パオと高床

あこがれの移動と定住

池内紀『文学フシギ帖―日本の文学百年を読む』(岩波新書)

2011-07-30 01:34:01 | 国内・エッセイ・評論
池内紀が北海道新聞に連載していたコラム(エッセイ)51回を収録。「いくつかを省き、何篇かを書き加え」、一冊に纏めるさいに「新しく副題をつけた」と「あとがき」に書かれている。
で、そのコラムの内容は、池内紀の好奇心と読書力が生みだした51人の作家へのちょっと違った角度からのアプローチなのである。
「文学」には、その読み手の視線によって、いろいろな窓があって、そこからのぞき込んでいけば、またまたちがった世界に出会えて、「フシギ」の可能性が開かれていくという、その楽しさに溢れた一冊。
本を読むときに、あっこんな細部からでも切り込んでみようかとか、これって何なんだろうとか、この頃ってどんなことがあったのだろうとか思いながら、そして、この作家って何を気にしてたんだろうとか、そんなそんなが、読書の面白さを倍増させてくれるのだと改めて感じさせてくれた本だった。

「鴎外と高利貸」では、小説『雁』の中の高利貸、末造にフォーカスする。鴎外が高利貸を知っていたかなどに思い巡らしながら、当時の高利貸について考える。

と、いってもすべてのエッセイがほぼ4ページの長さ。すいっと別の視線を見せて、作品、作家の印象を表現する。

「寺山修司のパロディー」では、寺山修司が作った啄木を模した歌を、啄木の「未発表歌篇」として雑誌に載せた作品に触れる。よくできている。その中から、寺山が姿を現しているのだ。それを池内紀はこう結ぶ。「啄木であって同時に修司。まるで軽妙なペテンにかけられたぐあいである。永遠のいたずら者寺山修司のクスクス笑いが聞こえてくる」と。それで、池内のこの結びの文章から寺山の笑いが聞こえてくるのだ。

「晶子と『世界の標準』」では、あの教科書にも載っている詩「君死にたまふことなかれ」に、発表当時、激しい非難が浴びせられたことを語り、さらにそれへの晶子の反論を書く。それが、「忠君愛国を言い立てる人は、自分は安全な場所にいる。教育勅語などの権威をかさに死を美化するほうが、〈かえって危険と申すものに候わずや〉」という明快なもので、与謝野晶子の「時代への発言者」の面を示していく。さらに、与謝野晶子が書いた歌集『太陽と薔薇』への序文にある、自分の詩を「世界の詩の標準」で読んでほしいという部分を引き、「時にとどまらない。生きるにあたっても、この人は〈世界の標準〉を自分の指針にしていた」と晶子像の輪郭を描き出す。あっ、与謝野晶子の発言に触れてみたいなと思ってしまう。
そんな、見事なエッセイは、啄木、漱石、露伴、牧水、中島敦、安吾、太宰、久保田万太郎、荷風、小川未明、志賀直哉、梅崎春生、手塚治虫、池波正太郎、須賀敦子、村上春樹などなど、日本の文学百年に及ぶ。

池内紀、いいな。
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