鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

対馬の金田城(記紀点描52)

2022-10-15 21:57:33 | 記紀点描
今夜のNHK「ブラたもり」を観ていたら、対馬の金田城が取り上げられていた。

この金田城は西暦663年に百済を救援すべく新羅・唐連合軍と戦い、百済の白村江の海戦で壊滅的に敗れた日本(まだ当時は倭だが、日本を使う)が、連合軍の日本への侵攻を怖れ、4年後の11月に完成させた朝鮮式山城である。(※河内の高安城、讃岐の屋島城も同じ頃に造られている。)

現地は初めてのタモリは、現有の石垣の高く、長く続いているのに驚いていた。主として百済からの避難民のうち、築城に優れた者たちの技術によって倭国人と共同で築造したのだろう。

記録の上で西暦667年11月に完成した(天智天皇紀6年条)とあるから、今から1355年前の話である。小高い山の中腹に帯状に造られた石塁の長さは2.2キロもあり、重機の無い当時、どのように積み上げたのか想像を絶する。とにかくそんな昔の石を積み上げた構造物が、一部とはいえそのままの形で残っているのは奇跡的である。

ここは半島から、唐と新羅の連合軍が侵攻して来たら最初に攻撃される城であるから、かなり綿密かつ強固に造られている。そのため1350年余りを経てなお現存しているわけだが、実際にここで戦闘が行われたという記録はない。

それよりも敗れた663年の8月以降、唐からの遣使は6度もあり、そのうち武将を伴う使いは664年、665年、667年と立て続けにあった。降伏文書(表函)の調印がその目的であったと思われるが、金田城が完成した667年には「筑紫都督府」が置かれ、少なくとも九州北半は唐軍の支配下に入ったようである。(※665年の唐からの遣使船には、中臣(藤原)鎌足の長子で唐に留学僧として学んでいた真人が乗っていた。この真人こそがのちの天武天皇であろうと私は考えている。そのことは記紀点描㊽に詳しい。)

6度目の最後の671年の遣使は、郭務宗という文官が李守真という武将を従え、総勢2000名という大船団を組んでやって来た。この中には百済における戦闘で捕虜になり九州に帰された者が多くいたらしく、九州に到着するとすぐに「大船団だが、攻めて来たのではない」旨を上申させている。

捕虜以外の唐軍の人数は記録に無いが、相当な圧力であったことは間違いなく、筑紫の都督府に滞在しつつ、そのうち相当数の武官が畿内に向かったものと思われる。天智天皇に対する「戦犯容疑」を掲げ、多数の捕虜返還と引き換えに天智天皇の身柄を拘束したに違いない。そしておそらくは殺害されたものと思われる。

その証拠が、20年後の692年(持統天皇6年)に、持統天皇が筑紫大宰に対して「郭務宗が置いて行ったという阿弥陀仏を大和へ送りなさい」という勅を出したことで推測される。「阿弥陀仏」は来世の至福を約束する仏で、天智天皇を処刑した償いのために制作したのではないかと思われるのだ。

郭務宗以下2000名の唐使というのは通常の平和的な使いではないことは明らかであり、それ以前に5度もの使いがありながら、一向に掴み得なかった「戦犯こと天智天皇」の所在をようやく掴み、結局、所期の目的を果たしたのだろう。天智天皇の死が、郭務宗たちの来日と同じ671年の12月3日と書紀に記されているのもそのことを裏付けていよう。

対馬の金田城も、高松の屋島城も、河内の高安城も、その他たくさんの朝鮮式山城は、唐との戦いの場とはならなかったが、白村江の海戦完敗後の日本の一大危機感の象徴だ。

しかし白村江の海戦で日本軍に勝利し、その直後からたびたびやって来た唐軍も、日本側の首謀者の死によって矛を収め引き揚げたのであった。

日本への進駐軍(記紀点描51)

2022-05-14 19:37:40 | 記紀点描
先日大隅史談会の役員をしている人が、高須海岸の「進駐軍上陸地」を通った時に、

「ここが日本が初めて本土に外国軍の進駐を受けた場所ですね」

とつぶやいたので、「いや、最初ではないよ」と応じると驚いて、「最初ではないんだすか。じゃあ、最初は何時ですか?」

そこで私が「白村江の海戦(663年)で敗れた天智天皇時代に、唐からの交渉団が九州に来ているよ。その数は多い時で2000人だったそうだ。」

そう答えると、「えっ、2000人も来たんですか!」と驚いていた。

歴史仲間でもその当時の経緯はほとんど知ることはない。だが、日本書紀ではそう記している。

次にその「唐による進駐」を記してみよう。すべて日本書紀の天智天皇紀に記載されている。

承知のように日本(天智天皇の時代までの日本はまだ「倭」を自称していたが便宜上「日本」を使用する)は562年に朝鮮半島の倭国であった「任那」を失い、その後は百済と連携を取りつつ半島との交流を続けていたが、660年に百済が唐と結んだ新羅によって壊滅に瀕すると、663年3月から百済救援のための遠征軍を送り始めた。

