鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

卑弥呼の墓はここだ!

2024-11-21 19:39:24 | 邪馬台国関連
 岩戸山古墳を探訪

畿内大和に邪馬台国があり、247年に死んだ女王卑弥呼の墳墓は纏向古墳群を代表する「箸墓古墳」である――と考えるのが邪馬台国畿内説のダメ押しの感があるが、そもそも畿内説は成り立たないのでそれは不可である。

では、九州説ではどこに卑弥呼の墓があるとするのか?

畿内説を支持する研究者の多くはそう考えるに違いない。九州説の論者で卑弥呼の墓を特定したというのはほとんど聞いたことがないのだ。

私は2003年に『邪馬台国真論』を書き、福岡県の八女市郡域に邪馬台国があったと結論付けたのだが、実はその時点で卑弥呼の墓については結論を避けていた。

八女市にはかつて2回訪れていて、1回目は有名な「岩戸山古墳」を見物し、そのあと卑弥呼の墓をそれとなく探しつつ「童男山古墳群」などを見て回った。

その時は岩戸山古墳は前方後円墳であるから卑弥呼の死後に「径100余歩」という円墳が築かれたという倭人伝の記述に合わないので、論外とした。

また童男山古墳群は墳丘の小ささには不釣り合いな横穴式石室がサイドから入れるようになっていて、これも卑弥呼の時代にはあり得ないとして論外だった。

ところが8年か9年前に大隅地区の大崎町と言う所で地元の古墳群についてのシンポジウムがあって聴きに行った時、考古学マニアとして有名な俳優・苅谷俊介がパネリストとして招かれており、彼の口から「邪馬台国は畿内にあり、卑弥呼の墓は箸墓です。ただ、卑弥呼の墓は最初は円墳でしたが、前方部は後から付けたしたんですよ」と聞いて唖然としたのを覚えている。

そんなことがあるもんか――と瞬間、私は心中吐き捨てるよう言っていた。

箸墓が「初期の定型的な前方後円墳であり、その大きさも初期最大の古墳」と「定型的な」という形容が付く以上、前方部を後から付け足したとすれば矛盾もいいところではないか。

ところがその後5年ほどして、卑弥呼の墓の所在を再考した時に浮かんだのはこの「前方部付けたし説」であった。

折しもその頃、2回目に八女を訪れた時、岩戸山古墳の資料館が新しくなっており、資料館の中から壮大な岩戸山古墳がすぐそこに見え、資料館から後円部に登る道さえできていた。

後円部に登ると、墳頂には石囲いがあり、その中の中心には花崗岩でできた石柱が立てられていた。

刻字を読むとかつてこの場所には伊勢神社という社があったという。それが大正15年に移設され、今は墳丘の下にへばりつくように創建された「吉田大神宮」という神社になっているそうだ(西日本新聞によると今年創建100周年を祝う行事があった)。

後円部を下りて前方部に向かうのだが、その傾斜は先ほど資料館側から登って来た傾斜と変わらず大きいものだった。

下りきるとそこからは前方部なのだが、まるで小高い丘の尾根筋のように平らであった。行き着いた前方部の墳頂には小さな社が建ち、そこから左手に下りの石段があり、前方部のふもとまで降りることができた。

そこから左手へ50mほどで吉田大神宮の鳥居に到るのだが、神社に参ることはせずに資料館に引き返した。

 岩戸山古墳について従来説への疑問

さて、日本書紀によると、継体天皇の時代に半島国家の新羅が任那への圧迫を強め、いくつかの国境地帯の地方が侵攻され始めたというので、継体天皇が物部アラカビに命じて6万の大軍を差し向けようとした時、それを察した新羅が当時筑紫の君であった磐井に賄賂を贈ってヤマト王府軍を抑えるよう画策した一件が発生した。

そのことでヤマト王府軍対磐井の戦いが勃発する。継体天皇の21年、西暦527年のことであった。継体紀によると、翌年の11月には筑紫国御井郡(現在の三井郡)で物部アラカビ自らが磐井を討ち取ったという。

この「磐井の乱」については『筑後風土記(逸文)』にも詳しく載っているが、こちらの記事では「磐井は討ち取られることなく逃げて豊前国の上膳県(かみつみけのあがた)に到り、さらに南の山岳地帯に入って終わった」とあり、死んだには違いないが継体紀とは描写に大きな違いがある。

そしてここが大事なのだが、筑後風土記にはさらに「筑紫君磐井は暴虐でヤマト王権の意向に従わず、生きている時にあらかじめこの墳墓を造っていた」と土地の古老の証言まで載せている。

「岩戸山古墳の被葬者は筑紫君磐井である」と多くの解説がなされているが、その論拠が下線の部分である。

だが磐井が被葬者であるとすると、いったいどうやって彼の遺体をこの墓に埋葬したのだろうか。

継体紀では戦死、筑後風土記では行方不明になりどこかの山中で終わって(死んで)いるのだ。

戦死なら賊軍の大将であるから八つ裂きにされてあちこちに埋められるし、どこか分からない山中で死んだのなら、遺体の回収のしようがない。仮に遺体(の一部)が見つかったにせよ、ヤマト王府軍が待機している八女に持って来て「生前墓」に埋葬するのは不可能であろう。

