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鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

壬申の乱(記紀点描㊼)

2022-02-21 21:22:45 | 記紀点描
壬申の乱(西暦672年6月~7月)は古代では最も大きな内乱と言われる。

しかしその規模(戦闘員の数)と戦死者数については確定した数字はない。

他にも内乱は数多くあった。崇神天皇時代の「武埴安彦の叛乱」、垂仁天皇時代の「狭穂彦・狭穂姫の乱」など相当な数で起きている。だが、皇位の継承を巡る皇族同士の直接対決は実はそれほどない。

壬申の乱が起きた原因を、かつては天智天皇と天武天皇の額田王(ぬかだのおおきみ)を巡る恋の鞘当てに求めることが多かったのだが、これは今日では否定されている。

この叛乱は天智天皇の弟大海人皇子が、天智天皇の皇子で当時太政大臣に任命され、近江の宮に都を置いていた大友皇子の政権に対する大海人皇子(のちの天武天皇)による「王権奪取」の戦いであった。

天智天皇が我が子の大友皇子を太政大臣にしたあと、死の床に大海人皇子を呼んで後継を託すのだが、大海人皇子はなぜ今さら自分を後継者に指名したのか疑わしく思い「皇后のヤマトヒメ様を天皇に立て、大友皇子を皇太子にすべきです。私は出家して功徳を行うつもりです」と頭を丸めて吉野宮に入った。

その疑いはどうやら正鵠を射ていた。もし後継を引き受けたら、太政大臣の大友皇子を差し置いて皇位に就いたことをとがめられ、下手をすれば殺害されてもおかしくなかったのである。

大海人皇子はもともと都を飛鳥から近江に移すのには反対で、同じように反対する多くの豪族の支持を得ていた。

近江軍が飛鳥の古京に到る道々に軍勢を派遣したのを見計らった吉野宮側はついに吉野宮を離れいったん東国を目指すことにした。かくて壬申の乱の幕が開いた(672年6月22日)。

吉野側が真っ先に一報を入れたのが、安八郡(美濃)の「湯沐令」と書いて「ゆのうながし」と読ませる役職(皇太子の養育のための田畑を管理する役)についていた多臣品治(おおのおみ・ほむぢ)であった。(※この人は太安万侶の父らしいが、記紀には明示されていない。)

多臣品治が美濃の軍団を組織したことで、吉野側は大きな勢力となった。尾張国司なども吉野側に就き、近江側の劣勢は明らかになった。

吉野側の将軍は武の名門出身の大伴吹負(おおとものふけい)であったが、近江側は将軍といっても文官系の貴族から成り、遠く筑紫大宰府の栗隈王に出兵を打診して断られる始末で、劣勢は覆うべくもなく、ついに瀬田川の戦いで完敗し、大友皇子は自害するという最悪の結果を迎えた。

近江側の加担者、蘇我赤兄・蘇我果安・中臣連金・巨勢人・紀大人など8名が斬罪となり、戦いは吉野側の勝利で幕を閉じた。ちょうど一月にわたる戦いであった。

この結果近江宮は廃止され、都は大和に戻った。大和の豪族たちはみな安堵したに違いない。

近江の都はその後放置され、荒れるに任せられたようだ。その光景を詠ったのが奈良時代の歌人柿本人麻呂であった。

<(前略)天に満つ 倭をおきて 青丹よし 平山を越え いかさまに 思ほしめせか 天さかる 鄙にはあれど 石走る 淡海国の 「楽浪(ささなみ)」の 大津宮に 天の下 知しめしけむ 天皇の 神のみことの 大宮は 此処と聞けども 大殿は 此処といへども 春草の 茂く生ひたる 霞み立つ 春日の霧れる 百磯城(ももしき)の 大宮処 見れば悲しも>

柿本人麻呂が近江を訪ねて行ったら、もう近江宮の建物は跡形もなくなり、春草の茂るに任せていた。悲しいものだーという歌だが、人麻呂は710年に死んでいるので、この歌を詠んだ年代を700年とすれば近江の宮は30年で面影を留めなくなったことになる。

(※なお、歌の中で「楽浪」と漢字で書いているにもかかわらず訓では「ささなみ」とよませている部分があるが、「淡海」すなわち琵琶湖を暗喩する「さざなみ」に楽浪を宛てたのは、近江地方に百済の亡命者や避難民をたくさん配置したことが反映されている。半島の百済の故地の西の海は「楽浪」と呼ばれていたのである。)

結局のところ、大和を捨てて近江に都を遷した天智天皇とその子の大友皇子は、本来の大和王権の地である飛鳥を離れたことと、亡命百済人を重用しすぎたこと、これらが大和の豪族たちの反感を買い、ついに反旗を翻させた真因だろう。

 【追 記】

・吉野宮の大海人皇子側が、吉野を立って東国に進軍する際、5日目の672年6月26日に朝明郡(あさけのこおり)の迹太川のほとりに到った時に、はるかに「天照大神」を遥拝したとある(天武元年6月条)。これは垂仁天皇の時に皇女ヤマトヒメが大神を祭るにふさわしい場所として現在の伊勢神宮の地に宮を建てたのは史実であったことの証左となる。

・また、672年7月に、吉野側の将軍大伴吹負(ふけゐ)が劣勢になった頃に、三輪君と置始連との合流軍が近江軍に大勝したのが「箸墓の下」であった(同元年7月条)。この描写によって通称の「箸墓」が7世紀にもそう呼ばれていたことになり、ヤマトトトビモモソヒメが箸で「ほと」(陰部と書くが、私見では「のど」のこと)を突いて自死し、亡骸を葬ったがゆえに墓を「箸墓」と呼んだという伝説は史実であったことの証拠になる。

・また、この「箸墓下の戦い」以前のこととして、高市郡大領・高市県主許梅(こめ)に神がかりがあり、託宣の中で「神日本磐余彦天皇の陵に、馬及び種々の兵器を奉れ」という神示があったという(同元年7月条)。この描写によって「神武天皇陵」の存在が確認され、したがって「神武天皇」(私見では南九州の投馬国王タギシミミ)の存在も創作(おとぎ話)ではなかったことの証明になる。

・因みに、箸墓こそが卑弥呼の墓とする畿内邪馬台国論者が多いが、箸墓は学説上定型的な最も前方後円墳らしい前方後円墳であるとしてある以上、その築造が4世紀半ばを遡ることはない。卑弥呼の死は247年とはっきりしている。約百年のタイムラグがある。先年の環濠調査で木製馬具の一部が出ており、この点からも4世紀半ば以降の築造であることは間違いない。