しかしながら、その年の8月27日から28日の白村江河口における海戦で唐軍に完膚なきほどに敗れてしまう。(※唐船は170隻の楼船(構造船)、倭軍は400艘余りの準構造船で、倭船はほぼ壊滅の憂き目に遭った。)

この敗戦の翌年(664年)以降唐からの使者が5回もやって来ることになる。以下に年代順に箇条書きで記しておく。

(1)664年5月17日
  百済の鎮将「劉仁願」及び朝散大夫「郭務宗」らがやって来る。表函と献物を進上した。滞在期間7か月。
(2)665年9月23日
  唐使、朝散大夫「劉徳高」らがやって来る。総勢254人。7月28日に対馬に上陸し、さらに9月20日になって筑紫(九州)に上陸する。同23日に    表函を進上する。(※この船団の中に藤原鎌足の長男で留学僧として唐に行っていた「真人」こと出家名「定恵(じょうえ)」がいた。)
(3)667年11月9日
  百済の鎮将「劉仁願」及び熊津都督府の「司馬法聡」らが筑紫都督府にやって来る。
(4)669年
  この歳に、大唐が「郭務宗」ら2000余人を派遣したとの情報が入る。
(5)671年正月13日
  百済の「劉仁願」が「李守真」らを派遣し、表を進上した。
(6)671年11月2日
  沙門「道久」、筑紫君「薩野馬」、「韓島勝佐波」、「布師首磐」の4人が捕虜になっていた唐から帰国し、「郭務宗ら2000余人が47艘の船に乗って倭国にやって来るが、攻めに来たのではありません」と注進する。

以上の6か所が日本(倭国)への唐使による「進駐」である。

このうち武将(鎮将)によるいわゆる「進駐軍」の上陸は(1)・(3)・(5)だが、(2)は文官である郭務宗の引率であり、また(4)で予告された(6)の2000余人の到来も、引率者は同じく郭務宗であるから厳密には「進駐軍」とは言えないかもしれないが、文官を守る武人は同行したであろうから、これも「進駐」の範疇に入ると思われる。

いずれにしても白村江の海戦で敗れた日本へは、唐からの武人を伴った交渉団が5度も訪れており、外国軍の進駐はこの時代に確実にあったことになり、太平洋戦争に敗れた後の米軍による進駐は日本としては2回目ということになる。

(※1019年の刀伊の乱や1274年と1281年の元寇では、壱岐と対馬は彼らの蹂躙に任せたが、九州本土には上陸していない。)

さて、白村江の戦役後の唐軍の進駐は664年から671年のことであり、期間は天智天皇統治時代の最終局面であった。

最期の5回目671年の進駐2000余人の中には、倭の軍人で唐軍の捕虜になった者や、百済から倭国へ移住する者もいたようだが、それにしても大量の進駐であった。

この年の12月3日に天智天皇は崩御するのだが、天智天皇の殯宮についても御廟についても日本書紀の記録にはない。また翌年の6月から8月にかけて起きたいわゆる「壬申の乱」もタイミングとしては出来過ぎているようにも思われる。

また持統天皇の6年(692年)閏5月の次の記事は、天智天皇の不審死をさらに増幅させるものだろう。

<15日、筑紫大宰率(おおみこともち)河内王らに詔して曰く「沙門(僧侶)を大隅と阿多に遣わし、仏教を伝ふべし。また、大唐の大使「郭務宗」が「御近江大津宮天皇(天智天皇)}のために造れる阿弥陀像を上送せよ」とのたまふ。>

これは古日向のうち阿多と大隅に僧侶を派遣するという政策が690年代には発令されていたことを示すものだが、それよりも後半の部分である。

持統天皇が、わが父天智天皇のために唐使でありながら郭務宗が造ったという阿弥陀像を、筑紫の大宰率であった河内王に送って寄越すように命じたというのだ。

命じたのは692年の閏5月、郭務宗が最後に筑紫に上陸したのは672年。その時間差は20年。郭務宗が20年後の692年になって阿弥陀像を作って筑紫に持参したというのは考えにくい。

とすると672年の時点で、つまり天智天皇が崩御した翌年に阿弥陀像を造って筑紫に置いてきたことになるが、そう考えると天智天皇の死は阿弥陀像を造って弔うべき死であったということになる。

(※阿弥陀仏は来生の至福を願う仏とされるから、天智天皇は戦犯としての死を遂げた可能性が高い。そう捉えて矛盾しないと思われる。)





藤原氏と藤原宮(記紀点描㊿)

2022-04-28 20:50:45 | 記紀点描
中臣鎌足が藤原鎌足となったのは、天智天皇が天武8年(669年)の10月に死の床にあった鎌足に対して、その勲功を賞して「藤原姓」を与えたからである。

鎌足は同時に「大織冠」を授けられ、「内大臣」という臣下としては最高の位に上った。しかし藤原氏となった鎌足はその翌日に死亡したから、鎌足自身は藤原姓が与えられたといっても、もうすでに意識朦朧であったに違いない。

