)でも書いたように、朝鮮半島南部のミマキ(御間城)すなわち後の任那から、九州北部の糸島(五十=伊蘇=イソ)に渡来し、そこで五十王国を築き、次第に勢力を伸ばして北部九州の倭人国家群を糾合した人物と考えている。
その様子を端的に表現したのが崇神の和風諡号「御間城入彦五十瓊殖(ミマキイリヒコ・イソニヱ)」で、これは「半島南部のミマ(皇孫)の地に入り、その後、五十の地に渡来してそこで瓊(玉=王権)を殖やした」と直訳される。最後の「瓊(玉=王権)を殖やした」というのは、「勢力を拡大した」ということである。
そして魏志倭人伝において邪馬台女王国連盟を監督するために「伊支馬(イキマ)」を置いた勢力、すなわち「大倭」こそが崇神五十王権であったと見る。
後に垂仁天皇となった皇子の和風諡号にも「活目入彦五十狭茅(イキメイリヒコ・イソサチ)」と「五十(イソ)」を含んでいるのは、崇神・垂仁の親子二代にわたって五十王権を伸長させたことを物語っている。
垂仁の和風諡号には「イキメイリヒコ」とあるが、この「イキメ」は女王国への監督官「伊支馬(イキマ)」のことであり、垂仁はごく若い頃に女王国に派遣されて、監督官「伊支馬(イキマ)」の要職に就いていた可能性が考えられる。
ではこの崇神・垂仁親子が東征をして大和に入り、崇神王朝を開いたのはいつのことだろうか(1)。またなぜせっかく北部九州に樹立した「大倭」を捨てて大和へ行ったのだろうか(2)。そして崇神王権の前に大和に橿原王朝を築いていた南九州由来の「投馬国王権」との王朝交代劇の様子はどのようなものだったのだろうか(3)。
以上の3点について述べてみたい。
順番は違うが、まず(2)から始めよう。東征せざるを得なかった時代状況を見ておきたいからである。
半島南部の後の任那(加羅)と呼ばれる所に王宮(御間城)を築いていた崇神の先祖は、筑前風土記や「仲哀天皇紀」に見えるように、「我が先祖は半島の意呂山に降臨した」と言った糸島の豪族「五十迹手(イソトテ)」の先祖と重なるのだが、半島においては西暦204年に公孫氏が帯方郡を置いて植民地化すると、次第に南方への圧力が高まった。
その後3代目の公孫淵が魏王朝から派遣された将軍・司馬懿によって滅ぼされると、今度は魏の圧迫が始まった。これに危機を抱いた崇神は半島南部から北部九州の安全地帯である糸島(五十)へ王宮を移した。ただし王宮と言ってもおそらく「仮宮」(行宮)レベルの粗末な物であったろう。崇神の子の垂仁の和風諡号の「五十狭茅(イソサチ)」というのは、「五十(糸島)の狭く、茅葺程度の粗末な仮宮で生まれた、あるいは育った」ということを表していよう。
公孫淵が滅ぼされた同じ年に邪馬台国女王の卑弥呼が魏に初めて貢献している。
これはおそらく半島の魏による一円支配とそれに伴う混乱の様子を聞き、女王国の南部から虎視眈々と侵攻する機会を狙っていた狗奴国の動きが強まったためだろう。(※この時に魏による軍事的な介入を求めたのだが、結果としては破格の「親魏倭王」の金印を下賜され、その威光が狗奴国の侵攻を止めたようだ。)
さて五十の地(糸島)にやって来たとは言え、半島からは「一衣帯水」の距離でしかなく、また司馬懿将軍が半島を経由してやって来ないとも限らない。崇神と若きプリンス垂仁とで北部九州一帯に支配を広げたあとも、半島情勢には極力の注意を払う必要があった。
その不安がピークに達したのが、魏が滅びて司馬氏の晋が王朝を樹立した266年頃であったと思われる。既にあの大将軍司馬懿はこの世におらず、孫の司馬炎が皇帝に就いたのだが、今度は晋王朝が半島全体を植民地化し、その圧力が海を越えて来ないとも限らない。
北部九州の本拠地では心もとないと考えて不思議はないだろう。崇神はホームグラウンドの北部九州から安全地帯の畿内大和を目指すことにしたのだ。
(1)の崇神王朝の樹立年代について
