S2000奮闘記

スポーツカー偏愛録。
S2000のメンテナンスノート。

今日の出来事 2023.3.14

2023年03月14日 | 雑記
2023年 3月14日(火)
インターネットのニュース記事を眺めていたら、地元の駅の話が出ていたので抜粋。
住んでいるとなかなか魅力に気がつかないこともあるし、学生時代に教わった街の歴史も忘れている。
改めて自分が住んでいる街のことを学ぶ機会を作ってみるのも良いことかな。


備忘記録。

以下。


Markmal 2023.3.12記事より。
https://merkmal-biz.jp/post/35554


「ホットな宇都宮市のクールな疑問」
2023年8月、栃木県宇都宮市で次世代型路面電車(LRT)が開業する。
LRTはJR宇都宮駅から東側へ進み、県中央東部に位置する芳賀町(はがまち)までを結ぶ。
今後は、駅西側への延伸も予定されている。
そんな現在ホットな宇都宮市だが、同市を訪れた人が長年感じている疑問がある。
それは、なぜ、JR宇都宮駅と東武宇都宮駅は
「あんなに離れているのか」
ということだ。
その距離、直線で1.6km。
実際に歩いたら2km近くになるだろう。
どうして、ふたつの駅はまったく別の場所に立地しているのか。


「宇都宮の歴史をたどる」
この疑問に答えるためには、まず鉄道開通以前の宇都宮の歴史をたどる必要がある。
現在の宇都宮市付近は、古代から交通の要衝だった。
大化の改新(645~650年)の後には
・東海道
・東山道
・北陸道
・山陰道
・山陽道
・南海道
・西海道)
の七道が設置され、各道に5里(約20km)ごとに
駅馬(はゆま。奈良時代の駅制で、役人や公用の旅行者のために、諸道の各駅に置かれた馬)が常備された。
そして、駅屋(うまや。一定数の馬が置かれた施設。役人は宿泊もできた)を設置することが定められた。
現在の宇都宮市には衣川(きぬがわ)の駅屋が設けられていた。
江戸時代に入ると、宇都宮は奥州街道と日光街道の分岐点となり、多くの人が往来する宿場町として栄えるようになった。
1872(明治5)年には鉄道より早く、千住~宇都宮間を結ぶ馬車が運行されるようになった。
これは千住から大宮・栗橋・小山を経由して宇都宮に至る路線で
後に建設される日本最初の民営鉄道会社・日本鉄道(現在の東北本線、常磐線、山手線、高崎線、両毛線、水戸線、日光線などに相当)の
路線を先取りするものだった。


「栃木県の成り立ち」
宇都宮市は栃木県の県庁所在地だが、県庁が置かれるまでは複雑な経緯があった。
廃藩置県によって、現在の栃木県には
・宇都宮県(下野国5郡)
・栃木県(上野国3郡)
が設置された。
1873(明治6)年にこれが合併し、現在の栃木県が成立した。
ただ、県庁は栃木町(現・栃木市)に設置された。
商業で栄える栃木町に県庁が置かれたことに対して
城下町である宇都宮(1889年に町制施行後、1896年に宇都宮市へ)から不満の声があがった。
当初、政府は宇都宮への県庁移転に応じなかったが
1883年に着任した県令・三島通庸(みちつね、福島県令兼任)は移転を指示。
反対の声を押し切り、県庁は1884年1月21日をもって
宇都宮へ移転することが布告された。
ちなみに、1月24日には県名も宇都宮県と改称することが決められたが
こちらは29日に早くも取り消されている。
この三島が行った大通りなどの都市計画が、現在の宇都宮市の原型をつくっている。


「1885年に開業した宇都宮駅」
現在、人口50万人を超える宇都宮市に対して栃木市は15万人程度と、都市の規模には大きな差がある。
ただ、栃木県にはもともと
・政治の中心
・商業の中心
という、ふたつの中心都市があったことを理解した上で
以後読み進めてもらいたい。
こうして県庁に定まった宇都宮だったが、県庁移転の翌1885(明治18)年7月に、日本鉄道の宇都宮駅が開業した。
これが現在のJR宇都宮駅であり、当時の宇都宮市街からは東に外れたところに位置している。
現在でも、東北本線は線形をみても宇都宮駅の南側へ西に向けて大きくカーブし市街地を避けているような形になっており
鉄道が市街地を避けていることがわかる。

