パオと高床

あこがれの移動と定住

岡野宏文・豊由美『百年の誤読―海外文学篇』(アスペクト)

2010-11-01 01:05:55 | 国内・エッセイ・評論
読書に煮詰まったときの、あるいは読めないときの書評めくり。ぱらぱら。
書評のよさは、多分、褒めちぎった作品でもけなしきった作品でも、これ手に取ってみたいかもと思わせる点にあるのかもしれない。そう思わせたら、書評を書いた人にとっては納得いかなくても、出版社的にはOKか。はたまた、取り上げられた作者はニンマリしているか。
もちろん、書評の最大の魅力は書評家の表現の引き出しの多さと深さだけどね。

で、この対談書評。なかなか、楽しめた。
例えば、リルケの『マルテの手記』。
「今の時代にリルケが生きていたら、絶対ブログ男になってるよな」という結びなのだが、そこにいくまでに、さらっと、作品の好きなフレーズを語って、「つまり、マルテの考える詩というものは、書きえない詩なんですよね」という発言があったりする。ぱっと鋭角に突っ込んで、さっと身をかわす感じが楽しい。

豊由美による序文。
「読書は更新だという言い方をする人がいます。わたしもそのとおりだと思います。小説は読まれることで更新されていくのです。たしかに小説のことは実作者にしかわからないのかもしれません。でも、小説はさまざまな人の〈読み〉によって豊かさを増していくのです。作者が思ってもいなかったような読みが加えられることによって、自らを更新していくのが小説という〈生きもの〉なのだと、わたしは信じています。」
そうそう、誤読が、語りうる小説を生み出していくのだと思いながら、誤読の大海におぼれてやるぞと、勇気をもらえたのだ。
ただ、この書評、実は誤読の定義をくつがえす自負にも裏打ちされているようでもあって、結局、読書とは自分と作品との関係性なのだと肩肘張らずに実感できた。
コメント
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