鴨着く島

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「神武東征」の真実②

2020-06-19 17:40:51 | 古日向の謎
前回①では南九州にあった「投馬(つま)国」が神武東征の主体であったとした。今回はその投馬国の位置が南九州であったことを『魏志倭人伝』の行程記事から確認する。

  A. 投馬国の位置

 ⅰ.帯方郡から邪馬台国までの行程

魏志倭人伝は正確には中国の史書『三国志』の中の「魏書」に記載されている「烏丸・鮮卑・東夷伝」の「東夷伝倭人(条)」であるが、通例に従って「魏志倭人伝」とし、ここではもっと省略した表現である「倭人伝」を使う。

さて倭人伝によると、朝鮮半島の南部には「韓」があり、その最南部の「狗邪(くや)韓国」から朝鮮海峡と対馬海峡・玄界灘を渡った九州島に倭人の国があるとしている。

以下に朝鮮半島の魏の直轄地「帯方郡」から「邪馬台国」に至るまでの行程記事を一覧する。行程記事とは区間の方角と距離を記したものである。各国の戸数も記入しておく。

帯方郡治 方角 水行陸行 区間距離 延べ距離   戸数
狗邪韓国 南東 水行   7000里  7000里 ――
対馬国  南  水行   1000里  8000里 1000戸
一大国  南  水行   1000里  9000里 3000戸
末盧国  南  水行   1000里  10000里 4000戸
伊都国  東南 陸行   500里  10500里 1000戸
奴国   東南 陸行   100里  10600里 2万戸
不彌国  東  陸行   100里  10700里 1000戸
投馬国  南  水行   20日・・・・①   5万戸
邪馬台国 南  水行10日・陸行1月・・・②  7万戸
※女王連盟国が21か国ある。最南部に第二奴国がある。 
※郡より女王国まで12000里・・・・・・③
※狗奴国:邪馬台国連盟国最南端の第二奴国のさらに南④

行程記事はこれですべてだが、倭人伝は他に「女王国(邪馬台国)の東、渡海(水行)1000里にはまだ倭人の国々がある」と伝えている。・・・⑤
さらに、「倭人の地を訪ねてみると、海沿いに小島があったり半島があったり複雑な地形だが、船で周旋する(ぐるっと回ってみる)と、5000里ばかりである」とも記している。・・・⑥

帯方郡の海岸から「沿岸航法」により、陸地と並行しながら漕ぎ進めて行くわけだが、まずおなじ朝鮮半島内の狗邪韓国までは、はじめ南下し、その後朝鮮海峡を東へ行って到達する。その距離は7000里だという。

次に朝鮮海峡を南に渡り、1000里で対馬国へ、さらに今度は対馬海峡を南へ1000里で一大国(壱岐国)へ、そしてまた南へ玄界灘を渡り、1000里で末盧国(唐津市)に到達する。

ここまでで帯方郡から末盧国(唐津市)まで10000里であることになる。

ここで首を傾げなければいけないのが、狗邪韓国~対馬国、対馬国~壱岐国、壱岐国~末盧国、それぞれの区間距離をすべて1000里としていることである。

当時はもちろん海図はないわけだし、海の上の距離を測る技術もなかったのに、そもそも陸上の距離標記である「里」を使うこと自体おかしいが、船頭ならこれら三者間の距離の違いは経験上かなり違うことは分かるはずだ。

それを三区間すべて同じ1000里としたのはどういうことだろうか。狗邪韓国は今日の金海市であるから対馬までは80キロほど、対馬から壱岐までは60キロ、壱岐から唐津までは40キロ足らずと、これらを一律に1000里とするには違いがありすぎる。

そこで視点を変える。余りにも違い過ぎる海上の二地点間を同じ1000里という距離表記にしたのは実は「所要日数」が同じだということではないか。

それは何日か。一日であろう。なぜなら各海峡を渡るのに途中で休泊するわけにはいかないからだ。一日で渡り切らなければ特に早いので有名な朝鮮海峡や対馬海峡の海流に押し流されてしまう。

そう考えるとこの三区間に要する航海日数は3日。さかのぼって帯方郡から狗邪韓国までは同じく7000里を航海日数に換算すると7日。合計10日が帯方郡から末盧国までの所要日数ということになる。

 ⅱ.末盧国から「伊都国」まで

末盧国までの距離が10000里、そして所要日数が10日と判明したが、これと上の行程一覧の②と③から、次のことが導き出せる。

まず帯方郡から邪馬台国までの距離を示した③によると、その距離表記は12000里とある。これから末盧国(唐津市)までの10000里を引くと2000里。したがって末盧国から2000里という距離表記のところに邪馬台国があることになる。

ここまでで距離表記的には帯方郡から末盧国までの10000里に対して、末盧国から邪馬台国までの距離表記は2000里であるからその比は5:1となり、邪馬台国畿内説は完全に無理と分かる。