しかしその後の藤原氏の大活躍の発火点になったことは間違いなく、平安期からは藤原氏の専制体制と言ってもよい時代になり、「五摂家」を生み、全国にその名を取り入れた「佐藤・伊藤・斎藤・・・」などを輩出した一大姓勢力である。。

この「藤原」は大和国の高市郡(橿原市)に見える地名であり、おそらく見事な山藤(栽培種以前の野生のフジ)の繁る一帯だったがゆえに付けられた地名であったろう。

669年に姓として授けられる前に、藤原という地名が登場するのは、允恭天皇の時代と推古天皇の時代である。

允恭天皇(第19代 在位412~443年)の6年(417年)、皇后・押坂オオナカツヒメの妹の衣通姫(ソトオリヒメ)というたいそうな美人を後宮に入れようとして、皇后にねたまれ、衣通姫のために「藤原宮」を建てたという記事があるのが、藤原の初見である。

藤原という地名の所に建てたので宮の名が「藤原宮」となったのだが、この藤原宮は約280年後の694年に持統天皇が唐式都城として建設した後述の藤原宮と同じ宮名である。ただし宮の建設地は重なっていない。允恭天皇の藤原宮の方がより飛鳥の村に近かったようである。

この時の藤原宮は2年足らずで放棄され、大和の外の河内に新しく「茅渟(ちぬ)宮」が造られた。姉の嫉妬が苦しく感じられてならない衣通姫のたっての願いで、飛鳥からはるかに遠い河内の茅渟に造営された。首尾よく行ったようだが、姉の嫉妬は止まず、「頻繁に出かけたら、人民の負担となるから、回数を減らしなさい」とくぎを刺されている。

さて、推古天皇(第33代 在位593~628年)の時代に登場するのは「藤原池」である。推古天皇15年(607年)の記事に、「今年の冬、高市池・藤原池・肩岡池・菅原池を作る」とあり、河内国でも「戸苅池・依網池を作る」とある。いずれも灌漑用の池であろう。またこの年には小野妹子と鞍作福利を隋に遣わしている(第1回遣隋使)。

その後の地名由来の「藤原」については、天智天皇の正式な即位年7年(668年)のこととして、次の記事があるのみである。

<7年(668年)2月、古人大兄皇子の娘・倭姫を立てて皇后とす。ついに4姫を納れり。(省略)遠智娘(オチのイラツメ)は1男2女を生む。第一を太田皇女、第二を鵜野(ウノ)皇女ともうす。ウノ皇女は、天下を保ちたまふに及び、飛鳥浄御原宮にまします。後に宮を藤原に移したまふ。>

ウノ皇女はのちの持統天皇のことで、夫の天武天皇亡き後に「藤原宮」を造営している。

天武天皇から持統天皇の時代は、663年に白村江の海戦で唐・新羅連合軍に完膚なきまで敗れ、半島の権益を失って列島だけの自立国家にするため唐に倣った「法治国家」(律令体制)樹立を目指していた時代であった。

都城の建設もその一環であり、持統天皇の4年から8年にかけ、4年の歳月をかけて竣工している。南北1キロ、東西1キロ(100ヘクタール)の大陸式の都で、朝堂院はじめ唐の都城を模した本格的な「天子の城」である。

この本格的な法治国家観による都城の名をなぜ「藤原宮」としたのだろうか?

もちろん付近に地名としての「藤原」があり、上に述べた「藤原池」のある地域であった。そこに展開する都城が藤原宮であってさしたる不思議はないのだが、一点だけ不審なのは「藤原氏」という地名ではない「姓(氏)」の存在である。

藤原姓は最初に触れたように、中臣鎌足の死の直前に天智天皇によって与えられた姓であった。その姓は鎌足の出生地でもあった地名・藤原から採ったものだろう。その藤原姓が669年に始まり、藤原宮が完成した694年頃には鎌足の後嗣の藤原不比等も官僚として中堅どころを担っていた。

父が大殊勲のある内大臣鎌足であり、それへの賜姓によって藤原氏が生まれたのはいいとしても、新しく建設された巨大な大陸式都城に「藤原宮」という名を名付けるのはいかがなものか。たとえ功労第一等の内大臣とはいえ、天皇の臣下に過ぎないのである。

その姓と同じ名称を新式都城に使うのは普通はためらうはずである。史上の事例では淳仁天皇の幼名が「大伴皇子」だったため、天皇側近の大伴氏は「伴氏」に名称変更されている。

「藤原宮」は天皇の名ではなく都城の名だが、それでも当時は中堅官僚であった鎌足の長子・藤原不比等の「藤原」の字を避けるか、あるいは逆に「藤原宮」名を優先して藤原氏の名称を例えば「藤井氏」などのように変えるのが普通ではないかと思うのである。

ところがそれをしなかった。

そこで考えられるのが、天武天皇の出自である。私は天武天皇は孝徳天皇の4年(653年)に唐に僧として留学し、白村江戦役の終了後の665年に唐の使者・劉徳高の船で帰って来た藤原鎌足の長男・真人(僧籍名・定恵)ではないかと考えている。

