先日、子ども時代の写真をこのblogに載せたら、弟に続き、今度は、父方の従兄弟のKちゃんから、日曜日に、昔の写真が、添付で送られてきました。
ええ!なんで、K ちゃんがこんな写真を持ってるの?
私でさえ、持っていなかったのに!!
Kちゃんは、父の、たった一人の妹の、息子です。
「伯父さんは、僕のこともすごく可愛がってくれ、東京タワーに、連れて行ってもらった」と、メールに書いてありました。
Kちゃんは、「荻野吟子」に影響を与えた、秩父出身の、医者であり、漢学者である、松本万年の末裔ではないかと思っています。
4~5歳の頃の私と、1歳になるか、ならないかの弟、そして母。
わざわざ秩父写真館に行って、写してもらった写真です。
右肩に赤いビニール製のショルダーバッグを下げていたのですが、「それをもっと見えるように」に、と写真屋さんに言われたのを覚えています。(モノクロ写真の時代なのに)
もう、大昔の話なので、バラしちゃいますと・・・。
母はあの日、写真館で、記念写真を写し、親子三人で、電車で長瀞までいき、宝登山の参道にあるお店で、私には冷やし中華を注文しました。
でも初めて冷やし中華を食べた、4~5歳の私は、酸っぱい麺を初めて口にし、好き嫌いが激しかったので、ほとんど残してしまいました。
その後、3人で石畳へおりて行きました。
そして、母は、3人で入水して死のうと思っていたらしいです。
写真の母が、暗く、怒ったような顔をしていて、私が不安そうな顔をして写っているのは、その日の母の様子が、変だったから・・・。
今でも、あの日の光景はくっきりと覚えています。
死のうとした理由は、ちょっと書けませんが・・・。
夕暮れになり、母は、長瀞の石畳で楽しそうに、はしゃぐ、私と弟を見て、思いとどまり、また電車に乗って家に帰ろうと思ったようです。
だから、私、今、生きているのですが(笑)。
3人が死んじゃったら、姉はどうするんだろう。小学校の中・高学年で、学校へ行っていた姉の存在が、母の思いの中にはあったと思います。
うんと後になって、その話を母からちょとだけ聞きました。
でも、母は、とても幸せな、93年の人生を過ごしました。だから、今は、こんなことが書けるのです(笑)。
これは、お目目くりくりの、5歳くらいの弟と、祖父。
祖父は180センチ近い長身の、イケメンでした。
秩父神社の代々宮司の子孫ですが、祖父の数代前、神社は世襲制なので、女の子しか生まれなかった時に、宮司が入れ替わりました。
それで、祖父は、東京などで税務署の署長をしていました。
父たちは、ずっと東京の大森で暮らしていたそうです。
おじいちゃん、なつかしい〜。
もうすっかり、顔、忘れていた。Kちゃん、ありがとう。
これは、私の7歳の、七五三写真だそうです。
これは、3歳?
でもでも、なんで、Kちゃんが、こんな写真を持ってるの?
父が亡くなって、8年くらい経った時、「これから、僕が伯父さんに代わって、親戚のまとめ役になるから」と言っていましたが、こうして親戚を把握してくれているのかもしれません。
私、もってないので、大切な記念にするね。Kちゃん、ありがとう。
Kちゃんって、不思議。
埼玉県の北辰テストでは、いつも成績の順位が一位。
秩父では、超・頭のいい有名人「マツケン」の名を、天下に轟かせていた人です。
おまけに、頭のいいKちゃんは「伯父さんが書いてくれた、啄木の詩、『年老いし彼は商人』」をずっと額に飾っていたと。
昔のディテールまで覚えています。
東大の法学部に、軽く合格するだろうと思っていたのに、試験というのは時の運だなと思いました。それで早稲田の法学部へ。
でも東大に行ってたら、秩父に帰ってこなかったでしょうから、それが、卒業後のKちゃんの、秩父での存在感をすごく大きくしたので、人生ってわかりません。
その早稲田時代、同じく早稲田に行っていた、母方の従兄弟のOちゃん(Kちゃんと同学年・同じ学部)、ひとつ年上の私。
その、私にとっては、父方、母方の従兄弟と3人で、夏休みに、ロシア料理「ボルガ」の隣の、喫茶店「北斗」で、よく文学の勉強会をしたよね、Kちゃん。
「ジュンコちゃん、マンスフィールドの短編集、読んだことある?」と、教えてくれたのは、Oちゃん。
そのマンスフィールドの文庫本、今でも私の書棚にボロボロになって差し込んであります。
結局、文学の道に進んだのは、私だけでしたが。
二人は専門が違ったので。
でも趣味で、今でも相変わらずKちゃんは、文学を追求しています。
Oちゃんは、今、どうしている?
私は、Oちゃんの姉のMちゃんとは、今でもすごく仲良しだけど。
Kちゃんは、先日の姉の写真が、Kちゃんのお母さんにそっくりと、懐かしがっていました。