鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

(2)邪馬台国論における2番目の誤謬

2024-08-16 09:14:06 | 邪馬台国関連
(1)では邪馬台国に至る行程のうち、九州北端にある末盧国(佐賀県唐津市)に上陸したあと「東南陸行して伊都国に至る」という行程を曲解して、東北にある福岡県糸島市に行き、糸島こそが「伊都国だ」と比定したことが最大の誤謬だと指摘した。

この伊都国糸島説はほとんどの研究者が信じて疑わないのだが、まず唐津市から糸島市への方角は東南ではなく東北であること。また糸島市なら唐津市(末盧国)などに上陸せず、壱岐国(一大国)から船を直接向かわせればよいのであって、なにも王のいない末盧国に上陸して山が海に迫る悪路を歩く必要は全くないのである。

東南なのに東北が正しいと考えた伊都国糸島説では、以後、南は東の誤りとして邪馬台国への行程を東へ東へと曲解した末に、ついに畿内こそが邪馬台国の在処だと断定してしまった。

邪馬台国は大和国の前身だと考えるのも畿内論者の定番的思考である。

しかし畿内説が成り立たないのは帯方郡から末盧国(唐津市)までの行程は「水行1万里」(帯方郡・狗邪韓国間の7千里+狗邪韓国・末盧国間の3千里)である。そして倭人伝の行程記述の最後に「郡より女王国に至る、1万2千里」と書かれており、この総行程から「水行1万里」を引けば残りは「2千里」しかなく、2千里では畿内に至るすべもなく畿内説は成り立たないのだ。

もう一つ畿内説が成り立たない大きな理由がある。

それは伊都国(自説では佐賀県厳木町)から徒歩で東南に100里の「奴国」(自説では佐賀県多久市~小城市)、さらに徒歩で東へ100里の「不彌国」(自説では佐賀県佐賀市の北、大和町)まで記されている。

しかしその次は急に「南、投馬国に至る、水行20日」と書かれ、さらに「南、邪馬台国、女王の都する所に至る、水行10日、陸行1月」と「水行の日数」が現れるのだ。

行程論では方角についての誤謬の最たるものが末盧国から伊都国への行程上の東南を東北に曲解したことだが、同じ行程論の水行の日数について多くの研究者は戸惑いを隠せないでいる。

その挙句、畿内論者は「投馬国は不彌国から船に乗って東へ20日行った所にある」と曲解し、私のように不彌国は佐賀平野にあると考えた者でも、佐賀平野の港から南へ20日航行したところが投馬国で、そこはおおむね南九州だとする。

畿内説のように南を東に改変してしまうのはもとより誤謬で論外だが、倭人伝の記述通り伊都国を末盧国の東南に比定し、奴国と不彌国を佐賀平野の西部に比定する九州説でも「不彌国から南へ水行20日で投馬国だから、投馬国は宮崎県の都万(おおむね西都原市)を含む一帯であり、女王国に敵対している狗奴国はクマソ国だから南九州でも鹿児島県が該当する」とする論者がある。

これは九州説の中でも比較的理にかなっている説だが、佐賀平野の港から水行20日もしたら、天草を通過して南九州南端の坊津からはるか南の太平洋の上まで行く距離(日数)である。

また次の邪馬台国も不彌国・投馬国間と同様に、投馬国から南へ水行10日かつ陸行1月だ考えると、南九州からさらに南へ10日船で行き、さらにどこかに上陸して1月行く場所になるが、そのような場所(島)は存在しない。

では不彌国の後に続く「南投馬国水行20日」さらに「南邪馬台国水行10日、陸行1月」という行程記述はどう捉えたらよいのだろうか。

ここで次の論理を提示しよう。

【海峡渡海1000里は一日行程である】

繰り返すまでもなく、帯方郡から唐津市の末盧国まで水行距離は1万里であった。

このうち最初の7千里は帯方郡治の港から朝鮮半島の西岸を航行し、西南端の珍島島を回って朝鮮海峡に入り、そのまま半島の南部沿岸を洛東江の港町「狗邪韓国」に至る。

ここから船は南を目指し、対馬国、壱岐(一大)国を経て末盧国(唐津市)に到達するのだが、狗邪韓国・対馬間、対馬・壱岐間、壱岐・末盧国間の三つの海峡はすべて距離は全く違うのに同じ千里で表されている。

ここに疑問を感じた私は、この同じ距離の千里とはどういうことなのか、第一海の上の距離は測れないはずなのだが――などと考えていてふと気づいたのである。

それは距離が同じということではなく、渡る日数が同じということなのではないか――と。

では何日か?