以上から、岩戸山古墳に磐井が埋葬されていると考えるのは不可解である。それに、反逆者磐井が生前に造ったのであるならば、ヤマト王権軍によって破壊されそうなものだ。

 岩戸山古墳の後円部こそが卑弥呼の墓だ

そこでもう一度岩戸山古墳の姿を振り返ると、後円部の頂にはかつて(大正15年まで)「伊勢神社」があったということに思い至る。

伊勢神社であるから、無論、祭神は天照大神である(創建100年を迎えた吉田大神宮の祭神でもある)。

ここで私は次のように考えてみた。

――後円部にヤマト王府が尊崇する伊勢の大神つまり天照大神が祭られていたからこそ、ヤマト王府軍は古墳を破壊することなく引き上げたのではないか。

そして、後円部には天照大神に匹敵するほどの人物が眠っている。だからこそ伊勢神社と名付け、ヤマト王府軍による破壊を回避したのではないか。

その人物こそが女王卑弥呼だ――と。

 前方部だけが磐井の築いた「生前墓」

そうなると前方部は何故あるのか?

ここで持ち出すのが先に述べた「前方部付けたし説」である。

磐井の出自を私はかつての狗奴国と考えており、狗奴国はほぼ現在の熊本県域であった。卑弥呼が247年に死に、後継者の台与の時に侵攻して八女邪馬台国を支配して以来、磐井まで250年ほどは続いたと考えている。

この磐井はもちろん岩戸山古墳(当時は円墳)が卑弥呼の墓だと知っていた。そして筑紫君(古事記では筑紫国造)として北は粕屋の三宅を掌握するほどになっていた。

ほぼ大王と言ってよいくらいの一大勢力であり、これはかつての邪馬台国に匹敵する。

そこで磐井は卑弥呼の眠る円墳に付け足すように前方部を築き、自分が死んだらそこに埋葬され、後円部の卑弥呼と霊的に結ばれるよう願ったのではないか。

「天円地方」という考え方も磐井の脳裏にあったのかもしれない。「天」は卑弥呼、「地」は自分である。

しかし現実にはそうならなかった。ヤマト王府への反逆者になってしまったから、そこに埋葬されることはなかったのである。

倭人伝によると、後円部が卑弥呼の眠る円墳だとしたら「径100余歩」に一致しないと思われよう。一般的に「一歩」は漢尺では人の歩く2歩分、つまり約150センチとされ、そうすると100余歩は150mにもなる。

だが岩戸山古墳後円部の現有の直径は60mほどで、仮に経年による縮小でかつてはもう一回り大きかったとしても70m程度である。

これでは倭人伝の100歩の半分でしかない。しかしこう考えられないだろうか。この墓を造ったのは倭人であり、倭人は「一歩」を今日の我々でも使っている1歩、すなわち片足分の1歩を「一歩」として後円部の直径を測って帯方郡からの使者に伝えたのではないか。

魏人にすれば50歩だが、倭人は倭人の測り方で100歩と報告したのだろう。それならば60mから70mと言う距離に適うのである。

 まとめ

岩戸山古墳の被葬者は筑紫君磐井ではない。

後円部は元は倭人観念の100歩(60~70m)の円墳であり、そこには邪馬台国女王卑弥呼が眠っている。

筑後風土記が言うように磐井が生前に造った生前墓(寿陵)ではあるが、磐井は後円部に卑弥呼が埋葬されるのを知っていて、自分は前方部を付けたし、死後はそこに埋葬されるのを願った。

継体天皇の22年、王府軍と戦うことになり、磐井は戦死、または行方不明になっており、いくら生前墓と言えども磐井が埋葬されることはなかった。

岩戸山古墳が王府軍によって破壊されなかったのは、おそらく後円部に天照大神に匹敵するような人物が埋葬されていることを知り、手を付けずに残したのだろう。

その代わり、磐井が好んで墳墓に並べた石人石馬などの造作物は王府軍によって破壊された(完全破壊ではない)。




卑弥呼の墓?

2024-11-20 14:38:21 | 邪馬台国関連
前述の纏向デジタルミュージアムのサイトでは、纏向古墳群の盟主的古墳「箸墓古墳」を卑弥呼の墓と決定したい様子が見て取れるが、そもそも邪馬台国が大和のこの地に展開する国ではあり得ないからその見解は否定せざるを得ない。

墓を管轄する宮内庁ではこの古墳の名を「大市墓」とし、書紀の崇神紀に見える有名な「三輪山伝説」に登場するヒロイン「倭迹迹日百襲姫命(やまと・と・と・ひももそ・ひめ)」の墳墓に指定している。

これは崇神天皇の代にあった三輪山の主と皇女の神話伝承をそのまま踏襲しているのだが、戦後は神話などは歴史学の上からは否定され、それに代わって考古学がこうした神話時代の「迷妄」に対して大きな武器となり、遺構と遺物によって科学的に解明しなければ、という認識が一般化した。