・もっとも、邪馬台国が大和に無かったことは(1)帯方郡から邪馬台国までの道のりは1万2千里であり、そのうち九州北岸の末盧国(唐津)までですでに1万里だから残りはわずか2千里。しかもその2千里は陸行(徒歩)の道のりであるから、畿内に求められるはずはない。九州島の中にあったのである。

また、(2)方角につても畿内説では「南」とあるのを「東」に改変しており、この点も承認のしようがない。この方角改変の元凶は「伊都国=糸島」説なのだが、伊都国が糸島なら壱岐島から直接船をつければよく、なぜ唐津で船を降り、わざわざ海岸段丘の発達した狭隘な海辺の道を糸島へ歩かなければならないのか説明が付かない。この不可解な解釈により、末盧国(唐津)から「東南陸行500里」にあるはずの「伊都国」は「東北陸行500里」の誤認とされ、以降の道のりにおける「南」はすべて「東」に読み替えられてしまった。

この改変やおそるべし、で、明治以降今日まで150年(江戸時代を入れれば約300年)経っているのに、いまだに邪馬台国の比定地に決着がつかない原因なのである。

素直に唐津から松浦川沿いに「東南陸行500里」していけば、戸数千戸の伊都国(いつこく)は「厳木(きゆらぎ)町」(厳はイツと読める。イツキは伊都城だろう)と比定でき、そこからは方角も距離表記もほぼ無理なく佐賀平野を抜けて、鳥栖から筑後川を渡り、久留米を過ぎた八女が邪馬女王台国と比定できるのだ。

(※江戸時代の儒者新井白石は最初畿内説だったのだが、のちに九州説でも八女の南方の「山門郡」に比定し直している。そこに至るまでの道のりについての解釈は寡聞にして知らないのだが、おそらく「山門」の「やまと」からの類推だろう。しかし私は「邪馬台国」の語源を「天津日(あまつひ)」としており(amatuhi →yamatuhi→yamatahi)、単純な「山門→大和」説は採らない。また「山跡」説も採らない。)




天智天皇の死を巡って3⃣(記紀点描㊻)

2022-02-14 10:30:41 | 記紀点描
薩摩藩が幕末に編纂した『三国名勝図会』(天保14年=1843年完成)には天智天皇の事績が多く見られる(以下文中では単に『図会』と書く。準拠したのは青潮社版である)。

鹿児島藩に属した「揖宿郡」「頴娃郡」「諸県郡志布志郷」に主に見られるのだが、すでに述べてきたように頴娃郡の開聞神社(その新宮である揖宿神社にも)では大宮姫と暮らしてそこで崩御し、墓もあるという(天智天皇の死を巡って1⃣、2⃣)。

今回述べる3⃣では志布志郷を取り上げるが、志布志郷の東北に聳える御在所岳(標高530m)には御廟があるといい、安楽村には天智天皇と皇子・皇后・妃・娘そして持統天皇を祭る「山口六社大明神社」が鎮座している。果たして御廟のあるというここ志布志で崩御したのだろうか。

【薩摩藩諸県郡志布志郷に見られる天智伝説】

志布志郷は大隅半島の要津だが、大隅国肝属郡ではなく日向国の諸県郡に属している。宮崎県都城市への海からの入り口という位置付けであった。

ここ志布志にも天智天皇が巡見に来たという伝承が残っている。

志布志郷の〈山水〉という章の「御在所岳」項は次のように記している。

<往古、天智天皇が薩摩国頴娃開聞の地に行幸した時(1)、志布志郷安楽の海岸に着船し、土地の古老に開聞岳の方向を尋ねたところ、御在所岳の山頂からはよく見えるということで登って眺めた。この年の5月5日に頴娃に到り、9月9日まで滞在(2)してタマヨリヒメ(大宮姫)を寵愛した。翌年5月18日(3)にタマヨリヒメ(大宮姫)は乙宮姫を産んだ。

天皇は頴娃から志布志に帰って来たが、頴娃のことが忘れられず、この地に行宮を建て、「私が死んだあと、ここに廟を営むべし」と言い残し、
冬に(4)志布志の港から都に帰った。

天皇崩御ののち、和銅元年(708年)6月18日(5)、御在所岳の絶頂に神廟を建て、山宮大明神と称した。>(『図会』第4巻P.1000)

この中でタマヨリヒメとあるのは大宮姫のことだが、これは「山口六所大明神社」の祭神が大宮姫ではなくタマヨリヒメとしてあることと整合させたものと思われる。このことは逆に志布志の伝承と頴娃開聞の伝承とは互いに独立していたことが分かる。

志布志のこの伝承の大きな特徴は、下線の部分(1)から(4)のように月日が明確に記されていることである。これを時系列で並べると、

(1)天智天皇の頴娃開聞への行幸の年
(2)(1)の年の5月5日から9月9日まで頴娃開聞に滞在
(4)(1)の年の冬、志布志の港を出航し帰京
(3)(1)の年の翌年、5月18日にタマヨリヒメが乙宮姫を産む

となる。結局(1)の年が判明すれば、(2)から(4)までの年が特定できる。(※ただし(5)については神社の由来記などに記された年月日であろう。これは正確かと思われる。)

(1)の頴娃行幸の年は憶測の域を出ないが、「天智天皇の死を巡って2⃣」で述べたように、開聞社の巫女である大宮姫は663年の白村江戦役の「戦勝祈願」に招聘されたが、結果として惨敗を喫してしまったため追い立てられるように頴娃に送還された。

しかし筑前にいる間に天智(当時は即位前の中大兄皇子)の寵愛を受けており、あまつさえ子を身籠っていた(2⃣の「久多島大明神」の伝承)ので、よほど気がかりだったのだろうか、大宮姫に会いに来た。

その時期を考えると、白村江の戦役で敗れた663年8月28日以降であることは間違いない。中大兄皇子は筑前朝倉宮で戦役の指揮を執っていたが敗れたため、本来なら即日に大和へ帰るべきところ、戦役からの帰還兵や百済からの亡命人などの上陸等で繁忙を極めていた。翌年の2月9日には「冠位26階制」を定めたとあり、また防人の制度を始めている(天智3年条)から、663年の秋以降は大和に帰っていた。

しかしその翌々年の665年、2月に百済の亡命人たちを近江に置き、8月には長門と筑紫に城(水城)を築いているから、この時点では天智(中大兄皇子)自身が筑紫に下って来た可能性が考えられる。

