崇神・垂仁時代には国を揺るがすような大きな反乱が二度あった。
一つはすでに書いているが、「武埴安彦の反乱」であり、もう一つは「狭穂彦の反乱」である。
前者は崇神天皇が即位して間もない頃に起きた「橿原王朝」(南九州投馬国由来の王朝)側の抵抗であった。
武埴安(タケハニヤス)にしろ妃の「吾田媛」(アタヒメ)にしろどちらも南九州風の名を色濃く含んでおり、また、神武が天の香久山の土(埴)を採取して「大和の物実(ものざね)」としたのと同じことを吾田媛が行おうとしたことなどによって特定できる。
では狭穂彦による反乱はどういう性格のものだろうか。(※以降はサホヒコと書く)
この反乱の経緯は、垂仁天皇に嫁いだサホヒコの同母妹「沙穂媛(サホヒメ)」に恋情を抱いていたサホヒコが、サホヒメをそそのかして垂仁を亡き者にしようとことが発覚し、結果として垂仁の派遣した将軍によって二人とも焼き滅ぼされるというものである。
日本書紀では垂仁紀の4年から5年に掛けてその顛末がかなり詳しく描かれている。古事記では紀年が無いのだが、サホヒメが垂仁を小刀で刺そうとして逡巡する場面や、反乱の後にサホヒコが作った「稲城」(いなき)に籠城し、垂仁側の投降の勧めに応じずに二人とも稲城とともに焼き殺されるまでの場面は、歌舞伎の一幕にしたいくらいの文学的な描写に満ちている。
記紀ともにあらすじはほぼ同じで、一見してこのサホヒコとサホヒメの反乱は崇神・垂仁王権すなわち「大倭王権」(纏向王朝)への抵抗というよりも、当時でもタブーであった同母の兄妹が恋愛関係に陥ることを非とする説話に力点が置かれているように見受けられるのだが、一つだけ非常に気になる存在がある。
それは古事記では省かれているのだが、日本書紀には明確にその名を表されている二人の反乱を鎮圧平定した将軍「八綱田(ヤツナダ)」のことである。
書紀において八綱田が登場するのはすべて垂仁5年のうちの記事であるが、次に掲げてみる。
(1)すなわち近き県の卒(つわもの)発し、上毛野君の遠祖・八綱田に命じて、サホヒコを撃たしむ。
(2)すなわち、将軍・八綱田、火を放ちてその城を焚く。
(3)時に火熾(おこ)りて、城崩れ、軍衆ことごとく走る。サホヒコと妹とともに、城の中に死せり。
(4)天皇、ここに将軍八綱田の功をほめたまいて、その名を号して「倭日向武日向彦八綱田」という。
(1)では、サホヒコを攻撃する将軍に、八綱田という者を起用した、という記事で、八綱田は『新撰姓氏録』の和泉国皇別に記載の「登美首(とみのおびと)」によれば、豊城入彦の子であるから崇神天皇の孫に当たる人物である。この人が軍勢を率いて出陣した。
(2)では、サホヒコが作った稲城にサホヒメが逃げ入り、投降の勧めに応じなかった。火が放たれて稲城に燃え移る。(※しかし、生まれたばかりの皇子(ホムツワケ)だけは八綱田側に差し出す。)
(3)ついに稲城は焼かれ、サホヒコ軍の軍士たちは慌てて逃れるのだが、二人はその中にとどまり、焼死する。
(4)以上のようにしてサホヒコとサホヒメは亡き者になった。天皇は八綱田の戦功をほめたたえ、称号を授けた。それは「倭日向武日向彦八綱田」というものである。不可解なのはこの称号である。
「倭日向武日向彦八綱田」を一般には「ヤマトヒムカ・タケヒムカ・ヒコ・八綱田」と読むのだが、そう読んだのでは通り一遍、漢字に訓読みをあてただけの棒読みにしか過ぎない。
これは「倭日に向かい、武日に向かいし、彦、八綱田」と読まなければ意味が取れない。この意味は「倭日(大和)に派遣されて行き、武日(南九州)に派遣されて行きし男、八綱田」ととるべきである。
「倭日」はむろん「大和」を指し、大和においても武将として小規模な反抗を平定したことがあった。
また次の「武日」は「建日」とも書ける(武内宿祢は古事記では「建内宿祢」となる)から、イザナミによる国生みの中で筑紫(九州島)は4つの面からなり、南の面を「建日別」といったとあることから、「武日」は「建日」で南九州のこととしてよい。つまり八綱田は大和から南九州まで、各地で反乱軍を鎮圧して回ったのだろう。
そうと分かるとなおさらこの称号の意味が不可解と言えば不可解である。なぜ「武日に向かい(派遣され)」というような内容の称号がサホヒコの反乱を平定した後に名付けられるのであろうか。
そこで私はふと気が付いたのである。サホヒコの反乱こそが南九州で勃発した叛乱ではなかったのか、と。それならば「武日に向かった男」と称号された意味が取れるのである。
ではその反乱の中身とは何か?
