パオと高床

あこがれの移動と定住

孔枝泳(コン・ジヨン)『私たちの幸せな時間』蓮池薫訳(新潮社)

2013-03-01 12:07:32 | 海外・小説
痛く、重い小説である。読みすすめながら、心に澱のようなものが溜まってくる。ざわざわとしたものが残っていく。しかし、ある部分から、何かふわりとした感覚が現れ、少しずつ、光に包まれていくように、ほんのりと体温と同じような温かさを持った日ざしに包まれていく。だからといって、慰撫されて、すべてが解消されるわけではない。読後に、救われたという優しい気持ちと同時に、この小説を読み進めるうちに溜まっていたものの消し去ることのできない重さが残る。その問題の深さと、それでも小説が与える爽快な読後感が、この小説を魅力的なものにしている。

小説はムン・ユジョンの一人称の部分に、「ブルーノート」というチョン・ユンスのノートが差し挟まれる構成で進む。
ムン・ユジョンは、裕福な家庭に生まれた30歳になる女性だが、16歳の時の出来事が心の傷になり、人を信じられなくなって三度の自殺を試みる。その三度目の自殺未遂の後、叔母のシスター、モニカが拘置所の慰問に彼女を連れていく。そこで、死刑囚ユンスと出会う。彼は、仲間と共に知り合いの女性を殺し、その17歳の娘を強姦殺人し、さらにその家の家政婦までも殺した男だった。
「ブルーノート」の章で、ユンスの家庭環境や犯行に至るまでが解き明かされていく。それは、読者にひとりの人間が、犯罪に至るまでに、その人間の過ごした、過ごすしかなかった時間があったことを告げる。
モニカ叔母とユジョンに心を閉ざすユンス。一方、凶悪な死刑囚としてしか見ないユジョン。だが、ユジョンはユンスの中に自分の顔を見る。それは、同時に、ユンスの顔を見つめようとする心の動きにつながっていく。また、ユンスは、ユジョンの心の傷に気づく。そして、ユジョンの顔を見つめることで、自分の心と対話を始める。
死刑囚にとっては、二人が出会う木曜日が、また来週もやってくる木曜日とは約束されていない。刑の執行は唐突に知らされる。その出会う一回が最後の一回になるかもしれない。そんな中で、二人は、その一回ごとのかけがえのなさを。優しく幸せな時間に変えていこうとする。

小説は、人間の更正力の是認、人が法的にも人を殺すという行為の根本的な罪と矛盾、拘留経費と人の命を天秤にかける虚偽、暴力は暴力しか生まないという負の連鎖の指摘、人が人を許す機会を奪うことの過誤などを拠点にして、死刑制度を問うている。もちろん、被害者感情はある。そして、現在、死刑を求めて犯罪を起こす犯行までが存在する。だからこそ、死刑制度は犯罪の抑止としても無効ではないかという意見もある。一方、だからこそ、そんな犯罪者までも生かす必要はない、さらに死刑制度は必要なのだという考えもある。どうなのだろう。小説は、死刑制度についても考える機会を与えてくれる。

だが、訳者蓮池薫が、「あとがき」で、この小説が「多くの共感を得ているのは、著者がこの小説を通じて、単に死刑制度のことだけでなく、読者個々人にもっと身近な、人間存在の根源に迫る問題をも投げかけ、考えさせているからだといえる。つまり、他者への『愛』、そしてその反義語である他者への『無関心』についてである。」と書いている。死刑制度を「単に」としていいものかは、訳者ももちろんわかっているが、この小説が、胸に迫ってくるのは、まさに、この他者への眼差しなのである。

  なぜなら、以前に叔母が悲しい口調で私に忠告したように、悟るには
 痛みが伴い、他人であろうが自分であろうが、その痛みを感じるには相
 手を眺め、その思いを知り、理解しなければならないからだ。
  そう考えると、悟ろうとする人生は、相手に対する憐れみなしには存
 在しないことになる。憐れみは理解なくしては存在しないし、理解は関
 心なくしては存在しない。愛情とはつまり関心なのだ。

 「わからない」という言葉は、免罪の言葉でも何でもなく、愛情の反義語
 だ。また、正義の反義語、憐れみの反義語、理解の反義語、人間がお互
 い持ち合わせなければならない、本当の意味での連帯感の反義語なのか
 もしれない。

レヴィナスの「他者の顔」も連想する。また、民主化を支えた386世代の作者の思いと思考の強靱さを感じる。
そして、「生きる」ということへの信頼とそれを人間の使命だと考える思考も、全体を支えている。叔母はユジョンに告げる。

  「……だから私たちは、死にたいと言う代わりに、もっとちゃんと生
 きたい、と言わなければならないの。死について話してはならない理由
 は、まさに生命という言葉の意味が、生きろという命令だから……」

ユジョンは、ここでは、まだ、こう問い返そうとする。

  生きろという命令だって?誰の命令なの?一体誰が、何様だと思って
 そんなことを言うの!

しかし、死刑囚、すでに生を期限付きでしか与えられていない死刑囚ユンスとの交流の中から、ユジョンは気づく。

  死にたいと考えたりすることがほかならぬ生きている証であり、生き
 ている者にだけ許される人生の一部分だということだ。だから、もう死
 にたいという言葉の代わりに、私はしっかり生きたい、という言葉を使
 いたい。

小説の背景には、多くの思索がある。それが、読者を説得していく力になっている。先程も書いたが、暴力の連鎖もそうである。より重い重力こそが「恩寵」に向かうという思索もある。偽悪と偽善をめぐる問いもある。そして、何よりも、死を超えるものへの、傲慢ではなく、かといって控えめでもなく、直裁でありながら慎ましい、切々とした希求が、この小説を支えている。

文章の特徴なのだろうか、比喩が多く、その比喩に慣れると、どのような喩えが遣われているのかが楽しみになる。例えば、痛切な、

  鋭いナイフで切り刻まれるように胸が痛む。あれほどひび割れし、乾
 ききっていた私の胸の片隅で、永い間凝固していた血が涙に変わって目
 からこぼれ出た。

とか、

  気持のなかでは、そんな欲望がさながらコンクリートの隙間から顔を
 出す野花のように湧き出てくるのを感じていた。

とか。
ああ、抜き出したらきりがない。そうだ、韓国は詩の国なのだと思う。そして、修辞を大切にしている国なのだ。

蓮池薫の訳は、妙な文学臭さがなく、それでいて、言葉のイメージがよく伝わってくる。言い回しに無理がなく、文章がよく届いてくると思った。

小説は、映画やコミックの原作にもなっている。

小説を読んでいる間も何度かそうであったが、作者のあとがきである「作者の言葉」を読んで、涙が出てしまった。
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