鴨着く島

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南九州の古代人(2)ハヤト②-【一】

2020-06-11 10:14:49 | 古日向の謎
(2)ハヤト②の序で述べたように、次は日本書紀以上にハヤトに関する記事の多い『続日本紀』から抽出する。

ただし、『続日本紀』のうち、冒頭の文武天皇時代から、元明、元正、聖武天皇までに現れた記事であり、期間的には文武元年(697年)から聖武2年(729年)の32年間に記録されたハヤト関連であり、それ以降、奈良朝末期までは精査していないのでお断りしておく。

しかし聖武2年(729年)のハヤト関連最後の記事が「大隅・薩摩の班田はしないでおく。すでに墾田があまたあり、うかつに班田収授の法を施行すると、喧訴が多くなる」といういわゆる<ハヤト地帯の特例>であり、こののちは強権に対する「叛乱」は回避されている。

さて、文武天皇時代から聖武天皇2年まではわずか32年間であるが、ハヤト関連記事は文武時代に4回、元明時代に8回、元正時代に11回、聖武時代に3回記され、それぞれに若干の私見を加えるとかなりの分量になるので、これを【一)「文武・元明」および【二】「元正・聖武」の二回に分けて掲載することにする。


 【一】 A 文武天皇の時代 

ⅰ.文武4年(700年)6月3日
「薩摩比売・久売・波豆、衣評督(えのこおりのかみ)衣君県(えのきみあがた)、助督(すけのかみ)弖自美(てじみ)、また肝衝難波(きもつきなにわ)が、肥人等を従え、兵(=武器)を所持して国覔ぎの使い・刑部真木(おさかべのまき)たちを剽却(ひょうきょう=脅迫)した。ここに於いて筑紫惣領(つくしのそうりょう=のちの太宰府)に命じて決罰させた。」

朝廷の派遣した南島及び南九州国情調査団(団長は刑部真木)に対して脅迫し、狼藉を働いた廉で筑紫惣領を通じて朝廷に一報が入ったらしく、その点に関して筑紫惣領に厳罰を下させたようである。

その厳罰の内容は不明だが、2年後の「薩摩・種子島征討」に繋がる記事である。

日本書紀の記す天武・持統時代にも「南島調査団」は派遣されており、その都度、薩摩(阿多)と
大隅からは答礼使節が派遣されているのだが、その時点では「脅迫」や「叛乱」めいたことは記事には見えなかった。しかしここへ来て何やら風雲急を告げるあわただしい展開を思わせる記事である。

この記事はそのような歴史的展開とは別に、南九州のいわゆるハヤトの個人名があまた登場することで名高い。

まず薩摩半島西北の川内川下流辺り(現・薩摩川内市)を拠点とすると思われる「薩摩比売・久売・波豆」であるが、これを三名とみるか二名とみるか二通りが考えられる。

三名とみる見方は多くの解説者の見解だが、要するに「薩摩ヒメ」「薩摩クメ」「薩摩ハヅ」の三人の女首長とするのであるが、私見では「薩摩比売」の方は「薩摩の女首長」と一般名詞に解釈し、「薩摩の女首長であるクメとハヅ」の二名と解釈するのである。

三人も二人もどちらでも構わないのだが、いずれにしても薩摩(半島主要部)は女がトップを担っていたのであり、男性優位と見られがちな南九州古代社会も、後世、薩摩隼人の異名を持つようになる封建時代の薩摩武士が支配する男性社会にも、過去にこんな一面があったのは興味深い。

女首長で何と言っても名高いのは邪馬台国の卑弥呼であり後継の台与であるが、文武天皇の前代の持統天皇が女帝であり、次の二代もまた女帝であったことを思うと感慨深い。卑弥呼が「鬼道」に仕えたように、薩摩のクメもハヅも何らかの信仰に従事していたのだろうか。

次の衣君県(あがた)は現在の南九州市頴娃町の古地名である。かっては「え」と一字だったのだが平安時代の初期に単字をやめて二文字にして頴娃となった。ところで副官の弖自美(てじみ)だが、副官の方の名の響きは女性を思わせる。

私見では魏志倭人伝上の戸数5万戸という大国「投馬(つま)国」を古日向(宮崎と鹿児島全体)に比定するのだが、この国の長官は「彌彌(ミミ)」といい、副官を「彌彌那利(ミミナリ)」と言うのだが、「ミミナリ」は「ミミ」の「ナリ」(姉妹・妻=沖縄ではウナリ)であった。

