夏になると飼いたくなるのが金魚。
以前「金魚慕情」というエッセイを、このblogの隣に貼り付けてあるホームページの「エッセイ」のコーナーで書いたことがあります。
そこから一部を抜粋したいと思います。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
いつのころからか、夏になったら金魚を飼いたいという願望を持ち続けていた。
だが現実を考えると、はたして生き物を飼うという責任をほんとうに私が背負えるのだろうかと不安になり逡巡しその思いはいつしか想念のなかのまぼろしと消えさっていた。
金魚を飼いたいと思ったきっかけはいくつかある。
ひとつは中国から流れてきた「金魚」の歴史を描いた本の存在である。もうずいぶん以前のことなのでタイトルはすっかり忘れてしまったが、かなり分厚い本で金魚のことが学術的に、けれど叙情性豊かに書かれた本だった。
もうひとつは舟崎靖子の名作『にんじゃごっこ』(1978年あかね書房刊)だ。
金魚鉢のなかを泳いでいる「にんじゃ」と名づけた金魚と少年の物語である。これを読んで金魚の幻想性にあこがれた。
そしてもうひとつがイランの映画『運動靴と赤いきんぎょ』だ。
この映画では直接的に金魚がテーマとかかわってくることはないが、映像としての赤い金魚の姿は今も鮮明に瞼に焼きついている。
そんな風に金魚は、折々に私の感性のどこかをずっと揺さぶり続けていた。
(中略)
そして決定的だったのは、「金魚鉢は金魚の墓場」の言葉だった。
その瞬間、金魚を飼うという長年の慕情が、海の藻屑と消えた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
その金魚への慕情を思いがけず果たさせてくれたのが、上の写真の金魚。
最初デパートで見つけたときは、本物の金魚が泳いでいるものとばかり思っていました。
でも違うのです。
こうしてじりじりと焼けつくような夏がやってきて、子どもたちも夏休みになると、私はいそいそとこの金魚を出してきます。
そして、うれしい気持ちで私は金魚たちの入っている器の水を指でゆらします。
すると、みなもが波を立て、金魚たちもうれしそうに泳ぎだします。
それを見ていると、「あ~、今年も夏がやってきたんだな」と、しみじみ思います。