それは一日である他ない。なぜなら朝鮮海峡の流れの速さはかなりのもので、狗邪韓国から対馬までがもっとも距離があるのだが、渡っているうちに寝ることはできない。漕ぎ手が手を休めたが最後、船はどんどん東に流され日本海へ抜けてしまうのだ。

この狗邪韓国・対馬間は直線距離にして80キロはあり、ここが航行上の最大の難関だろう。それでも海が凪いでいる日を見計らって早朝東が白み始めたら船を出し、その日の夕刻日が沈みかけるまでの10から12時間漕げば渡り切ることは可能だ(理論上は時速8キロ程度)。

対馬から壱岐間、壱岐から唐津間は狗邪韓国・対馬間に比べたらかなり楽だろう。こうして朝鮮海峡を渡るのにようする期間は3日(ただしこれは理論値で、漕ぎ手の休息や天候による出航見合わせの日数は考えない)。

つまり倭人伝では、この4地点間の最短日数の各1日を「水行千里」で表したものと考えられ、したがって狗邪韓国から末盧国までの水行要する日数は3日と換算できる。(以上が「水行千里一日行程説」である。)

この「水行千里=一日行程」を帯方郡から狗邪韓国までの水行7千里に当てはめると、要する日数は7日となる。そしてこれに海峡渡海の3千里を換算した3日を加えると「水行10日」が得られる。

この「水行10日」こそが投馬国の直後に記述された「南、邪馬台国女王の都する所、水行10日、陸行1月」のうちの「水行10日」に該当する。

要するに「南、邪馬台国女王の都する所・・・」という記述は直前の投馬国からの「南、・・・」ではなく、帯方郡からの「南、・・・」だったのである。

このことと倭人伝の行程記述の最後にある「郡より女王国に至る、万2千余里」とを勘案すると、この中の1万里とは帯方郡から末盧国の1万里に合致し、その所要日数は10日でまさに「南、邪馬台国女王の都する所、水行10日、陸行1月」のうちの水行10日に該当する。

つまり「南、邪馬台国女王の都する所、水行10日、陸行1月」と「郡より女王国に至る万2千余里」とは同値だったのだ。

このことから邪馬台国は帯方郡から距離表記で1万里を南下して末盧国まで、水行つまり船で10日かかって至り、九州島に着いてからは東南方向に1か月歩いて到達できる場所にあるということになる。

このことからも畿内説の成り立つ余地は全くないのである。


(1)邪馬台国論最大の誤謬は「伊都国の位置」

2024-08-12 17:59:05 | 邪馬台国関連
邪馬台国論争が果てしもなく続くが、この論争の最大の誤謬は「伊都国」を福岡県の糸島市に比定したことにある。

どういうことか――。

話は簡単である。邪馬台国を史料の上で取り上げたいわゆる「魏志倭人伝」における邪馬台国までの行程(進路)の中に登場する「伊都国」の位置の比定が誤っていることに気付かないことが最大のネックになっているのだ。

「伊都国」は半島の帯方郡から九州島の北端に近い「末盧国」まで1万里を水行したあと、上陸してから末盧国の東南に陸路で「500里」のところにある国であった。

ところがほとんどの研究者はこの「伊都国」を「イト国」と読んで福岡県糸島(イトシマ)に比定した。

となると末盧国である佐賀県唐津市からは「東南ではなく東北に伊都国(糸島市)はある」のだから、倭人伝の末盧国から伊都国までの「東南陸行500里」は本当は「東北陸行500里」なのであり、倭人伝の記述における「東南」は「東北」の誤りで、このあとの行程論における「南」という方角はすべからく「東」に置き換えなければならない――となってしまった。

この一点が邪馬台国畿内説最大の論拠となったのである。

ところがもし糸島市が「伊都国」であるのならば、末盧国の前に存在する「一大国」(壱岐島)からは船で到達できる国であり、何もわざわざ唐津市に比定される末盧国に上陸して歩かずとも直接糸島市に入港すればいいだけの話ではないか。

したがって糸島市が「伊都国」であるというのは誤謬であり、邪馬台国畿内説は誤りである。

「伊都国」をそもそも「いとこく」と読むのが間違っている。

私は「イツ国」と読み。唐津市の「末盧国」から倭人伝の記述通り東南に歩いたら、そこは松浦川沿いの道があるのに気付き、上流までさかのぼった所にある「厳木町」に辿り着いた。