結論的に言うならば、南九州投馬国から西暦170年代に大和入りして築かれた「橿原王朝」だが、100年ほどのちに北部九州「大倭」(崇神五十王国の発展した倭人連合)が大和に侵入し、橿原王朝が次第に「大倭王権=纏向王朝」に取って代わられつつあり(それへの抵抗がタケハニヤスの反乱=270年代前半の頃)、その情報を得た南九州投馬国側が救援軍を派遣しようとした。これは当然のことであろう。
しかしまだ北部九州には「大倭」が去った後でも崇神王権の勢力は残っており、南九州へはそれなりの監視軍を派遣していたはずである。したがって南九州投馬国はすぐには動けなかったに違いない。だが、10年後、投馬国王サホヒコはついに大勢力を結集して大和へ進軍しようとした。
そこへやって来たのが将軍八綱田に率いられた纏向王朝軍であった。西暦280年の頃ではなかったかと思われる。
サホヒコ軍は「稲城」(注)を築いて抗戦したが、大和においてすでに軍功勇ましい将軍八綱田の率いる軍隊の前になすすべなく、稲城とともに炎上し殺害されたのだろう。
サホヒメは、実は、まだ北部九州「大倭」の若きプリンスであったイキメイリヒコイソサチ(活目入彦五十狭茅)こと垂仁に10年ほど前に嫁いでいたが、「大倭東征」には付いて行かずに南九州に残っていたのではなかろうか。垂仁との子であるホムツワケ皇子はその頃もう10歳ほどで、八綱田は皇子だけは大和へ連れ帰ったものと思われる。(※ホムツワケは青年になるまで口がきけない啞者(おし)だったのは、母のサホヒメとの壮絶な別れを目の当たりにしたショックだったのかもしれない。)
以上のような展開を考えてみた。
要するに、「タケハニヤスの反乱」が大和における南九州投馬国系の橿原王朝側の反撃であった一方で、「サホヒコの反乱」は南九州の地で行われた投馬国の崇神・垂仁王権(纏向王朝)への抵抗であったと考えるのである。
北部九州「大倭」(崇神五十王国が発展した倭人連合)は大和への東征前から南九州の動向には目を光らせており、南九州の要衝である大淀川の下流域で当時は遠浅の渚であった「生目地区」に「都督」(監視軍)を常駐させていたものと思われる。この生目地区にある「生目古墳群」は、そのような「都督」たちの墳墓であるのかもしれない。かの「武日に向かいし」将軍・八綱田が眠っている可能性無きにしもあらず。
(注)「稲城」・・・いなき。稲を積み固めて作った城、というより砦。脱穀後の稲わらを、向きを交互に積んで行けば木の板壁の代用にはなる。雨に降られても水を含んでかえって堅固になる。矢を射られてもびくともしないが、乾いていたら火にはめっぽう弱い。八綱田は初戦では苦労したろうが、動物の油をしみ込ませた「火矢」を大量に放って勝利したのだろう。
なお、鹿児島・宮崎(古日向)の伝説の巨人「弥五郎どん」は国分の「稲積」の出身で「稲積弥五郎」という名であるという説がある(宮崎県日南市、田ノ上八幡神社)。
一つはすでに書いているが、「武埴安彦の反乱」であり、もう一つは「狭穂彦の反乱」である。
前者は崇神天皇が即位して間もない頃に起きた「橿原王朝」(南九州投馬国由来の王朝)側の抵抗であった。
武埴安(タケハニヤス)にしろ妃の「吾田媛」(アタヒメ)にしろどちらも南九州風の名を色濃く含んでおり、また、神武が天の香久山の土(埴)を採取して「大和の物実(ものざね)」としたのと同じことを吾田媛が行おうとしたことなどによって特定できる。
では狭穂彦による反乱はどういう性格のものだろうか。(※以降はサホヒコと書く)
この反乱の経緯は、垂仁天皇に嫁いだサホヒコの同母妹「沙穂媛(サホヒメ)」に恋情を抱いていたサホヒコが、サホヒメをそそのかして垂仁を亡き者にしようとことが発覚し、結果として垂仁の派遣した将軍によって二人とも焼き滅ぼされるというものである。