ところがその路線には大きな壁があり、上のような「宮内庁の管轄」に加えて「国の指定」という規制が考古学的に必要な発掘をさせないでいる。

大和の纏向地方に邪馬台国があり、箸墓を卑弥呼の墓と考えたい研究者は隔靴掻痒のじれったい思いでいるに違いない。その思いがより一層、箸墓を卑弥呼の墓だ、と叫ばせるのだろうが、卑弥呼の墓に関しては倭人伝という文献にあるだけなのだ。

まずはその部分を見て行かなくてはならない。

卑弥呼は南にある宿敵「狗奴国」が北進して来るのを抑えようと、魏王朝に救援を求めている。西暦238年に最初の朝貢をした際は、そのような点は微塵も感じさせないような「外交」だったが、正始元年(240)に魏王朝からの多量の返礼品と詔書・印綬が届けられたことが狗奴国を刺激したようである。

「親魏倭王」という称号を貰った卑弥呼に対し、狗奴国の男王は危機感さえ抱き、侵攻を開始したのかもしれない。

その結果、邪馬台国では正始4(243)年、2度目の朝貢を行い、その中で狗奴国が邪馬台国を襲おうとしている旨を伝え、その2年後の245年、魏王朝は黄幢(錦の御旗)を使者の大夫・難升米に授けることにした。

実際に黄幢(錦の御旗)を、魏の皇帝からの詔書とともに邪馬台国にもたらしたのは、帯方郡の官吏、塞曹掾史・張政たちであったが、それはさらに2年後の247年のことであった。そして同じ年のうちに卑弥呼は亡くなっている。

その部分は次の通り(読み下し文にしている)。

<その(正始)8年(247年)、太守・王頎、官に到る。倭女王・卑弥呼は狗奴国男王・卑弥弓呼ともとより和せざれば、倭の載斯烏越らを遣わして郡に詣でしめ、相攻撃する状を説けり。塞曹掾史・張政らを遣わし、因りて詔書・黄幢をもたらしむ。難升米に授け、檄文をつくって告諭せり。卑弥呼は自死し、大いに墓を造れり。その直径は100歩余り、殉葬の奴婢は100人余りなり。>

帯方郡の長官として王頎が到着すると、女王から遣わされていた「倭の載斯烏越(人物名。サイシウエか)」と言う人物が邪馬台国と狗奴国が戦争状態になったことを伝えた。邪馬台国女王と狗奴国の男王とはかねてから不和であったというのだ。

そこで塞曹掾史・張政と言う官吏を邪馬台国に遣わし、皇帝からの詔書と黄幢(錦の御旗)を持って行かせたが、卑弥呼は詔書と黄幢を自分自らではなく大夫・難升米に受け取らせた。塞曹掾史・張政がはげしく告諭すると、卑弥呼は自死した。

「卑弥呼以て死す」の解釈だが、「以て」は「直ちに・間もなく」の意味だから、張政が姿を見せずに祈祷だけをし、皇帝からの詔書を受け取るのは人任せにした卑弥呼に対して、張政は怒りさえ覚えたのだろう。

「祈るだけで戦いに勝つなんてことは有り得ない。もっと人民の前に姿を見せて戦士を励ましなさい。」というような趣旨のことも伝えたのではないか。

その結果、卑弥呼は死を選んだのだろう。

彼女が死ぬと、人民は大いに墓を造った。その直径は100歩余り、殉葬の奴婢は100人余りだった。

卑弥呼の死の真相は明確ではないが、とにかく247年のうちには死に、国内は後継者をめぐって争いが起こり、千人余りが死んでしまったが、かつての卑弥呼のように13歳の一族の少女が王に立てられて収まったという。

卑弥呼の死による邪馬台国内の争乱に、狗奴国はどうしていたのかが気になるが、おそらく魏王朝からの使者たちと黄幢の前に、侵攻の手を止めたのだろう。

さて、この時に造られた卑弥呼の墓だが、直径は100歩余りということと殉死者がいたという情報だけである。「径百余歩」だから円墳だろうということは分かる。

期間はどれくらいかかったのか、全く不明であるが、おそらく帯方郡からの使者たちが帰るまでには完成していたに違いない。

私は彼らが到来した247年の翌年、つまり248年のうちには帯方郡に帰ったと考えており、そうすると1年以内には完成しているはずで、纏向の箸墓の直径が150mもあるのを造るのは無理である。

もとより箸墓古墳は「前方後円墳」であるから、円墳である卑弥呼の墓に適うことはない。

情報は限られているが、以上の点から箸墓古墳が卑弥呼の墓であることは有り得ない。



纏向デジタルミュージアム

2024-11-19 03:11:56 | 邪馬台国関連
《纏向デジタルミュージアム》(himiko.or.jp)というサイトは読みやすく、奈良県桜井市の纏向遺跡を中心とする考古資料の宝庫から卑弥呼の国、つまり「邪馬台国」を探ろうという試みがなされている。

このサイトを運営するのは「やまと文化フォーラム」という名の一般社団法人で、その中の<邪馬台国物語の会>である。

<邪馬台国物語の会>の運営者(責任者)については不明だが、おそらく奈良県の著名な考古学者を顧問に迎え、「卑弥呼の墓イコール箸墓古墳」を論点の中心に据えて一般人向けに邪馬台国畿内説を訴えようとする組織だと思われる。

