俳句日記/高橋正子

俳句雑誌「花冠」代表

9月6日(金)

2024-09-06 07:40:22 | 日記
晴れ
新涼に位牌の夫がいつもいて  正子
わが心攻めて木に鳴く青松虫  正子
秋ゆうべ犬の首輪に燈がともり 正子

●紫の朝顔が初めて咲く。朝顔はこれからどんどん咲きそうで、小さい蕾がたくさんある。年鑑の原稿が気になるが、メールで送ることにした。

●ツェラーンの詩は読んでもわからない。わからないから気になる、と言う具合なのだ。『ツェラーン』(森 治著)の「はじめに」に、「一般の読者の皆様には、一篇の詩とは言わないまでも、一行の詩句、またその片言隻語とのその真の出会いを通して、ツェラーンの求める来るべき読者になっていただきたいと思う。」と書いてあった。それでいいんだと思った。

『夜と霧』を思い起こさせるツェラーンの「死のフーガ」を知ったのは開架図書で目に入った『ドイツの詩を読む』を4月に図書館から借りたときだ。句読点のない小文字ばかりで書かれたドイツ語の詩がめずらしかった(こういうのは、彼の詩の中でもこの詩だけ)。それからツェラーンの名前が気になり、5ミリしかしらないドイツ語で、解説を頼りに理解できるようになった。なんども出て来る「trinken(のむ)」と言う語。英語なら「drink(のむ)」なのだが、「t」の方が軽く、より日常的でさりがない。このさりげなさで、繰り返し「黒いミルク」をのむのだ。そういうわかりやすさがあったが、ほかの詩はメタファーは好きなのに、とにかくわからない。

俳句や詩で「わからない」ものに出会うときがある。金子兜太の「彎曲し火傷し爆心地のマラソン」の句が昔、いまひとつしっくり来なかった。爆心地は広島を指すと思っていたからだ。これは長崎で作った句と知ったのは、かなり後になってからで、長崎での作なら「彎曲し」の表現に納得できたのだ。

分からないことが、ずっと後になって、何かの啓示を受けたようにわかるときがる。なんとなく好きだがわからないものがあるが、そういうのは、片言隻語でも親しんでいれば、いいのだろうと思った。

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