パオと高床

あこがれの移動と定住

ハン・ガン(韓江)『菜食主義者』きむ ふな訳(クオン「新しい韓国の文学01」)

2013-03-23 01:06:41 | 海外・小説
圧倒された。
この一冊は「菜食主義者」、「蒙古斑」、「木の花火」という視点を変えた、三つの連作中編小説集であり、同時に全体を通した長編小説ともいえる本である。

「菜食主義者」は、妻が突然、菜食主義になり、そのことで浮き彫りになっていく夫婦や家族の関係を描いていく。視点は、夫の視点であり、夫を「私」と置いた一人称小説である。ただ、間違ってはいけないのは、ただ単に菜食主義者になるというだけではない、この妻、ヨンヘは、菜食を求めるだけではなく、植物になることを求めていく。彼女は、自身の中の動物性、そして食物連鎖の頂点としての人間の在り方自体に激しい嫌悪と恐怖を感じ、それが妻のこれまでの家族関係や夫婦関係の中でより先鋭化されていく。彼女の存在は、要請や強制を拒絶する。そして、自分自身への同一性を崩壊させていく。彼女が植物との一体性を求めれば求めるほど、彼女は社会から逸脱していく。夫にとって、彼女は見知らぬ誰かになっていってしまう。

「蒙古斑」は、その「菜食主義者」のあとを継いでいく。ヨンヘの姉の夫が、「彼」という人称で語りの中心になる。「彼」は妻の妹つまり義妹のヨンヘに蒙古斑が残っていることを知り、激しい欲望を感じる。ビデオアート作家である彼は、体に植物のペインティングをしたヨンヘのイメージに取り憑かれ、一線を越えていく。存在原理の中に核のようにある欲望が、常に暴力と密接な関係にあり、暴力が存在を存在たらしめようとすると同時に他者の存在を剥奪していく、または自らの存在を奪い去っていく状況が激しく強く表現される。救いの設定は剥奪されている。越える際で越えられない悲劇が表現される。楽園は存在の側では訪れないのだ。植物をめざし、鳥になろうとしても人は、ついに足をつかまれてしまう。楽園は、存在の消失によってしか現れないのだろうか。

そして、「木の花火」。この小説は、今度はヨンヘの姉を「彼女」にして、彼女の視点で綴られる。彼女はヨンヘとの狂気の行為に走った夫との関係を静かに問い直す。また、ヨンヘの欲望を懸命に理解しようと努める。「時間は流れる」「時間は止まらない」という言葉が、章が変わるごとに置かれる。ヨンヘと姉である「彼女」の理解と再生に向けた時間は、現実的な時の流れの中で遠ざけられていく。精神病院の中で狂気と死に向かっていくヨンヘ。完全にではなく、ただ、わずかだけ解読されるように、現代人がどこにいるのかが提示されていく。
凄絶な小説。そして圧倒された。こわいけど。

カフカは『変身』で、すでに虫に変わってしまった主人公の、日常の関係に潜む不可解を描いた。そこには寓話性の持つ多様な読みの可能性がある。同時に、それは確定される唯一の読みの不可能性を示す。虫にではないが、この『菜食主義者』は、植物になれない人間の、植物になろうとする過程の困難を描きだして、存在の抱え込む背離するものを描きだそうとしている。それは、社会と激しく摩擦する。そして、ここには裸形の存在の持つ境界の危うさがある。だが、それは、境界の前でおののき立ち止まりはしない。越境の危険とどこかしら獲得されようとする存在を差しだしてくる。小説の創造力は、その逸脱に向けて賭けられている。

訳者のきむふなは「訳者あとがき」で、「ハン・ガン(韓江)、ソウルを二つに分けて流れる大河、漢江(ハンガン)のように、彼女の作品がますます深く滔々とした流れをなすことを願う。」と締めている。そう、かなり、気になる作家である。そして、冬の氷結した漢江のように、その氷の上を渡るような危険な越境に魅力を感じた。
コメント
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