纏向遺跡が3世紀当時の一大都市だったことは考古資料で明らかで、確かに卑弥呼の時代の倭国の様相を伝えるものには違いない。

しかし、そもそも「倭人伝」(正確には「三国志魏書烏丸鮮卑東夷伝倭人条」だが、ここでは「倭人伝」で通すことにする)の行程記事によれば、朝鮮半島中部にあった魏の植民地帯方郡から船出して九州島北部の末盧国(唐津市)までで邪馬台国への全行程1万2千里のうちの1万里を費やしており、上陸後に九州北部を陸行しさらに船出して畿内に至るのに残りの「2千里」では到底不可能な話である。

この残りの「2千里」は陸行のみの2千里であり、したがって邪馬台国の所在地が九州島を出ることはなく、畿内説は完全に破綻している。

また九州説でも、末盧国から「東南陸行500里」というのを「東北陸行500里」の糸島市に比定しているケースが多いが、これも歪曲である。

そしてもう一つ投馬国の位置と邪馬台国の位置だが、まず「南至る投馬国、水行20日」を「不彌国の南」と続けて読んでしまっているが、この投馬国への「南」とは不彌国からの南ではなく、帯方郡治の南である。

次に投馬国の官・副官・戸数を記載したあとに続く「南至る邪馬台国、女王の都する所、水行10日、陸行一月」だが、これも投馬国の記述に続くのではなく、帯方郡治からの南なのである。

視点を変えると投馬国が帯方郡治から水行20日というのは距離表記をすれば「2万里」であり、これは帯方郡治から末盧国(唐津市)までの1万里(帯方郡治から狗邪韓国間7千里+朝鮮海峡間の3千里)の2倍の所にあることを意味しており、唐津からさらに水行1万里(日数表記では10日)の場所は南九州が該当する。

南九州を私は「古日向」としており、これは和銅6(713)年に宮崎県域の日向国と鹿児島県域の大隅国・薩摩国の三国に分離する前の日向、つまり現在の鹿児島県と宮崎県とを併せた広大な国であり、倭人伝に戸数が5万戸もあったとしてあるのもむべなるかなである。

さらに邪馬台国だが、この国の位置も帯方郡から南へ1万2千里の距離にあり、日数表記では水行10日(距離表記では唐津までの1万里)で九州島に上陸したあとは「陸行一月」(距離表記では2千里)の所にある。

唐津(末盧国)からは「東南陸行500里」で「伊都国」に到るとあり、方角の記載を正確にたどれば、松浦川の上流に向かう他ない。そこには「厳木(きゆらぎ)」という町があり、これを「いつき」と読めば、「伊都国」の「いつ」に適う。戸数千戸というのも唐津市の末盧国が4千戸であるから領域的にも整合する。

この時点で、末盧国にの東南にある伊都国を「いとこく」と読み、かつ唐津の東北に位置する糸島市に比定するのは誤りということが分かる。

九州説を唱える研究者の多くも「伊都国」を糸島としており、誤りを認めようとしない上、先に述べたように投馬国も邪馬台国も行程的に不彌国からの「棒読み(連続読み)」をしているので、不彌国以降の行程論に四苦八苦している。

とにかく、不彌国以降の投馬国にせよ、邪馬台国にせよ、「帯方郡治から南へ水行20日のところが投馬国」であり、「帯方郡治から南へ水行10日、陸行一月のところが邪馬台国」であることに目覚めないと、畿内説は無論のこと九州説にしても永遠に邪馬台国に辿り着けない。

この「邪馬台国物語の会」の論者は、どうやら行程論については頬かむりしており、箸墓古墳を卑弥呼の墓に比定し邪馬台国こそが「ヤマト(大和)」の初源であり、卑弥呼の王権がそのままヤマト王権に発展したという説を採用している。

邪馬台国の位置を論じるのに倭人伝の「行程(水行・陸行の日数及び距離表記)」を無視しては始まらない。行程論からは邪馬台国が畿内にあるというのは全く無理だ、ということを薄々は気付いており、そのために行程論を無視しているのかもしれない。

(※私はむろん邪馬台国九州説で、その位置は末盧国(唐津市)から東南陸行500里の伊都国(いつこく)を厳木町に比定し、その距離の4倍に当たる2千里の所に邪馬台国があることから福岡県八女市郡域に比定している。詳細は『邪馬台国真論』(2003年)という著書にあるのだが、今は絶版になっている。)

さて纏向遺跡を残した勢力がヤマト王権の嚆矢であり、邪馬台国の後裔ではないとすると、いったいその王権の由来は何か?

