太陽光発電シニア

太陽光発電一筋、40年をはるかに過ぎたが何時までも興味のつきない厄介なものに関わってしまった。

MHKの受信料

2017-12-07 09:21:00 | 日記

最高裁まで争った受信料問題がほぼNHKの主張通りとなった。NHKの受信料については昔口さがない仲間内で話題になったことがある。アンテナを見て料金徴収に来るからアンテナは出さない方が良いとか、NHKのチャンネルが映らないTVを発売すべきとか、料金の銀行振り込みが始まった頃、誰も自動振り込みにしなかったらNHKも戸別徴収に人件費が掛るから面白いとか無責任な話ばかりだが。

今では最高裁で憲法問題にまで遡って大規模な裁判であったが、大方の国民は料金そのものは素直に払っているのだろう(900万人の不払いが大きいか否かは別にして)。確かに地震などが起こるとイの一番にNHKを点けて見る。事実に対する信頼感はある。解説や討論番組でも概ね不偏不党の公共放送であることを意識しているのは分かる。受信料も高いと思っていたが今ではあまり文句をつける人もいないのだろう。各家庭の収入も上がり負担感は和らいでいるのだろう。

この料金設定に当意即妙な点がある。務めていた会社のカリスマオーナーは経営には独特の発想を持っていた。常々「値決めは経営である」と訓辞していた。ある日今までに世の中に無かった新製品を開発した事業部長が見せに行くと「売値は幾らにするのだ」と聞かれて事業部長は原価が幾らで利益を幾ら幾ら乗せて、これだけの販売量が見込まれるので利益はこうなります、と説明したとのこと。「馬鹿ものお前は値決めが分かっていない。今まで無かった新製品でお客さんも喜ぶと思っているだろう。値決めと言うのはお客さんが満足する最高の額にするべきだ。値決めはただその1点をどうやって見極めるかだ。」と叱られたとのこと。これはお客さんがその価値を認め払っても良いと考える最高の額という意味だが、満足は我慢とか諦めと同等の意味を持つ。

税金の徴収もしかりである。この場合は満足する上限ではなく、我慢できる上限だが、NHKの受信料設定もこれに近い。不満の額ではなく満足する最高の売価に設定する。勿論客が認める価値は必ずしも利潤を齎すとは限らないが

公共放送と民放の違いは、民放で言うと放映されるワイドショーとニュースコーナーや報道デスクから放映されるものの違いである。少なくとも民放のワイドショーはNHK的ニュースコーナーと違い送り手の意志が相当入っていることに気づかなければならない。日馬富士の暴行事件でも親方が取材に応じないのは筋が通っているとかいないとか。何故親でも無い親方が子でも無い弟子の言動に指図できるのかも不思議であるがその点は突かない。警察の調査が終わってからでも良いが、本人が堂々と取材に応じて説明しないと、今のままでは被害者でありながら別問題の巻き添えを喰らうことになる。思っている事を言えば良いのに大人なんだから。

ワイドショー的批判をするなら、何処かの町長、女性記者へのセクハラ騒動に揺れている。本人はPTSDが原因で幻聴が聞こえたことが原因だと釈明している。コメンテーターの多くは噴飯モノの釈明と一蹴しているが、計画的な犯罪行為としてはバレバレの行動である。何かしら精神的疾患に襲われたとしても不思議ではない。被害者も事件より事故と思えるのでは。ワイドショー的想像力を発揮すれば、町長は過去のキャリアを投げ捨ててでも構わないくらいこの記者が好きだったのかも知れない。その一瞬の発露が事件化した。

何処かの市議がある食堂に対し、誹謗中傷の匿名投稿をネットにした。常識では考えられない内容と頻度である。結果店は閉店に追い込まれたとのこと。件の市議は謝罪しているものの、私怨らしき発言はしたが何故そのような投稿に及んだのかについては喋らない。市議にあるまじき行為としてワイドショーは扱っている。私怨が公職という立場より優先されるくらい大変なことがあったのだろう。家族間のトラブルとか。兎に角ワイドショーはあくまで娯楽番組であるのに一見ニュース番組の深堀りのように見せる所が凄い。まんまと引っ掛かっている自分も情けない。因みにプロレスはショーであり扱うならワイドショー、相撲はスポーツでありNHKやニュースで報じる。協会いや境界が良く分からない。