西暦266年の晋王朝の樹立が引き金となり、崇神五十王権(「大倭」)は大和への「東征」を開始する。この「東征」は文字通り武力による侵攻とみてよいと思われる。日本書紀が3年半で河内に入り、その後も3年程度で大和に王朝を樹立したと書く「神武」は崇神のこととしてよい。(※その一方で古事記では16年もかかって河内に到達したと書く。これは南九州からの移住的東遷のことであろう。)
仮に晋王朝の樹立年の266年に「東征」に出発したとすれば、河内へは3年半後の269年から270年、さらにその後3年ほどであるから273年ないし274年の頃、遅くとも280年の頃には大和の纏向に新王朝「崇神王朝」が樹立されたと考えられる。
(3)前王朝である南九州由来の橿原王朝(投馬国王権)との交代劇について
私は最初の大和王権である橿原王朝は、南九州古日向にあった投馬国(『魏志倭人伝』)から、古事記が記すように河内に到達するまでまで16年もかかり、さらに畿内上陸後も7~8年を要してようやく樹立された王朝と考えるのだが、この王朝は神武(実はタギシミミ)ー綏靖(カムヌナカワミミ)ー安寧(シキツヒコタマテミ)と続いた。(※三代目のシキツヒコタマテミは本来シキツヒコタマテミミであり、最後の「ミ」の脱落だろう。)
この三代は7~80年続いたはずで、「二人のハツクニシラス」(記紀点描②)で述べたように投馬国王権の橿原王朝樹立は170年代であったから、崇神五十王権が樹立された270年代には4代目の治世だったことになる。
記紀ともに4代目は「懿徳天皇」だと記す。この懿徳天皇の和風諡号は「オオヤマトヒコスキトモ」で、前の3代とは打って変わった諡号である。しかも「オオヤマト」は漢字で「大倭」ではないか。この天皇こそが、大和最初の橿原王朝に取って代わったのが北部九州由来の崇神五十王権すなわち「大倭」であったことを如実に示しているのである。
では記紀の記録上で4代目をすり替えられた橿原王朝側の真の4代目は誰であったのだろうか。つまり270年代に始まった崇神王朝によって滅ぼされた旧橿原王朝の4代目の主は誰だったのだろうか。
結論から言うと、その当主こそ崇神天皇紀で叛逆を起こしたとされている「武埴安(タケハニヤス)彦と吾田媛(アタヒメ)」である。
この二人が南九州由来なのは、まずその名に表されている。武埴安の「武」とは古事記の国生み神話で南九州を「建日別」(建は武と同義)とあることで分かるし、吾田媛に至っては「吾田=阿多」なので、阿多媛であり、そのものずばりである。
さらにこの二人が南九州由来であることを示すのが、崇神紀10年の次の記事である。
〈 吾れ(崇神)聞く、タケハニヤスの妻アタヒメ、ひそかに来たりて、大和の香山(香久山)の土を採りて、領巾の頭に包みて祈り、「これ倭国の物実(ものざね)」と申して、すなわち帰りぬ。ここを以て事あらむと知りぬ。すみやかに図るにあらざれば、必ず遅れなむ。〉
アタヒメがひそかに香久山に登り、その土を採取して「これは大和の物実」と祈りつつ持ち帰ったらしいが、このことは戦いを挑む前兆であるから、後手に回ることなく成敗しよう――崇神はそう考え、タケハニヤスの反乱に備え、勝利したというのである。
この香具山の土を採取して戦いに勝利しようという行為だが、実は神武天皇(タギシミミ)が行っているのだ。橿原に王朝を築く2年前の次の下りである(「神武紀」己未年2月条)。
〈 (神武)天皇、前年の秋9月を以て、ひそかに天香久山の埴土を採りて、八十の平瓮(ひらか=皿)を作り、みずから斎戒して諸神を祭り給い、ついに区宇(天下)を安定せしむ。かれ、埴土を採りし所を名付けて「埴安」という。〉
神武(タギシミミ)が自ら斎戒して香具山の土でたくさんの平瓮を作って供物を神に供え、祈ったことで、天下を平定できたというのだが、アタヒメが香具山の土を採取した行為はこれと同じで、崇神側はタケハニヤスたちが自分たちに戦いを挑んで来る証拠と見たわけである。
アタヒメのこの行為はまさにアタヒメたちが橿原王朝の後継者であったことを示しており、タケハニヤスが橿原王朝の4代目だったのは間違いない。