「厳木」を現在は「きゆらぎ」と読んでいるが、漢字の読み方からして「イツキ」が正解だろう(安芸の宮島にあるのは厳島イツクシマ神社である)。「イツキ」とは「伊都城」のことであり、王である「爾支」がいると書かれた「伊都国の王城」がここに比定される。

戸数も小規模な「千戸」と書かれており、山間の盆地である厳木町なら規模として合致する(末盧国は4千戸もありながら王の類はいない)。

この伊都国からさらに東南に100里で奴国とあるのは佐賀平野の西端にある多久市又は小城市だろう。小城市からは弥生時代の大きな集落跡が見つかっている。

次の「不彌国」(末盧国から700里)の後に続けて「南水行20日投馬国」とあるが、この陸行から水行に変わっているのは、不彌国から連続したの水行ではなく、「帯方郡から南水行20日」なのである。

この点については次回以降に詳述するが、とにかく「伊都国」を「いとこく」と読んで福岡県糸島市に比定するのが誤りであることは、口を酸っぱくしてでも言っておきたい。



邪馬台国南九州説について(下)

2024-05-17 15:01:42 | 邪馬台国関連
邪馬台国南九州説について(上)」では、倭人伝に記載の帯方郡から水行して九州島北部の末盧国(現在の唐津市)に上陸したあと、東南へ500里歩いたところにある伊都国までの行程を解説した。

この伊都国を「いとこく」と読み、そこを福岡県糸島市に比定する説が誤りであることを述べた。

その誤謬の原因は2つあり、一つは糸島なら壱岐国から直接船を着ければよいことと、唐津から徒歩で糸島に行くのは東北であり、決して東南ではないことである。

この点を無視して伊都国を糸島に比定したがために、以後の方角の解釈では90度北寄りに変え、南とあるのはすべて東とし、奴国を春日市、不彌国を宇美町と誤認した。

さらに不彌国から投馬国を「東に水行20日」と変え、さらに邪馬台国を投馬国から「東に水行10日、陸行1月」と変えて瀬戸内海経由で畿内に至ったと解釈した。もちろんこれは「南」を「東」と改変した誤認である。

畿内説が成り立たないのは、(上)の最後で述べたように、そもそも帯方郡から邪馬台国までの総距離は「万2000余里」としてあり、九州島北部の唐津までの水行の距離が10000里なのだから、残りは2000里でしかなく、しかも上陸してから徒歩で500里歩いて「伊都国」に着き、このあと東南へ奴国まで100里、さらに東へ不彌国まで100里、都合700里を歩き、あと邪馬台国まではわずか1300里なのである。

このたった1300里をどうやって「水行20日」したら投馬国に着き、またそのあとどうやって「水行10日、陸行1月」したら邪馬台国に着くのだろうか?

常識外れも甚だしいというべきだ。畿内説の成り立つ余地は120%無いのである。

邪馬台国南九州説も実はこの点で畿内説と同じ誤りを犯している。

邪馬台国南九州説は畿内説と同じように、投馬国を不彌国から「南へ水行20日」にあるとしている。ただし、畿内説が「東へ」とする所を原文通り「南へ」とし、

投馬国は九州北部から水行20日で至る南九州宮崎県の「都万(つま)」という大字名を持つ西都市域に比定している。

そして邪馬台国を投馬国から「南へ水行10日、陸行1月」に当たる鹿児島県域、中でも大隅半島部に比定している。

(上)で紹介しておいた『大隅邪馬台国』という本では、この解釈において「陸行1月」を「陸行1日」の誤記としている。大隅半島部は陸地も海に近く「陸行1月」つまり一か月も歩いたら半島を突き抜けてしまうので1日の誤記と
したのだ。

ご都合的解釈としか言いようがない。誤りである。

もう一つ最近面白い解釈に出会った。

邪馬台国は宮崎県、投馬国は鹿児島県だというものだ。

この説では「不彌国から南へ20日の投馬国、その南水行10日陸行1月の邪馬台国」というのを、佐賀県にあった「郡からの使者が滞在する伊都国」からだとするものである。

つまり佐賀平野部にあった「郡使の滞在する伊都国」を中心に放射状に行程を考える必要があり、伊都国から奴国へ、伊都国から不彌国へ、伊都国から投馬国へ、伊都国から邪馬台国へというように、伊都国から各国への行程が書かれていると解釈したものである。