私は纏向に王権を開いたのは「大倭」(倭人伝では、大倭をして監せしむ、とある)であり、その本拠地はそれこそまさに糸島であったと考えている。

ただし、「仲哀天皇紀」及び「筑前風土記(逸文)」に書かれているように、糸島はもと「伊蘇(イソ)国」であり、そこを支配する豪族は「五十迹手(いそとて。手は人の意味。)といった。

第10代崇神天皇にしろ11代垂仁にしろ、どちらも和風諡号には「五十(いそ)」が使われている。

崇神天皇の和風諡号は「御間城入彦・五十瓊殖(イソニヱ)」である。前半の「みま」とは「すめみま」の「みま」で大王、「き」は城であるから「大王の城に入った彦」となる。

また五十は書紀のルビでは「い」としか読ませないのだが、「いそ」でなければ上記の「伊蘇(いそ)」に整合しない。書紀が「いそ」と読ませないのは、五十迹手が言ったように「我が祖先は辰韓の意呂山に降臨した」、つまり韓半島からやって来たのが、五十(いそ)王権すなわち崇神・垂仁王権であることを伏せたいからだろう。

古事記に至っては和風諡号の後半は「印恵」(イニヱ)と「五十」すら伏せている。

記紀のどちらも、白村江の海戦で唐軍に大敗し、あまつさえ九州太宰府が筑紫都督府として唐軍の占領下に置かれた経験から、半島にあった倭人の支配領域はなかったことにし、日本の天皇による統治は太古の昔から日本列島だけに自生してきたたものであることをことさらに強調している。

そうしないと唐や新羅から付け込まれかねないのだ。「お前の国はかつて朝鮮半島を支配していた国が移動して大王になったことがあるだろう。ならば、半島を今支配している唐・新羅の我々が支配者になってよいわけだ」などと・・・。

さて、纏向遺跡を中心とする一大都市の崇神・垂仁王権こそは、倭人伝に言う「大倭」で、その本拠地は糸島から始まって北部九州に拡大された。

この状況を捉えたのが崇神の和風諡号のうちの「五十瓊殖」(イソニヱ)で、この意味は「五十(いそ=後世の糸島)において、瓊を殖やした」であり、瓊とは玉と同義で「王権・権力」であるから、糸島こと「五十(いそ)」の地をベースにして北部九州に一大勢力を築いたことを表している。「大倭」とはこの一大勢力のことである。

この「大倭」が、半島情勢の緊迫(魏の大将軍・司馬懿が半島を席巻し、挙句の果てには魏王朝を一族が乗っ取るという風雲)により、半島を越えて九州島に押し寄せて来る可能性ありと見て、安全地帯である瀬戸内海の向こうの畿内への移動、すなわち「東征」を敢行した。

この東征に要した期間は書紀によると3年であり、これを神武東征としているが、実はこの東征は「崇神東征」とすべきなのである。

では古日向からの神武東征はなかったのかと言えば、あったのである。古日向すなわち投馬国による「神武東征」は、武力によるものではなく端的に言えば「移住的東遷」である。

こちらは古事記によると、筑紫に1年、安芸国に7年、吉備国8年というように長期滞在しているが、16年後にようやく畿内に入り、さらに数年を費やして大和に最初の王権を築いた(橿原王朝)。

大隅半島では弥生時代の後期の遺構・遺物が前期・中期に比べて極端に少ないが、その時代、南九州人が住み難くなったからだろう。その理由は明確ではないが、おそらく火山噴火、大規模な台風の襲来、疫病の蔓延などが原因と思われる。

この「移住的東遷」を「東征」と言うのは言葉がきついが、何にしてもその結果として最初のヤマト王権(橿原王朝)が始まった。私はこれを第一次ヤマト王権とし、崇神主導の「大倭」によって北部九州からわずか3年という短期間で大和入りして樹立された崇神王権を第二次ヤマト王権と呼んでいる。

南九州古日向人による第一次ヤマト王権は弥生時代後期の1世紀から2世紀の間、西暦で言えば140年から180年代(倭国の乱の時代=後漢の桓帝と霊帝の間)であり、崇神の「大倭」が大和入りしたのは3世紀後半だろうと考えている。

具体的に言えば、卑弥呼の死(247年)後に邪馬台国女王に立った台与が266年に魏に代わって王朝をひらいた司馬氏の晋王朝への朝貢をしているが、この朝貢は新しい王朝への貢献であると同時に、かつて卑弥呼がそうしたように南の一大勢力狗奴国の侵略に手を焼いていたからだろう。

そう考えると266年が崇神「大倭」による大和への東征の開始と見てよいと思われる。狗奴国は「大倭」勢力が北部九州から東征して行ったすきに乗じて邪馬台国を襲ったのだ

(※この狗奴国の八女邪馬台国侵略の結果、女王の台与は豊前方面へ落ち延びたと思われる。宇佐神宮に祭られる「比女の神」とは台与のことであろう。また八女邪馬台国は狗奴国に支配され、その後裔が筑紫君磐井であったと考えている。)

要するに西暦266年の頃、崇神の「大倭」は東征にかかり、3年後には大和入りして纏向に定住し、南の御所市を中心とする第一次ヤマト王権(橿原王朝)と対峙した。

第10代の崇神王権が大和自生でないことは、大和の大国魂(おおくにみたま)という大和守護の神を娘のヌナキイリヒメが祭ることができなかったことで明らかだろう。書紀が記すように神武天皇から始まって10代も大和に王権を築いているならば、大和の土地神を祀れないわけがないではないか。