そして665年9月、唐からの使者「劉徳高」が筑紫に到着した。上の時系列の(2)のように5月に頴娃に行って大宮姫と再会し、開聞には月まで滞在したわけだが、その9月までと言うのは、9月に唐の使者が筑紫に到来したゆえに、頴娃を引き上げざるを得なかったのではないか。

そう考えると、(1)の行幸の年とは665年が浮上する。そして(2)の665年9月になって頴娃から引き揚げ、その冬に志布志港から帰京したことになる。その時の大和の宮は「岡本宮」だったようだ。〈社寺〉の章にある「正一位山口六所大明神社」の項に見える「旧記」によると、

<天皇は開聞に到り駐留すること5,6か月。しかれども天下の政事、措くべきにあらざれば、彼の地より舟磯に帰らる>

とあり、筑紫に下って亡命百済人の技術者による筑紫の水城など防衛施設の建設を巡見しながら志布志経由で開聞に大宮姫を訪ね、その年の9月には再び志布志に帰って来た。唐の使者との交渉など「天下の政事」が控えていたためではないだろうか。

さらに、
<「朕の亡きあとよろしくここに廟を建てるべし」と古老に言い残し、和州(大和)の岡本宮に還らる>
とある。

ここでも自らの意思で志布志に廟を営むよう言い残している。しかし志布志で崩御してはいないので亡骸は無いわけだから、実際の御廟ではなく「招霊」による墓、要するに「御霊神社」と言うべきだろう。それが「正一位山口六所大明神」として和銅元年(708年)6月18日に建立された神社である。

天皇が志布志から大和へ帰還した時の宮が「岡本宮」と書かれているが、岡本宮は舒明天皇の「前期岡本宮」と母の斉明天皇の「後期岡本宮」とがあり、どちらも同じ飛鳥の雷丘のふもとに営まれた宮である。そこに帰還したというからには、まだ天智自身が造営した近江宮はなかったわけで、したがってこの年は近江宮造営の667年3月19日より前ということになる(天智紀6年3月条)。

要するに、天智天皇が大隅半島の東海岸の志布志から指宿(山川)経由で頴娃開聞に行った(行幸した)のは、時期的には白村江戦役敗北(663年8月)後の663年の秋から近江宮造営の667年3月までの間であり、可能性が高いのは665年のことだろうという結論である。(※ただし、南九州で崩御した可能性は低い。)

【「南九州における天智伝承」考察の結論】

これまで「天智天皇の死を巡って」というタイトルで1⃣から3⃣まで書いてきたが、それは1⃣の前書きにあるように、天智天皇の死が「山科の山中に馬で入ったまま行方知れずとなった。履だけが残されていたので、そこを御陵とした」という『扶桑略記』の記述など、その死には不審を抱かざるを得なかったからである。

そこで薩摩藩の地歴書である『三国名勝図会』に記載の数々の天智天皇の「御廟」にまつわる伝承から見直してみようということで、ここまで考察して来たのだが、以下に若干は解明できたことどもを箇条書きにしておきたい。

(1)661年1月、天智天皇(中大兄皇子)は百済救援軍を組織しようと、母の斉明天皇とともに筑前の朝倉宮を拠点(大本営)とすべく下って来たが、同年7月に斉明天皇は崩御した。天智(中大兄皇子)は663年の8月に白村江の戦いで倭の水軍が完敗を喫するまで、朝倉宮もしくは長津宮(磐瀬行宮=いわせのかりみや=那の津)に滞在していた。

(2)大宮姫は開聞社という古来からの大社に属する巫女で、南九州からの軍士とともに筑前に行き、「戦勝祈願」の祭祀を担った。(※中大兄皇子自らが南九州まで軍士を徴発するために巡回して来た可能性は考えられる。)

(3)その筑前駐留期間中か戦役で敗れた後かの判断は難しいが、天智天皇(中大兄皇子)の寵愛を受けることがあった。

(4)戦役は完敗だったため大宮姫はお役御免となり、追われるようにして故郷の開聞に戻り、一方、天智(中大兄皇子)もその年(663年)のうちには大和へ帰った。

(5)664年には冠位26階制や防人の制度を作ったりしているので大和の王宮(岡本宮)で朝堂を見ていた。

(6)665年になると2月に亡命百済人を近江に置いたのち、彼らの中の技術者を採用して、長門と筑紫に城を築かせた。その年の何月から工事を開始したかは不明だが、8月には完成している。その工事期間中、自ら現地を視察巡見しに筑紫に下って来た。

(7)もし天智(中大兄皇子)が頴娃開聞に行くとしたら、665年のこの工事期間中であろう。(※いわゆる「出張に事寄せて」というやつかもしれない。)

(8)いずれにしても天智天皇が南九州を巡見したのは史実だと思われるが、南九州において崩御した可能性は極めて低く、頴娃開聞はもとより志布志の御廟伝承はあくまでも、御霊の招霊であろう。

(9)『扶桑略紀』の載せる「行方知れず伝説」はこの考察の結論からは否定も肯定もされないが、しかしなお天智天皇の死が自然死ではない可能性は捨てきれない。



天智天皇の死を巡って2⃣(記紀点描㊺)

2022-02-11 09:19:06 | 記紀点描
「天智天皇の死を巡って」の今回は『三国名勝図会』にその伝承のある地域のうち「頴娃郡」の伝説を取り上げる。(※『三国名勝図会』を引用する場合、『図会』と略記する。)

【薩摩藩頴娃郡に伝わる伝承】

頴娃郡は今日の南九州市(頴娃町と知覧町)と指宿市の開聞町域に広がり、その中でも開聞(ひらきき)神社(正式名「枚聞神社」)が古来の中心をなしていた。

この開聞神社の祭神について『図会』では諸書を勘案し、「祭神については諸説あるが、薩摩藩で権威のある『薩隅日神社考』(本田親盈著)ではサルタヒコ。『開聞縁起』では当地を竜宮界とみなし、ワタツミ。『開聞古説』ではトヨタマヒコ・ヒメ、シヲツチノオヂ。」などが参考になるとしている。

『図会』編集当時(1843年)の開聞神社の祭神は、ホホデミ・トヨタマヒメ・タマヨリヒメ・シヲツチノオヂ・潮干玉・潮満玉・天智天皇であったが、編纂者は、古い伝承には天智天皇はなく、天智天皇が祭神になったのは「天智天皇が寵妃・大宮姫を当地に訪ねるべく巡見したことから付加された」と編集者は書いている。