倭人伝でその部分は次のようである。
※(上)で唐津に上陸したあと伊都国までの東南陸行500里は省いてある。

<東南至る奴国、100里。官をシマコといい、副官をヒナモリという。2万余戸あり。東行至る不彌国、100里。官をタマといい、副官をヒナモリという。千余家あり。(※)南至る投馬国、水行20日。官をミミといい、副官をミミナリという。5万余戸なるべし。(※)南至る邪馬台国、女王の都する所、水行10日、陸行1月。官にイキマ、ミマショウ、ミマワキ、ナカテあり。7万余戸なるべし。>

上の説では、佐賀県の有明海に面した場所にある伊都国から陸上では奴国や不彌国に行き、船を使っては有明海を南下して投馬国なり邪馬台国なりに行ったとする。

しかしこの説でもやはり帯方郡から邪馬台国までの総距離「万2000余里」から末盧国(唐津)までの10000里を差し引いた残り2000里以内に邪馬台国があるというのを無視している。

(上)で解明したように「水行1000里」というのは「1日の行程」に他ならなかった(海峡渡海一日行程説)が、そうなると水行20日というのは帯方郡から唐津までの水行10000里つまり「10日の行程」の2倍に当たることになる。

佐賀平野から帯方郡と唐津市間の距離の2倍となると南九州はおろか奄美大島くらいまで行ってしまうだろう。そんなところに投馬国があるはずもない。

また邪馬台国を佐賀平野部の伊都国から「南へ水行10日してから陸行1月」を「熊本県八代に上陸して球磨川を遡ってえびのに抜け、宮崎に至る」とし、そこに邪馬台国があったとしている。

しかしまず水行10日とは距離表記では1万里で、これは帯方郡から唐津市の距離であり、約800キロはある。したがってわずか100キロ程度の佐賀平野から八代までの距離とは全く整合しない。誤謬とする他ない。

そもそも論になるが、倭人伝の上掲の書き下し文をよく見て欲しいのだが、(※)の付いた2か所の条文は、本来なら改行すべき所で、前の文に続けて読むべきではないのだ。

「南至る投馬国」とは「帯方郡の南至る投馬国」であり、「南至る邪馬台国」とは「帯方郡の南至る邪馬台国」なのである。

この2つの行程についてのみ日数表記なのはその意味である。そう取らないと、最後の最後になって<郡より女王国に至る、万2千余里>と記載されている理由が分からなくなるではないか。

漢文では段落による改行は無いのが当り前で、試しに原書を読んでみればよい。例えば家に漢詩などを書いた書画・掛け軸などがあればそのことが確認できる。

我が家の例だが、孟浩然の著名な『江南の春』という七言絶句を書いた掛け軸があるが、七言ごとに改行しているわけではない。読み易く句点を付けると

<千里鶯啼緑映紅。水邨山郭酒旗風。南朝四百八十寺。多少楼台煙雨中>

となる漢詩だが、掛軸の三行を使って書かれており、実際には

千里鶯啼緑映紅。水邨山
 郭酒旗風。南朝四百八十寺。多
 少楼台煙雨中  ○○筆>

と、七言ごとのまとまりなど全く無視されている。

これは卑近な例だが、漢文である倭人伝も改行によって意味を採りやすくするなどという「読み手ファースト」的な面は無い。

それまでの距離表記からいきなり続けて日数表記になるという「読み手泣かせ」に気付き、さらに最後の距離表記「郡より女王国に至るには万2000余里」に注目すべきだったのである。

要するに「(郡より)南至る邪馬台国、水行10日陸行1月」とは「郡より女王国に至るには万2000余里」の日数表記であり、同じことを別言したに過ぎないということである。

※邪馬台国は末盧国に上陸したあとは歩いて一か月の所にある。私見でそこは八女市郡域である。
 また投馬国は帯方郡からの水行10日で行き着く末盧国からさらに水行10日南下した所にある。戸数5万戸という大国であり、広く古日向国が該当する。

※いずれにしても南九州邪馬台国説は誤認である。ただし南九州が投馬国であるというのならそれは正しい。








邪馬台国南九州説について(上)

2024-05-16 13:25:08 | 邪馬台国関連

今朝8時過ぎだったが、東京のN氏から電話があった。

この人は80歳は過ぎていながら研究熱心な方で、日本人の成り立ちに絡めて「日本人はこうあるべきだ」などという見解を披歴しておられる。

邪馬台国に関連してはもう5年ほど前になるか、広島県の高校の先生が著した『大隅邪馬台国』という本を大いに評価し、氏の出身地の地元の温泉や書店に置いてもらうのを進めていたことがあった。