この北部九州からやって来た「大倭」こと崇神王権はやがて御所市の南九州由来の投馬国王権(橿原王朝)と争うようになった。

「タケハニヤス・アタヒメの叛乱」(崇神紀)と「サホヒコ・サホヒメの叛乱」(垂仁紀)の二つの大きな反乱はその証左である。

結局どちらの叛乱も鎮圧され、崇神王権の勝利となった。南九州(古日向)由来の勢力は主に北に逃れ、鴨川沿いか源流の丹波にまで行き着いている。下鴨神社に祭られる「カモタケツヌミ」なども古日向からの移住者であった。

さて箸墓は卑弥呼の墓か? その可能性はゼロと言う他ない。

邪馬台国は畿内大和にはなく、九州島の中にあったからである。
(※私はつとに福岡県八女市郡域を宛てているが、九州説は文字通り百花繚乱で、こちらも収拾がつかない状況である。もう一度行程論を究めて欲しいものだ。)

被葬者が女性なら崇神天皇の大叔母に当たるヤマトトトヒモモソヒメか、天照大神を長い間祭りきったトヨスキイリヒメのどちらかだろう。けっして卑弥呼その人ではない。

(追 記)
このサイトには親切にも倭人伝本文が掲載されているのだが、倭人伝の誤まった解釈が見られた。それは次の箇所である(読み下しにしてある)。

<(台与が新たに女王になった所から・・・)また卑弥呼の宗女台与、年十三なるを王として立てり。国中は遂に定まる。政ら檄を以て台与に告諭せり。台与、倭の大夫卒善中郎・掖邪狗ら20人を遣わし、政らの還るを送らしむ。因って臺に詣り、男女の生口30人を献じ、白珠5千・孔青大句珠2枚・異文雑錦20匹を貢ず。>

サイトでこの部分を訳してある箇所では、「女王の台与が266年に魏に代わって晋が王朝をひらいた時に、正始8年(247年)に邪馬台国に派遣されて狗奴国対策用の軍旗「黄幢」と魏の皇帝の「詔書」を持参した塞曹掾史の張政ら(人数は不明)を送りがてら朝貢した。張政らは邪馬台国に20年ばかり滞在してい。」と解釈しているが、これは誤りで、張政がやって来た年(247年)には黄幢と詔書の絶大な効果により、狗奴国との戦いは止んだので魏の皇帝へのお礼かたがた張政らを送り届けた――というのが正しい。

ただし魏への朝貢の年が247年というのは無理だろう。なぜなら247年には卑弥呼が死んでおり、その直後の邪馬台国は王位をめぐって大いに荒れ、台与が王位に就くまでに千人もの死者が出たというのであるから、どう早く見ても翌248年以降だろう。しかしいずれにせよ、女王に就任後20年も経ってから朝貢したというのは有り得ない。














邪馬台国の官制について(補遺)

2024-10-17 11:01:44 | 邪馬台国関連
(2)で紹介した邪馬台国の官制「四等官」のうち、第二の「彌馬升」を私は「一族(彌馬)の男(升=之男)」と解釈し、これは倭人伝本文の後の方に書かれている「男弟」のことで、「鬼道」(神懸かり)を本領とする女王卑弥呼に変わって国策(行政)を担っている官職であることを述べた。

「升(ショウ)」を「シヲ」と読んで意味が通じると思われる人物の名が倭人伝にはもう一つある。

それは卑弥呼(実質的には男弟)が景初2年(西暦238年)の6月に命じたという次の記事に登場する。

「倭の女王は大夫難升米を遣わし、郡に詣でしむ。天子に詣で、朝献を求めんとすればなり。太守の劉夏、吏を遣わして将に送らしめ、京都に詣でしむ。」

下線部の「難升米」という人物を魏の天子への使いに出した――という記事だが、このあとには同じ景初2年の12月に魏の天子(当時は明帝)からの詔書が紹介され、有名な「よく遠いここまでやって来てくれた。ついては女王ヒミコを<親魏倭王>とし、金印を授けよう」という展開になる。

ここではその下りの詳細は省くが、使者となった「難升米」の解釈を披歴したい。

私はここでも「升」を「シヲ」とし、「難升米」を「ナシオミ」と読む。そして「難」を「ナ(奴)」に取り、この人物を「奴之臣」と漢字化する。

するとこの人物は「奴国(ナコク)の臣」という人物像が浮き上がる。

「奴国」とは倭人伝中の女王国勢30か国のうち、佐賀平野の西部、今日の小城市あたりにあった戸数2万戸の「奴国」、もしくは女王国勢では狗奴国に近い最南部に所在した「奴国」(戸数不明)の2か国があるが、これだけの情報ではどちらとも決め難い。

ところが『後漢書』の「東夷列伝」という巻に次の記事が見いだせる。

「建武中元2年(西暦57年)、倭の奴国が貢をもって朝賀にやって来た。使いの者は自らを「大夫」と言った。倭国の極南界なり。光武(帝)は印綬を賜った。」

倭国の最南部の奴国からやって来た使いは自分のことを「大夫」と自称したというのである。この時下賜されたのが例の志賀島で発見された「漢委奴国王之印」という刻字のある金印である。