これから類推すると弖自美(てじみ)は衣君県の妻かもしれない。

さて最後の「肝衝難波(きもつきなにわ)」だが、こちらは間違いなく大隅半島側の男性首長であろう。大隅半島には今日でも「肝属郡」があり「肝付町」がある。戦国大名だった肝付氏は平安時代の末期から戦国時代の天正年間まで約400年続いた名族である。

肝付氏が肝衝難波に繋がるという中世史家の見解はないが、私は何らかの繋がりはあると考えているが、いまのところ確実な史料はない。それよりも肝衝難波の先祖を神武天皇の二皇子(タギシミミ・キスミミ)のうち東征に付いて行かず、母・阿比良比売とともに大隅半島に残った「キスミミ(岐須美美)」(岐は港の意味)の後裔かと考えている。

こういった南九州古代人が揃いも揃って武器を持ち、国覔ぎの使いを脅した理由は、中央からの干渉を嫌ったためである。具体的には大和王権が進める全国の律令制化(中央集権化)に反対したためだ。(※翌年、大宝律令が完成している。)

ⅱ.文武6年(702年)8月1日
「薩摩・多褹(たね)、化を隔て命に逆らう。ここに於いて兵を発して征討す。ついに戸を挍(はか)り、吏を置く。」
  同年      9月14日
「薩摩隼人を討てる軍士に勲を授く。各々差あり。」
  同年      10月3日
「薩摩隼人を討ちし時、大宰所部神九処に祈祷せり。実に神威を頼みて遂に荒賊を平らげたり。ここに幣帛を奉り、もってその祈祷の賽ならしめん。」「唱更国国司等、言(もう)す。国内の要害の地に柵を建て、戌(じゅつ)を置きてこれを守らんことを。許す。」

文武6年(大宝2年=702年)にはついに大規模な征討軍を差し向けたようである。同じ年である上、内容は薩摩隼人征伐関連なので、三つの記事を同時に掲げた。

征討軍派遣の結果、2年前に国覔使に歯向かった薩摩半島側の首長はことごとく敗れ、帰順したようである。派遣軍への勲功記事でそれは了解される。そしてついに「戸を挍(はか)り、吏を置いた」すなわち戸籍を計上して人民を掌握し、政府からの役人を置くようになった。令制国の誕生である。(※この年を薩摩国建国の年としてよいだろう。)

さてまた、筑紫惣領(大宰=おおみこともち)に祭ってある九つの神に祈りを捧げて首尾よく行ったので報謝の幣帛を捧げている。また、「唱更国(はやしひとのくに)」は割注に「今はこれ薩摩国なり」とあるように一時薩摩国はそう呼ばれていた。この国ではまだいつゲリラ化したハヤトに襲われるかわからないとのことで、処々に「柵」(砦)と「戌(じゅつ)」(守備隊)を設置しなければならなかった。


   B 元明天皇の時代

27歳の若さで早世した文武天皇に代わり、叔母であり妻でもあった阿閇(あべ)皇后が後を継いだ。これが元明天皇である。

ⅰ.元明2年(709年)10月26日
「薩摩隼人郡司以下188人、入朝す。諸国騎兵500人を徴(あつ)め、以て威儀を備う。」

薩摩・種子島を征討して国を置いて7年が経ち、令制国としての体裁は大いに進んだようで、ハヤト自身の郡司等が188人もやって来た。そこで大和周辺の諸国から騎兵を500人集め、ハヤトたちを威風堂々と迎えさせた。薩摩隼人にとっては威圧感があったに違いない。

ⅱ.元明3年(710年)正月1日
「天皇、大極殿に御し、朝を受く。隼人・蝦夷等また列にあり。(中略)皇城の門外、朱雀路の東西に於いて、分頭騎兵を陳列し、隼人・蝦夷を率いて進む。」