つまり天武天皇とは鎌足の長男中臣真人(藤原賜姓後は藤原真人=僧籍名・定恵)であり、であれば藤原姓は藤原宮とは同格ということになり、藤原を共有して怪しまなかったとということになる。

天武天皇の幼名とされる「大海人皇子」という人物が、天智天皇紀にほとんど登場せず、登場した時は「皇弟」「大皇弟」と書かれるのみで、一向に「大海人皇子」としては出てこない不審もこれで氷解される。「大海人皇子」という名の皇子の実体はなかったのである。

※「大海人皇子」または「大海皇子」は舒明天皇紀2年(630年)正月条に、舒明天皇と皇極天皇の子供として「葛城皇子(中大兄皇子=天智天皇)、間人(はしひと)皇女、大海皇子」があったことが紹介された後は、書紀の記述に一切登場せず、常に「天智天皇の弟」の意味の「皇弟」だったり(孝徳天皇紀4年条)、「大皇弟」だったり(天智3年2月条・7年5月条・8年5月条)、「東宮大皇弟」だったり(天智8年10月条・天智10年正月条)、初めて「皇太子」(天智10年5月条)が当てられ、さらに「東宮」(天智10年10月条)という名称で最後の登場となった。

その間、一貫して「大海人皇子」とも「大海皇子」とも書かれず、例えば「大皇弟・大海人皇子」というような書き方は一切なく、言わば「大海人皇子」の存在は無視されているのである。つまり「大海人皇子」という人物は舒明天皇と皇極天皇との間の子ではなく(天智天皇の兄弟ではなく)、まったくの造作であると言っているに等しいのだ。

その「東宮」が死の間際の天智天皇から、「東宮なのだから私の死後に天皇になって欲しい。そして我が子の大友皇子を皇太子にしてほしい。」と言われ、はいそう致しますとは言わず、「いえ、次期天皇には皇后陛下がなり、大友皇子を東宮に据えるべきです」と、私の出る幕は有りませんとばかり、即日出家して法服を着用して吉野宮に隠遁したのであった。

ここで「即日に出家した」とあり、法服(僧衣)まで着用した天武天皇だが、大海人皇子時代に仏教を学んだなどという記述は一切見えていない。大海人皇子という人物を主語にした記録が一切書記には記されていないのだから、当たり前と言えば当たり前だが、即日の出家という記事の唐突感は全く以て不可解である。

また即位後の記事として「天武天皇紀・上」の即位前記には、あれだけ書かれていなかった「大海人皇子」が幼名として取り上げられている。これは舒明紀の皇極天皇との間の子として「葛城皇子(中大兄皇子)・間人皇女・大海皇子」と造作したことに対する「〆め」のようなものである。

天皇はまた「天文・遁甲(トンコウ)を能くする」と書かれており、このような学問を誰からどこで習ったという記事も当然ながら皆無である。

そしてさらに「和風諡号」を見てみると、それは「天渟中原瀛真人(あめのぬなはらおきのまひと)」である。最初の「天渟中原」(あめのぬなはら)とは天から見た地上の中心という意味で、「豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに)」に近い意味だろう。「瀛(おき)」は大陸から見た日本列島を「瀛洲(エイシュウ)」と言ったことから日本を指している。

その日本を治める「真人」(まひと)が、天武天皇の属性であった。真人は道教における「神人」と言って良いから、天武天皇のこの和風諡号は、「豊葦原と言われるはるか海の向こうの日本を神のごとく治める天皇」と解釈される。

ところが「真人」には道教の神に相当する人物という意味に加えて、藤原鎌足の長子であるのちの留学僧「定恵」(貞慧とも書く)の本名が「中臣真人」だったことをも想起せざるを得ないのである。

この定恵こと中臣(藤原)真人が天武天皇であってみれば、天皇が天智天皇の譲位の申し出を断ったその日に剃髪して法服(僧衣)を身に纏って吉野に隠遁したことも、天文や遁甲を能くしたことも了解される。

また孝徳天皇の5年(653年)の遣唐使船で唐に留学し、向こうで13年も学んだ挙句に白村江の戦役の後に唐から遣わされた終戦処理の交渉団(団長は劉徳高)の船で帰って来た(665年)ことは、「はるか海の向こうの日本(瀛洲=エイシュウ)を神のごとく治める」ための帰国だったと解釈できよう。唐としても中国語を理解できる「留学僧中臣真人こと定恵」を天皇に据えれば、倭人をコントロールしやすいと踏んでの天皇交代劇だったのだろう。

しかし唐の思惑は外れた。一つは新羅が敗戦後の百済のみならず、唐によって敗れた高句麗までをも征服して半島を統一したこと(675年)と、天武天皇の後継となった天智天皇の娘の持統天皇の強力なリーダーシップによって列島を日本独自の律令体制でまとめ上げたことである。唐の制度に倣うばかりでなく日本古来の祭政をうまく制度化した功績は大きい。


持統女帝の「甥殺し」(記紀点描㊾)