(※私はこの金印の刻字を「漢の倭(わ)の奴(ナ)国王の印」と読むのだが、漢音では「漢のイド国王の印」と読むべきだと考える研究者もいる。)

この後漢の始祖・光武帝に謁見した「倭の奴国」からの使者も自分の身分を「大夫」と言ったというのだが、「大夫」とは主としてこういった外交交渉に出向くクラスの身分で、官僚組織のランクで言えば五等官、女王国の官制で言えば四等官の「奴佳鞮」(ナカテ=中手=中臣)の下のランクに当たろう。

邪馬台国人ではなく連盟30か国のうちとは言いながら、「奴国人の大夫」を使いに立てたのはおそらく、かつてこの光武帝への使者に立てた経験のある奴国に委ねたのだろう。

ではこの「奴国」は2つの奴国のうちどちらの奴国だろうか?

それは後漢書で「倭国の極南界」と言っている以上、邪馬台国連盟30か国の最南部にある奴国と考えるほかない。

その国はさらに南部にある男王をいただき、「狗呼智卑狗(クコチヒコ=菊池彦)」を大官としている倭人伝上の「狗奴国」に菊池川を挟んで向かい合っている国であり、今日の玉名市がそれに当たる。

当時、有明海の海運を支配していた国で、ここから有明海を抜け、九州の西岸を北上して朝鮮半島の同じく西岸を通過し、山東半島に上陸し黄河中流にあった後漢の首都洛陽まではるばる出かけたのだ。

その経験は九州島で鳴り響いており、邪馬台国は同じ洛陽を首都とした魏王朝への朝賀貢献を奴国にゆだねたのだろう。

『後漢書』ではもう一人の人物に「升」という字が当てられている。

それは倭の奴国が後漢の光武帝に朝賀したちょうど50年後、

「安帝の永初元年(107年)、倭国王帥升等、生口百六十人を献ず。(安帝に)見(まみ)えることを請い願えり。」

という記事に書かれている。

「倭国王帥升」がそれである。この「帥升」が後漢の6代目「安帝」(在位107~125年)の即位の年にはるばる貢献しているのだ。私はこの「帥升」を「ソツシヲ」すなわち「曽の男王」と解釈している。

「生口」とは人間のことだが、一般的には「奴隷・奴婢」の類だとされるが、私は中に「留学生」のようなレベルの者がいたと理解している。それが160人とは、いったいどのような船で大陸まで渡ったのか興味が持たれるが詳細は不明である。

永初元年の107年といえば、倭人伝では邪馬台国に卑弥呼が王として擁立されるまでの「桓・霊の間」(桓帝と霊帝の統治の間=147年~188年)、邪馬台国では、

「その国、もと男子をもって王と為す。住(とど)まること七八十年、倭国乱れ、相攻伐すること暦年」

という有様であったが、卑弥呼が「共立」されてようやく収まったという。

逆算すると卑弥呼の擁立の7~80年前と言えば、永初元年(107年)がそのうちに入り、この「帥升」が後漢に貢献したがゆえに九州倭国で戦乱が生じるようになったのか、それともすでに戦乱が起きており、その収拾を図るために後漢に救いを求めたのか、見解が分かれるところである。

しかし結果として卑弥呼の擁立前の140年代から180年代にかけて戦乱は続いていたのであるから、永初元年(107年)の後漢への「曽の男王」貢献は、戦乱の引き金になった可能性を考えるべきだろう。

107年という時代の「曽の国」はのちの「狗奴国」であると考えるのだが、107年というのは弥生時代後期に属し、この時代相として南九州では遺跡自体も遺物・遺構も大変少なくなっており、あるいは何らかの事情で南九州から人々が北上して熊本県域に居住地を移していたことも考えられる。

その「何らかの事情」については目下検討中である。



邪馬台国の官制について(2)

2024-10-16 10:18:53 | 邪馬台国関連
(1)では邪馬台国の位置を述べ、統治組織に見られる「4等官」官制のうち、第一等官である「伊支馬」(イキマ=イキメ=活目)は、邪馬台国自生の官ではなく戦乱(倭国乱れ、暦年主なし=後漢書)に勝利した「大倭」による軍事顧問的な地位の官であるとした。

 <北部九州の一大勢力「大倭」と伊都(イツ)国>

この「大倭」とは別名「五十王国」と言え、糸島を本拠に北部九州では最大の勢力となったのちの「崇神王権」の淵源である。

崇神は和風諡号で「ミマキイリヒコ・イソニヱ」といい、ミマキ(御間城)とは「天孫の王城」であり、イソニヱ(五十瓊殖)とは「五十(イソ)地方において王権を殖やす(伸長させる)」の意味で、朝鮮半島の狗邪韓国(のちの任那=伽耶)を経て、糸島(五十)に定着したことを示している。

その皇子である垂仁は和風諡号を「イキメイリヒコ・イソサチ」といい、こちらは邪馬台国に「イキメ(伊支馬)」として赴任したことがあったことを表している。またイソサチ(五十狭茅)とは「五十(イソ)において王宮とも呼べぬ狭い茅屋のような環境で生まれた、あるいは育った」ことを示している。