1909(明治42)年発行の宇都宮周辺の地図。
現在のJR宇都宮駅が開業して24年後。
東武宇都宮駅はまだない(画像:国土地理院)



「駅建設に反対した宇都宮の人たち」
1985(昭和60)年に発表された『宇都宮駅100年史』には
昭和初期の古老への聞き取りとして
「宇都宮の停車場は、はじめ材木町か新国道の中間あたりにできる予定だった」との記述がある。
つまり、当初の計画では宇都宮駅は現在の東武宇都宮駅のある位置より
「西側」に設置される予定だった。
このほか、いくつもの案があったようだが
いずれも市街地を南北に流れる田川より西に駅を設置することが検討されていた。
ところが、田川より東の現在地に追いやられたのは、宇都宮の人たちが反対したからだった。
宇都宮では駅どころか「鉄道そのもの」に反対する者が多かった。
というのも、鉄道が開通し交通が便利になれば
東北地方からの貨客が宇都宮に滞在せずに通過してしまうことを懸念していたからだった。
これまで宇都宮の宿場を利用していた貨客が、宇都宮を通過して東京に向かってしまうことに加え
宇都宮の商圏も東京に奪われてしまうというのが、当時の宇都宮の意見の多数を占めていた。
結果、宇都宮では、田川の西には駅を設置させないことで意見がまとまった。
こうして、宇都宮駅は田川の氾濫原(はんらんげん。河川の堆積作用で生じた平地で、洪水時に冠水する部分)だった湿地を埋め立てて
ようやく建設にこぎつけた。
開業は前述のとおり、1885(明治18)年7月だった。


「東武鉄道が乗り入れを決めたワケ」
ところが皮肉なことに、宇都宮を衰退させると忌避されていたはずの鉄道によって
宇都宮は活況を呈することになる。
県庁移転で諸官署が進出した場所に開通したからだ。
また、東京と鉄道でつながったことで、最先端の情報がすぐに入ってくるようになった。
こうして新たな宇都宮の玄関になった宇都宮駅は、バス路線が進出すると
一大バスターミナルとしてもにぎわうようになった。
県庁所在地として栄える宇都宮に東武鉄道が乗り入れを決めたのは、昭和に入ってからである。
東武鉄道が日光線の建設とともに、新栃木駅から分岐する形で東武宇都宮線の建設を決めたのは、大きな利潤が見込めたからだ。
東武宇都宮線の開通以前、旧県庁所在地だった栃木町には両毛線栃木駅があったが
栃木と宇都宮を直接結ぶ路線はなく、小山駅経由でしか往来できなかった。
県庁所在地と商都を鉄道で一直線で結んでしまえば、大いに利用されるのは明らかだった。


「東武駅が作られた意外な場所」

1934(昭和9)年発行の宇都宮周辺の地図。
東武宇都宮駅が開業して3年後(画像:国土地理院)


こうして建設が決まった東武宇都宮線だったが、宇都宮のどこに駅を設けるかが最も重要だった。
できる限り市街地に近いところに駅を設けなくては、乗客を確保できないからである。
このとき、宇都宮市街地には刑務所の跡地という理想的な空き地があった。
刑務所は1884(明治17)年に市街地近傍に設置されたが、
『栃木県誌』によると、1926(大正15)年に現在の宇都宮市文化会館の土地に移転していた(現在の黒羽刑務所の前身)。
跡地には高等女学校の移転や遊園地の建設などが取りざたされていたが
東武鉄道が建設を決めたのは跡地利用がまだ具体化していないベストなタイミングだった。
具体的な交渉が始まったのは1929(昭和4)年になってからで、1年あまりが費やされた。
いかに市が有利な条件で払い下げるかの交渉が続いたからである。
交渉は1930年3月にまとまり、敷地9009坪が19万9605円(坪あたり21円)と決まった。
こうして、刑務所跡地には1931年8月の宇都宮線開通とともに、東武宇都宮駅が開業することになった。

というわけで、宇都宮市を代表するふたつの駅が離れている理由は、
・地元民に反対されたために西端につくられた
・たまたま刑務所の跡地が空いていた
という偶然によるものだった。
ただ、結果として宇都宮市の市街地は面的な広がりを持つようになった。
宇都宮市が人口50万人を超す中核市として栄えているのは
この偶然が生んだ駅の配置も関係していることは間違いない。
今後のLRTの開業などで、市街地がどのように変化していくかも興味深いところだ。





平穏な日々が訪れますように。


宇都宮食べ歩き「角常食堂 」 - S2000奮闘記


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