2022-03-02 10:19:43 | 記紀点描
【はじめに】

「甥殺し」とはおどろおどろしいタイトルだが、天武天皇(第40代・在位673~686年)と皇后の持統天皇(第41代・在位687~697年)は揃って「甥」を亡き者にしている。

天武は壬申の乱(672年6月~7月)を起こし、その結果、兄天智天皇(第38代・在位662~671年)の皇子大友の近江王朝軍を破り、大友皇子は自害している。(※大友皇子は弘文天皇として天皇系譜の第39代になっている。)

また持統は夫の天武崩御(686年9月9日)後、まだひと月も経たない10月3日に甥の大津皇子(母は持統の同父母の姉・太田皇女)を自害に追い込んだ(享年24歳)。

大友皇子が自害した時、持統は天武側の吉野軍の戦陣にいたから、持統は大友皇子および大津皇子二人が自害して果てた渦中に身を置いていたことになり、女性天皇のイメージからすれば驚くほかない。

ここでは詳しくは取り上げないが、同じように「甥」を殺害に追い込んだ女帝がいる。それは天智天皇の母・斉明天皇(第37代・在位655~661年)である。

斉明天皇は弟の孝徳天皇(第36代・在位645~654年)の子の甥・有間皇子が、斉明の統治上の問題点(特に「狂心の渠」=無駄な水路工事)を指摘したことを重臣の蘇我赤兄から聞き及び、ついに丹比国襲を遣わして殺害させている(斉明紀4=658年11月条)。

(※この暗殺の前の同年5月に最愛の孫の建皇子が8歳で亡くなっており、あるいはこのショックが余計に女帝の心情を混乱させ、ヒステリックになっていた可能性がある。)

【大津皇子の自死の経緯】

大津皇子は持統とは同父母の大田皇女の子である。父は天智、母は遠智娘(蘇我倉山田石川麻呂の娘)であった。(※上に上記の8歳で亡くなった兄・建皇子がいる。)

この甥の大津皇子が「謀反の心あり」として追及され自死に至った経緯は次のようである。

<朱鳥元年(686年)9月9日に天武天皇が崩御し、その直後に大津皇子の謀反心が発覚した。>と持統天皇の「即位前紀」は記す。さらに10月2日になって

<大津皇子はじめ32人が一味として捕らえられた。そして翌日には大津に死を賜った。行年24歳。この時、妃の山辺皇女は半狂乱になり、ともに死んだ。>

<大津の人となりは、才気があり、文筆に長けていた。「詩賦(漢詩・文)は大津より始まる」と言われたほどであった。>

<10月29日になって持統は詔勅を出し、大津以外は大津の側近だった帳内(舎人)一人を伊豆に流し、また同じく一味とされた新羅僧の行心については「皇子の謀反に関与したが、罪するには忍びないので飛騨の寺に移す」とした。>

クーデターの一味32人を捕縛し、そのうち首謀者とされた大津皇子は即刻自死へ追いやり、残りのうち2名だけに罪状を嫁したが、拍子抜けするくらい甘い裁定であった。

側近の舎人は遠流だから口封じだろう。また行心という新羅出身の僧は『懐風藻』という詩賦によれば、どうやら大津皇子に謀反をそそのかせた張本人のようなのだ。

要するに「内通者」(スパイ)という奴である。斉明天皇への謀反を企てようとした有間皇子が重臣の蘇我赤兄によってそそのかされ、内通されてしまったのとほぼ同じ手口といっていいだろう。(※旧ソ連のKGBもどきのやり方である。それも女帝が使っているのだから、なかなか開いた口が塞がらない。)

では、なぜ、今日では血縁関係でよく言われる「かわいい甥っ子」のはずの大津皇子を殺してしまったのか。

それは今日にも有りがちな「わが子可愛さ」だろう。

持統には同じ天武の血を引く皇子の草壁がいた。年齢は大津皇子より一つ上だったが、大津の非凡さに全く歯が立たなかったようなのだ。

上で触れたように姉の子の大津皇子は才気煥発であり、かつ容姿も格別に優れていたらしい。

我が子は愚か者でもかわいいのだろうが、しかし周囲が可愛いといってくれなければ役に立たない。父の天智は同じ孫でもことのほか大津の方を寵愛したようで、そのことも持統の嫉妬を買うに十分だったのだろう。

とにかく天武後の後継レースでは衆目の一致するのが大津皇子であった。持統はそれをでっち上げの「謀反劇」に仕立てたてて阻止したわけである。げに女の執念の恐ろしさ・・・か。

【草壁皇子の死】

天武天皇の崩御(686年)後、草壁皇子に即位させれば何のことはなかったのに、持統はそうせず、異常に長い殯(もがり)を継続し、687年10月には天武の御陵である「大内陵」を築き、翌688年(持統称制2年)の11月にようやく天皇を大内陵に葬っている。

そしてやれやれ翌年には草壁皇子が即位して天皇になるはずであったが、あに図らんや、肝心の草壁は689年の4月13日に死んでしまうのである。大津皇子が不慮の死を遂げてから2年半後のことであった。ここに大津の執念ならぬ怨念を感じるのは私だけか。