私も購入して読んではいたが、結論として「邪馬台国は投馬国からさらに南へ船で10日行き、歩いて1日の大隅半島の志布志湾に面する東串良町から肝付町にあり、卑弥呼の墓は東串良町の唐仁大塚古墳である」というのだ。

この見解についての反論はあとで詳しく書くことにして、件のN氏は今回は『大隅邪馬台国』を取り上げはしなかったが、「倭人伝に書かれた邪馬台国への行程を追っていくと、やはりどうしても邪馬台国が大隅にあるとしか考えられない」と言われる。

「あなたはどこでしたっけ?」と聞かれたので、「私は筑後の八女ですよ」と答えたが、納得できないようですぐに電話が切れてしまった。

南九州に邪馬台国があったという説には絶対の自信(?)を持っており、それに対する反論は聞きたくないようであった。

かく言う自分も、邪馬台国八女説及び投馬国古日向説(南九州の鹿児島と宮崎を併せたのが古日向)に対する反論がもしなされたら、そういう人に対しては「分からない人(ヤツ)だな」とうんざりしてしまうのだから、人のことは言えない。

そこで改めて南九州邪馬台国説に対して冷静な反論を掲げておきたい。

ここでは上記N氏のように、魏の役人が帯方郡から邪馬台国を訪ねて来てその見聞から記録したいわゆる「行程説」についてのみ論じることにする。

行程とはもちろん出発点がありそこから特定の地点までの方角と距離、および所要日数の記録であるが、邪馬台国は日本列島にあるので、さらに「陸行」か「水行」かの区別が書かれている。

 

【倭人伝の記述による帯方郡から邪馬台国までの行程】

①帯方郡治は今日の韓国の漢江の北岸地域であり、まず魏使はそこから船出をして韓半島の西海岸を手漕ぎ船による「沿岸航法」(陸地を目視しながらつかず離れず走る航法)によって南下して行く。

そしてあの修学旅行の高校生が多数犠牲になった「セオウル号」が沈んだ海域から、今度は東に向きを変え韓半島最後の寄港地「狗邪韓国」に至る。

以上、帯方郡から狗邪韓国まで、行程は水行であり、方角は南から東へ、距離は7000里(余里の余は省く以下同様)。

②狗邪韓国からは南へ日韓間の朝鮮海峡を渡る。まずは狗邪韓国から対馬国へ。

当然水行であり、方角は南へ、距離は1000里。

③対馬国からさらに南へ海峡を渡り、一大国へ。一大国は「壱岐国」のことで間違いはない。

当然水行であり、方角は南へ、距離は1000里。

④壱岐国からさらに南へ海峡を渡り、末盧国へ。末盧国は今日の唐津で間違いはない。

当然水行であり、方角は南へ、距離は1000里。

※以上で帯方郡から末盧国までは水行であり、末盧国で九州島に上陸する(船を捨て、以後徒歩になる)。

方角はおおむね南であり、その水行の総距離は10000里。

実はこの「水行10000里」が曲者なのだ。どういうことか?

水上の距離がどうして測れるのだろうかという疑問を呈上しなければなるまい。当然だが測れないのである。

陸上での距離は歩数と歩幅で決まる(といっても測る人間の歩幅に違いがあるので、何人もの経験値を採って平均化すればよい)のだが、水上はそうは行かないのだ。

では一体水行の距離はどうして記録されたのだろうか。

結論から言うと、水行の1000里は「一日行程」ということである。と言うのは、朝鮮海峡を船で渡ることを考えてみればよい。

海峡の一地点から向かい側の一地点への渡海は一日のうちになされなければならないのである。もし海峡を渡り切れないで漕ぐのをやめて寝てしまったら、船はどんどん日本海の方に流されてしまうのだ。

だから狗邪韓国~対馬、対馬~壱岐、壱岐~唐津の間のそれぞれの距離は大きく全く違うにもかかわらず、押しなべて同じ「1000里」なのである。

したがって水行の「1000里」とは実質上は「一日行程」のことなのだ。そう考えると狗邪韓国から朝鮮海峡を渡り、九州北部の唐津までの水行3000里とは「3日の行程」であり、帯方郡から狗邪韓国までの水行7000里は「7日の行程」と同値になる。

よって帯方郡から狗邪韓国を経て唐津までの水行10000里は「10日の行程」に他ならない(ただし正味日数である。海が荒れた際の船日和待ちの日数はカウントしない)・・・(A)