「武埴安彦の反乱」とは、南九州由来の橿原王朝の4代目が崇神王朝(「大倭」)に取って代わられた「交代劇」に他ならない。それは西暦280年頃のことであった。崇神王朝(纏向王朝)の始まりである。<span>
その様子を端的に表現したのが崇神の和風諡号「御間城入彦五十瓊殖(ミマキイリヒコ・イソニヱ)」で、これは「半島南部のミマ(皇孫)の地に入り、その後、五十の地に渡来してそこで瓊(玉=王権)を殖やした」と直訳される。最後の「瓊(玉=王権)を殖やした」というのは、「勢力を拡大した」ということである。
そして魏志倭人伝において邪馬台女王国連盟を監督するために「伊支馬(イキマ)」を置いた勢力、すなわち「大倭」こそが崇神五十王権であったと見る。
後に垂仁天皇となった皇子の和風諡号にも「活目入彦五十狭茅(イキメイリヒコ・イソサチ)」と「五十(イソ)」を含んでいるのは、崇神・垂仁の親子二代にわたって五十王権を伸長させたことを物語っている。
垂仁の和風諡号には「イキメイリヒコ」とあるが、この「イキメ」は女王国への監督官「伊支馬(イキマ)」のことであり、垂仁はごく若い頃に女王国に派遣されて、監督官「伊支馬(イキマ)」の要職に就いていた可能性が考えられる。
ではこの崇神・垂仁親子が東征をして大和に入り、崇神王朝を開いたのはいつのことだろうか(1)。またなぜせっかく北部九州に樹立した「大倭」を捨てて大和へ行ったのだろうか(2)。そして崇神王権の前に大和に橿原王朝を築いていた南九州由来の「投馬国王権」との王朝交代劇の様子はどのようなものだったのだろうか(3)。
以上の3点について述べてみたい。
順番は違うが、まず(2)から始めよう。東征せざるを得なかった時代状況を見ておきたいからである。
半島南部の後の任那(加羅)と呼ばれる所に王宮(御間城)を築いていた崇神の先祖は、筑前風土記や「仲哀天皇紀」に見えるように、「我が先祖は半島の意呂山に降臨した」と言った糸島の豪族「五十迹手(イソトテ)」の先祖と重なるのだが、半島においては西暦204年に公孫氏が帯方郡を置いて植民地化すると、次第に南方への圧力が高まった。
その後3代目の公孫淵が魏王朝から派遣された将軍・司馬懿によって滅ぼされると、今度は魏の圧迫が始まった。これに危機を抱いた崇神は半島南部から北部九州の安全地帯である糸島(五十)へ王宮を移した。ただし王宮と言ってもおそらく「仮宮」(行宮)レベルの粗末な物であったろう。崇神の子の垂仁の和風諡号の「五十狭茅(イソサチ)」というのは、「五十(糸島)の狭く、茅葺程度の粗末な仮宮で生まれた、あるいは育った」ということを表していよう。
公孫淵が滅ぼされた同じ年に邪馬台国女王の卑弥呼が魏に初めて貢献している。
これはおそらく半島の魏による一円支配とそれに伴う混乱の様子を聞き、女王国の南部から虎視眈々と侵攻する機会を狙っていた狗奴国の動きが強まったためだろう。(※この時に魏による軍事的な介入を求めたのだが、結果としては破格の「親魏倭王」の金印を下賜され、その威光が狗奴国の侵攻を止めたようだ。)
さて五十の地(糸島)にやって来たとは言え、半島からは「一衣帯水」の距離でしかなく、また司馬懿将軍が半島を経由してやって来ないとも限らない。崇神と若きプリンス垂仁とで北部九州一帯に支配を広げたあとも、半島情勢には極力の注意を払う必要があった。
その不安がピークに達したのが、魏が滅びて司馬氏の晋が王朝を樹立した266年頃であったと思われる。既にあの大将軍司馬懿はこの世におらず、孫の司馬炎が皇帝に就いたのだが、今度は晋王朝が半島全体を植民地化し、その圧力が海を越えて来ないとも限らない。
北部九州の本拠地では心もとないと考えて不思議はないだろう。崇神はホームグラウンドの北部九州から安全地帯の畿内大和を目指すことにしたのだ。
(1)の崇神王朝の樹立年代について
西暦266年の晋王朝の樹立が引き金となり、崇神五十王権(「大倭」)は大和への「東征」を開始する。この「東征」は文字通り武力による侵攻とみてよいと思われる。日本書紀が3年半で河内に入り、その後も3年程度で大和に王朝を樹立したと書く「神武」は崇神のこととしてよい。(※その一方で古事記では16年もかかって河内に到達したと書く。これは南九州からの移住的東遷のことであろう。)