この「大倭」こと崇神王権(五十国王権)は、朝鮮半島で西暦204年に公孫度が帯方郡を設置した頃から風雲急を告げだし、代わって魏王朝の楽浪郡・帯方郡支配が始まると半島に別れを告げたようである。そして王宮を糸島こと「五十(イソ)」に移したのだろう。そこで垂仁が生まれた。

五十(イソ)王権が北部九州一帯から南へ勢力を伸ばして来ると、広大な天山山麓の佐賀平野部や筑前の甘木平野にはオオクニヌシ系の「厳(イツ)奴」が勢力を張っていた。必然的に両勢力は干戈を交えた。これが「倭国乱れ、暦年主なし」の状況である。

佐賀平野部から筑前朝倉までを支配していた「伊都(イツ)国」王権の大国主(別名八千矛命)は敗れ、一部が厳木(イツキ)町に追いやられ、大部は出雲(イツモ)に流された。

この時、邪馬台国女王の卑弥呼は軍事力ではなく霊能力で(神のお告げで)、疲弊した北部九州の勢力の間に立って矛を収めさせたに違いない。

しかし南部には虎視眈々と北進を狙う「狗奴国」(菊池川以南の熊本県域を統治)の存在があり、これを危惧した女王卑弥呼は「大倭」による軍事介入を願い、その証として第一等官に「伊支馬(イキマ=イキメ=活目)」という最高顧問を置いたのだろう。

 第二等官「彌馬升」

これは「ミマショウ」と読めるが、「ミマ」は天孫、皇孫の「孫」(みまご)であり、一般的には「血筋、血統」が該当する。

「升」は「ショウ」だが、私は「シヲ」の転訛だと考える。つまり漢字化すると「~之男」になると思うのである。

この解釈で行くと「彌馬升」(ミマシヲ)は「血筋の男」となり、卑弥呼の一族から選ばれた男子が二等官になっていたと解せられる。

倭人伝では女王国のこれら官制を記したあとに国内の風俗・風習・物産などがかなり詳しく書かれるのだが、最後の方で、

「その国、元また男子をもって王と為す。(中略)相攻伐すること暦年、すなわち共に一女子を立てて王と為す。名付けて卑弥呼、鬼道につかえ、よく衆を惑わす。年すでに長大、夫婿なし。男弟ありて、国を治むるを佐(たす)けり(後略)」

とある。ここに登場する「男弟」こそが二等官の「彌馬升(ミマシヲ)」に違いない。

鬼道というシャーマン的な神のお告げを述べる卑弥呼には当然、行政的な能力はないから補佐役の者が必要で、その任を担っていたのが卑弥呼の一族どころか親族である弟だったということが読み取れる。

 第三等官「彌馬獲支」

これは「彌馬(ミマ)」までは二等官と同じ「一族の」の意味だが、次の「獲支」がまずどう読むのかが定まらない。

「獲」はどう読んでも「カク」であり、そうすると「獲支」は「カクシ」もしくは「カクキ」だろう。

倭人語としての「カクシ」も「カクキ」もその意味は思いつかないのだが、二等官の「彌馬升」の解釈で引用した倭人伝の部分を引用してみると、先の続きは次のようになっていた。

「(卑弥呼は)王となって以来、まみ(見)え有る者少なく、婢千人をもって自らに侍らせり。ただ男子一人有りて飲食を給せしめ、辞を伝えて出入りさせり。(後略:このあと宮室・楼観・城柵の記述が続いて終わる)」

男弟が王国の統治を補佐していたとある後に、宮室に籠って人目に触れることはないが、婢千人を自分のまわりに置いていたという。

本当に千人もいたのかは極めて疑問で、多くは召使なのだろうが、中には卑弥呼同様の霊能力者がいて卑弥呼の霊能力発揮の加勢をしていたのかもしれない。その千人の婢を取り仕切る女官長がいてもおかしくはない。それを邪馬台国では「彌馬獲支」(ミマカクシ)と呼んでいたのだろう。

この「彌馬獲支」も「彌馬」を冠しているので、卑弥呼の一族から選ばれた女性(女官長)だったはずである。

 第四等官「奴佳鞮」

最初の「奴佳」は「ナカ」と読める。最後の「鞮」は「テイ」と読むが、そうすると「ナカテイ」となる。

この官職も先の「彌馬獲支」解釈で引用した部分の「ただ男子一人有りて、飲食を給せしめ、辞を伝えるに出入りさせり。」という役職に当たる官だろう。

この官職は卑弥呼及び卑弥呼に仕える女官たちが神懸かりで得た言葉を受け止めて、邪馬台国自生のトップ官僚である男弟と卑弥呼の間を取り持ち、卑弥呼らの言葉を王国の施策に及ぼす重要な役目だと思われる。

私は「奴佳」を「ナカ(中)」に取り、「鞮」は「テ」と考える。つまり「ナカテ」で、漢字化すれば「中手」である。

「手」はあの仲哀紀と筑前風土記に登場する「五十迹手」(イソトテ)の「手」すなわち「ある役目の人物」の意味に取りたい。後の「中臣」(ナカツオミ)に相当する役職であり、神事を司る役目であろう。