<天智天皇はかつて筑前朝倉宮に長くありて、その時、薩摩開聞山に巡視ありしを、「潜幸崩御」とし、大宮姫は天皇の内侍・妃賓のたぐいにして、この土に(流)謫せられしを、皇后と付会しせしなるべし。>(『図会』第2巻563ページ)

とあるように、天智天皇(中大兄皇子)が百済救援隊を組織して筑紫に下り、筑前の朝倉宮に長く逗留していた時に、そこで得た「内侍か寵妃」の類の大宮姫が、生まれ故郷の開聞のちに流されたのちに、ヒメを慕って指宿経由で開聞に「潜幸」した(ひそかに開聞までやって来た)。そして長く大宮姫と暮らし、そこで「崩御」したという伝承を紹介している。

そして大宮姫を「皇后」としているのは、単に天皇の側仕えの内侍か寵妃のたぐいなのを、当地では皇后に擬しているに過ぎない、と書いている。

『図会』の編集者は、この天皇と大宮姫とが一緒に暮らし、さらに二人の墓まであるという地元の伝承については、以上の結論を導くのに8項目の反証を列挙して詳細に批判しており、大宮姫が天智天皇の皇后であったということと、二人が開聞の地で長く暮らし、墓まで存在するという伝承については完全否定している。

したがって天智天皇の死は南九州の開聞山麓においては有り得ないという結論である。

しかし『図会』では骨子として次の2点については否定はしていないことに留意しておかなければならない。

(1)天智天皇が百済救援のために筑前朝倉宮に滞在中、南九州まで巡見に来ていること。
(2)開聞神社の鎮座する地域には「大宮姫」の名にふさわしい女人が存在したこと。

【薩摩藩の西海岸に残る大宮姫伝承】

天智天皇が筑前(朝倉宮及び長津宮=磐瀬行宮)に長く逗留している間に、南九州まで巡見の足を伸ばしたらしいことは、霧島市の国分清水山中にある台明寺の「青葉の笛」(青葉竹)の伝承や、後述の「志布志郷」の伝承にも見られるのだが、実は大宮姫伝承が薩摩藩の薩摩半島の西側の海岸部に伝えられているのである。いずれも開聞からは遠く離れた地域である。

(1)吹上郷の「久多島大明神社」・・・天智天皇の皇女が海上で生まれ、捨てられた島だという。皇女を産んだのはおそらく大宮姫だろう。(『図会』第1巻545ページ)
(2)串木野郷の「羽島埼大明神」・・・天智妃の大宮姫が頴娃に行く途中、ここに鏡を残したので「鏡大明神」となるが、のちに廃された。(『図会』第1巻724ページ)
(3)阿久根郷の「開聞九所大明神社」・・・大宮姫が頴娃に下る途中、波留(はる=地名)に寄られた縁で建立された。(『図会』第2巻18ページ)

以上の3か所だが、開聞への距離から言うと、(1)から(3)ではなく、その逆になるが、いずれにしても大宮姫は筑前から生まれ故郷の頴娃に帰るのに、筑紫(九州)の西海岸を経由して帰郷していることになる。

このルートは天智天皇が開聞に来るのに、大隅半島東海岸の志布志から薩摩半島東岸の指宿を経由する東からのルートを取っているのに対し、大宮姫の開聞への帰郷では西回りルートを取っていることを表しており、筑前からの南九州への船路としてはきわめて合理的なルートである。

これは「大宮姫」に値する女人が筑前まで行き、百済救援軍の指揮所である朝倉宮(または斉明天皇の遺体を運んだという長津宮)に出向したことは事実としてあったのではないかという推測を可能にしよう。

今「大宮姫に値する女人」と書いたが、そもそも大宮姫とは固有名詞ではないのではないか。要するに開聞神社という大社(大宮)に奉仕する伊勢神宮の斎宮(いつきのみや)のようなタイプの巫女的な存在の女性を「大宮姫」と言ったのではないか。(※埼玉県さいたま市は旧名大宮市だが、ここには武蔵国一之宮「氷川神社」という大社が鎮座する。それで大宮市と名付けられている。)

そのような存在の女人がなにゆえに筑前に行ったのだろうか?

この先例と言っていいのが「神功皇后」だろう。神功皇后は新羅を討つ前に武内宿祢とともに様々な神がかりを示していたことは「仲哀天皇紀」に詳しい。一言でいえば「戦勝祈願」だが、大宮姫も「百済救援及び唐・新羅降伏」というような神がかりの戦勝祈願を行ったのだろう。

しかし結果は百済救援軍の無残な敗北であった。当然ながら大宮姫と思しき巫女的女人は叱咤された挙句、傷心のまま故郷の開聞に送還されたのだろう。

しかし筑前にいる間に中大兄皇子の寵愛を受けることになった。もちろん妊娠するだろう。その結果が吹上郷「久多島大明神」の項に書かれた「産んだ子を捨てた」という伝承につながろう。また祈願の際に使用した「鏡」ももう不用とばかり、串木野の羽島埼に廃棄したのだろう。

このような巫女的な女人の存在を示唆する事例が、同じ開聞神社を巡ってあらわになった一件があったのである。それは『図会』第2巻「頴娃之ニ」に載る伝承だが、これは事実と思われる。

【巫女の存在の実例と大宮姫】

この巫女は開聞宮からやや東に離れた指宿市山川町利永にいたという。この巫女が神がかりになり、大略次のような託宣を下している。

<江戸時代以前から、開聞神社は神道の総本家と言われる京都の吉田家には従うことの無い独立した古社であったが、明暦3(1657)年に神官であった紀仁右衛門と弟の半助の両人が伊勢参拝の時に京都の吉田家に上り、任官(神階・官位)を受けたところ、弟の半助は京都で亡くなり、兄の仁右衛門は帰郷後に死亡してしまった。
 
それどころか、妻子や下僕まで併せて7名が死ぬ事態となったのであった。そうした時に利永の祝女(はふりめ=巫女)が神がかりし、「当社の神官の法式を犯し、吉田家より任官等を受けたゆえ、神罰その身に及ぶ」という託宣を述べたという。そこで神社の別当寺であった瑞応院の住持・快周法印と祠官のすべてが開聞神にその非を謝罪することになった。

そのため紀氏の男子一人は許されて生き残った。その子は後の紀権右衛門である。>’(『図会』第2巻・605~607ページ)

江戸時代に入ると、京都の吉田家が神社の格付け(神階)や神官の官位について取り仕切るようになり、全国に影響を及ぼすようになったが、古社である開聞大社は吉田家の傘下には入らず、独立した古式を温存していた存在であったことのわかる資料である。

