1月20日(日)快晴~北風
杉戸宿(東武動公園駅)を8時半に出発。
幸手までは殆ど国道4号線に沿って歩くので、あまり目立つ遺構はない。
たとえば東海道を歩いていると、海岸線は多く、天気のよいときは必ず富士山が付き添ってくれるので景色に変化があり遺構も多いのだが、こちらはひたすら北に向かい、田畑の中を歩いてゆくので少々退屈と言えば退屈である。
ちょっとラッキーだったのは、今回はまだあちこちに雪が残っている箇所が多くあり、それはそれで風情のある景観を楽しめたこと。
杉戸を出るとすぐに芭蕉所縁の「宝性院」
右の脇道にはこんな看板。何を売るのだろうと思って道を入ってみるが、大きく「東京駅」と
描かれた一軒の家があるだけ。平日はきっと営業しているのだろう。
茨島一里塚を過ぎ、4号線と別れ旧道に入りジョイフルホンダの前の踏切を渡る。
まもなく交差点にぶつかり江戸城から出発した将軍の一行が通った「日光御成街道」(別名:岩槻街道)と合流する。西から来る羽生道との合流もここで、道が文字通り交差して幸手宿の手前のこのスーパーの前は現代でも自動車が溜まって渋滞になる場所らしい。
手前グレーの道路がわたしたちが歩いてきた日光街道、赤い道路が岩槻を経て合流する「日光御成街道」、スーパーの右側に入るところに羽生道がある。
将軍の道と一緒になって歩いて倉松川を渡り、すぐに幸手の宿に入る。独特の枡形(宿場町独特の道の曲がり)があり道幅は街道筋のサイズになり、旧い家々がところどころに残っている。
このあたり代々の医院や薬屋が多い。
本陣跡は今はうなぎ屋さん。
↓ 旧家の軒下の電話番号?
入口と同じく曲がった道を出ると宿場は終わりになり、次の宿である栗橋への土手下の長~い道が始まる。
土手とは、たぶん利根川から流れ出る権現堂川の昔の土手のことで、今はそこに国道4号が走っている。
そしえその権現堂川と分流しているのが、身内の(?)中川!
実は昨年中川をたどる旅をしたとき、車でここを通ったのであった。
中川は羽生が始点だから、ここから北西に進路を取ることになる。
歩いてみると道や川の交流や方向が手に書くようにわかっておもしろい。
中川に架かる行幸橋を渡ってすぐに左の道に降りる。
旧道はこの国4の下にずっと続いている。
このあたりからだんだん北風が強くなってくる。時間はもう11時近く。
道の傍らに立っている石のベンチ(石材屋さんの前)に腰おろし、幸手の街で買った焼きかりんとうでおやつとする。
英気を養って再び歩き始め、東北新幹線のガードをくぐり、もう土手も終わりという頃にこんな道標。
「右つくば道」とある。もちろん左が日光道で、筑波山に行く道への追分。
説明板を読んで、今でこそ、はっきりした表道で示板や目立つ建物や通りの名前などが示されているけれど、何もない雑木林、田畑、湿地の中の分かれ道で昔の人はどれだけ難儀したことかと思ったり・・。
残念ながら栗橋の宿には見るべきものは残されていない、というか気が付かないで通り過ぎたかもしれない。
そしてまたしばらく行くと「会津見送り稲荷」という案内板があり道の右側奥に小さな鳥居。
「会津見送り稲荷」から少し歩くと前が広々としてきて道路標示に「大利根」と出ている。
左側に八坂神社。
いよいよ利根川である。
この街道歩きのハイライトともいえる利根川。
関東平野を東西に奔走する坂東太郎。
車や鉄道では何度も渡っているのに、歩いて渡る感慨はまた格別。
橋の手前に「栗橋関所」跡の石碑あり。
利根川橋を渡る。
風が凄まじい@@!!
カメラを持つ手が安定せず、あとから見るとほとんどピンボケ状態。
しかし!肉眼では北西に筑波山、北東に雪を頂いた男体山がくっきり見えるのだ。
今までの追分や街道の交差が川から眺められるこれらの山々によって位置関係が涙が出るほどくっきりわかる。
橋の中ほどが茨城県との境である。
渡り終えるとそこはもう中田の宿。栗橋と中田宿の間はまさに利根川で、わずか1.8キロメートル。(もちろん、江戸時代に利根川は銚子方面に流れを変えられているから今の利根川の川幅の距離とは違っている)
中田の宿に入るともう12時を過ぎていたのでお昼ごはんを食べようと、いちど国道4号に出て「手打ちそば」の看板のある大衆食堂のような店に入り、かつライスを食べる。
うむむむ。。店員のお姉さんは街道歩きの人々の話など聞かせてくれるが、とんかつの味がイマイチ。鳴門巻の上にからしをのせているのが何気におもしろかった。
しかし、なぜとんかつにレモンスライスを付けるのかギモン。
やっぱり旅のお昼はお蕎麦がいちばんだなあ、と今更思う。
とにかくあとは次の宿の古河を目指して関東のからっ風の中を歩く。
まったく「風ニモマケズ風ニモマケズ風ニモマケズ・・」といった按配。
このあたり昔の松並木を復元させて植えられている。日光道中でもまっすぐでかなり美しい松並木であったらしい。
風はますます凄まじく吹き付ける。
土や木の葉が顔面に直撃するのを跳ね除けながら、新興住宅街が少しづつできている雑木林の中の道を進んでいく。校庭に一里塚のある県立古河二高を過ぎると道がぐるりとカーブしていてようやく本日のゴール「古河」(こが)に到着!
実はわたしは日光街道を調べるまでこの「古河」を「ふるかわ」と読んでいた(汗)。
街道を左に入ると城下町の宿場らしくなんとなく雅で落ち着いた風情を漂わせる。
古河藩家老で地理や国内外の社会情報通であった鷹見泉石の資料を展示している古河歴史博物館や長谷観音、蔵のある道を、昔のたたずまいを残しながら新しい技術で現代の街造りに反映している取り組みは素晴らしいと思う。
古河城は街の西側を流れる渡良瀬川に建っていたが今はなく、この博物館はちょうど城郭の曲輪の跡。
鷹見泉石記念館。
再び街道に出ると100メートルおきくらいに街の歴史ぶんかについての案内塔が建っている。
特に気に入ったのは、ここの藩主土井利位(どいとしつら)が雪の研究者であったこと。
印籠にも雪の結晶。そして街のイメージマークが雪の結晶になっている。
時は夕刻近く。
雪がまだ通りの隅に残る景観とあいまって、雪の結晶の殿様への想いに心浮き立たせ、街歩きを楽しんだのであった。
本日の歩行距離:約22㎞。日光まで約80㎞。
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