仮に晋王朝の樹立年の266年に「東征」に出発したとすれば、河内へは3年半後の269年から270年、さらにその後3年ほどであるから273年ないし274年の頃、遅くとも280年の頃には大和の纏向に新王朝「崇神王朝」が樹立されたと考えられる。
(3)前王朝である南九州由来の橿原王朝(投馬国王権)との交代劇について
私は最初の大和王権である橿原王朝は、南九州古日向にあった投馬国(『魏志倭人伝』)から、古事記が記すように河内に到達するまでまで16年もかかり、さらに畿内上陸後も7~8年を要してようやく樹立された王朝と考えるのだが、この王朝は神武(実はタギシミミ)ー綏靖(カムヌナカワミミ)ー安寧(シキツヒコタマテミ)と続いた。(※三代目のシキツヒコタマテミは本来シキツヒコタマテミミであり、最後の「ミ」の脱落だろう。)
この三代は7~80年続いたはずで、「二人のハツクニシラス」(記紀点描②)で述べたように投馬国王権の橿原王朝樹立は170年代であったから、崇神五十王権が樹立された270年代には4代目の治世だったことになる。
記紀ともに4代目は「懿徳天皇」だと記す。この懿徳天皇の和風諡号は「オオヤマトヒコスキトモ」で、前の3代とは打って変わった諡号である。しかも「オオヤマト」は漢字で「大倭」ではないか。この天皇こそが、大和最初の橿原王朝に取って代わったのが北部九州由来の崇神五十王権すなわち「大倭」であったことを如実に示しているのである。
では記紀の記録上で4代目をすり替えられた橿原王朝側の真の4代目は誰であったのだろうか。つまり270年代に始まった崇神王朝によって滅ぼされた旧橿原王朝の4代目の主は誰だったのだろうか。
結論から言うと、その当主こそ崇神天皇紀で叛逆を起こしたとされている「武埴安(タケハニヤス)彦と吾田媛(アタヒメ)」である。
この二人が南九州由来なのは、まずその名に表されている。武埴安の「武」とは古事記の国生み神話で南九州を「建日別」(建は武と同義)とあることで分かるし、吾田媛に至っては「吾田=阿多」なので、阿多媛であり、そのものずばりである。
さらにこの二人が南九州由来であることを示すのが、崇神紀10年の次の記事である。
〈 吾れ(崇神)聞く、タケハニヤスの妻アタヒメ、ひそかに来たりて、大和の香山(香久山)の土を採りて、領巾の頭に包みて祈り、「これ倭国の物実(ものざね)」と申して、すなわち帰りぬ。ここを以て事あらむと知りぬ。すみやかに図るにあらざれば、必ず遅れなむ。〉
アタヒメがひそかに香久山に登り、その土を採取して「これは大和の物実」と祈りつつ持ち帰ったらしいが、このことは戦いを挑む前兆であるから、後手に回ることなく成敗しよう――崇神はそう考え、タケハニヤスの反乱に備え、勝利したというのである。
この香具山の土を採取して戦いに勝利しようという行為だが、実は神武天皇(タギシミミ)が行っているのだ。橿原に王朝を築く2年前の次の下りである(「神武紀」己未年2月条)。
〈 (神武)天皇、前年の秋9月を以て、ひそかに天香久山の埴土を採りて、八十の平瓮(ひらか=皿)を作り、みずから斎戒して諸神を祭り給い、ついに区宇(天下)を安定せしむ。かれ、埴土を採りし所を名付けて「埴安」という。〉
神武(タギシミミ)が自ら斎戒して香具山の土でたくさんの平瓮を作って供物を神に供え、祈ったことで、天下を平定できたというのだが、アタヒメが香具山の土を採取した行為はこれと同じで、崇神側はタケハニヤスたちが自分たちに戦いを挑んで来る証拠と見たわけである。
アタヒメのこの行為はまさにアタヒメたちが橿原王朝の後継者であったことを示しており、タケハニヤスが橿原王朝の4代目だったのは間違いない。
「武埴安彦の反乱」とは、南九州由来の橿原王朝の4代目が崇神王朝(「大倭」)に取って代わられた「交代劇」に他ならない。それは西暦280年頃のことであった。崇神王朝(纏向王朝)の始まりである。<span>