この古式を守らなかったがゆえに、開聞社を代表する神官家である紀氏が大きな痛手を蒙った。紀氏に起きたこの大量死の原因が開聞神の「神罰」であったと託宣を下したのが、利永にいた祝女(はふりめ)であった。沖縄に見られるノロのような存在だろう。

この時代になるとすでに開聞社など大社に属する祝女(巫女)はもう存在せず、おそらく別当寺という神社の事務方がすべて男子(僧侶)であった関係だろうか、斎宮に当たる巫女を神社の内部に置くことは禁じられていたのかもしれない。

とにかく開聞神社からは東に数キロ離れた一般の村落内にいた祝女(はふりめ)に神がかりしたのであった。

時代をずっとさかのぼった古代以前、神社は寺院とは違い、斎宮に相当する若くて神がかりに向いている処女が仕えていたと思われる。開聞神社においては「大宮姫」と言うべき処女が仕え、「神懸かりによる託宣」が事あるごとに行われていたと考えられる。

その中でも優れた祝女が選ばれて、筑前に上り、朝倉宮及び長津宮で「戦勝祈願」に奉仕したのではないか。「イキナガタラシヒメ」とか「ヒミコ」「トヨ」といった具体名は分からないが、戦勝祈願を行った。しかし残念ながら唐・新羅連合軍との戦いは惨敗に終わってしまった。

祈願明けに彼女はお役御免になり、中大兄皇子の寵愛を受けた。しかし祈願の結願ならずということで、故郷の開聞に送還されることになったはずである。戦いが終わったのが663年の8月28日であったから、それからさほど時期を置かずに船上の人になったに違いない。

二人は結ばれず、彼女(大宮姫)は九州の海岸を西回りで開聞に帰り、中大兄皇子は筑紫滞在を切り上げて大和に帰った。

中大兄皇子は661年に母の斉明天皇が朝倉宮で崩御したのち、即位式を上げられずに天皇になった。これを「称制」と言うが、この時期に筑紫と対馬に防人と烽(とぶひ=のろし)を置き(664年)、長門と筑紫に城を築き(665年)、百済からの亡命者2000人を近江に移したり(666年)と、唐からの攻撃に備えることに集中していた。

そして667年3月には都を近江に移し、同年11月には守りの仕上げと言うべき「高安城」「屋島城」「金田城」を百済人を使って構築した。668年1月3日、ようやく近江宮において天皇として即位したのであった。

しかし669年に最大の腹心であった中臣鎌足を失い、その2年後には自身も崩御する。天皇位に就いてからはわずか4年後のことであった。

この死について様々な説が出されているが、「白馬で山科山中に入り、そのまま行方知らずになった」という『扶桑略記』説を検証するのがこの論考のの目的であった。次は『三国名勝図会』に載る「志布志郷」の「御廟伝承」を取り上げたい。








天智天皇の死を巡って1⃣(記紀点描㊹)

2022-02-08 09:20:46 | 記紀点描
天智天皇の死には不審な点があり、考慮すべき資料としてまず挙げられるのが『扶桑略記』の説で、「天智天皇は山科の山中に白馬で入ったまま帰らず、後には履(くつ)が残されているだけであった。そこを墓所(御廟)とした」というのであった。天皇が供もつれずに山中に行くことや、仮にそこで死んだとしても遺体がないというのも不審に輪をかけるほかない。

その不審を解く手がかりは、日本書紀等の古文書からはそれ以上は得られないのだが、面白いというべきか不可解なというべきか、薩摩藩の編纂した地暦書である『三国名勝図会』(天保14年=1843年完成)には、藩内の3か所の郷で、天智天皇の崩御伝説が色濃く残っているのである。

その3か所とは、「揖宿郷」と「頴娃郷」と「志布志郷」である。

この他に「出水郡阿久根郷」と「国分の清水郷」があるが、阿久根郷のは当地に開門神社の分社があり、開門神社に残る天智天皇滞在説に付会したものであるに過ぎない。また後者の清水郷のは中大兄皇子として百済救援隊を率いて筑前朝倉宮に滞在中に南九州に巡見に来たという説とともに、当地の清水郷山中に所在した台明寺という寺の境内で「青葉の笛」を見出したという内容で、天智天皇の死とは直接の関係をもたないのでここでは割愛する。

【鹿児島藩揖宿郡指宿郷に残る伝承】

さてまずは揖宿郷の天智天皇崩御説であるが、揖宿郡(『三国名勝図会』第21巻)には指宿郷・今和泉郷・山川郷が属するが、そのうちの「指宿郷」に残る伝承である。

天智天皇伝承が残るの指宿郷内の「多羅大明神社」「風穴祠」及び「開門新宮九社大明神」(現在の揖宿神社)である。

多羅神社は魚見岳の直下の田良浜にあり、そこに天智天皇を乗せた船が着いたという伝承から神社が建立されたといい、「風穴祠(かざあなのほこら)」とは、天皇が着岸後に浜から上がってここに逗留し、神楽を奏でた洞穴だという。

確かに指宿市の魚見岳の下には田良浜があり、現在も田良浜漁港として利用されているから、船の着岸に何の問題も無いように思われるが、着岸後にわざわざ洞穴に入って神楽を演奏したというのが分からない。

天皇(当時は即位前だったので中大兄皇子)ともあろう人が、「洞窟に入って云々」ということ自体が奇妙である。地元民の大歓迎を受けて立派な屋敷に案内されたというのなら分かるのだが、この描写は一体どういうことだろうか。

ここから言えることは天皇は至極隠密に当地にやって来たのではないかということだろう。(※もちろん天智天皇の南九州到来など有り得ず、架空の伝承だと考えるのならば一笑に付してよい話であるが、私は一応はあった話と考えるので取り上げている。)

天皇が隠密にやって来たその目的は、後述の「頴娃郡」の開門神社の項で詳しく書くが、出身地の開門山麓に帰ってしまった寵妃「大宮姫」(玉依姫ともいう)に再会するためであった。

指宿の海岸でもかなり辺鄙というべき田良浜に上陸した天智天皇は、ここからは陸路なのか海路なのかは書かれていないのだが、とにかく開聞岳山麓まで行き、大宮姫と再会したという。