さらに②によると、邪馬台国までの所要日数表記では「南へ水行10日と陸行1か月」であったが、この「南へ水行10日と陸行1か月」を投馬国の次に書かれていることから「投馬国から南へ水行して10日、さらに陸行して1か月」と考える向きが多いが、これは誤りである。

先の行程一覧表の中で投馬国の記事は①のように「南へ水行20日」であったが、仮に記載の順番通り「南へ」を「不彌国の南へ」だとしても、九州島の北部にある不彌国から水行20日だと距離表記的には20000里となり、帯方郡から末盧国間10000里の2倍であるから、鹿児島の南はるか南海上奄美諸島あたりに位置してしまうことになる。

さらに邪馬台国が、その投馬国の南へ水行10日して陸行1か月の場所となると沖縄本島がそれに該当するだろうが、上陸して1か月も陸行して到達するほどの広さはない。

ではどう考えたらよいのか。それには①と②を「帯方郡から南へ」としたらよいのである。

まず投馬国であるが「不彌国から南へ」ではなく、「帯方郡から南へ」と考えれば無理なく解釈できる。それまでの区間距離を「里」という長さの単位ではなく、日数単位にしてあることからも類推は出来よう。

すなわち投馬国は帯方郡の南へ水行20日のところにあったのである。水行20日はどれほどの距離かは、帯方郡から末盧国(唐津市)までの距離表記が10000里であったことから求められる。2倍である。帯方郡から末盧国へ10000里、そしてさらにそこから南へ10000里のところが投馬国ということになる。

末盧国から東回りでも西回りでも10000里(10日)の先にあるのは南九州である。したがって投馬国は南九州にあったとしてよい。戸数が5万戸もある、当時としては超大国の部類だが、今日の鹿児島県と宮崎県を併せた領域なら5万戸も可能だろう。

さて邪馬台国だが、先に「末盧国から邪馬台国まで距離表記では2000里で、帯方郡から末盧国までの距離表記10000里(水行10日)の五分の一しかないから、畿内説は全く成り立たない」ことに加えて、末盧国からは陸行(1か月)するしかない場所にあったことが分かる。

その陸行2000里だが、まず末盧国から東南に500里で「伊都国」に到達する。

この伊都国を糸島半島部の旧前原町(現・糸島市)に比定する考え方がほとんどであるが、糸島市なら何も末盧国(唐津市)で上陸して歩かずとも、壱岐から直接船で着けるはずであるうえ、唐津市から糸島市への方角は東北であり東南ではない。

糸島が絶対に伊都国だと考える向きは、倭人伝でこの東北が東南と記してあることから、「実は倭人伝の東南は東北なんだ。だから倭人伝の南は東の誤りだ。だから南を東に読み替えなければならない」と、強引に解釈して「邪馬台国は畿内にある」としている。

それなら帯方郡から狗邪韓国まではどうなるのか。帯方郡から東南だから、その考えによると東南は東北であるが、帯方郡から東北に倭人の国があるのだろうか。また狗邪韓国から南へ対馬や壱岐唐津があるのだが、この南も東に変えるとなると邪馬台国は日本海の海中に消えるほかない。

倭人伝の記載を勝手に変えてはならないとは多くの邪馬台国論争では言われているが、この「南=東」説はその最たるものである。

そもそも伊都国が糸島市なのであろうか? 

先に述べたように伊都国が糸島市であるのなら末盧国に上陸した後500里も歩いて行かずに、壱岐から直接水行すればよい。

加えて糸島は仲哀天皇紀でも筑前風土記(逸文)でも、そこは「五十迹手(いそとて)」という豪族の本拠地で、仲哀天皇が新羅征伐のために九州北部に駐屯した際に天皇にまめまめしく仕えたというので「いそしき国」なる命名を賜ったとある。

つまり糸島市は古来「イソの国」だったのである。今日でも郷社の「高磯姫神社」が「イソ」の名を今日に伝えているではないか。

したがって末盧国(唐津市)から「東南陸行500里」にあるという「伊都国」は糸島にはないのである。「東南」を「東北」に変えなければそれは当然だろう。

では伊都国はどこにあるのか。それは唐津市を流れる松浦川沿いに東南へ500里行った所である。

私は伊都国を「イツの国」と読むのだが、候補地としては佐賀県厳木町で、読み方は「きゆらぎまち」だ。

ここは継体天皇時代に百済救援のために出陣した将軍「大伴狭手彦」と恋仲になった「松浦佐用姫」の故郷でもあるが、「厳木」は「いつき」とも読めるので「伊都(いつ)の城(き)」という解釈が施せる。

ここまでで末盧国から邪馬台国までの「陸行2000里」の4分の1となる。のこり4分の3で邪馬台国に到達する。

(「神武東征」の真実② おわり)