結果論だが、持統はいったい何のために大津を排除したのか。その意味は全く薄れてしまったのである。大津皇子の死は全くの無駄死にであったことになろう。

この草壁皇子の死後1か月して新羅から天武天皇への弔問使いが来日しているが、その時に興味あるトラブルが発生した。その内容をかいつまんで書くと次のようである。

<天武崩御への弔問使いの金道那が、新羅の官位で「級飡(キュウサン)」という17階ある官位の上から数えて9番目だったということで、持統は「孝徳天皇の時は翳飡(エイサン)という2番目で、天智天皇の時は一吉飡(イチキッサン)という7番目、今度は9番目の低い位の者がやって来たが、これはどういうわけか!」と怒り、結局、金道那を追い返してしまった。>

約30年前の孝徳天皇の時の官位2番目というのに比べ、天智は7番目、天武は9番目なのはどう考えたらよいだろうか。新羅が孝徳天皇の時に翳飡(エイサン)という2番目の位の使いを送ったことは当然承知のはずである。

とすると新羅はそれを分かっていながら天智に7番目を、天武に9番目を充てたことになる。それは結局新羅の天智なり天武なりへの評価なのではないか。

まず天智は中大兄皇子時代に新羅・唐連合軍と白村江で戦った倭軍の最高指導者であり、唐・新羅にすれば敗軍(旧敵)の将であった。したがって孝徳天皇より著しく落ちる7番目と値踏みしたに違いない。これはこれで理解できる。

しかし天武の9番目というのはどうだろうか? 天武は白村江戦役に直接タッチはしていないのである。それがなぜ天智よりも低い位の者が派遣されてきたのだろうか。

そのことは実は私見の「天武天皇=定恵」説を採用すると、容易に説明ができる。というのは天武は皇族ではなく、重臣の家系「中臣氏」(のちの藤原氏)の出身者だったからだろう。(※天武の幼名「大海人皇子」の名が母の斉明紀にも兄の天智紀にも、家系上の説明以外ではほぼ登場しないことから推定される。)

このことは内密にされてはいたのだろうが、先の大津皇子謀反事件をリークしたと思われる新羅僧の行心などは知っていたかもしれない。

【持統天皇の時代】

次期天皇になるべき我が子・草壁皇子が若死にした翌年の690年1月1日に持統天皇が即位した。

即位の際に神祇伯の中臣大嶋が「天神寿詞(あまつかみのよごと)」を読み上げているが、これは新規の儀式である。また忌部宿祢色夫知が「神璽」「剣」「鏡」を皇后に捧げて即位が完了しており、この伝統は今に繋がるものとして注目に値する。

この年には藤原宮を造営する土地を下見しており、4年後の694年(持統8年)12月に竣工し、大規模な都城「藤原京」が開かれた。

天武時代に引き続き、中央集権化つまり律令制への整備はたゆまずに進められており、その体現する場所としての藤原京であった。

また南九州関連として、6年(692年)には法師が派遣され、大隅・阿多に仏教を伝えたという。695年には種子島へ覓国使の文忌寸博勢が遣わされたとあり、南九州から離島にかけても集権化を進めていた様子がうかがえる。(※同じ695年に大隅から隼人が上京している。)

696年(持統10年)の10月に藤原不比等など高級官僚たちに資人(使用人)を与えたという記事が見える。

中でも藤原不比等は、この後も王権の枢要を任され、11年後の慶雲4年(707年)4月15日には文武天皇の「宣命」により、「食封(へびと)」実に5千戸が与えられるという大出世を果たしている。(※さらに13年後の720年8月に不比等は62歳で逝去するが、時あたかも王府軍が南九州の「隼人の叛乱」を鎮圧すべく戦っている時であった。征隼人持節大将軍だった大伴旅人は弔問のため都に返されている。)

持統天皇の吉野宮への行幸は32回にも及んでおり、よほど天武挙兵の揺籃の地を好んだようである。

また年2回、4月の夏の初めには竜田の水の神を祭り、7月の秋の初めには広瀬の物忌みの神(風鎮め)を祭ることを欠かしたことはなかった。

かくて治世11年目の697年8月、まだ元気なうちに、次代の天皇として草壁皇子の子の軽皇子に禅譲(生前退位)したのは賢明であった。持統天皇は引退後の文武天皇の大宝2年(702年)に58歳で崩御している。

(※軽皇子こと文武天皇(第42代・在位697~707年)は、持統にとって子の草壁の子であるから孫に当たるのだが、実は母(草壁の妻)は持統の腹違いの妹の阿閉皇女であったから、そっちから見れば持統の甥に当たる。)

天武天皇の時代(記紀点描㊽)

2022-02-23 16:33:55 | 記紀点描
【天武天皇時代の特質】

壬申の乱で大友皇子(漢風諡号・弘文天皇)方の近江王朝に勝利した大海人皇子こと天武天皇(在位672~686年)の時代相を一言でいえば、「神仏両拝を基軸にした中央集権国家を目指した時代」ということになるだろう。