現在の揖宿市東方宮に所在する「揖宿神社」が当時「開門新宮九社大明神」といったのは、貞観16年(874年)に開聞岳が大噴火を起こし現在の開門神社の前身が埋もれてしまい、その代替神社として新しく建立されたため「新宮」と名づけられた。(※この大災害に、都から当時の右大臣藤原基経が勅使として派遣され、建て直しのために封戸2千戸が配されたという。)


揖宿神社に摂社西宮があり、そこに天智天皇と大宮姫が祭られていたり、天智天皇と大宮姫の墓として平石が並べて置かれている場所があるのは開門本社の代替社であることを示している。したがって天皇と大宮姫の再会と天皇崩御の説は開門神社の項に詳しいのでそちらに譲りたい。

揖宿神社そのものをまた「葛城宮」ということがあるが、葛城とは天智天皇の幼名「葛城皇子」に由来している。中大兄皇子よりも葛城皇子の方が古来人口に膾炙していたのかもしれず、興味あるところである。

ところで指宿郷の全体を調べていたら、アッと思わせる箇所に出会った。

それは寺々をまとめて記している箇所だが、その中の「正平山光明寺」の項である。この寺は何と「大織冠鎌足公の子、定慧和尚が開山である」といのだ。その光明寺の由来部分を次に示そう。

<正平山光明寺 拾町村にあり、本府福昌寺の末にして曹洞宗なり。開山定慧和尚。定慧は大織冠鎌足公の子なり。白雉4年5月12日入唐し、法相宗を伝へ、在唐27年にして白鳳7年に帰朝し、文武天皇の元年3月1日、当寺を建立し十一面観音を安置す。>(『三国名勝図会』青潮社版第二巻p426)

(※記事は分量としてこの2倍ほど続くが、あとは寺の幕末までの歴史の叙述であり、割愛した。)

これによると、何と指宿市の柳田に現在も所在する光明寺(現在の寺名は光明禅寺)を開いたのは藤原鎌足の子の定慧(一般的には定恵)だというのである。

定恵が鎌足の子であり、白雉4(653)年の5月12日に遣唐使船に乗って入唐し、白鳳7(665)年に例の終戦処理に到来した唐の使節(団長は劉徳高)と同船で帰って来たことは孝徳天皇紀に書かれているので、この由来記に間違いはない。(「孝徳紀」4年5月条及び5年2月条)

ただ同年(665年)の12月に死んだという記録もあり(出典不明)、文武天皇元年の697年まで生きていたという記録もない。もちろん『名勝図会』の編集者は何らかの記録文書を見て「文武天皇元年に、光明寺を建立し十一面観音を安置した」と書いたはずである。

そして最初は定恵が学んだ法相宗の寺だったのだが、戦国時代(福昌寺開山の石屋津梁の時代)以降は、福昌寺の傘下に入り禅寺となったこともちゃんと書かれており、「定恵が開いた光明寺」というのをまるで架空の話と一笑に付すのは決して簡単ではない。

【定恵(中臣真人)の出自と出家】

『藤氏家伝』という藤原氏の系譜を書いた文書によると、定恵は藤原鎌足の子で不比等の兄に当たり、若くして出家し、653年5月の遣唐使派遣に便乗して唐に渡ったという。そして本名を「中臣真人」と言った。中臣氏は天孫降臨に供奉して天下った「五伴緒(いつとものを)」の後継という古い家柄で、主たる任務は天皇家の祭祀に仕えることであった。

中臣鎌足が古代大和王権の重臣だったのは、天皇家の祭祀である神道を主宰する力のあった家系であったことによるわけだが、その神道系の揺るぎなき家系を有する由緒ある家の男子(長子でもある)が出家の道を選ぶとは、いったいどう解釈したらよいのか?

しかも定恵が出家した時代は、孝徳天皇が大化の改新後の新時代を蘇我氏が傾倒した仏教ではなく古来の神道(天皇親政)によって築こうという時代であった。

さらに天智天皇の死とともに、定恵の死についても帰朝後の同年(665年)死亡説から、上掲の光明寺由来記に見える文武天皇元年(697年)生存説まで、まったく相互に脈絡のない説で錯綜している。

そもそも神道を守るべき古い家柄の中臣氏の「御曹司」がなぜ唐に行き、仏教を身につけなければならなかったのだろうか?

【壬申の乱に登場しない藤原氏】

「記紀点描㊸」でも触れたが、壬申の乱に藤原氏の姿は見えない。天智天皇の死の2年前、死の床に居た藤原鎌足はついに臣下として最高の徴である「大織冠」を授けられたのだが、その息子である不比等は、当然ながら天智の皇子大友皇子の勢力である近江軍側の重鎮であってしかるべきであろう。

不比等は、654年に若くして出家し唐に留学した兄の定恵よりもちろん年は若いのだが、仮に10歳若いとして640年代後半から50年代前半の生まれであったはずで、壬申の乱当時(672年)は20歳は超えていたはずである。

ところが672年の5月から8月まで天下を争った壬申の乱にその姿はないのである。不比等は日本書紀の記す範囲には名を表さず、初めて記録に現れるのは文武天皇の2年(698年)8月である。

<(8月)19日、詔して曰く、藤原朝臣に賜ふ所の姓は、よろしくその子の不比等これを受けるべし。ただし意美麻呂等は神事に供する縁により、よろしく旧姓に復すべし。>(『続日本紀』文武天皇2年8月条)

藤原朝臣すなわち中臣鎌足に天智天皇が賜わった「藤原姓」はその子の不比等が受け継ぎ、同じ藤原でも意美麻呂(おみまろ)たちは旧姓の「中臣」に戻らなければならない――という詔勅が文武2年8月19日に出された。これによって藤原鎌足・不比等父子の血統のみが藤原姓を名乗ることが許されることになった。

これは極めて重要な詔勅で、以後の藤原氏が政権に途方もなく重きをなし、徳川政権に変わるまでの約900年、藤原氏は殿上人(貴族)の最高ランクに君臨し続けることになった。

天下分け目の「壬申の乱」(672年5月~8月)に、その3年前の669年に天智天皇から大織冠と「藤原姓」を与えられた鎌足の子である不比等の姿が近江方にも、もちろん大海人(天武)側にも見えないのは、天智天皇の死の不審とならぶ大きな不審である。

これをどう理解すべきだろうか?