ⅲ.同年      正月16日
「天皇、重閣門に御し、宴を文武百官ならびに隼人・蝦夷に賜う。諸方の楽を奏す。(後略)」

ⅳ.同年      正月27日
「日向国は采女を貢じ、薩摩国は舎人を貢ず。」

ⅴ.同年      正月29日
「日向隼人・曽君細麻呂、荒俗を教喩して聖化に馴服せり。詔して外従五位下を授く。」

ⅱ~ⅴは元明3年内の関連記事であり、まとめて論評する。

ⅱとⅲは昨年来朝した薩摩隼人と蝦夷たちを、正月になって天皇が自ら大極殿にお出ましになり、朝貢をねぎらう場面である。

ⅳは見過ごされがちだが、極めて重要なメッセージだ。南九州のハヤト社会の内、日向からは采女という朝廷内の一種の女官を差し出すように、また薩摩側からは舎人、これも朝廷内の側近的役割の者を差し出せというのである。

舎人と言えば、太安万侶が古事記を選上するにあたり、万巻の史料(旧辞)を読み込んで記憶し、太安万侶に口述した稗田阿礼(ひえだのあれい)が有名である。

古事記の編纂が始まったのは元正天皇の和銅4年(711年)9月からであるから、710年の正月の時点でもし薩摩国から史料判読に長けた人物が呼び寄せられたとしたら、十分に間に合う。

したがって古事記編纂に無くてはならなかった稗田阿礼という舎人は、710年に薩摩国から上京した人物の中にいた可能性がある。

「化外の民に近い南九州にそんな優秀な人物が出るはずはない」と即座に色をなされるかもしれないが、私見で倭人伝時代(2~3世紀)の投馬国は南九州であり、投馬国航海者たちは朝鮮半島を往来していた。それゆえ漢文で書かれた史料を手にする機会は十分にあったのである。

史料上天皇の側近である舎人の嚆矢は、日本書紀の履中天皇紀に登場する舎人「刺領巾(さしひれ)」であるが、5世紀代に側近だったり、殉死したり、とにかく隼人はその頃から天皇の近くに伺候していたことが、いくらかは証左となるだろう。

ⅵ.元明天皇和銅6年(713年)4月3日
「日向国の肝杯・曽於・大隅・姶羅の四郡を割きて大隅国を置く。」

ⅶ.同年          7月5日
「詔して曰く、授けるに勲級を以てするは、もと功有るによる。もし、優異せざらば、何を以てか勧奨せんや。いま隼賊を討てる将軍ならびに士卒等、戦陣に功有る者1280余人に、宜しく労にしたがい勲を授くべし。」

ⅵ、ⅶは対になっている。というのは4月3日に大隅国が設置されたのだが、その前哨戦があり、その結果が「戦陣に功有る1280余人」に勲を与えたわけだからである。

ではその前哨戦とは何か。それは言わずと知れた「大隅建国をめぐる戦乱」である。

どのような戦況であったのか続日本紀は語らないが、この7年後に大隅国初代国司の陽候史麻呂(やこのふひとまろ)がハヤトに殺害されたことによって俗に「隼人の叛乱」が1年4ヶ月にわたって勃興したが、おそらくそれに近い戦乱があったものと思われる。

私見ではその時の大隅半島側の首長は、あの肝衝難波(きもつきなにわ)だったろうと考えている。肝衝難波の戦死によって大隅半島のハヤトたちは大打撃を受けたに違いない。以後、大和王権に対する大きな抵抗は起きていない。

※鹿屋市永野田町にある「国司塚」は肝衝難波の墓だと考えられる。ただし、地元では720年に国分方面で殺害されたと言われている国司・陽候史麻呂の墓所だとしている。

ⅷ.元明天皇和銅7年(714年)3月15日
「隼人、昏荒・野心にして、いまだに憲法に倣わず。因って豊前国の民200戸を移し、相勧め導かしむ。」

大隅国を置いた翌年、律令の法令に従おうとしない「暗愚で野育ちな」隼人たちに手古摺り、豊前から(習熟した)民を200戸、大隅へ移住させている。隼人を教導させようというわけである。

豊前は中国の『隋書』に見えるように、隋からの使者たちも驚くような「華夏(=中国)と同じ位、人智の進んだ所」だったようだ。

200戸を5000人とする「1戸25人説」が一般的だが、移住させられるのは一家の二男三男たちがほとんどだろうから、25人は多過ぎるだろう。せいぜい10人くらいなものではないか。そうすると2000人ということになる。それでも十分に多かったはずである。

((2)ハヤト②-【一】 終わり)