日本書紀では垂仁紀の4年から5年に掛けてその顛末がかなり詳しく描かれている。古事記では紀年が無いのだが、サホヒメが垂仁を小刀で刺そうとして逡巡する場面や、反乱の後にサホヒコが作った「稲城」(いなき)に籠城し、垂仁側の投降の勧めに応じずに二人とも稲城とともに焼き殺されるまでの場面は、歌舞伎の一幕にしたいくらいの文学的な描写に満ちている。
記紀ともにあらすじはほぼ同じで、一見してこのサホヒコとサホヒメの反乱は崇神・垂仁王権すなわち「大倭王権」(纏向王朝)への抵抗というよりも、当時でもタブーであった同母の兄妹が恋愛関係に陥ることを非とする説話に力点が置かれているように見受けられるのだが、一つだけ非常に気になる存在がある。
それは古事記では省かれているのだが、日本書紀には明確にその名を表されている二人の反乱を鎮圧平定した将軍「八綱田(ヤツナダ)」のことである。
書紀において八綱田が登場するのはすべて垂仁5年のうちの記事であるが、次に掲げてみる。
(1)すなわち近き県の卒(つわもの)発し、上毛野君の遠祖・八綱田に命じて、サホヒコを撃たしむ。
(2)すなわち、将軍・八綱田、火を放ちてその城を焚く。
(3)時に火熾(おこ)りて、城崩れ、軍衆ことごとく走る。サホヒコと妹とともに、城の中に死せり。
(4)天皇、ここに将軍八綱田の功をほめたまいて、その名を号して「倭日向武日向彦八綱田」という。
(1)では、サホヒコを攻撃する将軍に、八綱田という者を起用した、という記事で、八綱田は『新撰姓氏録』の和泉国皇別に記載の「登美首(とみのおびと)」によれば、豊城入彦の子であるから崇神天皇の孫に当たる人物である。この人が軍勢を率いて出陣した。
(2)では、サホヒコが作った稲城にサホヒメが逃げ入り、投降の勧めに応じなかった。火が放たれて稲城に燃え移る。(※しかし、生まれたばかりの皇子(ホムツワケ)だけは八綱田側に差し出す。)
(3)ついに稲城は焼かれ、サホヒコ軍の軍士たちは慌てて逃れるのだが、二人はその中にとどまり、焼死する。
(4)以上のようにしてサホヒコとサホヒメは亡き者になった。天皇は八綱田の戦功をほめたたえ、称号を授けた。それは「倭日向武日向彦八綱田」というものである。不可解なのはこの称号である。
「倭日向武日向彦八綱田」を一般には「ヤマトヒムカ・タケヒムカ・ヒコ・八綱田」と読むのだが、そう読んだのでは通り一遍、漢字に訓読みをあてただけの棒読みにしか過ぎない。
これは「倭日に向かい、武日に向かいし、彦、八綱田」と読まなければ意味が取れない。この意味は「倭日(大和)に派遣されて行き、武日(南九州)に派遣されて行きし男、八綱田」ととるべきである。
「倭日」はむろん「大和」を指し、大和においても武将として小規模な反抗を平定したことがあった。
また次の「武日」は「建日」とも書ける(武内宿祢は古事記では「建内宿祢」となる)から、イザナミによる国生みの中で筑紫(九州島)は4つの面からなり、南の面を「建日別」といったとあることから、「武日」は「建日」で南九州のこととしてよい。つまり八綱田は大和から南九州まで、各地で反乱軍を鎮圧して回ったのだろう。
そうと分かるとなおさらこの称号の意味が不可解と言えば不可解である。なぜ「武日に向かい(派遣され)」というような内容の称号がサホヒコの反乱を平定した後に名付けられるのであろうか。
そこで私はふと気が付いたのである。サホヒコの反乱こそが南九州で勃発した叛乱ではなかったのか、と。それならば「武日に向かった男」と称号された意味が取れるのである。
ではその反乱の中身とは何か?