⑤末盧国から伊都国へは徒歩(陸行)となり、方角は東南、距離は500里。

さあ、ここでの解釈が邪馬台国論における無限ループの入り口である。

「伊都国」を「いとこく」と読み、福岡県糸島市に比定するのが定説だが、糸島市なら壱岐から唐津に行かずとも直接船を回せばいいはずで、何で唐津で船を捨てる必要があろうか。

また糸島市なら唐津市から方角は東南ではなく東北である。

この2点もの引っ掛かりがありながら、伊都国を糸島市に比定したことが、その後の地点間の方角が南を東に変えることでしか得られない邪馬台国「畿内説」の優勢を招いてしまった元凶なのだ。

(※糸島は崇神天皇と垂仁天皇の和風諡号にあるように元来「五十(イソ)国」であり、半島南部の意呂(オロ)山に天下った先祖を持つ五十途手はその後裔である。)

※畿内説が成り立たないのは、方角の誤認以上に倭人伝に次の記述があるからである。

<郡より女王国に至る、万2000余里。>

女王国の連盟国家群21か国を列挙したあと、女王国の南に所在する狗奴国のことを取り上げているが、そのあとにこのように記録している。

帯方郡から邪馬台女王国まで、1万2000里余りだ――と言っているのだ。

帯方郡から九州島北部の末盧国(唐津)までの距離表記は合計10000里であった(①~④)。

さらに唐津から東南に500里陸行した伊都国までを入れると1万500里。12000里から引くと1500里しか残らない。これでは到底畿内は無理、九州説でも南部はほぼ無理ということになる。

(以下、下に続く)

 

 


この秋、2冊目の歴史本を読む

2023-11-13 10:57:26 | 邪馬台国関連

先に書いた「この秋、2冊の歴史本を読む」の1冊目は右田守男著『サツマイモ本土伝来の真相』であったが、2冊目は天川勝豊著『邪馬台国それは、、、の地に』だ。

10月半ばにとある人が我が家を訪れ、「実はこんな本を書いた人がいて寄贈された。よかったら1か月くらい貸すので読んでみて」と置いて行った本である。

私の著書『投馬国と神武東征』(2020年10月刊)を購入し、さらに最初の著作『邪馬台国真論』(2003年刊)をと言われたが、こちらはすでに絶版になっており、手元には手つかずの蔵書として1冊があるのみだったのでお断りすると、「それなら貸してください」と、天川氏の著書とバーターでということになった。

この著書のタイトル『邪馬台国それは、、、の地に』には面食らったが、それよりも著者のペンネームと著書の分厚さには驚かされた。

ペンネームは「一一一一一」と漢数字「一」の羅列に過ぎず、それを「みついかずひと」と読ませるのだ。隣りにカッコつきで「天川勝豊」とあるので本名は分かるのだが・・・。

本書のページ数は1冊で700ページに及ぶ。大きさはB5版で、各ページの字数もやや多く配され、普通の単行本である46版に換算すると、約1割は多いから800ページに迫る大部である。

これを著者は出版社に拠らずに自費出版しており、発行所を自分の経営する学習塾になぞらえて「学修院」と名付けている。その発行所の場所は宮城県仙台市である。

そのあたりのことは出版上の経済性の問題であり、著者本人の選択であるからこれ以上は穿鑿を容れない。

※一一一一一著『邪馬台国、それは、、、の地に』(2023年7月刊、(有)学修院発行)

さて、本書の内容を私なりに吟味し、取り上げてみたい。

と言ってもすべてをとなると大変な読後感になってしまうので、主として半島の帯方郡にあった魏の郡治所から使者がどのように九州の倭国に到ったか、つまりいわゆる「行程論」を中心に評価することになる。

【帯方郡から狗邪韓国までの7000里】

朝鮮半島の帯方郡は今日の漢江流域にあり、これは魏によって排除される前の公孫氏によって置かれた植民地である。これを踏襲した魏はここから倭国(九州島)に数回の使者を送った。

この見聞をもとに記録されたのが、帯方郡から半島南岸の狗邪韓国までの7000里行程である。

これを私は水行つまり船による行程と考えるのだが、天川氏は公孫氏の時代から水路をとったり陸路をとったりしており、全部の行程を水行のこともあれば、陸路のこともあり、どちらとも言えないと考えている。

氏はしかし「乍南乍東(東しながら、南しながら)」という語句について曲解してしている。

この「東しながら、南しながら」という表現は、韓国の西海岸のリアス式海岸をうまく表現した語句なのだ。手漕ぎの船の場合、運航は「沿岸航法」であり、陸地が見える範囲の沖合を航行することになる。