神仏両拝という用語はないが、神仏混交あるいは習合が「本地垂迹」「反本地垂迹」という「神が先か仏が先かの論争」に至った中世より前の、神道の定型化(神社化)が仏教の伽藍様式に触発されてそれなりの社殿が建立され始めた時代に、いわば神仏への礼拝が「棲み分け」によって確立しつつあった様相を「神仏両拝」で端的に表現してみた。

実際、まず天武天皇からして、今はの際の天智天皇から皇位を継ぐように言われたが、即座に断り、僧形になって近江から吉野へ隠遁したのだった。

仏教が百済から倭国にもたらせられてから、熱心に取り組んだ蘇我氏の影響を受けて仏教に関心を持つ天皇や皇族は多くいた。中でも蘇我氏の血を引く聖徳太子(574~622年)は仏教学者と言っていいくらいの経典理解を示したが、太子自身は僧形にはならず、また僧形になった天皇はいなかった。

しかし天武天皇は近江から隠遁するため、つまり逃避するために仮に僧形になったにせよ、法服を身に纏った唯一の天皇であった。

天皇として即位後も、次のように仏教関連のイベントを行っている。

・僧尼2400名に設斎(法会)を開催させた。(天武紀4年4月条)
・金光明経・仁王経を講義させた。(同5年11月条)
・飛鳥寺にて設斎(法会)。一切経を読誦させた。(同6年8月条)
・宮中において金光明経を説く。(同9年=5月条)

など、かつては蘇我氏だけの私的な法会などを、天皇自らが主宰するようになった。

その一方で、神道系の催しもかなり行っている。

・大来皇女を伊勢の斎宮に行かせた。(天武紀元年4月条)
・十市皇女・阿閉皇女(のちの元明天皇)が伊勢に参宮した。(同4年2月条)
・旱(ひでり)のため、諸方に使いを送り御幣を奉納して諸神に祈らせた。(同5年夏条)
・天神地祇祭祀のため祓い禊する。(同7年春条)
・御幣を国懸社・飛鳥四社・住吉社に奉納した。(同15年7月条)

大来皇女や十市皇女・阿閉皇女が参宮した頃の伊勢神宮の規模や構造などはうかがい知れない。

しかし仏教の仏像・仏具・経典などが百済の聖明王(第26代・在位523~554年)から伝えられ、それを蘇我稲目がわが屋敷の内に祀った(552年)頃から次第に仏殿が発達したことを受けて、神祭りにおいても神社という社殿を建立するようになったわけで、仏寺が伽藍様式を取り入れたように、神社もそれなりに建築様式を発達させていたと思われる。

したがって伊勢神宮本殿とは別に斎宮(殿)があったものとしてよい。そこに皇女たちが寝泊まりしてアマテラスオオカミに仕えたのである。

旱(ひでり)は水田栽培を基本とする稲作にとっては最大クラスの災害であったから、諸国に官員が派遣されて地方ごとに存在する社に幣帛を捧げているが、これは要するに「雨ごい」である。

(※持統天皇(在位687~697年)の時代になると、竜田社と広瀬社への幣帛の奉納は年中行事のようになったが、竜田社は水の神であり、広瀬社は物忌みの神であった。)

最後の6社への御幣奉納は天武天皇の病気回復祈願のためであったが、祈願の効無く天皇は686年9月9日に崩御した。11月には殯宮(もがりのみや)が飛鳥浄御原宮の南の庭に建てられた。

【天智天皇の殯宮はなく、陵もなかった】

天武天皇が崩御すると2か月後には殯宮が建てられたと記事にあるが、天智天皇の殯宮が造られたという記事はない。

また2年後の持統天皇2年(688年)の11月には「大内陵」に葬ったという記事が見えるが、この陵に関しても天智天皇のは天武紀には見当たらない。(※ただ、壬申の乱が起きる直前の672年5月、近江方が天智天皇の陵を築くために美濃と尾張の国司に人夫の徴用を命じた、といい、これに対して朴井君雄君という舎人が大海人皇子に「この徴用は決して陵を造るためではなく、有事のためのものですから、吉野から逃げた方がよいでしょう」と進言する場面がある。この時の築陵は偽りだったというわけである。ここでも天智及び天智陵の行方は追えないままだ。)

壬申の乱において敵であった大友皇子は自害しようが殺されようが、敵であった以上はその死後のことが書かれなくても理解はできるが、天智天皇は大友皇子の父ではあるものの、壬申の乱の敵方の当事者ではなかったのだから、記録に残らなければおかしい。

このことは天智天皇の死の謎をさらに深める。やはり山科で「行方知れず」になり、その遺骸も行方知れずになったと理解すべきだろうか。

天武天皇の皇后の持統天皇(幼名・ウノノササラノヒメミコ)は天智天皇の娘なのであることからして、たとえ同時に敵(大友皇子)の父であるにしても、天智天皇を一切祭らないことについては抵抗を感じてしまうのである。やはり「行方知れず」ということなのだろうか。