(※鎌足の長男で不比等の兄の定恵が665年に唐の留学から帰って来た時、定恵は30歳ほどの年齢であったと見られるから、『名勝図会』に見える「指宿郷の光明寺を文武天皇元年(697年)に建立した」のは62歳ということになり、年齢的には何ら問題ないことになる。)













白村江戦役後の終戦処理(記紀点描㊸)

2022-02-02 18:51:40 | 記紀点描
【白村江の敗戦と「隼人」】

西暦663年の8月27日と28日に行われた倭・百済軍と唐・新羅連合軍との戦いでは、出陣した1000艘(『三国史記』による)のうち400艘が焼失させられ倭の水軍は敗れた。

その時に推測で倭の水軍30000名のうち約10000名は命を落としたようである。出陣した兵士の3割が死に、それに倍する負傷者が出たであろうから、無事であったのは残り3割となり、これはまさに完敗の図式であった。

「記紀点描㊷」で触れたように、この水軍を担ったのは主として九州(筑紫)の海民であり、その損失は尋常ではなく、ついに名立たる九州島の安曇族・宗像族・鴨族の勢力は大きく後退した。

特に南九州の鴨族水軍の損害は大きく、縄文時代中期から黒曜石の採取で九州島の各地に船足を伸ばし、また弥生時代には朝鮮半島の鉄資源を求めて海峡を頻繁に往来し、半島に拠点を設けていた伝統的な交易力は極度に衰退してしまったと思われる。

この衰退によって南九州鴨族(投馬国航海民)は半島における権益を完全に失い、大和中央政権からは次第に疎んじられるようになり、ついには王化つまり大和王権の中央集権化政策から取りこぼされ、蛮族視されるようになっていった。

その結果が「隼人」名称の始まりである。隼人は履中天皇時代に住吉仲津彦の側近として「隼人サシヒレ(古事記ではソバカリ)」として登場するのが最初だが、もちろんその時に「隼人」呼称はなく、「南九州人(古日向人)サシヒレ」だったのが、古日向人に対して隼人呼称が定着してから文献上で書き換えられたのである。

(※隼人呼称の始まりは以上のように蔑称であったのだが、明治維新で薩摩藩士が大活躍したことで蔑称から大躍進し、逆に「武力に秀でた男らしい男」というニュアンスで好感の持たれる名称となった。素直に喜ぶべきだろうが、その由来を知ると苦笑せざるを得ない。)

さて白村江の海戦で完敗したことよって九州島の海民は逼塞せざるを得ない状況に追い込まれたのだが、では大和王権そのものはどうなったのであろうか?

【唐使の頻繁な到来と倭国の対応】

白村江の敗戦後には唐から頻繁に使者が到来している。

新羅は唐と組んで660年にまず百済を陥落させたのだが、百済の遺臣たちは百済国内の城塞に籠って新羅・唐の連合軍と散発的に戦っていた。

大和王府はその中の一人である鬼室福信の求めに応じ、ついに救援隊を派遣した(総数千艘及び約3万名)。この時点で本来新羅が敵とした百済のみならず、倭国(大和王権)までが敵国になった上に、白村江の河口に海上戦で大敗を喫してしまった。

そうなると当然戦勝国から敗戦国へ使節が派遣され、戦勝国による賠償請求、俗にいう「おとしまえ」が要求される。

事実、唐からは次々に使節がやって来ることになった。日本書紀の664年(天智称制3年)から672年(天智崩御の翌年=弘文天皇元年)まで4回、使節が渡来している。

書紀に記されているのを時系列で抜き出すと次のようである。

(1)664年5月・・・劉仁願(百済鎮将=武将)と郭務悰(朝散大夫=文官)が渡来し、表函(ふみばこ)と献物を持参した。
同年12月・・・郭務悰ら帰国する。
(この年、対馬・壱岐・筑紫に防人と熢(とぶひ)を置き、水城を築く)

(2)665年9月・・・劉徳高(朝散大夫)、郭務悰ら254人が到来する。表函(ふみばこ)を持参した。
同年12月・・・劉徳高らが帰国する。
(この年の8月、長門・大野・基に百済式城を築く。また守君大石らを唐に派遣する

(3)667年11月・・・劉仁願(百済鎮将=武将)が熊津都督の司馬法聡らを派遣し、境部連石積らを筑紫都督府に送り届ける。帰りは伊吉連博徳らが送る。
(この年、高安城・屋島城・金田城を築く。また3月に都を近江に移す)

(4)671年1月・・・劉仁願(百済鎮将=武将)が李守真らを派遣、上表する
同年7月・・・李守真ら帰国する。
同年11月・・・対馬国司が「郭務悰らが47艘の船で、百済人・倭人1400名と合わせて2000名を率いてやって来る」と報告する。
(この年の12月3日、天智天皇が近江宮で崩御する)

(5)672年3月・・・阿曇連稲敷を筑紫に派遣し、郭務悰に天智天皇の死を告げる。郭務悰は喪服を着て天皇の死を悼み、書函と進物を贈呈する。
同年5月・・・郭務悰に甲冑と弓矢を与える(ほかに絹糸・布・綿など)
同年5月30日・・・郭務悰ら帰国する。
(この年の5月から8月まで壬申の乱が勃発し、近江方勢力の大友皇子が大海人皇子勢力に敗れ、天武時代が始まる)

以上が白村江戦役後に唐から到来した使節である。

これら使節は唐の皇帝の使いであるが、使節の発遣元は朝鮮半島の旧百済王都であった「熊津(クマナリ)」だった。百済を完全に占領下に置いた唐の将軍「劉仁願」がその指揮を執っていたようである。

この到来で注目すべきは664年5月、665年7月、671年1月、そして672年3月に見える(それぞれ下線部)「表函」「上表」「書函」である。

書紀ではサラッと触れるだけで、内容については一切書かれていないのだが、これら「表」は「書」と同じで、要するに唐側からの「下し文」すなわち降伏文書であると思われる。

これらのうち最も重いのは2番目の665年の渡来時に劉徳高が寄越した「表函」だろう。前年の劉仁願の到来では、唐が新羅と連合して倭の水軍を破ったが、さらに戦いを続けるかどうかの意思、別言すれば「休戦協定」に関する文書を持参した過ぎないが、665年の「表函」にあったのは「降伏文書」そのものであったと思われる。

この時の内容も全くの不明だが、推測すれば「戦争責任者の捕獲と処罰」について書かれており、結局のところ戦役の最高責任者であった中大兄皇子(称制天智天皇)の処遇に関する文書であったに違いない。

大和王権側ではもちろんその要求を突っぱねる画策をしており、664年には対馬・壱岐・筑紫に兵士(防人)を配備し、連絡網である熢(とぶひ)を設置して防備を固め、さらに筑前に「水城」を構築して唐軍に備えた。