結論的に言うならば、南九州投馬国から西暦170年代に大和入りして築かれた「橿原王朝」だが、100年ほどのちに北部九州「大倭」(崇神五十王国の発展した倭人連合)が大和に侵入し、橿原王朝が次第に「大倭王権=纏向王朝」に取って代わられつつあり(それへの抵抗がタケハニヤスの反乱=270年代前半の頃)、その情報を得た南九州投馬国側が救援軍を派遣しようとした。これは当然のことであろう。
しかしまだ北部九州には「大倭」が去った後でも崇神王権の勢力は残っており、南九州へはそれなりの監視軍を派遣していたはずである。したがって南九州投馬国はすぐには動けなかったに違いない。だが、10年後、投馬国王サホヒコはついに大勢力を結集して大和へ進軍しようとした。
そこへやって来たのが将軍八綱田に率いられた纏向王朝軍であった。西暦280年の頃ではなかったかと思われる。
サホヒコ軍は「稲城」(注)を築いて抗戦したが、大和においてすでに軍功勇ましい将軍八綱田の率いる軍隊の前になすすべなく、稲城とともに炎上し殺害されたのだろう。
サホヒメは、実は、まだ北部九州「大倭」の若きプリンスであったイキメイリヒコイソサチ(活目入彦五十狭茅)こと垂仁に10年ほど前に嫁いでいたが、「大倭東征」には付いて行かずに南九州に残っていたのではなかろうか。垂仁との子であるホムツワケ皇子はその頃もう10歳ほどで、八綱田は皇子だけは大和へ連れ帰ったものと思われる。(※ホムツワケは青年になるまで口がきけない啞者(おし)だったのは、母のサホヒメとの壮絶な別れを目の当たりにしたショックだったのかもしれない。)
以上のような展開を考えてみた。
要するに、「タケハニヤスの反乱」が大和における南九州投馬国系の橿原王朝側の反撃であった一方で、「サホヒコの反乱」は南九州の地で行われた投馬国の崇神・垂仁王権(纏向王朝)への抵抗であったと考えるのである。
北部九州「大倭」(崇神五十王国が発展した倭人連合)は大和への東征前から南九州の動向には目を光らせており、南九州の要衝である大淀川の下流域で当時は遠浅の渚であった「生目地区」に「都督」(監視軍)を常駐させていたものと思われる。この生目地区にある「生目古墳群」は、そのような「都督」たちの墳墓であるのかもしれない。かの「武日に向かいし」将軍・八綱田が眠っている可能性無きにしもあらず。
(注)「稲城」・・・いなき。稲を積み固めて作った城、というより砦。脱穀後の稲わらを、向きを交互に積んで行けば木の板壁の代用にはなる。雨に降られても水を含んでかえって堅固になる。矢を射られてもびくともしないが、乾いていたら火にはめっぽう弱い。八綱田は初戦では苦労したろうが、動物の油をしみ込ませた「火矢」を大量に放って勝利したのだろう。
なお、鹿児島・宮崎(古日向)の伝説の巨人「弥五郎どん」は国分の「稲積」の出身で「稲積弥五郎」という名であるという説がある(宮崎県日南市、田ノ上八幡神社)。