【天智天皇の娘4人を后妃にした天武天皇の素性】

天武天皇は天智天皇の4人の娘を后妃にしているが、これも不可解である。

古代の天皇の婚姻では、姪を娶ることは不道徳ではなかった。それどころか異母兄妹同士の婚姻も許されていた。母親が違えば同父であっても結婚は可能であった。

そう考えると兄天智の娘が天武の后妃になることは有り得ることだが、4人もの姪を後宮に入れるのは前代未聞。

皇后にしたのがウノノササラ皇女(のちの持統天皇)、妃にその同母姉のオオタ皇女。さらに異母のオオエ皇女とニイタベ皇女。この4女はすべて天智天皇の娘である。ほかに他氏から6人の娘を後宮に入れている。(※その中の一人が鏡王の娘・額田姫王で、このヒメは最初大海人皇子の妃だったのだが、のちに天智の下へ移った(移らされた)ことで天智と天武の間に亀裂が走った。この亀裂が壬申の乱の遠因だったという説もあるが、これは現在否定されている。)

天武天皇(大海人皇子)が天智紀の中では姿を見せていないのも不可解な話である。いや無いことはない。その際は決まって「皇弟」もしくは「大皇弟」「東宮」と書かれ、幼名の大海人皇子という名(個人名)は決して出てこないのだ。

最初に大海人皇子が登場するのは、舒明天皇(在位629~641年)の2年(630年)条で、天皇と宝皇女(のちの皇極天皇)との間に生まれた三子(葛城皇子・間人皇女・大海人皇子)の一人として登場するのだが、その後の動向は一切不明である。

父の舒明天皇が崩御した時に兄(天智)の方は「この時に東宮葛城皇子は、年16才にして誄(しのびごと)したまう」と記録され、あまつさえ当時の年齢が記されている(舒明紀13年条)。(※舒明天皇の崩御年は641年であるから、天智天皇の生年は626年と逆算される。)

天智天皇の時代、天智(中大兄皇子)が対百済救援軍を組織して筑紫の朝倉宮に行き、そこで母の斉明天皇が崩御し、中大兄皇子が斉明天皇の殯宮を長津宮(磐瀬行宮)に設けても、大海人皇子は姿を見せないのだが、実母であり天皇である人の葬送に姿を見せないような関係というのは普通では考えられない。大和の統治を任されていて、繁忙で席を離れることができないにしても、何らかの悲痛・弔意の場面があってしかるべきところである。

それの片鱗もないということは、わたしはどうも大海人皇子こと天武天皇は、天智天皇の弟でも斉明天皇の子でもないのではないか、という思いに至るのである。

では誰であろうか?

その候補としてあげたいのが、藤原鎌足の長子とされ、孝徳天皇の白雉4年(653年)に遣唐使とともに唐へ仏教を学びに同船した「定恵(じょうえ)」である。

定恵は本名を中臣真人といい、藤原氏(といっても653年の時点ではまだ中臣氏であった。藤原姓は天智の死の2年前の669年からである)という本来なら神道系の家筋であり、しかも嫡子が仏教僧になるという点で、極めて異例なことである。

この定恵が唐から帰って来たのが、天智天皇の称制4年(665年)の9月であった。唐からの使者、劉徳高・郭務悰らの乗った船に同船して筑紫に到着したのである(孝徳紀5年2月条に引用の「伊吉博徳の書」)。そして『藤氏家伝』によれば、同年(665年)には亡くなったとある。

この年の前年に天武天皇が一度だけ「太皇弟」として現れるようになり、668年の天智天皇の即位後は「東宮」を含めて登場の場面が増えて行く。しかし天智天皇が大和から近江宮に遷都した後、671年に我が子大友皇子を太政大臣にしたのがきっかけとなり、「東宮」(皇太子)を返上した挙句、法服を纏って吉野宮へ隠遁する。

この時の法服を纏うということ自体が、天武の仏教への傾斜を端的に表しており、このことは天武が相当深く仏教を学んだ人物であったことを象徴している。

そのうえ、【天武時代の特質】で指摘したように、国を挙げての仏教への取り組みに並々ならぬものが伺われることから、私は藤原真人こと定恵こそが天武天皇なのではないかと思うのである。

天武天皇の漢風諡号が「天渟中原瀛真人(あめのぬなはらおきのまひと)」と「真人」を含んでいることも、この考えを後押しする。また「瀛(おき)」は大陸中国から見た島国という意味であり、この名付けは、唐に学僧として12年も留学していた中臣真人が故国に帰った後、天皇位に就いたという暗喩ではないだろうか。

以上、兄である前代の天皇の娘を4人も后妃にしていることから天武は天智との間に血縁関係はないこと、仏教に非常に造詣が深くかつ傾斜していること、そして天武の漢風諡号が「中臣真人」を連想させることなどから、天武天皇とは実は藤原鎌足の長子で唐に12年間も留学し、665年の帰国後はその年のうちに亡くなったと記されている定恵(本名・中臣真人)その人が天武天皇だったのではないかと考えてみたい。

この点についてはいまだ確定ではなく、後考を待ちたいと思う。