朝鮮半島の西海岸はリアス式の規模の大きなもので、日本の三陸のリアス式海岸なら凸凹は規模が小さいので(湾入が浅いので)無視でき、北から南へあるいは南から北へ一直線で水行できようが、向こうのは湾入が極めて大きく、言わば半島に近いため凸凹に従わなければ縹渺とした沖に流される危険がある。

とすれば船は海岸の凹凸の地形に従って進めることになる。

このことを表現したのが「乍東乍南」なのである。半島の沖合を一直線に南下しているかと思えば、半島の湾入部に入って(東して)、湾奥の寄港地に寄って行く――これが「乍東乍南」の意味である。

このことを無視して「海路もあったが陸路もあった」という両論併記はいただけない。第一、陸路では魏の天使から邪馬台国への賜与品として預かった大量の物資を運ぶのは危険極まりないのだ(p239~251)。

【九州島の末盧国と伊都国】

次に大きな行路上の問題点についてだが、多くのというよりかほとんどの研究者が、末盧国(唐津市)から東南ではない糸島市に「伊都国」を比定したことである。

本著ではこの2か国について私と同じく大いなる疑問を投げかけている(p261~280)。

結論から言うと、本書は末盧国こそが多くの論者が「伊都国」に比定している糸島市だとする。そして「伊都国」はさらに九州東南岸の福岡県京都郡(みやこぐん)あたりとしている。今日の刈田町・みやこ町である。

末盧国が糸島市だと、たしかに一大国(壱岐国)から海路1000里の範疇には入っている。

しかし次の「伊都国」を福岡県京都郡に比定したのでは、末盧国(糸島市)で船を捨ててわざわざ陸路をとることになったのか、首を傾げる。刈田町にしろみやこ町にしろ海に面しているのだから、壱岐から直接船で行けばいいだけの話である。

私がかつて出版した『邪馬台国真論』において、「伊都国が糸島市なら、なぜ唐津である末盧国で船を捨てて歩かねばならないのか。壱岐から船で直接行けるのに・・・?」と同じ疑問を感じざるを得ないのだ。

ところが本書の278ページにはこう書いてある(一部に私の補いがある)。

<ところで、末盧国の国都は唐津に比定し、その松浦川沿いを南東に進み、伊都国を有明海沿岸に比定する説があるが、これならある程度、理に適っているとは言えよう。方向も東南だし、各々(末盧国と伊都国)が海に面しているが、別の海だから陸路にするしかないからである。

ではその先の奴国はどこか、肝心の邪馬台国はどこなのかとなると、一人一つの邪馬台国だから、その奴国、邪馬台国の比定で、やはり矛盾が出て来てしまっている。

だが単純な伊都国=前原という説よりは、はるかに合理的であろう。しかしこの場合、多く(の論考で)は狗邪韓国~対馬国間の距離が問題になるし、水行20日、10日、また陸行1月というのがどうしても矛盾を孕むことになる。したがって末盧国を松浦半島に比定した場合は、どう説明しようとも、他をどのように比定しても理に合わないことになるのである。>

この引用文の第一段落は私の説に非常に近い。私は末盧国を唐津に比定し、伊都国への「東南陸行500里」を解釈して松浦川に沿って上った所の「厳木町」を伊都国に比定している(ただし私は伊都国を「イツ国)と読む)からだ。

ところが第二段落で「その先の奴国も邪馬台国もどこか、どの説もやはり矛盾している」と述べ、第三段落で「水行20日、10日、また陸行1月というのがどうしても矛盾を孕む」と述べているのだが、筆者は「水行20日、水行10日、陸行1月」の解釈に誤りがあるのに気付いていない。

この水行云々は、不彌国からの行程としているのだが、そもそもこれが間違いのもとである。

原文ではその部分が「(奴国から)東行至不彌国百里。官曰多模、副曰卑奴母離。有2千余家。南至投馬国、水行20日。(中略)南至邪馬台国、女王之所都、水行10日、陸行1月。(後略)」とあるのだが、帯方郡から不彌国までの行程は距離表記であり、次の投馬国及び邪馬台国は日数表記になっている。

この違いを考える必要がある。もし帯方郡から邪馬台国まで連続的につまり郡使がやって来たとおりに記すのであれば、そのまま距離表記で表現すべきであろう。

【距離表記の1万2千里と、日数表記の水行10日・陸行1月は同値である】

それをしていないで日数表記になっているということは、不彌国までの行程を踏襲していないわけだから帯方郡からの距離を距離表記とは別の日数表記で行程を表したということである。

