イ・ギホ、面白い。
タイトルに名前が入った7つの短編が収められている一冊。
それぞれの名前は、ほんとうにごく一般的な名前。あえて、そうしているようだ。
冒頭「チェ・ミジンはどこへ」は、自身の小説がネット古書店で販売された作家「イ・ギホ」の話。
自身の小説が、ネット古書店で、トンデモ本しかも格安、さらに五冊買ったときのおまけにされた「僕」は、その出品者に会いに行く。
そこでは語られない物語が想像される。自分が侮辱されたと思って出品者に会いに行く心に宿る敵意。だが、出品された本にはサイン会
のときに書いた「チェ・ミジンへ」というサインがある。「チェ・ミジン」とは、出品者のいなくなった彼女であって、そのサインの中身
のなさが、実は彼を傷つけていて。
そこには他者の物語があるのに、「僕」は僕の侮辱されたという思いだけで行動していた。
その思いとは、相手に仕返すという気持だけではないかと「僕」は考える。「僕」の屈辱は晴らされなければならない屈辱であり、
相手の事情は想像力の外にある。いま、現実を普通に生きる僕たちが普通に感じる、その普通。
それは何なのだろう。そして、自然のように感じあうことの持つ些細な怖さや違和に小説は触れる。
どこか、自分の思いとずれたときに感じる「ぼんやりとした輪郭」。そこに普通の日々の感覚の自然な怖さやお互いがもつ恥ずかしさ、
そして痛み、それがユーモアを湛えて描かれていく。
周囲の善意が真実の問題点を隠してしまうから、周囲の善意を拒むクォン・スンチャン。
周囲は自分たちの善意が拒まれたことで、むしろ彼への糾弾に向かう。その勝手さをやわらかく問う「クォン・スンチャンと善良な人々」。
解説にもあるが、ここには「セウォル号事件」が、影を落としていて、作家の「僕」は筆を起こすことが出来ないでいる。
だが、お金をだまし取られ、だまし取った相手が住むマンションの前で座り込みをしているクォン・スンチャンを、その街の人々と募金で助け
ようとすることで「僕」は生活に活力を取り戻していく。
ところが、彼は街の人々の募金を受け取らない。
彼は奪い取った相手からお金を返してもらわなければならないのであって、他の人からの募金で事柄をなしにすることではないからだ。
だが、周囲は拒まれた善意によって、むしろ彼への糾弾に向かう。これも実は日常的にある光景であり、心的な状況を捉えている。
善意のおしつけという問題だけではない。そもそも善意とは何か。それがもたらす悪意や敵意との交換性は何なのか。
クォン・スンチャンに迫る意識は、どうして私たちの善意がわからないのという脅迫であり、自分たちの正当性への過信あるいは
無理やりの正当化であって、それが事態を覆い隠し、悪への補填になってしまう怖さである。
表題作では一番問題になる出来事は語られない。読者の想像に任されている。
ただ、「誰にでも親切な」カン・ミノが、本人も忘れてしまうような親切によって、実は相手を深く傷つけていることが描かれている。
イスラム教徒になる主人公の女性とその女性に身勝手な親切を行い、しかもそれを忘却している男の自己完結とのずれ。
そこには、暴力に変わってしまう親切が、親切という名の暴力が、ある。ただ、あったであろうエピソードは書かれていない。
むしろそれはあまりにも汎用性が高い、あらゆる日常的な物語なのかもしれない。
ユーモアの感覚を持ちながら、韓国の現在を問い、ずれやぼんやりとした輪郭の先にあるものを見つめようとする作家イ・ギホ。
物語つくさない物語は、語られない物語のある現在を想像させる。その想像の持つ共感性が私たちの今を描いている。