さらに665年には唐の使節が到着する前に、長門・大野・基(筑前)に百済の遺臣たちを使って城を築かせている。戦う気力は十分にあるぞ、そうやすやすと唐の言いなりにはならないぞ、という意思表示だろう。

この年には下線部のように、初めて大和側から守君大石や境部石積という人物たち数人が唐に渡っている。これは返礼の使いだが、その意味を考えると、降伏文書の受諾というわけではなさそうである。

ところが③の667年の11月になって倭国側からの使節であった境部石積らが、百済鎮将(占領軍総司令官)であった劉仁願の配下の熊津(ユウシン)都督「司馬法聡」によって2年ぶりに筑紫に送られて来たのだが、その受け入れ先は「筑紫都督府」であったのだ。 

「筑紫都督」とは唐側の設置した占領行政機関であり、太平洋戦争後のGHQの機能と同じである。推古天皇の17年(609年)に見える「筑紫大宰(つくしのおおみこともち)」(のちの大宰府)は、664年の初めての使節到来から666年までの間に接収され、唐の占領行政機関になっていたのだ。 

百済の占領行政機関は「熊津都督府」であり、その当時の司令官が司馬法聡であったのは分かっているが、この筑紫都督府の司令官が誰であったかは書かれていない。これも推測だが、唐人で倭語にも精通している者としては、664年の初渡来から、672年の最後の帰国までこの期間に4度も記録されている文官の朝散大夫「郭務悰」がおり、その可能性が高いのではないかと思う。

【天智天皇の近江京遷都とその死】

筑紫都督府に境部石積らが送還された年(667年)の3月、天智天皇(称制)は多くの反対を押し切って大和から近江に宮を遷した。そして翌年の1月には近江において正式に天皇に即位した。(※この都で「近江令」が作成されたが、これはのちの律令の嚆矢であったのは名高い。)

大和王府にとって幸いだったのは、唐が再び新羅と連合して高句麗との戦いに入り、直近の2年はそれに戦力を集中していたことである。高句麗は668年の9月に平壌が陥落し、滅亡の一途を辿ることになった。

それが一段落した669年、いつとは年月日はないのだが「この年に、唐が郭務悰ら2000人を派遣した」という記事が分注に見えている。この船団の記事が見えるのは671年11月である。それによると、「対馬国司が、郭務悰らの船団47艘(2000人)が筑紫に向かっているが、けっして戦うためのものではないから、攻撃しないように」と言って来たというのである。

この船団の乗員2000名の内訳は、唐側の人員が600名であとは百済人および倭国人の捕虜1400名ということであった。この捕虜の中には「筑紫君薩野馬(つくしのきみ・さちやま)」なる者もいるという。かなりな大物がいたものだ。

669年の記事に船団を派遣したとしながら、2年も経ってようやく筑紫の手前に到達したというのは余りにも時間がかかり過ぎているが、百済に立ち寄り、そこで倭人の捕虜や敗戦国の百済人・高句麗人で倭国に移住したいと希望する者の選別や支度などにかなりの時間を取られたのかもしれない。

さてともあれ、671年の11月に唐の軍船が47艘も筑紫にやって来たのだが、その直後の12月3日に天智天皇は近江宮で崩御している。死の原因は明示されていない。去る9月に「天皇寝疾不与(天皇みやまひしたまふ)」とあり、何らかの疾病に罹った可能性が示唆されているが、よくは分からない。

天智天皇の死後の殯(もがり)の時に、次のような童謡(わざうた)が聞こえて来たという。

<1.み吉野の 吉野の鮎 鮎こそは 島傍も良き え苦しゑ 水葱の下 芹の下 吾は苦しゑ>

<2.臣の子の 八重の紐解く 一重だに いまだ解かねば 御子の紐解く>

<3.赤駒の い行き憚る 真葛原 何の伝言 直にし良けむ>

1の歌の「吉野の鮎」は大友皇子と皇位を争いたくないとして出家して吉野に隠棲した大海人皇子を指しており、2の歌の「御子(みこ)」も大海人皇子のことで、法服を脱いで甲冑を身に付ける意味だろうと思われる。また、3の「真葛原」は、吉野の宮から30数騎で宇陀から名張へ抜ける山深い道中の比喩であろう。いずれにしても大海人皇子方の対近江軍戦略(東方への大迂回作戦)の困難と厳しさを歌っている。

(※この壬申の乱で不思議なのが、天智天皇の死(671年12月3日)のちょうど二年前、中臣鎌足は死の直前に「大織冠」を授けられ、加えて姓「藤原」を賜るのだが、壬申の乱の最中に鎌足の息子の不比等は一切登場しないことである。)

天智天皇の死は671年11月に唐の使節が到着した翌月であり、時系列的にいかにも整然とし過ぎており、このため天皇は唐の使節の命によって処刑、もしくは自死したのではないかなどという憶測もある。

また『扶桑略記』には、「天智天皇は山科の山中に馬で歩み入り、そこで行方知れずとなった。履(はきもの)だけが見つかったが、そこを天皇の墓所とした」という記述があり、そうなると失踪(逃亡)した可能性も考えられる。

そもそも大和を捨てて近江へ都を遷したこと自体が、いつか来るかもしれない唐の「戦犯捕獲隊」を逃れる意味合いもあったのではないか。

天智天皇が近江宮を脱出し、失踪したかどうかの詮索は置いておくが、(5)の記事(672年3月から5月)に見える「書函(ふみばこ)」には終戦後最後の唐からの「下し文」で、内容としては天智天皇の死を悼み、かつ唐と倭は今後戦争をしない(倭国は半島に手出しをしてはならない)という、言わば「平和条約」の類だったろうと推測したい。

672年5月には「郭務悰に甲冑と弓矢、及び絹糸・絹布・綿を与えた」とあるが、これが「勝者への賠償」だったのだろうか。賠償の物品にしては少ない気がするし、倭国側の戦争責任者を連行したわけでもない。天智天皇(戦争当時は中大兄皇子による称制)の死を以て、よしとしたのだろうか。この記事だけからはそう考えるほかないようだ。

いずれにしても、この天智天皇の不審死(死の実相)についてはもう少し考えてみる必要がありそうである。

(※大和から近江に都を遷した天皇に景行天皇がいるが、この近江遷都も真因がよく分からない。次の成務天皇時代は武内宿祢が大臣になって取り仕切っており、もしかしたら武内宿祢によって排斥されたのかもしれない。いずれにしても近江への遷都の背景には皇位をゆるがす何らかの争乱があったと言える。)