鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

人種差別

2020-06-15 15:13:49 | 日記
アメリカでまた黒人が警察官に殺された。

今度のは飲酒運転で検問され、どうやら事実飲酒運転だったようで、警官が後ろ手に縛ろうとして逃げ出したのを拳銃で撃った。

警官ともみ合った際に「○○銃?」という抵抗されたときに使用する銃器を奪われ、追いかける途中でまず警官がそれで撃たれたらしい。

命を落とすような銃ではないようだが、やはり危険は危険だったのだろう、ついに警官は本物の銃を発射し、命中して容疑者は命を落とした。

「正当防衛」になるのかもしれないが、折も折だ。これが現在続いている黒人への差別反対デモの火に油を注ぐようにならなければよいが、多分そうなるだろう。

しかしまあ、このような凄惨な現場の一部始終を撮影し、ニュース(ネット?)に挙げる方も挙げる方だ。日本では考えられないやり方である。

アメリカは「銃社会」で国内では3億丁とかの銃が出回っていると聞く。基本的に年齢制限はあるものの誰が購入しようが構わない社会で、購入の名目は「護身用」だ。

護身のためだったのかどうかは判断不能だが、年間1万から2万くらいの人が銃で命を落とすそうだから、今度の事案もその one of them に過ぎないのだろう。クワバラ、クワバラな社会だ。

アメリカ社会も認めているように、こういった警官による黒人への差別的な扱いは日常茶飯事だそうで、黒人の方も警官に呼び止められたら「無駄な抵抗をしないように見せる作法」があるらしい。

新型コロナウイルス蔓延の今は誰でもマスクをしているが、平常時に黒人がマスクをしていると、ほぼ犯罪者か犯罪を犯そうとしている超怪しいヤツと思われるのだそうだ。気の毒な話である。

白人の黒人にたいする差別感情が無くなるのは到底無理だろう。何しろ男女間でさえ区別を差別と決めつけてくる「男女平等原理主義者」がどこの国でもいるのだから。

やはり黒人は思い切って米国内に「黒人の国」作るべきだ。決してそれは差別ではなく区別で、差別無き区別は必要だろう。ついでにアメリカ原住民すなわちインディアンにも国を与えるべきではないかと思うが。

ところで世界で初めて国際会議において「人種差別撤廃案件」を提示したのは日本だということは、あまり知られていない。

時は1919年の1月から始まった第一次世界大戦終結後の「パリ講和会議」。戦勝者側のイギリス・フランス・イタリア・アメリカに加えて、日本がそこにもう一つ加わり、他に中華民国はじめ30か国余りが、パリ郊外のベルサイユ宮殿などに集って開催された。

ドイツ・オーストリア・トルコなどの戦敗国の戦後処理問題を話し合ったのだが、その一つの分科会に「国際連盟」設立に関するのがあり、その会議の議長はアメリカ大統領のウッドロー・ウィルソンだった。

国際連盟設立はウィルソンの自説であり、議長を務めて当然だが、会議の最後の方で日本が「人種差別の撤廃」を国際連盟の条文に入れるよう議長に請願を出したのである。

その時の日本側の全権大使は元首相の西園寺公望、副使は外務大臣・牧野伸顕(大久保利通の次男で牧野家に養子に入った)で、牧野が流暢な英語で提案したと思われるが、議長のウイルソンは最初個人的には反対したが、誰かに慫慂され、しぶしぶ一応は参加国の議決に付した。

すると何と賛成が反対を上回ったのである。

しかしウイルソンは「全会一致でなければ条文としては認められない」と頑強に拒んだ。牧野はやむを得ず議案を取り下げたが、「それなら日本が人種差別撤廃案を提示し、賛成の方が多かったという議事録だけは残して欲しい」と訴え、ようやく残されることになったという次第。

(※議事録が残されていなかったらそういう事実はなかったことになったろうが、会議に「議事録」は大切だということが分かる。)

ウイルソンはこの後さっさと国に帰ってしまい、アメリカ議会でも上院が国際連盟への加盟を拒んだため、結局言い出しっぺのアメリカが参加しない国際連盟となった。

ウイルソンの嫌日感はこの一件でより一層強くなったらしく、日本からの移民を締め出し、その後カリフォルニア排日土地法などに見られるように対日規制を強め、ワシントン会議・ロンドン軍縮会議等で日本の軍備の増強も抑え出したのである。

(※アメリカ国内では黒人に基本的人権も与えず、人身売買こそ無くなったものの、相変わらず綿花などの低賃金農園労働に従事させていたため、人種差別撤廃などとんでもない話だったのだ。「公民権」が黒人にも適用されることになるのは、ベトナム戦争後の1970年代のことだ。)

1933年には「五族協和」を謳った満州国の調査にやって来たイギリスのリットン卿らが、満州の権益から日本が手を引くようにという報告を国際連盟に上げ、連盟総会の賛成多数の議決を受け、反発した日本の外相・松岡洋右は国際連盟脱退という挙に出てしまった。


ところで、パリ講和会議が開催された1919年の冬は例の「スペイン風邪」が猛威を振るった最初の年で、1億近い罹患者が出て数百万から1千万の死者があったと言われている。

日本でも同様に猖獗を極め、この後1921年の春まで、三波にわたって流行した。鹿児島では当時の人口140万の半数を上回る80万人が感染し、死者は1万を超えている。とんでもないインフルエンザであった。

今回の新型コロナウイルスの感染者数と死亡者数は勿論それほどではないが、今のように東京あたりで新たな感染者が出ている状況を考えると、夏までに感染ゼロという日を迎えなければ、秋口にかけてより強力に変異したウイルスの襲来が始まるかもしれない。

新々型コロナウイルスは人種差別をしないだろう。