要するに「帯方郡から狗邪韓国を経て(中略)不彌国まで距離表記で1万700里」を記述したあとの投馬国も邪馬台国も、どちらも帯方郡からの所要日数ということである。

そしてもう一つ倭人伝には帯方郡から邪馬台国までの距離を「万2千里」(1万2千里)とした記述があるが、これと日数表記の「水行10日、陸行1月」とは同値であることに気付かなければならない。

水行の10日とは帯方郡から朝鮮半島の西海岸を南下し、対馬海峡(朝鮮海峡)に入ってからは東へ航路を取り、朝鮮半島南岸で倭国に属する狗邪韓国に到り、そこからは対馬・壱岐を通って末盧国(唐津市)までの1万里なのである。

※海峡渡海1000里という距離表記は日数表記では水行1日のことである。

なぜなら、海峡を渡る際は海峡の途中で船を漕ぐのをやめるわけにはいかず、一日のうちにわたる必要があるので、海峡の距離表記1000里を日数表記の1日にしたのだ。したがって朝鮮海峡3000里は日数表記では3日となる。

これを帯方郡から狗邪韓国までの7000里に適用すると日数表記では7日。以上により帯方郡から末盧国まで距離表記では1万里、日数表記では10日となる。

投馬国も同様に帯方郡から水行20日の場所にある国ということになる。

ただしこの日数表記には「悪天候による出航待ち」の日数は含まれない。そんなことをしたら1日待ちもあれば1週間待ちもあるので、日数の書きようがない。あくまでも出航待ちなしの理論値である。※

本書の著者は残念ながら投馬国は「不彌国から南へ水行20日」と考え、また邪馬台国は「投馬国から水行10日、陸行1月」と考えている。

その結果、投馬国は薩摩半島部であり、邪馬台国は宮崎県域であるとしている。邪馬台国を宮崎県とした場合、「水行10日、陸行1月」とあるうちの「陸行1月」を「陸行1日」と改変している。そうせざるを得なかったのだが、ここはやはり首を傾げるところだ。

~(追記)~

著者は「あとがき」(同書700~701ページ)にほとんどの研究者が無視している例として次の箇所を上げて批判している。

<対馬国から一大(壱岐)国に向かう時には、海(対馬海峡の東水道)を渡ることになるのだが、その海のことが魏志倭人伝には「瀚海(カンカイ)」と書かれている。この瀚海とは「広い海」と訳されているが、では何故そこが広い海なのか。物理的には決してそうではない。むしろ朝鮮半島にあった狗邪韓国と対馬の間に広がる海(対馬海峡の西水道)の方が広いのが現実である。だが実際にはそのように、対馬と一大(壱岐)国での間の海で瀚海と書かれているのである。

どうしてそのような記述になっているのか、それを解明し解説した書は無い。>

こう書いているのだが、その部分は原文(読み下し文)では「(対馬島から)また南に一海を渡る、千余里。名付けて瀚海と曰う。」である。

この「名付けて瀚海と曰う」の原文は「名曰瀚海」で、「名を瀚海と曰う」でもよいのだが、この時の「瀚海」は固有名詞であり、決して形容的な意味での「瀚い海」つまり「広い海」ではないのである。

「名曰」(名を~という)を使った漢文は、同じ魏志倭人伝に「其大官曰卑狗」(その大官を彦と曰う)や「官亦曰卑狗」(官はまた彦と曰う)があり、倭人は国の首長を「彦」と言っていたとある。

「彦」は倭人特有の首長を表す固有名詞であり、同様に「名曰瀚海」の「瀚海」も固有名詞であることが分かる。

つまり対馬から壱岐までの海峡を、倭人(の航海者)は「瀚海」と名付けて呼んでいたのであって、決して他を圧倒するような広さの海というような形容ではない。

今日でもさして高い山ではないのに「高取山」とか「高尾山」と名付けているのと同じ類であろう。航海者にとって対馬から壱岐までの海峡は相対的に「広い海」に感じたから「瀚海」と名付けたに過ぎず、客観的な命名ではない。したがってこの部分は特に解釈に困ることはない。

※ただし当時の倭人が「瀚海」という漢字を知っていたとは思われない。おそらく「広い海」「広か海」のように言っていたのを倭人伝の記述の際に魏の史官(陳寿)が「瀚海」と当て字したのだろう。